月別アーカイブ: 2009年4月

晧 台 寺 (1)仁王門など県文化財に  長崎市寺町

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晧 台 寺 (1)仁王門など県文化財に  長崎市寺町

長崎市寺町通りの晧台寺。(1)は、仁王門、山門、大仏殿の建築物が県文化財に指定されたニュース。(2)は、墓地の主な墓など訪ねる。
長崎webマガジン「ナガジン」の、発見!長崎の歩き方「寺町界隈ぶらり散歩道」による寺の説明は次のとおり。
海雲山 晧台寺(曹洞宗)

慶長13年、肥前国松浦郡山口村(現在の佐世保市相浦町)洪徳寺の第7代住持・亀翁良鶴が創建。はじめは洪泰寺と称し岩原郷にあったが寛永3年(1626)に寺町に移り晧台寺と改称。
晧台寺の墓域は広範囲にまたがり、上は風頭公園内の敷地に日本の写真の開祖・上野彦馬の墓、へいふり坂沿いにはシーボルトと深く関わりのあった楠本お滝、イネの墓がある。市指定史跡として、唐通事林(りん)・官梅(かんばい)家墓地、高島家墓地、後藤家墓地もある。

=2009/04/04付 西日本新聞朝刊=の記事は次のとおり。

県文化財 轆轤成形技術を指定 長崎市の晧台寺仁王門も 波佐見町の陶芸職人 中村平三さん(75)
県教委は3日、県文化財保護条例に基づく新たな有形文化財として長崎市寺町の晧台(こうたい)寺の仁王門などを、無形文化財として波佐見町の陶芸職人中村平三さん(75)の轆轤(ろくろ)成形技術をそれぞれ指定した。一方、県外移転のため1件の指定が解除され、県指定文化財は計365件になった。
■建築時の姿とどめる 晧台寺の3点
晧台寺の建造物のうち、今回指定を受けたのは、仁王門、山門、大仏殿の3点。このうち仁王門は、1680年の建築と伝えられ、残存する県内の社寺の門としては最古という。寺院中枢部への入り口の「中門」に当たり、門の両脇には一対の仁王像が置かれている。
寺院の「表門」に当たる山門は1837年、大仏殿は1768年の建築とされ、いずれも建築時の姿をとどめている点や、造形の価値の高さなどが評価された。

晧台寺HPによる伽藍案内のうち、「山門(仁王門)」の紹介は次のとおり。

桜上正面には中国福建省の鼓山に住していた為霖道霈の書いた「晧臺禅寺」という大きな横額が掲げてあります。階下の門柱には、「法門無遮擱鳳毛麟角来入室、禅開有機用鳶飛魚躍悉契宗」という対聯が掛かります。
この門は、延宝8年(1680)長崎奉行牛込忠左衛門の寄進によって五世逆流禎順が創建したものです。 その後改修され、昭和60年(1985)には腐食の甚だしかった仁王像も新調しました。

延命寺・長照寺  長崎市寺町

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延命寺・長照寺  長崎市寺町

長崎市寺町通り。延命寺へアーチ型の中門を訪ねた。風格ある石門は「明治三十三年庚子三月建之」(1900)と刻む。山門も長崎奉行所の門が移築されていることが有名。現在の山門は修復されたもので、扉だけが当時のままだという(「長崎県の石門を訪ねて」から)。
同寺の前に料亭「一力」。長照寺との間の坂は、もう1つの「幣振坂」。背後の墓地に大クスが数本見える。長照寺も訪ねた。
長崎webマガジン「ナガジン」の、発見!長崎の歩き方「寺町界隈ぶらり散歩道」による両寺の説明は次のとおり。
医王山遍照院 延命寺(真言宗御室派)

元和2年(1616)長崎奉行 竹中采女正重次の援助で僧・阿門利(あじゃり)龍宣が開山。
境内には、手に数珠を持ち静かな祈りを捧げる弘法大師が88体並ぶ「八十八大師」がある。それぞれに表情や大きさは微妙に違い、味わい深い。
実話から今に伝わる「健康観音」は、昭和の初期、自分の病気回復を祈願して毎日寺に参拝する事を日課に決め、10年間続けた男性が10年毎に3つの観音像を寄進。健康になった話から名付けられた。
光栄山 長照寺(日蓮宗)

元は寛永8年(1631)本蓮寺開山、日恵が創建。弟子の日與を開基とした。西川如見(じょけん)の墓(市指定史跡)。境内にある水徳浄行菩薩は、この菩薩様の頭から水をかけて清め、体の治してほしい所と同じ所をタワシでこすると病気が治るといれているとか。

八坂神社  長崎市鍛冶屋町

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八坂神社  長崎市鍛冶屋町

「八坂神社」は、長崎市民には”ぎおんさん”で親しまれている。7月23日から28日まで祇園祭が開催され、ほうずき市などでにぎわう。
長崎くんちでは、10月8日、1回だけの踊り披露場となり、奉納がある。
御利益は厄入、厄祓、賀寿清祓の他に、初宮詣、安産祈願等人生の儀礼に関するものが多い。参詣につき添い、あまりこの神社の紹介がないので、珍しいものを写してきた。
長崎webマガジン「ナガジン」の、発見!長崎の歩き方「寺町界隈ぶらり散歩道」による八坂神社の創建は次のとおり。

●創 建
元和六年(1620)佐賀の高覚院盛宥が今籠町に天王社を創建。寛永十五年(1638)現在地に遷宮される。明和三年(1766)市内に大火が起こりほとんど失われてしまったが、明和八年(1771)町々や人々の寄付により再建。現在の境内地はほとんどその頃のもので、石垣や玉垣に町界町名変更で無くなった町の名が多く残されている。

長崎の西の空の夕日  09− 6

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長崎の西の空の夕日  09− 6

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔。以下、続く。

写真 1〜 2  平成21年 3月25日の15時47分頃 春日和の海原
写真 3〜 8  平成21年 4月 1日の17時33分頃
写真 9〜11  平成21年 4月 2日の18時29分頃

福田の散策 (6) 長崎サンセットマリーナほか  長崎市福田本町

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福田の散策 (6) 長崎サンセットマリーナほか  長崎市福田本町

福田の散策(6)は、長崎サンセットマリーナほか福田本町の風景。
長崎サンセットマリーナ、長崎市立福田小学校、長崎市立福田中学校、海岸道路のアコウ巨木、木鉢・神の島側海岸を望む、丸木の地蔵、西光寺下の公園。
岩永弘氏著「歴史散歩 長崎北西の史跡」2006年春刊49頁による説明は次のとおり。

写真  1〜 14 (8) 長崎サンセットマリーナ
平成7年7月長崎サンセットマリーナが開設され、福田海岸に於ける広大な施設や建物は素晴しく、人々の良き遊楽地になりました。ヨットに乗らずとも付近の散歩や芝生広場での一休みなど、ゆっくり楽しむ事が出来ます。

福田の散策 (5) 福田本町の史跡  長崎市福田本町

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福田の散策 (5) 福田本町の史跡  長崎市福田本町

長崎市福田本町の史跡。福田天満神社・草住の碑、大音寺跡、琴爪の墓、オロシア井戸、大番所跡、力士の紀念碑三体、祐徳稲荷神社(福田城址)。
岩永弘氏著「歴史散歩 長崎北西の史跡」2006年春刊50〜54頁による説明は次のとおり。
福田のショッピングセンター・サン三叉路の掲示板「福田史蹟案内図」の番号順とは異なる。

写真  2〜  (12) 福田天満神社・草住の碑
福田バス停から176段の坂段を登ると福田天満神社があります。宮林(3項)から天和元年(1681)此の地に遷宮されたもので建物は幾多の変遷があったと思われます。近年では昭和61年に改築が行われ、経年も浅いので綺麗です。
拝殿左側に三体の寄付人名碑、忠魂碑があり、其の背後に草住の碑があります。史料によると草住という所は、福田より小江に行く峠の堀切り付近です。天文16年(1547)に青年僧の谿山繁公記室禅師が草住に庵を建て修業していましたが、27才で病死したためにその両親が供養のため一字一石の宛の経文を記し一ケ所に埋め、そこに石碑を建立しました。此れを草住の碑といいます。その後、県道又は国道の拡張に伴い、昭和53年先代の宮本盤穂宮司が此処境内の片隅に移設しました。碑文「逆修一字一石谿山繁公記室禅師」

写真  4〜  (13) 大音寺跡
史料には「福田天満宮の下の畑地は古寺の跡で、大正五年頃の県道改修工事前には椿の老樹があり、ここに寺の門があったのを土地の人は「ジャーシューモンガシラ」「邪宗門頭」と呼んでいたという。即ち、邪宗門とはキリシタンのことであり、今は教会と呼ぶが、昔は「ヤソ寺」と呼んでいた。であれば此の「ヤソ寺」こそ大音寺でなかったか。
永禄11年(1568)には、福田に天主堂があり、キリシタン信徒約千名に達していたという。現在古寺の跡は見られないが、松添福市氏宅の裏の井戸は大音寺の清水と云われている」とあります。松添家は東京?へ移住、同家屋敷があった辺りは開発が進み新興住宅が建ち、古井戸の所在を知ることが出来ませんでした。

写真  7〜  (14) 琴爪の墓
西光寺(慶長5年(1600)開山・真宗大谷派)石垣右端の坂道を小川沿いに150mほど登るとセメント橋が架かり直ぐ説明板のある琴爪の墓があります。
「寛政4年(1792)島原の眉山の爆発による大津波で、島原の家老の娘が流されて来たのを漁師が拾い上げ、現在の前海技学校の一角に居た庄屋に告げ裏の畑の隅に埋葬した。ある月夜の晩に、不思議に琴の音が聞こえるので何処だろうと頼ねて探したところ、墓の所だった。墓を掘り調べたところ、その娘の指に琴の爪がはまっていた。これはよほど立派な家の娘であろうと更めて手厚く埋葬した。墓石の表に「南無阿弥陀仏」横に「安政三年辰五月十一日改」と記されている。眉山の爆発と墓の年号とには64年の差がある。又一説には、眉山の爆発による津波で流されても福田までくるには相当の日数がかかる。首をかしげる話になる。ただし島原の郷土誌には、家老の娘が福田に埋葬されていることが記されてあるそうである。人呼んで「琴爪の墓」「琴姫の墓」と呼ばれている」

墓を下った福田支所跡は福田公園となり、その上の前長崎海技専門学校跡広場には旧福田小学校の記念碑があります。

写真 11〜  (15) オロシア井戸
国道に下ると、ショッピングセンター・サン横の道脇に厚鉄板で蓋されたオロシア井戸の説明板があります。南蛮船渡来のおり永禄8年〜元亀2年(1565−1571)飲料水として使用された井戸で当時、水量多く、深さ7.7m水深5mありました。当時この辺りは入江であったことが推測されます。

写真 13〜  (16) 大番所跡
大番所跡は、長崎市福田支所の左隣り、国道から入り込んだ宮崎邸(16番地)で、古井戸が残っています。元亀2年(1571)ポルトガル船が福田より長崎港に移るとき小番所ができました。寛永13年(1636)徳川三代将軍家光の時、キリシタン耶蘇宗門改が始まり、異国船漂着の地であるために番所を設置しました。寛永18年(1641)福田が緊要の地であるために大番所を設置しました。

写真 16〜  (17) 力士の紀念碑三体
国道を小浦側へ行くと墓地があり、入口右に三体の力士の碑が据えられています。
①右−虎ヶ濱紀念碑  正面 明治三十年三月建立 虎ヶ濱紀念碑 本姓名 瀬崎寅五郎
②中−福田山紀念碑  正面 福田山紀念碑  台石下段 福田山ハ安政三年(1856)六月ニ生レ十六才ノ時鳴ヶ崎ヲ師トシ後高勇ヲ師トシ廿五才ニ至リテ名アリ四五才ニテ止ム 大正五年六十一才ノ賀ニ当リ此ノ紀念碑ヲ建設ス
③左−紀念碑 天保十年(1839)八月十五日式見村ニ生レル二才ノ時福田村?大大村市助ノ養子トナル一七才ヨリ留錨?次イデ宮角力取リテ…以下不明字多く略

写真 17〜  (18) 祐徳稲荷神社(福田城址)
力士記念碑の脇道を150mほど登って行くと左側登り口に赤鳥居があり此処より192段の坂段を登ると祐徳稲荷神社に着きます。標高74m余の山で、神社境内の広さはざっと見て百坪位、福田湾も一望できます。福田城の築城時期は記録も無く不明で、恐らく福田家21代大和守忠兼(天正年間・1573−1591)が築いたのではと云われています。

福田の散策 (4) 福田本町の史跡  長崎市福田本町

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福田の散策 (4) 福田本町の史跡  長崎市福田本町

長崎市福田本町の史跡。田子島砲台、田子島砲台付属施設、火渡しの橋、舘道、丸木舘屋敷。
岩永弘氏著「歴史散歩 長崎北西の史跡」2006年春刊47〜50頁による説明は次のとおり。
福田のショッピングセンター・サン三叉路の掲示板「福田史蹟案内図」の番号順とは異なる。

写真  2〜  (6) 田子島砲台
砲台は海岸線にかけて先方、一の台場から手前(福田中側)四の台場までありました。それは安政2年(1855)此処に台場を築き、異国船の襲来に備えるため十二門の大砲を設けたわけです。焔硝藏及び武器庫もあり、大砲は石火矢でした。それぞれの場所に説明板が立っています。

写真  9〜  (7) 田子島砲台付属施設
旧松原が終わる辺りが福田小学校体育館の背後付近で、角に清水邸(1575番地)があり、少し先は菜園で、田子島砲台付属施設の説明板が立っています。この窪みの畑に焔硝蔵1棟と武具蔵2棟があったといわれています。
異人井戸(オランダ井戸)は、史料によれば福田小学校校庭の体育倉庫の付近で、ニの台場と三の台場の中央後方にありましたが、昭和39〜40年小学校の校庭が拡張され危険のため埋められたとのことで、一般には其の位置は分かりません。
此の井戸は安政2〜5年(1855−1858)田子島に台場が出来てから台場を守る武士たち並びに異国船の飲料水として使用されました。

写真   〜  (8) 長崎サンセットマリーナは風景の項へ

写真 13〜  (9) 火渡しの橋
福田中学校正門前から福田本町公民館・福田本町公園へ向い、角から少し入ると小川があります。此の地の小川に架かる橋を古くから火渡しの橋と云われています。これは昔、津波により水浸しになった南部落の人家の火が消え、炊事もできなかったので、上部落の人が火種を南に持って渡ったので其のように云われたものです。
以前は長さ3m巾1m位の雲弱石でしたが、本町公園や市営住宅が出来るときにセメント橋になりました。

写真 15〜 (10) 舘 道
火渡しの橋を渡り福田ショッピングセンター、福田保育所に通じる道を舘道と言います。舘館は「やかた」と言い、昔ここらに平家の残党武士が住んでいたと言われています。

写真 16〜 (11) 丸木舘屋敷
福田保育所より50mほど先に池田邸(1748番地)があります。此処が天正3年(1575)福田の地頭21代福田大和守忠兼が屋敷を構えた所です。記録によれば「広三段四畝左右石垣あり」とあります。

福田の散策 (3) 福田本町の史跡  長崎市福田本町

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福田の散策 (3) 福田本町の史跡  長崎市福田本町

長崎市福田本町の史跡。福田開港と由来碑、丸木問役所跡、事代主神社祠と宮林、津波よけの石垣、千本松原。
岩永弘氏著「歴史散歩 長崎北西の史跡」2006年春刊44〜47頁による説明は次のとおり。
福田のショッピングセンター・サン三叉路の掲示板「福田史蹟案内図」の番号順とは異なる。

…福田本町は昔、大村藩内謀反による横瀬浦港焼き討ち事件後、貿易港の代わりとして開港されましたが、更に良港の長崎に移され、福田に於ける貿易期間は僅か6年でした。

写真  4〜 (1) 福田開港と由来碑
史料によると福田が治められた始まりは、平安時代末期の治承4年(1180)とあります。何百年かの後福田開港となり、このことについて詳しく記された福田開港の大きな由来碑があります。そこは本町バス停から少し戻り、福田橋を渡った100m先の漁港沿い、長崎市福田漁業協同組合建物脇にあります。
〔福田開港の由来碑 要旨〕
…大村純忠は、たびたび福田浦を訪れ、教会を建て、布教に力をつくし各地より信者多数がここに来集した。いらい、永禄九、十一、十二、元亀元年ポルトガル船はここに入港し、貿易と布教の拠点として、この港は、繁栄を続けたが、福田浦は、必ずしも良港とはいいがたく、宣教師や船員は、近くの地を探し回った末、元亀元年(1570)長崎を発見し、いらいポルトガル貿易は長崎に移ったが、長崎開港いぜん、福田が果たした役割は日本の近世対外交史上極めて重要であったといえよう。  昭和四十四年九月吉日 長崎市
福田開港の由来碑と並んで福田ペーロンの由来碑もあります。漁港手前の砂浜は旧福田海水浴場です。

写真  8〜 (2) 丸木問役所跡
福田橋に戻って橋角の松田邸(1873番地)屋敷塀前に丸木問役所跡の立札があります。寛政3年(1791)、当時福田への人の出入りが激しくなり旅人を改めるため、従来より更に整備して設置されました。丸木地区には昔、遊郭も10軒ほどあったとか、昭和9年(1934)頃、廃業されたといわれます。

写真 11〜 (3) 事代主神社祠と宮林
此れから海浜防波堤に沿いながら千本松原の方へ歩くと、道中、事代主神社祠があります。そして米田歯科研究所手前辺りに、頃は寛永12年(1685)、中野平五左衛門が天満宮を再興しました。しかし当時、福田地方は津波が度々あり、後難を恐れて天和元年(1681)徳川五代将軍綱吉の時代に現在の高台に移しました。跡地は今日、住宅が立ち並び僅かな樫、椿の巨木が当時の区域として残るのみです。

写真 13〜 (4) 津波よけの石垣
自然石を1〜2m積み上げた石垣が所々残っています。これは天和元年(1681)以前に津波があり、度重なる津波に後難を恐れた住民が、宮林より海岸沿いに長々と石垣を築いたものです。

写真 15〜 (5) 千本松原
元文元年(1736)徳川八代将軍吉宗の時代、福田地頭であった福田長兵衛兼明が大津波の波よけのために田子島より崎山まで植樹しました。安政4年(1857・植樹後120年)頃には162本あり、昭和5年(1930)頃には尚80数本ありましたが、昭和19年頃から松食虫の被害を受け、昭和25年(1950)には全部枯れ姿を消しました。
大人数人で手を廻しても届かぬ大松、又落雷の焼け跡で黒ずんだ焼松などがあり長崎市民の良き憩いの場でした。ハイヤ節に”福田丸木の千本松は誰を待つやら青々と””福田丸木の千本松は千といえども千はなし”とあります。

ボードイン・コレクション、国の登録有形文化財に

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ボードイン・コレクション、国の登録有形文化財に

長崎大学付属図書館(長崎市)が所蔵する、オランダ人医師アントニウス・ボードイン(1820〜85年)が日本で収集した江戸末期〜明治初期の古写真「ボードイン・コレクション」が3月19日、国の登録文化財として文化審議会から答申された。
ボードインは1862年、オランダ軍医ポンペが長崎に開いた病院「小島養生所」(長崎大医学部の前身)に赴任。写真が趣味で、長崎などで風景や庶民を撮影した。オランダの子孫が528枚を4冊のアルバムに整理し、それを長崎大が07年に購入。ネット上で公開している。…
(話題:ボードインの写真 登録文化財に−毎日jp(毎日新聞)から)

国の登録有形文化財への答申は、文化史的な意義と学術的価値のある美術工芸品として評価されたもので、写真が答申されるのは、長崎県では初めてである。6月くらいに国の登録となる予定だそうである。
「ぶらりらいぶらり:長崎大学図書館ブログ」2009年3月25日記事を参照。ボードイン・コレクションは、こちらからお楽しみくださいとあった。 http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/bauduins/
朝日新聞長崎地域版の同3月20日記事は上記のとおり(クリック拡大)。昨年はインターネットのアクセスが累計150万件を超えたとある。
長崎が誇る幕末・明治期古写真のコレクションである。

今回の答申を非常に喜びたいが、私が「長崎の古写真考」により指摘しているとおり、インターネット上の画面は、監修の粗雑さが目立ち、見る側に戸惑いがある。
長崎大学附属図書館が、文部省科学調査研究費の補助を受け構築したデータベースである。このような内容で全国に公開されていると、地元長崎の者として恥ずかしく感じることがある。
古写真研究の一助に門外な私が、実地調査のうえあえて苦言している。国の登録有形文化財となるなら、大学関係者へさらに一層の研究と整備をお願いしたい。

福田の散策 (2) 小浦の史跡  長崎市小浦町

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福田の散策 (2) 小浦の史跡  長崎市小浦町

長崎市小浦町の史跡。ダンドン様(段遠様)、崎山(断崖・河童穴)、古代石棺、小浦波止場御舟蔵、庵のん屋敷(あんでら)。
岩永弘氏著「歴史散歩 長崎北西の史跡」2006年春刊55〜56頁による説明は次のとおり。
福田のショッピングセンター・サン三叉路の掲示板「福田史蹟案内図」の番号順とは異なる。

写真  2〜 (19) ダンドン様(段遠様)
稲荷神社を下り対面の山道を26段登って70mほど進むと、お堂?と右側に墓石を台座にした大きな釈迦如来像(昭和六年三月吉日)と墓石があります。源平戦で敗れた平家の死者を此処や浜の断崖上、崎山に祭られました。

写真  5〜 (20) 崎山(断崖・河童の穴)
福田本町より小浦町方面を眺めると突き出た断崖が見えます。この上にも源平戦で敗れた平家の墳墓があります。バス道わき駐車場看板の所から41段の坂段を登ると雑草の中に二つの碑があります。
①無縁塔 正面ー無縁塔 明治三十五年六月十日 建設者 安田浅次郎
②戦死者萬霊之碑 正面ー戦死者萬霊之碑 明治三十五年八月 荻原弘文・山口寅雄建立

写真 10〜 (21) 古代石棺
崎山から国道を横断すると直ぐ坂段があり登りつめると野口邸(小浦町1057−4)があり、その上畑に2m弱の雲弱石で作られた石棺があります。果たして古代・中世いつ頃のものでしょう。

写真 15〜 (22) 小浦波止場御舟蔵
福田本町の手前は小浦町です。小浦バス停の直ぐ脇に小浦船津公園・事代主神社があります。船溜まりの小浦波止場は文化6年(1809)構築され、南蛮船が現れたとき、番所の役人が直ちに出船できる舟の溜まり場でした。弘化3年(1846)警備役人の詰所として御舟蔵が建てられました。その場所は近くに住む人の話では神社下駐車場一帯の所で、昭和年代頃まで大きな屋敷もあったそうです。(註 江越先生資料では、御船蔵跡は猪俣氏宅、番屋跡は石本宅となっている)

写真 21〜 (  ) 庵のん屋敷(あんでら)
岩永氏著には説明がないが、小浦波止場の裏手高台である。旧道を行き美容室オッパ!から高台へ上がる。森山豊宅があり坂段を登ると同家の墓。左奥に香月宅。裏の上畑に転がる大石が目印。香月宅も屋敷であったと言われ、寺も下段の畑一帯にあったと伝えられる。
詳しくは、福田天満神社の先代宮司さん古書「福田の旧蹟」が、福田公民館にあるらしい。

(2014年11月27日 追 記)

「小浦波止場御舟蔵」について、江越弘人氏の資料(平成21年 学さるく編)では次のとおり。
9 小浦の福田大番所船囲場
福田小浦のバス停の後に無数の礫石で造られた港がある。ここは、福田大番所の船囲場で、長崎に異国船が来航した時には、この港から大村藩士が乗り込んだ番船が出港し、長崎の警備に当たったもので、昔のままの姿を残している。
郷村記によれば「波止、長さ25間、横5間、中波止、長さ22間、横2間半、築附波止長さ18間、横2間半。船木屋、4間、梁14間、2棟。土蔵(番屋が造り付け)、4間、梁10間」と記され、御船蔵(船木屋)の中に関船1艘、小早3艘、東海4艘、組子船5艘、天船1艘が収容されていたという。
この船囲場は、文化6年(1809)に衡風丸を備えたのが始まりで、次第に整備され、上記のようになったのは弘化3年(1846)である。現在、御船蔵の所が猪俣氏の住宅となっている。又、番屋跡は石本氏宅となっている。石本氏の先祖は、この船囲場築造に係わった石工で、その後、船囲場の番人となり苗字帯刀を許されたということである。

岩永弘氏著「歴史散歩 長崎北西の史跡」では、「船溜まりの小浦波止場は文化6年(1809)構築され… 弘化3年(1846)警備役人の詰所として御舟蔵が建てられました」と書かれている。
両者の出典は当然異なっていると思います。前者からでは、文化6年の段階で防波堤や護岸ができていたとは読み取れません。この点は、年代をどう標記するかに関わりますので、後者はどのような文献に書かれていたのでしょうか? との疑問を遺産サイトから受けたので、並記した。
岩永氏はすでに亡くなられ、出典は不明。江越先生資料は「大村郷村記」「福田村郷土誌」によっており、これが正しいだろうと思われる。