月別アーカイブ: 2011年6月

長崎外の古写真考 目録番号:3219 下関(3)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3219 下関(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3219 下関(3)

目録番号:1191 下関(2)
〔画像解説〕
関門海峡と赤間神宮。内田九一の撮影による。赤間神宮は壇の浦で果てた幼帝安徳天皇を祀る。安徳天皇と平家一門への回向として5月3日には「先帝祭」が行われる。

■ 確認結果

目録番号:3219「下関(3)」は、次の目録番号:1191「下関(2)」のとおり、下関の赤間関「亀山八幡宮」で、〔撮影者:内田九一〕であろう。
金子隆一氏論文HP”内田九一の「西国・九州巡幸写真」の位置”69頁に、「図20 赤間関 亀山八幡宮」として掲載されている。
明治天皇が下関を訪れたのは、明治5年(1872)6月。随行した内田九一が撮影した写真である。東京都写真美術館蔵。

長崎の古写真考 目録番号:2901 南山手からの大浦と出島(1) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:2901 南山手からの大浦と出島(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:2901 南山手からの大浦と出島(1)

目録番号:2902 南山手からの大浦と出島(2)
〔画像解説〕
撮影者は不詳であるが、埋立地の様子(左手の第2期埋立地が造成されたばかりである)から撮影時期は文久2(1862)年であり、このアングルでは長崎大学が所蔵する最古の写真である。手前のベルビュー・ホテルがまだコの字型であり、東山手にはほとんど建物が見られない。

目録番号:6151 長崎のパノラマ(9)

■ 確認結果

目録番号:2901「南山手からの大浦と出島(1)」と、目録番号:2902「南山手からの大浦と出島(2)」も、〔撮影者:F.ベアト〕だろうか。パノラマ写真の中央部分である。
ベアトは文久3年(1863)春に来日した。撮影年代はその頃とならねばならない。

横浜開港資料館編「F.ベアト写真集2 外国人カメラマンが撮った幕末日本」明石書店2006年刊24,25頁に、パノラマ風景「19.長崎全景」(クリック拡大)として掲載されている。同解説は次のとおり。

19.長崎全景
南山手からの眺望。中央は大浦外国人居留地、海を挟んで左手遠方に出島が見える。次頁左側の写真右手山の中腹にある塔を持つ建物は英国聖公会(文久2年10月竣工)、その右手前の甍は妙行寺。(C)

執筆は、斎藤多喜夫(横浜開港資料館)氏。(C)は、写真の出所。
「C;香港のシルベイラ(Silveira)なる人物が”Album du Japon”と名づけて売り出したアルバムだが、明らかに海賊版である。少なくとも日本の風景写真の大半はベアトの写真を複製したものと思われる。ベアト以外の写真家の作品が紛れ込んでいる可能性も無いとはいえない。海賊版のせいか画質も悪いが、歴史資料としての価値があるので、すべて収録した。(整理番号;Acl−216 横浜開港資料館の所蔵するアルバムの整理番号)」とある。

長崎大学附属図書館HP「古写真ボードインコレクション」によると、後ろの写真どおりF.ベアト撮影の目録番号:6151「長崎のパノラマ(9)」(クリック拡大)があり、同解説は次のとおり。
松ヶ枝海岸造成や東山手・大浦居留地建物の状況から見ると、前の目録番号:2901「南山手からの大浦と出島(1)」などの方が、撮影年代は早いようだ。

写真家ベアトが撮影した元治元(1864)年の長崎外国人居留地の鳥瞰写真です。撮影地点はグラバー邸あたりで、左奥には出島の家並みが写されています。すぐ前の大きなコの字型の木造建築は建設後間もないベルビューホテルで、右手の東山手の丘には、文久2(1862)年10月に建った日本最初のプロテスタント教会である英国聖公会教会(塔をもつ建物)とイギリス領事館が見えます。

本ブログ次の記事も参照。 https://misakimichi.com/archives/2229

長崎外の古写真考 目録番号:3989 芦ノ湖と箱根宿

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3989 芦ノ湖と箱根宿

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3989 芦ノ湖と箱根宿

■ 確認結果

目録番号:3989「芦ノ湖と箱根宿」は、〔撮影者:F.ベアト〕かも知れない。
横浜開港資料館編「F.ベアト写真集1 幕末日本の風景と人びと」明石書店2006年刊87頁に、「92.芦ノ湖。湖岸に箱根宿が見える」として掲載されている。

長崎外の古写真考 目録番号:3948 芦ノ湖(13)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3948 芦ノ湖(13)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3948 芦ノ湖(13)
〔画像解説〕
箱根関所跡付近から見た箱根宿の眺望。芦ノ湖に臨んでいる建物は大きな藁葺き屋根の建物と一体のもので、いわゆる本陣である。本陣は江戸時代、参勤交代の折に大名等が宿泊・休憩した。背後の山は鞍掛山で、芦ノ湖の手前には、杉並木と湖を眺める職人風の人物が見られる。

■ 確認結果

目録番号:3948「芦ノ湖(13)」は、〔撮影者:F.ベアト〕であろう。
横浜開港資料館編「F.ベアト写真集1 幕末日本の風景と人びと」明石書店2006年刊85頁に、「89.芦ノ湖を隔てて箱根宿を望む」として掲載されている。

長崎外の古写真考 目録番号:3982 庭園の風景(4) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3982 庭園の風景(4) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3982 庭園の風景(4)

目録番号:4071 庭園の風景(5)     (同写真 掲載略)

■ 確認結果

目録番号:3982「庭園の風景(4)」と、目録番号:4071「庭園の風景(5)」(同写真 掲載略)は、〔撮影者:F.ベアト〕であろう。庭園がどこかは不明。
横浜開港資料館編「F.ベアト写真集2 外国人カメラマンが撮った幕末日本」明石書店2006年刊93頁に、「130.庭」として掲載されている。

長崎外の古写真考 目録番号:1083 墓地(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1083 墓地(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1083 墓地(1)
〔画像解説〕
写真外に “”HAKASHO OR GRAVE YARD “”とある。荒れ果てた感があるが、無縁仏の墓所ででもあるのだろうか。

目録番号:1275 山手からの横浜居留地(3)
〔画像解説〕
横浜・貝殻坂からの眺め。山手へ上る坂道である。手前が元町、向こうが外国人居留地である。手前は、日本人の墓地である。F.ベアトの撮影。

■ 確認結果

目録番号:1083「墓地(1)」は、横浜の英字新聞 ファー・イースト Vol.2 No.10 1871/10/16 に掲載された写真である。
資料は、九州大学デジタルアーカイブから。

新聞116頁の記事に「FROM the Roku−ji−zo,」とあり、手がかりとなろう。
次の目録番号:1275「山手からの横浜居留地(3)」に写る、横浜・貝殻坂の日本人墓地のような感じがするが…。「F. ベアト写真集1」21頁にも、墓地の別写真がある。

長崎外の古写真考 目録番号:1089 鶴岡八幡宮境内

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1089 鶴岡八幡宮境内

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1089 鶴岡八幡宮境内
〔画像解説〕
右手に鶴岡八幡宮の茅葺のお堂があり、その向こうの一段下がったところに鳥居が立っている。左手の奥には蓮池があり、その向こうは森になっている。

■ 確認結果

目録番号:1089「鶴岡八幡宮境内」は、横浜の英字新聞 ファー・イースト Vol.2 No.7
1871/9/1 に掲載された写真である。
資料は、九州大学デジタルアーカイブから。

長崎外の古写真考 目録番号:1111 牡丹園(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1111 牡丹園(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1111 牡丹園(1)
〔画像解説〕
鑑賞用の牡丹の花を栽培する日覆いのある花園である。様々な色の牡丹の花の中に上半身をのぞかせて立つ2人の女性に華やぎを与えている。小川一真得意とする女性像である。

目録番号:4310 牡丹園(2)
〔画像解説〕
温室の中で咲き誇る牡丹園と見物の女性たち。温室は竹で組んだ規模の大きなもの。

■ 確認結果

目録番号:1111「牡丹園(1)」と、次の目録番号:4310「牡丹園(2)」は、東京の深川にあった「四ッ目の牡丹園」であろう。〔撮影者:小川一真〕だろうか。
石黒敬章氏編「明治・大正・昭和 東京写真大集成」新潮社2001年刊403頁に、同じ写真が掲載されている。同解説は次のとおり。

【四ッ目の牡丹園】ⅠⅠⅠ22−06
深川区本村町(現江東区毛利1丁目)にあった名高き四ッ目の牡丹園。幾種類もの牡丹が牡丹園に充ちあふれ、妍を競っていた。亀戸で藤を見て、牡丹園を訪れるのが花見の順路だった。園主の成家文蔵は植文といった方が通りがよかった。障子格子に油紙を市松模様に貼って、光の調節をしている。明治中期。〔Y〕

長崎外の古写真考 目録番号:5014 隅田川の運搬船

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5014 隅田川の運搬船

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5014 隅田川の運搬船
〔画像解説〕
日本橋の橋の上より、船荷で賑う日本橋川の西を望む。快晴ならばこの角度で富士山が望めた筈である。左岸は西河岸で、右奥に垣間見える橋は西橋である。水運から陸運に移行していく時代であるが、まだ運河が荷物の運送には欠かせなかった頃である。明治37年(1904)発行の
『Japan』というブックケース入りステレオ写真。

■ 確認結果

目録番号:5014「隅田川の運搬船」は、〔撮影者:ハーバード・ポンディング〕ではないだろうか。
石黒敬章氏編「明治・大正・昭和 東京写真大集成」新潮社2001年刊171頁に掲載されている。同解説は次のとおり。

【日本橋】ⅠⅠ01−04
日本橋より船荷で賑わう運河の西を望む。アメリカのアンダーウッド&アンダーウッド社が明治
37年に発行した、『ジャパン』というブック・ケース入りステレオ写真の1枚。撮影はイギリス生まれのハーバード・ポンディングである。立体写真は明治の末期に世界的なブームがあった。快晴ならばこの角度で富士山が望める筈だ。〔J〕

長崎の古写真考 目録番号:3234 諏訪神社の大鳥居(3)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3234 諏訪神社の大鳥居(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3234 諏訪神社の大鳥居(3)

■ 確認結果

目録番号:3234「諏訪神社の大鳥居(3)」は、〔撮影者:内田九一〕ではないだろうか。
企画展「長崎・冩眞傳來」が、長崎歴史文化博物館で7月8日まで開催中。企画展HPで展示作品の一部がめくって見れる。
これによると同じ写真が、〔撮影者:内田九一〕となっている。同博物館所蔵写真。諏訪神社入口の一の鳥居を写している。