月別アーカイブ: 2010年1月

岩屋山から総合運動公園尾根の十郎岳へ  平成21年1月

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

イメージ 22

岩屋山から総合運動公園尾根の十郎岳へ  平成21年1月

平成21年1月10日(日)曇り。九州自然歩道により岩屋山(標高475.2m)へ登り、総合運動公園尾根の十郎岳(標高248m)へ。参加15人。
城栄公園9時30分発ー油木ー九州自然歩道ー岩屋山(昼食)ー南尾根植林地365mピークー十郎岳ーかきどまり総合運動公園13時50分着

油木から九州自然歩道により岩屋山へ登る。シルバーコース。途中にドンク岩と所有権福田村西浦上村境石大正十四年一月十七日と刻んだ石がある。11時30分岩屋山山頂着昼食。
境石の記事は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/132

午後は、九州自然歩道から分かれ、かきどまり総合運動公園の方へ伸びる小江原南尾根の先端、十郎岳を目指す。同岳手前の一部岩場のやっかいな道を除き、歩きやすい道ができており、岩屋山山頂から約1時間で十郎岳へ着いた。

かきどまり総合運動公園の全体が上から見え、小江・小江小浦・柿泊・手熊方面の集落と海が直下に広がる。展望が良い山頂岩である。岩屋山周辺案内図には先が省略されていた。地形図の三等三角点標高248mの地点となる。総合運動公園には20分で下った。
きようは曇っていて写真がさえない。快晴のとき、登り直したい。
後ろの2枚が、後日、下の集落の柿泊団地側から写した十郎岳の岩峰と左奥が岩屋山か。

宮さんの参加記事は、http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/23117850.html
のりさんのお疲れは、http://blogs.yahoo.co.jp/type2218/11375852.html
暇人さんルート解析 http://blogs.yahoo.co.jp/detour_sanden/11446968.html#11446968

長崎の古写真考 目録番号:6078 大徳寺跡から新地と出島を望む

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6078 大徳寺跡から新地と出島を望む

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6078 大徳寺跡から新地と出島を望む

■ 確認結果

明治元年(1868)廃寺となった大徳寺跡は、現在「大徳寺公園」となって長崎市西小島1丁目にある。上野彦馬が撮影した目録番号:6078の作品。長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版の29頁に掲載がある。同解説は次のとおり。

21 大徳寺跡から新地と出島を望む   278×215
明治元年(1868)に廃寺になった大徳寺跡から新地ごしに出島を望む。明治2年(1869)に架設された出島右端の出島新橋と中島川河口部の長さ48.6mの新大橋、さらに梅香崎と西浜町を結ぶ梅香崎橋が見える。前ニ者は木製の桁橋である。出島右の茂みの中に県庁舎は見えない。遊歩道建設のための出島の築石の石垣が新しい。左の新地蔵裏の内海の埋立が進んでいるのがわかる。右の川は銅座川。(21・22・23は3枚組写真)

明治2年(1869)に架設された「出島新橋」と「新大橋」はわかるが、梅香崎と西浜町を結ぶ「梅香崎橋」が見えるとは、どの橋のことだろう。「出島新橋」「新大橋」と同時に架設された「梅香崎橋」は、新地と梅香崎を結ぶ橋である(当初は3橋とも木製)。梅香崎と西浜町は繋がらない。
この古写真の右端、銅座川に架かっている橋は、明治17年測図地形図によると新地蔵の銅座側門口に昔から架かっていた石橋ではないだろうか。

「左の新地蔵裏の内海の埋立が進んでいるのがわかる」も、周りの川が埋め立てられていることだろうか。次頁の「22 大徳寺方面から県庁方面を望む」においても、「手前の大きな漆喰の屋根は旧薩摩屋敷である」はどの区画を示すのか(現在の三菱UFJ信託銀行長崎支店一帯)、具体的に記してほしい。

長崎の古写真考 目録番号:5339 寺(11) ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5339 寺(11) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5339 寺(11)

目録番号:6034 本蓮寺の本堂
目録番号:6070 本蓮寺の本堂と位牌堂(略)

目録番号:5338 本蓮寺
〔画像解説〕
上野彦馬アルバム所載の1葉。筑後町にある本蓮寺とその墓地を撮影したもの。撮影地点は現在の日本26聖人記念聖堂に近い墓地の外れに当たる。本蓮寺はもとサン・ラザロ病院やサン・ジョアン・バプチスタ教会があった場所で、それが破却された後、大村本経寺の僧日恵が元和6年(1620)に開創した日蓮宗の寺院である。境内は宝永4年(1704)に拡充整備されて大伽藍を形成するようになった。画面中央上の重層入母屋造の建物が本堂で、その左下は位牌堂である。本堂への石段脇にみえる流造の建物は清正公堂(番神堂とも)の神殿であるが、目録番号3780(整理番号102-44)の写真と比べるとその前に付随していた廊下と拝殿が既に失われている。しかし同神殿は明治23年(1890)の建て替えで入母屋造の仏堂形式に変更されたというので、撮影時期はそれよりも前である。本蓮寺は原爆で全壊したが、以後徐々に伽藍を復興しつつある。

■ 確認結果

長崎市筑後町の本蓮寺の当時の姿を上野彦馬が撮影している。幕末・明治期日本古写真データベースについて言うと、目録番号:5338では「本蓮寺」と判定し解説しながら、次番号となる目録番号:5339は、一般的な「寺(11)」のタイトルのまま未整理となっている。
右側と左側から写しているが、同じ寺とわかるのではないか。撮影地域は未詳とし、「本蓮寺」により条件検索しても、出てこなく集合されない。

次は目録番号:5339「寺(11)」とほとんど同じような古写真だが、目録番号:6034「本蓮寺の本堂」はやや不鮮明。この古写真を使用し、長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版の8頁に掲載がある。同解説は次のとおり。

2 本蓮寺の本堂   274×210
本蓮寺の木造・本瓦葺・重層・入母屋造の本堂である。正面の扁額は高玄岱の筆で「霊端道場」と書かれている。正面と左右は外廊の板張りでその周囲に欄干を廻している。中央には向拝があり、堂内は畳敷きで内陣と外陣が区画されている。内陣には如来、持国天、多聞天、上行菩薩、無邊行菩薩などが、外陣には日蓮の木造などが安置されている。

この時点でも、目録番号:5339「寺(11)」の作品が本蓮寺とわからなかったのだろうか。そのうえ同解説は、「1 本蓮寺境内から長崎港を望む」(目録番号:6071)、「3 本蓮寺の本堂と位牌堂」(目録番号:6070)とも載せながら、本蓮寺が原爆によって全壊したことをまったくふれていないのは、誤解を与えよう。

長崎の古写真考 目録番号:6068 風頭からの長崎市街鳥瞰(県庁側) ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6068 風頭からの長崎市街鳥瞰(県庁側) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6068 風頭からの長崎市街鳥瞰(県庁側)
目録番号:6069 風頭からの長崎市街鳥瞰(立山側)

■ 確認結果

幕末・明治期日本古写真データベース目録番号:6068と目録番号:6069の2作品。上野彦馬が風頭から撮影した古写真は、長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版の58,59頁に見開きで掲載がある。同解説は次のとおり。

49 風頭からの長崎市街鳥瞰(県庁側)   277×216
風頭山からの長崎市外の俯瞰写真。右下は皓台寺の山門。左下は大音寺境内。長崎奉行所西役所がおかれていた左端の茂みには明治9年(1876)に建てられる県庁の建物がまだない。まもなく県庁前に整備される地方裁判所、区裁判所、控訴院もない。町全体として江戸期の建物や土蔵を残している。

50 風頭からの長崎市街鳥瞰(立山側)   275×212
49との二枚組みパノラマ写真。左下は皓台寺境内。右端には興福寺の鐘鼓楼がみえる。その上の大伽藍は光永寺の本堂。正面の立山の山麓には本蓮寺や福済寺などの寺院が連なっている。道路の縦筋は左から今魚町、本大工町、紺屋町である。この鳥瞰写真でも旧家や蔵屋敷の土蔵がめだつ。江戸時代総町80カ町時代の町の様子がわかる。

風頭公園の展望台や上野家墓地へ行っても、木立が高く直下の寺町の数ある寺は写せない。撮影場所が風頭山かはひとまず置き、少し下って寺が写せる寺町墓地の高台から考えてみる。この写真集49,50の解説は明らかな間違いがある。
長崎市外は「市街」が正。2枚組みパノラマ写真で見てみよう。寺は左から大音寺境内、皓台寺境内と山門、(間の長照寺と肝心な延命寺が抜け)、興福寺の鐘鼓楼、離れて光永寺とし、道路の縦筋は左から今魚町、本大工町、紺屋町であると解説している。

左右写真の手前正面に写っている寺(山門は中央で重複している)は、正しくは「延命寺」である。昔の姿は山門、聖天堂、薬師堂、大師堂と建物があった。延命寺の上でないと遠くの稲佐山・岩屋山・立山尾根の重なりが合わない。右端にすぐ興福寺に昔あった観音堂(鐘鼓楼ではない)、光永寺が大きく写るのは、そばの「延命寺」となる。
道路の縦筋は、50の写真では、左から現在の諏訪通り、まっすぐなのは新橋通り、右は紺屋通りとなろう。付近の現在の地図を載せたので参照。

この古写真は延命寺に見てもらって確認した。延命寺は当時の写真を持たないので、特別に寺部分を拡大した。山門途中の現在ある石門は、明治33年建立されている。
実際の撮影場所も、延命寺がすぐ近くに写り、背景の山の重なりから考えると、風頭山頂からではなく、長照寺と延命寺の間の幣振坂を登った途中とするのが相当と思われる。
49の古写真の現在写真は、この場所からのを写し忘れたため、皓台寺上からのをとりあえず載せ、後で差替えたい。

最後が1月10日幣振坂へ再び行き、延命寺墓地から撮り直した写真。皓台寺上からのとの違いがわかるだろう。

長崎の古写真考 目録番号:6053 禅林寺の鐘楼堂と鎮守堂 ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6053 禅林寺の鐘楼堂と鎮守堂 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6053 禅林寺の鐘楼堂と鎮守堂

目録番号:5329 深崇寺鐘楼堂(1)   関連作品 目録番号:6663 同(2)

〔画像解説〕
上野彦馬アルバム所載の1葉。深崇寺は、元和元年(1615)に創立されたという浄土真宗本願寺派の寺院である。画面右手の建物は山門の右側、庫裏に面して建つ鼓楼で、これの創建年代は不詳だが、写真に写るのは文化5年(1808)に再建されたというものであろう。重層の入母屋造で、下層は袴腰に出入口を一箇所設け、上層は四面とも白壁に花頭窓を穿っている。この建物はその後、明治20年(1887)に再建されたというが、現存する建物も窓が一部埋められていることなどを除けば、基本的に同形式を保っている。
他方、画面左手は単層、切り妻造の鐘楼である。この建物は、元禄の頃に創建され、寛政12年と安政6年(1859)、さらに下って大正6年に改築されたという。しかし現在は、鐘楼はずっと左へ移築され、鼓楼とのあいだには4区画の墓地が形成されている。その中で最も古い墓石の銘には「明治十一年(1878)八月卒」とあるので、撮影はそれ以前とみられる。

■ 確認結果

同じ建物と配置なのに、寺町の龍馬通り入口を挟んだ「禅林寺」と「深崇寺」に解説が分かれている。現在残っている鼓楼から、「深崇寺」が正しいだろう。
「禅林寺」とする古写真は、長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版の25頁に掲載がある。
同解説は次のとおり。

17 禅林寺の鐘楼堂と鎮守堂   274×213
寺町の禅林寺境内の鐘楼と鎮守堂越しに立山方面を望んでいる。背景には諏訪神社の長坂を確認できる。本堂前の左側にあたる鐘楼堂は宝永2年(1705)に建立され、文化13年(1816)に改築されている。木造・本瓦葺・切妻造。宝永2年(1705)に奉納された梵鐘には漢詩が鋳込まれ、製作者安山弥兵衛、藤原国久の銘がきされていた。

同じコレクション内にあるのに突き合わせされていない。目録番号順から言っても「禅林寺」とするのは解せない。現地確認を願いたい。
背景中央のは諏訪神社の長坂である。左端にある大きな屋根の寺は解説がないが、明治45年三菱長崎造船所に炉粕町の寺地を売却、鳴滝1丁目に移転した「高林寺」と思われる。したがって立山方面ではなく、西山方面を望んだと説明した方が良い。
この古写真集の解説も疑問が多い。1月2日開館した「長崎まちなか龍馬館」で売られ、古書店でもまだ新刊扱いだった。内容を再検証してほしい。

長崎の古写真考 目録番号:5378 眼鏡橋(1) ほか (再掲)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5378 眼鏡橋(1) ほか (再掲)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。

目録番号:5378 眼鏡橋(1)   関連作品 目録番号:6662 眼鏡橋(3)

〔画像解説〕
眼鏡橋は、寛永11年(1634)旧町名の酒屋町と西古川町(現栄町-古川町)間に興福寺第2代住持である唐僧「黙子如定(もくすにょじょう)」によって架設された我が国最初の唐風石橋である。長さ23.2m、幅4.7m、橋面までの高さ5.46mで中央に束柱のあるアーチ石橋である。現在は重要文化財に指定されている。眼鏡橋の建設は、その後中島川の各通りに次々と唐風石橋が架設される契機となった。江戸の日本橋、岩国の錦帯橋とともに日本三大橋の一つに数えられている。記録によれば、正保4年(1647)の洪水で崩落し、慶安元年(1648)平戸の僧好夢が一度修築したと伝えられる。その後中島川は数度の洪水を起こしているが、橋は破損しても崩落することはなかった。昭和57年(1982)の長崎大水害では、橋のアーチ部分上部を流失するという大被害を受けたが、元の橋に復元され、今も中島川の水面に眼鏡のような双円の美しい橋影を映している。

■ 確認結果

朝日新聞長崎地域版2009年12月10日付の「長崎今昔 長大写真コレクション」に目録番号:5378「眼鏡橋(1)」の古写真が掲載された。上記の超高精細画像による解説には問題はない。新聞記事の解説内容では、後段に「後方左の高い山は彦山です」と説明を付け加えていた。

眼鏡橋を下流側から上流を向いて撮影した古写真である。東方は風頭山の稜線であり、その奥にある彦山は眼鏡橋からは見えない。古写真の背景の山は、眼鏡橋が架かる中島川の上流北方、右から武功山、そして尾根が続く最も高い山は烽火山(標高426m)、左へ下って健山となる。この記事は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2140

朝日新聞長崎総局へ解説の間違いを、12月にすぐ「烽火山」だと指摘していたところ、きよう
2010年1月7日付の「長崎今昔 長大写真コレクション」亀山社中の末尾に、青線枠のとおり訂正があった。『正しくは「三ツ山」でした』そうである。
「眼鏡橋」の少し下流の左川岸に立ち撮影した古写真。健山のまだ左奥となる「三ツ山」(帆場岳 標高505.9m)は写らない。右川岸に立ったらビルの奥に少しは確認できるだろう。この山は「三ツ山」と呼ばれるとおり、山の姿に特徴がある。

あくまで、目録番号:5378「眼鏡橋(1)」の古写真に写った「後方左の高い山」についての解説である。「三ツ山」でなく「烽火山」としてもらわないと、訂正記事にならない。
現地確認をするのだろうか。新聞社の原稿チェックもない。本ブログにより再三、苦言している。「亀山社中」の記事も参考のため掲げた。

結氷と馬?  長崎市宮崎町三和記念公園

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

結氷と馬?  長崎市宮崎町三和記念公園

きのうの出来事。宮崎町川原大池奥の三和記念公園近くは氷が張っていた。馬がパカパカ2頭。海星高校三和グランド手前に乗馬できる「ながさきゆうゆう牧場」があり、ここの馬が散歩に来たのだ。3枚目はタイ人、格闘技「ムエタイ」のプーケツトチャンピオン。

伝統柑橘・ゆうこうに光  原木は約130本確認

イメージ 1

伝統柑橘・ゆうこうに光  原木は約130本確認

朝日新聞2010年(平成22年)1月5日付長崎地域版「長崎さしすせそ」の掲載記事。
川上氏のゆうこう研究を伝える。ゆうこうの原木は、川上氏の分布調査によると、現在は長崎市の外海、土井首の両地区(深堀、三和、野母崎地区もある)、新上五島町?、佐賀県唐津市の馬渡島で約130本を確認している。

「長崎まちなか龍馬館」 古写真の展示内容などを考える

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

「長崎まちなか龍馬館」 古写真の展示内容などを考える

幕末に活躍した坂本龍馬に関する資料を集めた「長崎まちなか龍馬館」が、1月2日長崎市中心部の商店街にオープンした。浜町のベルナード観光通りにあり、坂本龍馬や幕末の長崎の歴史に関する写真や資料が数多く展示されている。
来年2月末までの開館期間中に、来館者30万人を目指すと言う。きのう、開館早々で正月休みの見学者が多い中、私も見学に行った。
古写真の展示内容などで、気付いた点の改善を要望したい。

A  HP、場所案内板など全般
(1)NHK大河ドラマが始まり、開館は人気があるのに、長崎市ホームページが対応していない。パンフレット片面はPDFで見られるが、龍馬館の場所、展示内容などまったくわからない。
(2)まちなか龍馬館は、長崎市の中心商店街浜町にあるが、中央橋バス停で降り浜町アーケード通りを大丸前まで行っても、肝心な交差点に案内板がない。左のベルナード観光通りに入ると左側に龍馬館はある。
(3)龍馬館の前を通っても、アーケードから吊り下げた幕に「長崎まちなか龍馬館」とあるだけである。左を矢印で示すか、観光通り中央に案内板を設置してもらわないと、狭い入口の建物を見過ごす。長崎の人でもわかりにくい。
(4)龍馬館入口の建物表示が、万屋町方面から来る人に向けられている。浜町アーケードの大丸側から来る人が多いと思われるので、この方向からの配慮を(2)(3)とも必要と思われる。
(5)本年は英雄編となるが、人物が政治家や実業家に片寄っている。長崎医学伝習所に貢献した松本良順など取り上げ、医学史跡も啓発するべきだろう。

B  古写真の展示内容
(1)シアター映像で、最初に「坂本龍馬、長崎に初上陸」と大きく出るが、長崎へ直接、船に乗って来たわけではない。シアター終了後、出来事の年表を見てやっとわかる。「初上陸」でなく、「長崎を初めて訪ねる」ではないだろうか。
(2)年表記事は次のとおり。「坂本龍馬、勝海舟とともに長崎初上陸!  元治元年(1864)幕府軍艦奉行並 勝海舟は、坂本龍馬、近藤長次郎などを伴い、熊本から有明海を渡って島原へ上陸、島原街道を歩いて長崎を訪れた。龍馬にとって初めての長崎。その逗留先は福済寺だった。…」
(3)「長崎奉行所立山役所跡」と「亀山社中」と思われる建物が写る古写真は、大きくパネル展示しているが、説明がまったくない。解説と解説図が必要と思われる。(前記事を参照)
(4)「星観測眼視望遠鏡」の古写真は、明治7年(1874)日本では神戸・横浜・東京とともに長崎も金星観測地点となった。その説明はあるが、金比羅山と星取山(後に改名)だったことにふれていない。望遠鏡背後に写る山は彦山。古写真は星取山で撮影されている。
(5)「浪の平から長崎港口を望む」の古写真は、手前長屋などの建物を「小曽根邸」と説明している。江崎べっ甲店の所蔵写真。大学データベースでは目録番号:5461 などに反対方向から写した写真があり、この建物は「小曾根町の三菱炭鉱社と麦粉会社。居留地末期の明治30年
(1897)頃」と解説している。
(6)「高島・小島のグラバー邸」の古写真は、「礎石と松林のみ往時を偲ばせている」と説明しているが、井戸跡や海岸の船着場から上がる石段の通路なども残っている。

C  「長崎龍馬の道」地図 (地図左部から説明)
(1)アーチ式石橋が残る長崎街道の「一の瀬橋」「古橋」「大手橋」の表示がない。
(2)「大田蜀山人歌碑」は、「諏訪神社境内」とは別に、長崎公園の方の池横にも蛍茶屋から移設した歌碑がある。
(3)「↓カトリック中町教会、日本二十六聖人殉教地、サン・ジョアン・パプチスタ教会跡」と、「↓迎陽亭跡、聖福寺、永昌寺・西勝寺」の位置表示が逆となっている。
(4)勝海舟・坂本龍馬の逗留先、「本蓮寺」及び「福済寺」の位置表示は、必ず必要と思われる。
(5)「芊原橋」は、「芊原(すすきはら)橋」とかな表示もしてほしい。
(6)「大浦川」の川幅を太くし、「弁天橋」や「松が枝橋」を表示した方が良い。
(7)石橋電停近く「ジョイフルサン」の建物描き方が合わない。大浦川のこの通り名は「石橋通り」と呼ぶのだろうか。

朝日選書  84P写真  30 「亀山社中」の撮影場所と「興福寺」の位置 (2)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

朝日選書  84P写真  30 「亀山社中」の撮影場所と「興福寺」の位置 (2)

2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)の84P写真「30 立山の旧長崎奉行所と官立師範学校」(幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:6030 の作品)には、中央手前の風頭山中腹に明治初期の「亀山社中」と思われる建物が写っており、現在、話題となっている。

朝日新聞では、2009年12月11日付第1面の記事 ”これが「龍馬の商社」 明治初期の建物写真、初確認”に続き、12月23日付の長崎地域版に”「亀山社中」確認 沸く龍馬ファン”の記事が載った。古写真に写った風頭山中腹の「亀山社中」と思われる建物には別に異論はない。
前の2記事により疑問にしているのは、この古写真を撮影した場所と、朝日選書の解説図にある「興福寺」の位置である。私の考えを次により説明している。
https://misakimichi.com/archives/2161

さらにこの話を進めると、思いがけないことがわかった。幕末に活躍した坂本龍馬に関する資料を集めた「長崎まちなか龍馬館」が、1月2日長崎市中心部の商店街にオープンした。
浜町のベルナード観光通りにあり、坂本龍馬や幕末の長崎の歴史に関する写真や資料が数多く展示されている。
「亀山社中」が写った古写真がどんな取り上げ方をされているのか、きのう夕方、まちなか龍馬館に見に行った。この古写真が超でかい高精細画像によりパネルに展示されている。

館内資料は撮影禁止のため、証拠写真を撮ってこられなかったが、展示の原画には、右端がまだ少しあったのである。光永寺後ろの木の茂みとその右に興福寺の媽祖堂と大雄宝殿と思われる建物が大きく確認できる。
朝日選書やデータベースの古写真は、興福寺の右端をカットして公開されている(興福寺は青枠内)。小画像のため興福寺が良くわからなかった。

次は光永寺について。幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:5617に「長崎のパノラマ(3枚続きパノラマの3)(6)」に、風頭山から撮影された光永寺の山門と本堂が写真の左下に写っている。風頭公園の山頂展望台は木立が高く、現在では同じような写真を撮影できない。
同じ向きで興福寺真後ろの墓地(長崎女子商業高校学生寮テニスコート隅上)へ登って、光永寺を撮影してきた。
この古写真や現在の写真を見ても、光永寺本堂屋根の真っすぐな延長線上にあるのは、玉園町の「聖福寺上手」あたりであり、まだ右寄りな「玉園墓地高台」からでないことがはっきりするだろう。

風頭山中腹の「亀山社中」と思われる建物を写した古写真について、この古写真を撮影した場所と、朝日選書の解説図にある「興福寺」の位置を、長崎居留地研究会および長崎大学関係者において、原画や現地を確認のうえ再度の考証をお願いしたい。
朝日新聞は新聞記事や出版物にするなら、正しく伝えてほしいし、長崎まちなか龍馬館の古写真に何の解説がないのも、見学者に対し不親切な展示と思われる。