月別アーカイブ: 2011年11月

宇佐神宮のクスノキ  宇佐市南宇佐

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宇佐神宮のクスノキ  宇佐市南宇佐

宇佐神宮の社叢のうち、上宮祈祷殿前のクスノキ。JR宇佐駅から国道10号に入り、中津市方面へ行くと、宇佐神宮がほどなくある。宇佐神宮の風景、石橋、社叢などは、別掲した。
HP「人里の巨木たち」大分県による説明は、次のとおり。「若宮神社と西大門の間、八幡鳥居近くのクスノキの方が大きそうだが」は、最後の写真の木と思われる。

名 称 宇佐神宮のクスノキ
名称の典拠 なし
樹 種 クスノキ
樹 高 25m(注1 環境庁「日本の巨樹・巨木林 九州・沖縄版」による。なお、同書には、ほぼ同サイズの個体が3本登録されている。写真はそのうちの1本であることは間違いないと思うが、掲載データの個体そのものかどうかは不明)
目通り幹囲 5.4m(注1)
推定樹齢 300年以上(注1)
所在地の地名 大分県宇佐市南宇佐
国指定天然記念物(1977年4月12日、「宇佐神宮社叢」として境内林全体を指定)

全国各地に散在する八幡神社の総本宮が宇佐神宮である。約1400年前に開かれたと伝える古い歴史がある。広大な敷地を持ち、社叢の広さも4haに及ぶ。
高木層の主体はイチイガシで、20年くらい前まで、胸高直径が40cm以上のイチイガシが
150本ほどあった。イチイガシの自然林として貴重だということで、国から天然記念物指定を受けた。(その後、1991年の台風19号により、イチイガシ巨木30本を含め、187本が被害を受けた。今も復旧過程にある。講談社「日本の天然記念物」を参考)
しかし、ざっと見渡したところ、数は少ないが、幹囲ではイチイガシよりクスノキの方が上。私のサイトではクスノキを紹介することにした。このクスノキは、上宮の祈祷殿の前。参詣者がみな目にするクスノキである。(大きさでは、若宮神社と西大門の間、八幡鳥居近くのクスノキの方が大きそうだが)

宇佐神宮の社叢  宇佐市南宇佐

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宇佐神宮の社叢  宇佐市南宇佐

宇佐神宮の社叢。JR宇佐駅から国道10号に入り、中津市方面へ行くと、宇佐神宮がほどなくある。宇佐神宮の風景、石橋などは、別掲した。
国指定文化財データベースによる解説は、次のとおり。

史跡名勝天然記念物
名称: 宇佐神宮社叢
ふりがな: うさじんぐうしゃそう
種別1: 天然記念物
指定年月日: 1977.04.12(昭和52.04.12)
指定基準: (一)名木、巨樹、老樹、畸形木、栽培植物の原木、並木、社叢
所在都道府県: 大分県
所在地(市区町村): 宇佐市南宇佐
解説文:
宇佐神宮は平地に接した小高い岡の上に鎮座し、これを鬱蒼とした森が取り巻いていて、その大部分はイチイガシ及びクスを主とする常緑広葉樹林で自然状態をよく保っている。林内にはイチイガシ・ヤマビワ・イズセンリョウ・ホソバカナワラビ群集、イチイガシ・ミミズバイ・イズセンリョウ・アリドオシ群集、クス・ミミズバイ・イズセンリョウ・ホソバカナワラビ群集及びイチイガシ・ミミズバイ・イズセンリョウ・ホソバカナワラビ群集の各群集がみられる。また、ここではアラカシ、シリブカガシ、ヒメユズリハが第2高木層をなし、低木層はイズセンリョウが優勢で草本層はホソバカナワラビを主体とし、ジャノヒゲ、オオバジャノヒゲなどを伴っている。イチイガシは関東南部以西に分布し、各地に樹林を形成していたものと思われるが、現在はイチイガシの林分の残存している例は少なく、この社叢はこの意味からも学術上の価値が高い。

宇佐神宮の風景  宇佐市南宇佐

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宇佐神宮の風景  宇佐市南宇佐

宇佐神宮の風景。JR宇佐駅から国道10号に入り、中津市方面へ行くと、宇佐神宮がほどなくある。宇佐神宮の石橋、社叢などは、別掲する。
国指定文化財等データベースによる解説は、次のとおり。

国宝・重要文化財(建造物)
名称: 宇佐神宮本殿
ふりがな: うさじんぐう
員数: 1棟
種別: 近世以前/神社
時代: 江戸末期
年代: 安政2〜文久元
西暦: 1855〜1862
構造及び形式等: 内院 桁行三間、梁間二間、一重、切妻造、檜皮葺
外院 桁行三間、梁間一間、一重、向拝一間、檜皮葺
造り合を含む
指定番号: 00102
国宝・重文区分: 国宝
重文指定年月日: 1907.05.27(明治40.05.27)
国宝指定年月日: 1952.11.22(昭和27.11.22)
所在都道府県: 大分県
所在地: 大分県宇佐市大字南宇佐
所有者名: 宇佐神宮
解説文: 本殿は南面して第一殿より第三殿に至る三社殿が東西に並び、今の本殿は三社殿とも安政二年より文久元年に亘り造営されたものである。その形は切妻造の建物を前後に二つ並べて中央の谷に大きな樋を設けている。この形式は古い形式を残すもので、いわゆる八幡造の典型的なものとして貴重である。

熊野神社のスダジイ  宇佐市西大堀

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熊野神社のスダジイ  宇佐市西大堀

JR宇佐駅入口先から橋を渡って、すぐ県道213号へ左折する。県道は日豊本線に沿って北上し、しばらく進むと右手に「直心庵」の案内板と寺が見える。「熊野神社」はこの寺の後方にあるので、道路を回りこんで行く。
大分県HP「豊の国の名樹」による説明は、次のとおり。

特別保護樹木   61. 熊野神社のスダジイ
樹種名 : スダジイ
樹  齢  : 500年
樹  高  : 27m
幹  周  : 5.8m
所在地 : 宇佐市大字西大堀
所有者 : 熊野神社
来  歴
宇佐市西大堀の熊野神社境内に聳える巨樹。天上は傘状に広がり、根上がりの形状もよく樹木の王の風格を保っており、地区住民のシンボルとなっている。
熊野神社の由緒は不詳。スダジイの由緒は、神社が宗教法人令によって規則等を届け出た昭和21年5月10日に「椎ノ木目通り直径4尺高さ15間」とある。

津波戸山登山口  杵築市山香町向野

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津波戸山登山口  杵築市山香町向野

津波戸山(標高529.4m)登山口は、宇佐市と杵築市の市境近く、宇佐市から行くとJR日豊本線西屋敷駅の先。国道10号「向野小学校入口」交差点から左へ入った杵築市山香町向野の松尾地区に駐車場がある。
登山口に設置されている津波戸山説明板は、次のとおり。登山コース地図は、現地備え付け配布のものを掲げた。

登る予定もあったが、天気は思わしくない。体力が心配。山頂往復に4時間以上かかる時間も取れなかったので、登山口の紹介だけにとどめる。
2枚目写真の、奥の高い山が津波戸山。登山口付近の2つの石橋は、次を参照。
https://misakimichi.com/archives/2953

津波戸山(つわどさん)

津波戸山は、山香町大字向野(むくの)町松尾地区にあり、標高529.4m。集塊岩が浸食された奇岩絶峰が屹立し、県の自然公園に指定されている。現在地の向野字小屋敷(こやしき)から歩いて1200mこれから谷間を1200m程登れば、山上近くの水月寺(すいげつじ)奥の院と伝えられる観音堂に着く。途中両岸に苔むした巨岩がそびえる枯川の谷間に大きい弘法大師像が安置された霊場があり、両側の岩山には津波戸山弘法大師88カ所が安置されている。観音堂から80m程で山上に達し、左に100m程登ると素晴らしい眺めの津波戸山展望所に出る。下山は往路を逆に下る。

1.津波戸山水月寺跡
養老年間、仁聞(にんもん)菩薩が国東の六郷満山65カ所寺を開き、寺を本山中山末山とし、それぞれに本寺末寺を配したが、水月寺は本山本寺であり、この海蔵寺(かいぞうじ)境内跡地に在ったと六郷満山の霊場記にある。

2.水月寺奥の院と硯石水(けんせきすい)
奥の院の本尊は、十一面千眼観世音菩薩で現在海蔵寺の本堂に安置されている。(町指定有形文化財で旧暦正月10日に開帳される)
硯石水は奥の院といわれる観音堂近くの岩根からわいている清水のことで、これは、仁聞菩薩が写経した時水が無くなり筆軸で岸壁を突いたところ、そこから清水がわいたので硯石水という。今でもこの霊水で字を書くと上達すると言われる。

3.銅経筒(国指定重要文化財個人蔵)
平安時代後期永保三年(1038)の銘があり津波戸山で出土した。

4.津波戸山海蔵寺跡
享保2年立石藩木下侯の祈祷書として現在地に再興。昭和57年松尾の小屋敷に転住した。

5.津波戸山弘法大師88カ所
大正初年、津波戸山に土地所有の有志8人が諮って多額の喜捨を募り津波戸山山腹の奇岩絶壁の間に、弘法大師88カ所霊場を開創し大師像を安置してある。先祖が残した由緒深い霊場の廃滅を嘆き、山香町向野地区町づくり推進協議会が、町当局や議会のご理解とご協力のもと地区住民一致して、登山道参道の整備に取り組んだ。
平成7年11月吉日  山香町向野地区町づくり推進協議会

参 考    津波戸山 (山香町誌から)
津波戸山は大分県速見郡立石町大字向野にあつて、岩山聳え立ち、登り上半殆ど道なく、山谷巌壁の間を攀ぢて僅かに到るを得る。頂上に靈窟あり。其の前稍平坦の小地あるも面積僅かに二十坪内外に過ぎぬ。窟は東側の巌壁にあつて深さ凡そ三間幅二間ばかりありて風雨を凌ぐに便である。窟前に今観音堂がある…。

日本一大きい仁王像  豊後高田市大田交差点

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日本一大きい仁王像  豊後高田市大田交差点

宇佐市方面から国道213号により、豊後高田市へ入った大田交差点の両脇に立つ。コンクリート製?のモニュメントだった。
豊後高田市観光まちづくり株式会社HP「豊後高田 昭和の町」ピックアップ情報による説明は、次のとおり。

豊後高田市の顔!!仁王像!!
豊後高田市は石造仁王像の分布日本一です!! 市内のあちらこちらで見かけられる仁王像の中でも、犬田交差点にどっしりと構える「阿・吽」の二体は、日本一大きい石造仁王像になります。宇佐市方面から213号線を行き、豊後高田市へ入るとすぐにございます。
仁王像は「金剛力士」の別名で、仏教の護法善神(守護神)と言われています。いつもここに立って豊後高田市を見守っています☆

「阿・吽」とは真言(呪文)の一つで、「阿」は口を開いて最初に出す音、「吽」は口を閉じて出す最後の音になります。そのことから、それぞれを宇宙の始まりと終わりを表している言葉とされています。
豊後高田市の玄関口に構える仁王像は高さ4メートル!! 横にある信号機とほぼ同じ高さの仁王像は、近づくと見上げる程大きなものだという事がわかります!!
仁王像と言えば、東大寺南大門(奈良県)の阿吽の像が有名ですが、豊後高田市にもこんなに大きな仁王像があるんです!!

青宇田画像石  豊後高田市美和

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青宇田画像石  豊後高田市美和

県道29号により、国東市方面へ向かう。ほどなく行った都甲川沿いの県道左に駐車場と案内板がある。画像石は、高台にある寺跡境内の収蔵資料館に展示されている。入館無料。
後ろの写真は、境内にある石像四天王像(市指定有形文化財)、阿弥陀磨崖仏、現在の御堂内天井絵。

大分県指定有形文化財  青宇田画像石
画像石とは、南北朝時代の末期(1390頃)ここ青宇田にあったと伝えられる延命寺の僧 一道と道念(他五名)が当時の浄土教の教える絵巻物風に、板状の石に線刻したものです
これらの画像石は、元々収蔵庫背後の崖上にあったといわれる寺院で作製され、崖にはめ込まれていたのではないかと伝えられてきましたが、長年の風雨により画像の摩滅が著しく、判読が難しいものや、失われたものもあるようです その後、地元住民の手厚い保護を受け昭和33年に大分県の有形文化財に指定されました
絵図は、当時の民衆の間で広く信仰されていた浄土教の教えを経典に従って表しており、地獄や極楽の様を示すことによって人の生き方を戒める意味がこめられているようです。

穴瀬横穴群  豊後高田市美和

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穴瀬横穴群  豊後高田市美和

県道29号により、国東方面に向かう。ほどなく行った美和台地南側崖面の都甲川沿い県道左に案内板がある。青宇田画像石のまだ手前。

穴瀬横穴群   県指定史跡
都甲川に接する美和台地南側崖面にあり装飾文様(円文、連環文、格子状文など)があるものもある。代表的なものには奥壁幅240cm奥行230cm中央の高さ144cmの羨門に三段の彫りこみ、羨門前面に赤色彩色の跡がある。

昭和ロマン蔵・昭和の町  豊後高田市中心部

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昭和ロマン蔵・昭和の町  豊後高田市中心部

豊後高田市観光まちづくり株式会社HP「豊後高田 昭和の町」による説明は、次のとおり。

豊後高田 昭和ロマン蔵
”昭和ロマン蔵”の建物は、明治から昭和にかけて大分県きっての大金持ちといわれた”野村財閥”が昭和10年前後に米蔵として建てた旧高田農業倉庫です。
”野村財閥”は、かつて豊後高田の商店街の中心に豪壮な屋敷を構え、小作人に貸しつけていた田畑は西国東・宇佐・下毛の3郡にまたがる360町歩、小作米は1年に1万俵を誇ったといわれました。

”昭和の町”では、この昭和の米蔵を”昭和ロマン蔵”と名づけ、平成14年に駄菓子屋の夢博物館、平成18年に旬彩南蔵、平成19年に昭和の夢町3丁目館と、次々に昭和のお宝を詰めこんだ施設を開館しています。
昭和の米蔵が昭和のお宝蔵へと生まれ変わった”昭和ロマン蔵”で、あなただけの昭和の思い出をお探しください。

豊後高田  昭和の町
江戸時代から明治、大正、昭和の30年代にかけて、豊後高田の中心商店街は国東半島一の賑やかな”お町”として栄えていました。
豊後高田「昭和の町」は、この商店街が最後に元気だった時代、昭和30年代の賑わいをもう一度よみがえらせようという願いをこめて、平成13年に着手した町づくりです。
ところで、昭和30年代とは、どんな時代だったのでしょうか?
貧しく不便だったけれど、明るい未来を信じて、隣近所が肩を寄せあい、助けあいながら生きていました。

豊かで便利になったとはいえ、平成の今に比べて、幸せが実感できた時代、生きる手ごたえがあった時代といってもいいでしょう。
時は物の形も人の心もすっかり変えてしまいましたが、豊後高田「昭和の町」には変わらなくてよかった形や心が今なお残されています。
平成の今、懐かしさにしてしまった物も人も、ここではまだ大切に守り伝えられているのです。お帰りなさい。思い出の町へ。