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○○(まるまる)飛行場跡 兵庫県南あわじ市松帆脇田

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○○(まるまる)飛行場跡  兵庫県南あわじ市松帆脇田

淡路地域ビジョン社会基盤分科会HP「淡路島近代化遺産マップ」による説明は、次のとおり。
県道31号御原橋から県道125号へ入る。脇田バス停まで行っても良いが、先がわかりにくい。飛行場跡記念碑のある小さな公園の所在地図を載せる。たしか、このあたりだったろう。
3枚目写真は、付近の民家で溝蓋などに利用されている飛行場跡コンクリート塊。

淡路島近代化遺産 16 ○○(まるまる)飛行場跡

■ 基礎データ
名称:○○(まるまる)飛行場跡
発注者:大日本帝国陸軍
設計者:
建築年:1945年
所在地:南あわじ市松帆脇田

■ 概要説明
昭和18年11月、陸軍は三原平野に阪神地方防空用の飛行場を建設する命令を下したが、人々は軍機漏洩の罪を恐れて「飛行場」とは呼ばず、それを「○○(まるまる)」と言った。
全島からの勤労動員によって昭和20年7月ころに完成したが、まもなく終戦となり、この飛行場はまったく役に立たなかった 飛行場跡の開拓・開放は昭和26年に完了し、戦争の傷痕いえて再び肥沃の耕地にもどった。
昭和20年11月から滑走路のコンクリートは堀りおこされていったが、廃棄されることはなく、水路の石積み代わりや橋として、また屋敷の擁壁などにも使用され現在もかなり残っている。当時の人達の工夫による究極のリサイクルである。

「兵庫県内の主な軍事遺跡 – 神戸・兵庫の郷土史Web研究館」には、次のとおり記している。

施設名 榎列(えなみ)基地跡
所在地 南あわじ市榎列、松帆、志知、神代、市村、八木
施設年 1945年
概 要 淡路島の三原平野に、陸軍が密かに阪神地方の防空用に建設した。当時は、陸軍の名称では由良飛行場だが、機密扱いで単に「〇〇(まるまる)」と称した。滑走路は東西幅30m、長さ1,000m。終戦直前の昭和20年7月頃に完成し、10月から飛行大隊が到着。しかし有効に活用される期間は無かった。直後に取壊されて農地に戻されたが、コンクリート塊などは、他に転用されて散見される。

御原橋「瓦橋」  兵庫県南あわじ市湊

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御原橋「瓦橋」  兵庫県南あわじ市湊

南あわじ市HPの観光情報による説明は、次のとおり。
西淡路ICから県道31号により北へ進む。湊港の大日川河口に架かる橋の古代瓦と鬼面。

淡路瓦
淡路には良質な粘土が豊富にあります。この土を高温でしっかり焼き上げて作られるのが淡路瓦。特徴はあくまでも美しく、強く、伝統と技術で住まいに命を吹き込みます。
御原橋「瓦橋」
欄干に古代瓦や鬼瓦を貼り付け、夜間のライトアップが特産瓦と橋の美しさを川面に投じており、旅人に幻想的なロマンを抱かせます。

慶野松原  兵庫県南あわじ市松帆慶野

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慶野松原  兵庫県南あわじ市松帆慶野

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による説明は、次のとおり。
淡路島南西の海岸。西淡三原ICから県道31号を北へ車で10分。

慶野松原

慶野松原(けいのまつばら)は、淡路島の西側、播磨灘に面した兵庫県南あわじ市松帆古津路から松帆慶野‎にある松原である[1]。国指定の名勝。

概要
三原川河口北側の砂浜、約2.5kmに渡って約5万本のクロマツ林が広がる景勝地である。様々な枝ぶりを見せる松林内には、1997年(平成9年)に地域特産の淡路瓦をふんだんに用いた「プロポーズ街道」の名の散策路が整備されている。また、播磨灘に沈む夕陽や遥か沖合に浮かぶ小豆島の姿が美しい[1]。さらに北には、兵庫県の郷土記念物に指定された5色の小石が美しい五色浜が続いている[2]。

1928年(昭和3年)に国の名勝に指定。1955年(昭和30年)に瀬戸内海国立公園(指定区域)に指定されている。また、日本の白砂青松100選、日本の渚百選、日本の夕陽百選に選ばれている[3]。
古くは柿本人麻呂によってこの地が『万葉集』に詠まれている。国民宿舎慶野松原荘の北側にはこの歌碑が建てられている。
「飼飯(けひ)の海の 庭よくあらし刈薦(かりごも)の 乱れ出づ見ゆ 海人(あま)の釣船 」
江戸時代には徳島藩が所有して松林を育成していたが、第二次世界大戦時に食糧増産のために一部が開墾されて、往時の規模は失われている[4]。

慶野松原海水浴場
後背地に松林を抱えた海水浴場は環境省により、2001年(平成13年)に日本の水浴場88選、
2006年(平成18年)に快水浴場百選の特選に選ばれている。7月下旬には花火大会が開催される[5]。 松林内にはキャンプ場も設けられている。

理詳院の石橋  兵庫県南あわじ市八木新庄

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理詳院の石橋  兵庫県南あわじ市八木新庄

呑み処”味幸”が写っているから、県道478号橋西詰交差点の東側あたりだろう。不思議な一角があった。山門前のは、昭和年代の石橋である。親柱に「理詳院」とある。近くにある「理詳院 尼が寺」の分院と聞いた。淡路国分寺に関係する史跡のようでもある。
境内のほかの橋は、コンクリート橋だった。

八 幡 橋・賀集八幡八坂神社参道橋  兵庫県南あわじ市賀集八幡

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八 幡 橋・賀集八幡八坂神社参道橋  兵庫県南あわじ市賀集八幡

現地説明板、及びHP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」によるデータは、次のとおり。
国道28号八幡交差点から北へ県道31号に入る。すぐ先に賀集八幡西交差点があり、新八幡橋と八幡神社参道がある。昭和45年、ここに架かっていた石橋を、神社左側の川へ移築している。
八坂神社参道橋も、同境内左側にある。

八 幡 橋  管理者 賀集八幡神社

橋柱なしのこのアーチ式の橋は、側面両側に鶴と亀を陽刻してあるので鶴亀橋とも呼ばれており、八幡村の豪農印部喜与門によって造立寄贈された。
当時重要官道に架かっていた八幡橋が出水の度に破損、交通の途絶する事を憂い、私財を投じて播磨の家島と小豆島から石を運び、津名都の井高政吉を石匠として明治10年9月1日着工、エ事日数137日、工数延べ1326人を要し明治11年1月17日落成した。
諸経費のうち、県からの下付金は67円91銭3厘で、印部喜与門の負担は619円40銭5厘(当時の米価、1石4円80銭)を要した。
この八幡橋も竣工後93年の昭和45年の改修で現在地に移転、明治の文化遺産として保存されている。
※総御影石造り太鼓橋(めがね橋)
石工 江井浦井高政吉・井高金蔵
長さ 4間半(8.15m)
高さ 2間2合5厘(4.07m)
幅 2間半(4.53m)
(三原郡史より)」
平成11年3月   南あわじ市教育委員会

№5,551  八 幡 橋

南あわじ市賀集八幡
橋幅:4.19m  径間:6.5m  拱矢:3.2m  環厚:36cm  輪石:29列
賀集八幡神社に移設され、ひっそりと佇んでいます。
上流側の要石には鶴の陽刻。上流左岸側輪石には亀の陽刻。
要石は細長で、特徴的です。

№5,552  賀集八幡八坂神社参道橋

南あわじ市賀集八幡
橋長:1.4m  橋幅:3.4m
架設:明治  単径間桁橋
八坂神社前に架かっています。

八幡神社本殿及び拝殿  兵庫県南あわじ市賀集八幡

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八幡神社本殿及び拝殿  兵庫県南あわじ市賀集八幡

南あわじ市HPの「県指定文化財」による説明は、次のとおり。現在、改築中であった。
国道28号八幡交差点から北へ県道31号に入る。すぐ賀集八幡西交差点の対岸に八幡神社の参道がある。 

八幡神社本殿及び拝殿

賀集八幡神社の本殿は、現存する棟札から寛永8年(1631年)に藩主蜂須賀氏によって建てられたことがわかっています。
建築様式は和様を基調として、それに唐様を混用した建物ですが全体としての調和をよく保っています。蟇股(社寺建築で荷重を支えるための部材)や脇障子欄間の彫刻、向拝の手挟み等細部の手法にも江戸時代初期の特徴がよく表われています。拝殿は本殿に続いて造営された一連の建築と見られています。内部を柱列で三分し、中央間を除き四周を腰羽目板張りとした構成は国重文の広峰神社拝殿(註 姫路市か)に通ずるものがあり、重要遺構とされています。昭和49年に兵庫県指定重要文化財に指定されました。

淳仁天皇陵  兵庫県南あわじ市賀集

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淳仁天皇陵  兵庫県南あわじ市賀集

兵庫県HPの「淡路島百景」による説明は、次のとおり。
国道28号賀集交差点から南の県道76号へ入る。すぐ近くに見える小高い山形が、淳仁天皇陵である。

84 淳仁天皇陵 (じゅんにんてんのうりょう)

所在地:南あわじ市 賀集
淳仁天皇は、天平宝字2 年(758)に第47 代天皇に即位しました。6 年間の在位の後、皇位をめぐる争いに巻き込まれ、親王として天平宝字8 年(764)に淡路島へ流されました。天平宝字9年(765)10 月に逃亡を試みるものの捕らえられ、翌日、33 歳の若さで亡くなったとされています。
古文書では「淡路廃帝」などと称され、淳仁天皇という名が贈られたのは、明治時代になってからのことです。
山形の常緑広葉樹が茂る淳仁天皇陵は、平坦な三原平野のなか、淡路島の歴史を感じさせるランドマークとなっています。

神代国衙のクスノキ  兵庫県南あわじ市神代国衙  

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神代国衙のクスノキ  兵庫県南あわじ市神代国衙

HP「人里の巨木たち」全国巨樹探訪記による説明は、次のとおり。
国道28号国衙交差点から北へ県道66号へ入る。しばらく進んだ鎮守神社にクスノキがある。

名称 神代國衙のクスノキ (じんだいこくがのくすのき)
樹種 クスノキ
樹高 15m(注1 環境庁「日本の巨樹・巨木林 近畿版」による)
目通り幹囲 5.7m(注1)
推定樹齢 200〜299年(注1)
所在地の地名 兵庫県南あわじ市神代國衙
天然記念物指定 なし

国道28号から県道66号(津名五色三原線)を北に200mほど入ったところに、このクスノキが立っている。
途中から2幹に分かれ、本来ならば大きな樹冠を形成するところだが、葉が極端に少ない。現在の樹勢は危機的な状況にあると言ってよさそうだ。このままでは、近いうちに、ほんの一部の枝を残して、大部分が枯死してしまうのではなかろうか。
幹囲5.7mは、日光寺のビャクシンと並び、南あわじ市では最大クラスの巨木である(2012年3月現在、環境省巨樹データベースによる)。残念なことにならねばいいが。

淡路国分寺跡塔跡  兵庫県南あわじ市八木笑原国分

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淡路国分寺跡塔跡  兵庫県南あわじ市八木笑原国分

現地説明板は、次のとおり。三原町は、現南あわじ市。
南あわじ市街の県道126号笑原交差点近くから、案内標識により進む。

国指定史跡 淡路国分寺跡塔跡
指定年月日 昭和26年6月9日
所在地 三原町八木笑原国分327−1

天平の昔に建立された淡路国分寺の今に遺る壮大な塔跡である。
中心礎石は、塔跡基壇に建てられた大日堂の中にあり、直径約1.36メートルの円形の自然石の表面を加工、直径約75センチメートルの円柱座と、さらにその上にホゾを彫り出している。
これを中心に188.93平方メートルが指定されたが、この範囲には、中心礎石のほに5個の礎石がある(いずれも動かされている)。昭和59年〜63年の発掘調査で、塔跡は1辺13〜14メートルの基壇と推定され、また、中心礎石は、北へ約2メートル移動していることがわかった。
昭和10年3月吉日  三原町教育委員会 三原町文化財審議委員会

養宜館跡  兵庫県南あわじ市八木養宜中

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養宜館跡  兵庫県南あわじ市八木養宜中

県指定文化財現地説明板は判読できない。兵庫県立歴史博物館HPの「ひょうご歴史の道」による説明は、次のとおり。
南あわじ市街の県道126号中八木交差点から北へ入ると、館跡がある。「養宜館之碑」石碑は、館跡前の車道を西へ進むと角にある。

養宜館跡(やぎやかたあと)

養宜館跡は県の史跡で、室町時代の淡路守護細川氏の居館であった。土地の人間は大土居(おどい)と呼び、守護職の館としては立派なものだと言われる。外堀の跡である帯状の水田が、鎌倉時代の築城形式を伝える。1340(暦応3)年、足利尊氏の命をうけた細川師氏が淡路に攻め入ったことをきっかけに養宜館へ入る。その子孫が淡路の守護大名として君臨するが、1519(永正16)年に淡路細川氏が事実上滅亡すると館も廃城となる。館跡の西方には、昭和2年に建立した「養宜館之碑」と記された石碑が立つ。『淡路国名所図会』には石垣や堀が誇張して描かれているが、東側の土塁や堀跡の残存状況から規模の大きな館であったことは疑う余地はなく、中世城館遺跡として貴重である。