月別アーカイブ: 2011年7月

長与町の温泉  長与町郷土誌から

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長与町の温泉  長与町郷土誌から

長与町教育委員会編「長与町郷土誌 上巻」平成6年発行の33〜35頁は、次のとおり。
昔に見つかった温泉で、24℃以下の冷泉。高田郷「道ノ尾温泉」、丸田郷「丸田温泉」、平木場郷「清水温泉」(現「憩いの湯」)について記している。
近年、ボーリングした温泉では、高田郷「ゆりの温泉」、岡郷「喜道庵」があるので、ついでに建物写真を載せる。

温泉について
長与町には、「道ノ尾温泉」、「清水温泉」、「丸田温泉」の3ヵ所があるが、どれも泉温が24℃以下の冷泉である。

1 道ノ尾温泉  (写真  1〜 2)
道ノ尾温泉は、明治初年、古田吉平氏により発見された、ラジウムを微量含有する冷泉である。明治2年に旅館業も始まり、現在では大久保泰助氏により「道ノ尾ラジウム温泉」として、経営されている。泉源の温度は24℃の冷鉱泉で、p.H7.6〜8の弱アルカリ性を示す。
道ノ尾温泉には、昭和初期の内務省東京衛生試験所の調査報告が残っている。それを要約すると「第三紀の凝灰岩より湧出す。泉温度24℃、湧出量は24時間で10.8トン。硫酸塩泉である。ラジウム含有量1.51マッヘ/ℓ」とある。
(成分分析値は略。以下同じ)
道ノ尾温泉の歴史は、次を参照。   https://misakimichi.com/archives/2846

2 丸田温泉   (写真  3〜 4   4は裏手のディーセンター「丸田荘」)
丸田温泉は、丸田郷351番地2にある。泉温18℃の冷鉱泉である。大正3年、長崎医科大教授、森永伊吉氏らにより泉質が調べられ、放射性物質を2.011×10‐10キュリー含むことが、確認されている。昭和58年、さびれかけていた丸田温泉は、長与町により買い上げられ、鉄筋2階建ての「老人福祉センター丸田荘」として生まれ変わった。
このとき調べられた、放射性物質であるラドン含有量は8.0×10‐10キューリー以下、これをマッヘ単位に換算すると、2.2マッヘ/ℓとなる。この温泉は、付近の方々はもとより、多くの町民から利用されるようになり、”復活した温泉”と言うことができよう。

3 清水温泉   (写真  5〜 6)
清水温泉は、旧洗切小学校付近の県道が川平と平木場へ分かれる三叉路のところにある。清水氏宅にあった鉱泉を呼んでおり、明治以来、第二次大戦中まで続いていた。最後の経営者が清水實氏である。戦後は温泉を廃業し、自宅で使用する程度であった。昭和55年4月、洗切小学校跡地に、上長与地区公民館が建てられた際、この泉源の水が引かれ、太陽熱とボイラーによって暖められ、公共温泉として復活したのである。泉源は、上長与地区公民館から200mほど上流の右岸にあり、現在は住宅の立ち並んだ裏の土手上に取水パイプがならんでいる。川床に降りると硫黄質(硫化水素H2.Sと思われる)の臭気を感ずることができる。
この温泉の泉質は、大正5年長崎県立病院薬剤部長の森川初三郎氏により調べられ、弱アルカリ性の炭酸泉とされている。この温泉も地域の人々はもちろん、上長与地区公民館でスポーツを楽しんだ人々にも、利用されている。
(注 「清水温泉」は、「憩いの湯(旧清水温泉)」と名称が変わっていた。入浴は、町内の人のみ。泉源の取水パイプの場所を探したが、わからなかった。清水宅は公民館手前の橋角にある)

〔近年、ボーリングした温泉〕

ゆりの温泉   (写真  7〜 8)

喜 道 庵    (写真  9〜10)

本川内郷のホルトノキ  西彼杵郡長与町本川内郷首石

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本川内郷のホルトノキ  西彼杵郡長与町本川内郷首石

長与町教育委員会編「長与町郷土誌 上巻」平成6年発行の42〜43頁は、次のとおり。「本川内郷のホルトノキ」は、全国上位の巨樹?なのに、郷土誌の記録を見落としていた。
首石は、本川内郷長与ダム対面の集落。松ノ頭峠への県道33号線の途中、大越公園の所から右手の急坂を上がる。集落内を通って行くと、すぐ木本宅先に長与町教育委員会表示板がある。「首石」という石があるのだろうか。調べ忘れた。

四 巨樹・名木

1.ホルトノキ(ホルトノキ科)    本川内郷首石、空き地
胸高周囲:472センチ、樹高:8メートル
長崎県環境部がまとめた『わが町の大樹コンクール報告書』によるとホルトノキの最も大きなものは佐世保市のもので、胸高周囲450センチある。長与町のものはそれよりも大きく、県下で最大のものである。根元は空洞になっており、樹齢が相当古いことがわかる。

2.センダン(センダン科)    平木場郷、上長与地区公民館
胸高周囲:322センチ、樹高:17メートル
県下では福江市玉之浦に次いで大きなセンダンで、台風で枝の一部が折れ、樹勢はやや衰えている。

3.クスノキ(クスノキ科)    斉藤郷寺の下、法妙寺
胸高周囲:445センチ、樹高:25メートル
クスノキの大木は各地で知られており、上記のものはクスノキとしてはそれほど大きくはないが、長与町では最大のものであるので記録しておく。

平木場郷、上長与地区公民館のセンダンは、次の記事を参照。最近の写真を最後に追加した。
https://misakimichi.com/archives/678
斉藤郷寺の下、法妙寺のクスノキは、今は境内に見当たらない。枯れて撤去されたか。

佐世保市のホルトノキや、福江市(五島市?)玉之浦のセンダンもどこのだろう。本ブログ巨樹・名木の項で紹介していない。

二重の虹撮った 長崎・南部の団地

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二重の虹撮った 長崎・南部の団地

朝日新聞長崎地域版2011年7月20日付の記事。18日午後7時半すぎ、台風6号の影響でにわか雨が降り、長崎・女の都の空で二重の虹を写している。
私もこの虹を、長崎市南部の団地、自宅から午後7時15分に撮っている。あわてて動画だったので、停止画像をこれ以上拡大できない。

名物煙突? 広瀬酒屋「鶴乃港」の煙突  長与町斉藤郷

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名物煙突? 広瀬酒屋「鶴乃港」の煙突  長与町斉藤郷

長与町教育委員会編「長与町郷土誌 上巻」平成6年発行の537〜538頁は、次のとおり。
店内展示の古写真は、昭和初期の頃らしい。店前に橋が架かっていた。郷土誌には「かつての広瀬酒屋(1990.9)」の写真がある。後ろの広い庭園跡に、おもしろい石があった。
最後の写真は、長与川河口の堰。広瀬酒屋前から少し上流にある。

名物!  鶴乃港の煙突

長与川の河口から舟津橋・新浦橋にかけての斉藤郷川端一帯、ここはごく最近まで昔ながらの舟津の風情を色濃く残していた。そのなかでも一きわ目立つのが、かつての造り酒屋だった広瀬酒屋の高いレンガの煙突と、古色蒼然とした大きな家屋であった。この家屋も寄る年なみには勝てず、最近新しく立て替ったが、赤い煙突は今も銘酒「鶴乃港」の名を掲げて悠然と立っている。
戦争中この煙突は特に目立つので、再三敵機の攻撃目標となり機銃弾を浴びたらしい。
長与川に影を写しながら、長与の今日の発展を感慨深く見つめているようだ。長与の名物の一つである。

川原木場の海岸岩場キャンプ  平成23年7月

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川原木場の海岸岩場キャンプ  平成23年7月

平成23年7月16日(土)快晴。午後3時集合。食料買出し後、17日(日)午前中まで、長崎市川原木場の海岸岩場でバーベキューキャンプ。参加6人。みさき道歩会の例会。
蛇紋岩の大岩があり、川が傍を流れるきれいな所である。昨年とおなじ海岸。今年は大型テントも持参した。朝日は島原半島の雲仙岳。9枚目の沖は樺島。

昨年の様子は、 https://misakimichi.com/archives/2401
宮さんの参加記事は、
(1日目)   http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/28192512.html
(2日目)   http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/28201370.html

小ヶ倉バイパス下「お水場」が、「みさき道」の道筋だったか。

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小ヶ倉バイパス下「お水場」が、「みさき道」の道筋だったか。

小ヶ倉バイバスの途中、「南長崎スイミングクラブ」(小ケ倉町2丁目)右横に、「御崎道」を説明した立派な石碑があると、宮さんが先日、訪ねていた。
http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/28176382.html
バイパスは良く通るが、バイパス開通記念碑くらいに思って、注意して見たことはなかった。
碑文が気になるところがあり、私も確認してきた。地元の老人会・自治会関係の篤志な方が、平成元年に建立した碑である。碑文は次のとおり。

碑  この丘に立ちて
江戸時代、この地は「御崎道」と呼ばれる街道が通じていて、脇岬の観音寺へ参拝する人たちや、深堀の侍たちが休息し、水を飲んだ場所である
御崎道は、長崎、脇岬間七里(ニ八k)の行程で、この上の峠には一軒の茶屋が設けられていた
現在でも残る一本の「みさき道」と刻まれた道塚に、多くの旅人で賑わった頃の事が偲ばれるのである。現在この地は戦後のあいつぐ都市計画によって、一大ニュウタウンとしてめざましく発展しつゝある(以下、略)

碑が建つバイパス道下の橋脚の場所に、昔から「お水場」と呼ばれる所がある。水源は「長崎市上下水道局用地」となっており、地元のため「長崎市立 老人憩いの家 お水荘」が建っている。「お水場」を「御崎道」の道筋とし、説明するため建立された碑のようである。
しかし、これは現在、大型団地となっているダイヤランド内の「みさき道」の道筋について、誤解があるだろう。

長崎医学伝習所生「関 寛斎」日記の文久元年(1861)4月3日の記録は次のとおり。
…小ヶ倉の入口にて小憩す、右に笠山岳あり此より加能峠にて、やうやう下る五六町にして平地あり、望遠鏡を用ふるに最も佳景なり、直下は小ヶ倉港内の小島眼前に見え、西南は西海緲々たり、加能の下り口は海面に張り出し眺望尤もよし、南岸の砲臺或は隠れ或は顕る、西岸に彎あり突出あり。下りて一彎に出で岩上の奇岩を渡り一の間路を行く…

小ヶ倉小学校創立百周年記念誌「小ヶ倉のあゆみ」昭和53年発行の、四、ふるさと史料 79〜80頁の説明は次のとおり。
(7)御水の池
塩谷川の上流、現ニ号バイパス橋下、ニ丁目団地自治会公民館前の一角にあった。佐嘉藩主鍋島公が軍船用のために堤を築いて貯水したとも、また深堀鍋島公が茶水用に築堤したとも伝えられるが定かではない。築堤があったことだけは事実であるが、ニ丁目団地の造成によって現在はその痕跡もない。ただ清澄な清水が枯れることなく流れている。この清水も早晩その姿を消すことになりそうだ。哀しいことである。鉄分を含有し、道の尾温泉に類似の冷泉ともいわれる。
(注)築堤は嘉永年間と伝えられ、面積約八十坪ほどだったという。また所在地の字名を下獅子渡との記録もあるが、これは下猪渡の誤りであろう。小ヶ倉の旧字名に類似のものとしては上猪渡、下猪渡の二つがある。後日の考証を期待したい。

両資料のとおり、「お水場」が「みさき道」の道筋だったとはほとんど考えられない。本ブログの次の記事を参照。文久元年や明治34年の街道地図にも表れていない。
https://misakimichi.com/archives/393  ほか。詳しくは研究レポートを。
実際に歩いてみるとわかるだろう。水は小ヶ倉峠の「源ネン茶屋」や「鹿尾川渡り」で補給できたのに、なぜ途中で、水場のため大きく下ったり、登ったりする必要はない。

4枚目は、ダイヤランド入口近く高比良園芸(小ヶ倉峠源ネン茶屋跡)道角にある力士墓と御崎道の碑。ここのは問題ない。後ろの写真もダイヤランドから。

長崎の古写真考 目録番号:な し 時津の写真

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:な し 時津の写真

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:な し 時津の写真

■ 確認結果

ブライアン・バークガフニさんのサイトだろう「長崎古えはがき」の、「時津」の中に掲載されている写真から、2枚を取り出した。長崎大学データベースには見当たらない。
画像が小さいため、はっきりしたことが言えないが、
「TOKITSU」は、時津町浦郷の「八幡神社」。南側(現在の時津警察署あたり)から撮影しているのではないだろうか。
「THE STONE BRIDGE AT SUIKOEN TOGITSU NEAR NAGASAKI」は、時津町元村郷字丸田の「丸田橋」ではないだろうか。

「丸田橋」の架橋年代、アーチ式石橋だったか、「SUIKOEN」の地名?など調査中。海水は時津川をここまで上がるだろう。橋の向きから「丸田橋」が考えられる。
背景の右の山?は、滑石の方「烏帽子岳」で特徴がある。現在の山並みは、パーラー花工房4階駐車場から写しているので、古写真と異なる。

藤野保編「大村郷村記 第四巻」図書刊行会昭和57年刊の「時津村」。111〜112頁「往還道筋并川流之事」に次のとおり記録があった。伊能忠敬測量日記にはない。
現在の場所かはわからない。次が「継石(鯖腐石)」まで。当時の「長崎往還道」(時津街道)だったようである。上流の「鳥越橋」は表れていない。 
「…同茶屋本門より丸田川石橋 長サ五間、横貳間、此川以前傳石なり、天保ニ卯年新規石橋懸る、入銀高高谷庄藏之出 まて四町五間半、此間左田・人家或ハ山、右田原也…」

データベース目録番号:5653「時津の家並み」は、次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/1566
https://misakimichi.com/archives/1837
撮影場所は、私は浦郷北泊「稲荷大明神」が祀られた公園の高台からと推定している。一方、「コミュニティ時津」歴史・史跡は、「浦郷北どまりの墓地付近」。 地元で良く検証してほしい。

かつての名勝地「道の尾公園と温泉旅館 萬衆園」  長与町郷土誌から

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かつての名勝地「道の尾公園と温泉旅館 萬衆園」  長与町郷土誌から

浦上水源池の畔にあるラジウム温泉「道の尾温泉」。本ブログ2008年6月1日次の記事「道の尾温泉の歴史と風景 西彼杵郡長与町」の続き。
https://misakimichi.com/archives/941

長与町教育委員会編「長与町郷土誌 上巻」平成6年発行の528〜530頁に、かつての名勝地「道の尾公園と温泉旅館 萬衆園」として、詳しく記しているので抜粋した(クリック拡大)。
道の尾温泉HPにも歴史の項がある。http://www5e.biglobe.ne.jp/~oyu/history/index.html
「道の尾温泉の歴史」は、概略次のとおり(道の尾温泉− face(フェイス)より)。

道の尾温泉のある地は「湯川」という字名があり、古くは小川(現在は暗渠になっている)から湯気が立ち上り、大根などを洗っていたと言い伝えられています。この地に20歳前後の農民 古田吉平氏が自らの田畑を売り払って明治元年(1868年)に創業したのが道の尾温泉である。

古田氏は料亭万衆園、道の尾公園を次々とつくりあげ、これらを一大レジャー施設として経営しました。当時の建物は赤絨毯が敷かれ、熱帯植物などが植えられた洋風な造りで、長崎港に入港したロシア、フランス等の水兵たちの姿も見られたと言われています。温泉に掲示してある版画から、当時の様子を窺い知ることができます。

古田氏は事業経営のみならず、地域発展にも貢献し、諫早−長崎間の鉄道建設時のルート案を検討する際にも奮闘し、温泉から500mの位置に道の尾駅を設置。現在のJR長与線のルートとなっています。

道の尾温泉の古写真は年代不明。大遊園図(長崎市立図書館収蔵)も、館内の展示パネルと同温泉HPから写した。
料亭「萬衆園」は、温泉場と別に現在のファミリーマートの場所にあった。長与町立高田中学校先から山道を、「大遊園」の跡、道の尾公園中央高台へ行けると聞いて、自然石に刻まれた上村彦三郎中将揮毫「忠霊碑」を探したが、現在は大規模な宅地造成中。現地がさっぱりつかめず、対面できなかった。

ヘリと火事? 旭大橋の上から

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ヘリと火事? 旭大橋の上から

ラビリンスとするのは申し訳ないが、適当な書庫がない。きのう14時48分頃、旭大橋の上から見かけた光景。
緊急患者の搬送でドクター・へりが着地した。消防車も来た。一方、銭座町で火事発生。ローカルニュースでは、M釣具。掛けがきく店なので、悪友と私のご用達だった。

長崎の古写真考 目録番号:な し 「(長崎名所) 諏訪神社ノ遠景」

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:な し 「(長崎名所) 諏訪神社ノ遠景」

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:な し 「(長崎名所) 諏訪神社ノ遠景」

■ 確認結果

現在の長崎市八幡町、中島川の大井手橋近くにあった、坂本龍馬らが倒幕議論したとされる料亭「玉川亭」の写真が、初確認された朝日新聞長崎地域版2010年11月27日付の記事を前に紹介していた。  https://misakimichi.com/archives/2455
写真は、英国の写真家F・ベアトが1864〜66年に撮影。横浜開港資料館に所蔵され、ベアト写真集に掲載されている。

「玉川亭」跡は、現在「キリスト教友愛社会館 友愛八幡町保育園」となっている。このあたりは、中島川の本流と西山川が合流し、「二股」と呼ばれる所。「玉川亭」は川魚料理が有名で、多くの会談に利用されたようだ。

位置的に「玉川亭」を撮影していると思われる写真を見つけた。撮影年代は新しくなるが、「All-view of Suwa Shrine Nagasaki. (長崎名所) 諏訪神社ノ遠景」の絵葉書。ブライアン・バークガフニさんのサイトだろう「長崎古えはがき」の、諏訪神社全景の中に掲載されていた。

この写真は、若宮稲荷神社中段の大鳥居あたりから撮影されている。中央に諏訪神社の白い鳥居と長坂が見える。左下は光源寺。甍の右先に写っている格式のある建物が、「玉川亭」のように思えたのだが…。
現地の上、下へ行って良く確認すると、これは私のまったくの誤認。後ろに「伊勢宮会館」とあるとおり、伊勢宮神社付近の建物であった。

「友愛八幡町保育園」の左横には、高い「七福マンション」などが建っている。7枚目の写真では、光源寺の甍のまだ左上先の位置となる。したがって、絵葉書の古写真には「玉川亭」は写っていない。
残念な結果となったので、この記事はタイトルから修正した。大井手橋下の中島川は、子どもたちの自然学習で賑わっていた。