月別アーカイブ: 2008年9月

今屋敷の防火壁  対馬市厳原町今屋敷

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

今屋敷の防火壁  対馬市厳原町今屋敷

厳原港から国道382号線により厳原の中央通りを行き、今屋敷の交差点から所在図の場所へ歩いて行くと、「今屋敷の防火壁」が見られる。
Aが県指定防火壁の場所で、案内標識と現地説明板がある。
Bの場所にも防火壁が残り、「嘉永二 酉三月日 町中 火切」(1849年)と刻んだ石があり、説明板がある。
長崎県HP「長崎県の文化財」によるAの説明、及びAに設置されている現地説明板は次のとおり。
今屋敷の防火壁  県指定有形文化財・建造物

指定年月日 昭和61年1月10日  所在地 下県郡厳原町大字今屋敷705−1
所有者 海地浮久恵
この防火壁は、江戸時代につくられたものである。江戸時代、対馬藩の首都府中(現厳原町)は、しばしば大火に見舞われた。藩当局は種々その対策を講じたが、その一つとして天保12年(1841)以後防火壁をつくり、その延焼を防ごうとした。これら石垣によるものは全国的に類例が乏しく、貴重である。
しかし、今日これらは自然崩壊、ないし屋敷地の改造等に伴い破壊に瀕している。よってそのうちの一つで、最も当時の姿を伝え、かつ天保15年(1844)正月という築造年月の陰刻の見られる本防火壁を指定した。

今屋敷の防火壁

県指定文化財・建造物 昭和61年1月10日指定
石垣は対馬の名物であるが、火災の類焼を防ぐため、火切として高く築かれた石垣の防火壁が、昔の町割の線に沿って設けられた。現在残っているのは数箇所に過ぎないが、最も状況が良いのが本例である。
刻銘には、「天保十五年申辰正月 消防為 火切築え 高さ一丈三尺 根幅五尺」とある。石垣の全面に火に焙られた痕跡があり、府中(厳原)町屋の軒並を護った貴重な遺跡である。昔は江戸市中にも火切があったが、現在は跡形もなく消滅し、日本中で遺っているのは対馬の厳原だけという。                           厳原町教育委員会

旧日新館門・対馬藩家老屋敷跡など  対馬市厳原町中村ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

旧日新館門・対馬藩家老屋敷跡など  対馬市厳原町中村ほか

厳原港から厳原の町の中心に入る。中央通りの国道382号線沿いやそれから少し町中の道を歩くと見られる。旧日新館門・武家屋敷通り・対馬藩家老屋敷跡・桟原館の高麗門(旧桟原城門)・金石城跡(櫓門)。
長崎県HP「長崎県の文化財」による「旧日新館門」の説明は次のとおり。

旧日新館門  県指定有形文化財・建造物

指定年月日 昭和45年10月6日  所在地 下県郡厳原町大字中村642
所有者 厳原町
もと対馬藩主宗氏の中屋敷門であったが、幕末には藩校日新館に用いられた。大門に石塀・石塁(門庭)・脇造屋が付属する。江戸末期における大名家の格式を備えた武家屋敷門の遺構としては、本県では貴重なものである。
日新館は、幕末に対馬藩勤王党の拠点であったが、内紛によりその多くが斬られ、志をのばすことができなかったといわれる。

厳原・八幡宮神社社叢  対馬市厳原町中村

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

厳原・八幡宮神社社叢  対馬市厳原町中村

厳原の町の中のちょうど中心にある。清水山の麓に鎮座。祭神は神功皇后など。
中央通り国道382号線に面して、東向きに鳥居入口がある。
広い境内の社叢は、クスノキなどの大木が目立つ。大祭のちょうど準備中であった。
対馬観光物産協会発行「対馬の巨木と自然」(2003年改訂)リストによる説明は次のとおり。

98 厳原・八幡宮神社社叢  (厳原町中村)

厳原の町の中心に有りながら、境内と背後の社叢にクスノキの巨樹や巨大イスノキ、タブノキの巨木があり、神社の石段と巨木の深い緑が調和しています。
98 八幡宮神社社叢   クスノキ    幹回り 6.53m  樹高 28m
98 八幡宮神社社叢   クスノキ    幹回り 5.38m  樹高 20m
98 八幡宮神社社叢   クスノキ    幹回り 5.00m  樹高 25m
98 八幡宮神社社叢   クスノキ    幹回り 4.93m  樹高 30m
98 八幡宮神社社叢   イスノキ    幹回り 3.43m  樹高 20m

唐洲のソテツとクロガネモチ  対馬市豊玉町唐洲

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

唐洲のソテツとクロガネモチ  対馬市豊玉町唐洲

国道382号線により豊玉町の中心仁位まで行き、唐洲への県道232号線へ左折して入る。唐洲は浅茅湾の西端となるので、かなり走らなければならない。
唐洲漁港へ着くと、漁協前から集落内の路地へ入る。奥まで行くと青木邸の庭に県指定天然記念物「対馬唐洲の大ソテツ」がある。

「クロガネモチ」は、漁協前の対馬市役所唐洲出張所の後となる右方斜面に見えるので、空き地の中を通って上がって行く。神社の入口で鳥居があった。
そのほか、大ソテツ奥の山中には、最後の写真とおり、かなりの大木が望見された。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明、及び対馬観光物産協会発行「対馬の巨木と自然」(2003年改訂)リストによる説明は次のとおり。

対馬唐洲の大ソテツ  県指定天然記念物

指定年月日 昭和53年3月31日 所在地 下県郡豊玉町大字唐洲78
所有者 青木智久
唐洲は、対馬中部西海岸の唐洲湾に臨んだ集落である。このソテツは、対馬の名木として琴の大イチョウとともに、昔から全島に広く知られている。
大小の幹枝が入り乱れ、東西7m、南北5.30mに広がっている。主幹と思われるものの高さは3.50mで、高さの割に枝張りが大きく樹形も整って姿もよい。ソテツの珍しい巨樹である。

64 唐洲の大ソテツ  県 (豊玉町唐洲)

青木邸の庭に植えられたもので、昭和40年代前半にあまりに大きすぎ邪魔になるため3分の1程が切られましたが、現在も見事な大きさと広がりを持つソテツの珍しい巨樹です。
64 唐洲の大ソテツ    ソテツ      幹回り  −     樹高  −

63 唐洲のクロガネモチ クロガネモチ  幹回り 3.18m  樹高 22m

観音堂裏と卯麦のクスノキ  対馬市豊玉町卯麦  

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

観音堂裏と卯麦のクスノキ  対馬市豊玉町卯麦

国道382号線により豊玉町の中心仁位まで行き、佐保方面への県道232号線へ左折して入る。豊玉小学校前を過ぎ、ハロウ坂トンネルと卯麦トンネルを抜けると、卯麦浦の谷あいに卯麦の集落がある。

川沿いに行って右岸、駐車用広場に「観音堂裏のクスノキ」、少し先へ行って左岸、橋の人家裏川岸に「卯麦のクスノキ」が、対面するようにして立つ。幹囲は前者がやや大きい。
対馬観光物産協会発行「対馬の巨木と自然」(2003年改訂)リストの中の説明は次のとおり。
3番目塞ノ神のクスノキは確認しなかった。

60 観音堂裏のクスノキ  クスノキ   幹回り 6.53m  樹高 18m
60 卯麦のクスノキ     クスノキ   幹回り 6.38m  樹高 24m
60 塞ノ神のクスノキ    クスノキ   幹回り 3.0m以上 樹高  −

殿様開き遺構 イビ  対馬市豊玉町仁位

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

殿様開き遺構 イビ  対馬市豊玉町仁位

国道382号線により豊玉町の中心仁位まで行き、佐保方面への県道232号線へ左折して入る。豊玉小学校前を過ぎ仁位川沿いに下流へ向かうと、現県道橋脇の旧道の橋下にこの遺構を見る。
「仁位浜」というところだろうか、その付け根。小さな溜め池があり、橋下は仁位湾の海水が寄せて来る場所である。
豊玉町指定史跡「殿様開き遺構 イビ」が次のとおりの説明板とともにある。

殿様開き遺構 イビ   2003年3月3日 豊玉町指定記念物(史跡)

対馬における水田干拓の中で、特に有名なものの一つに仁位ハロウの干田は、元禄4年(1691)に時の藩主「宗 義貞」が命じて行われたものです。
干田は「開き」といい、ここ仁位の「開き」は特に「殿様開き」と呼ばれています。そのときに造られた堤防を横断して水門を設けるのですが、これを「樋門」または「イビ」と呼びます。
この時に造られたイビが、現在も、その大きさのまま残っています。門の両側にある実に大きな1枚石(推定4トン)といい、大がかりなイビの装置は、約300年も昔の技術でできているとは思えないほど、何ともスケールの大きな世界であり、その技術の高さをうかがい知ることができます。                               対馬・豊玉町教育委員会

以上の説明文によると、「イビ」とは「樋門」のこと。辞書では「ひ‐もん【樋門】=用水の取り入れや排水、舟運などのため、堤防を横切る暗渠(あんきょ)にして設ける通水路。水門をつけ、水位を調節する」とある。
ここ仁位のは元禄4年(1691)頃?に造られた樋門。門の両側には、実に大きな1枚石(推定4トン)が使われ、できているらしいが、フェンスが囲われ中は見れないし、写真に写せなかった。

次はあくまで参考。HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」の熊本県収録編番外として出てくる。熊本県八代市に、同じような「樋門」で規模を大きくしたものが残っている。
最後の写真が、その「大鞘樋門」を同HPから。現存する3か所のうち、最もシンプルな造りの「二番樋三枚戸」。
対馬市豊玉町仁位の樋門もこんなものと考えられるが、築造年は史料によりはっきりしているのだろうか。            

「大 鞘 樋 門」  所在地 八代市鏡町両出  市史跡・文化財指定

文政2年(1819)9月24日に四百町新地の塩留めは完成した。耕地337町9反が新たに上納地に加えられたわけである。これが文政2年(1819)に干拓された四百町新地である。この時築造された樋門が大鞘樋門と呼ばれ、これまでの「御国流」よりもすこぶる堅牢で鞘石垣に巨石を使い備前流と言われる樋門の革新的技法を取り入れている。
水門は5か所で、北から殻樋五枚戸。二番樋三枚戸。江戸樋四枚戸(現三枚戸)。新殻樋七枚戸(昭和42年3月新橋に架け替えた)。三番樋三枚戸(埋没)。
尚、当初一番井樋三枚戸が文政廻しの北側に計画されていたが、塩浜塩田設置のため施工されなかった。現存する殻樋は備前流と呼ばれている築造技法であり、二番樋、江戸樋は合法と呼ばれる構築法になっている。
備前流は、備前の石工高野貞七の設計により、これまでより堅固に作られ、一部に巨石を使い、工事の若い監督であった広松輔周がむりに巨石を使わせたので「広松のもがい井樋」と言われている。引き続いて文政4年(1821)に七百町新地が干拓されたが、この後の樋門はすべて備前流・合法により築造されている。
七百町新地干拓の折、ここの樋門堤防に永い小屋を作り、天草からの出稼ぎ労働者を収容した。誰が言うともなく「名所名所と大鞘が名所、大鞘名所にゃ水がない」という唄がうたわれ出し、新地干拓の潟担い労働唄として郷土民謡大鞘名所の発祥地となった。
「大鞘節発祥之地」の顕彰碑が昭和46年千丁町と合同でこの樋門横に建立されている。
八代市教育委員会

対馬「烏帽子岳展望台」からの展望  対馬市豊玉町仁位

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

対馬「烏帽子岳展望台」からの展望  対馬市豊玉町仁位

国道382号線により豊玉町の中心仁位まで行き、佐保方面への県道232号線へ左折して入る。豊玉小学校前に「和多都美大橋」があり、橋を渡って対岸の山際を進むと赤い大鳥居があるが、「和多都美神社」はまだだいぶん先。下って浦へ出たところ。

和多都美神社の先から「烏帽子岳」へ車道が上がる。駐車場から山頂展望台まで60mほど坂段を登る。
烏帽子岳は、標高176mの山。浅茅湾に突き出た半島にそびえる。国内有数のリアス式海岸・浅茅湾を三方に眺められるほか、360度の美しい展望が広がる。
長崎県HP「ながさきのしま|長崎のしま紹介【対馬】|観光地」による説明は次のとおり。

⑬ 烏帽子岳(えぼしだけ)展望台   場所 対馬市豊玉町仁位

浅茅湾周縁の山ではひときわ抜きん出た標高となっているため、ここからの眺望は壮観です。岬と入り江・島々が織りなす絶景の浅茅湾を眼下に、東は対馬空港、万葉歌の浅茅山に比定される大山岳、そして黒島を隔てて対馬海峡、西は朝鮮海峡に浮かぶ韓国の山並みと荘厳な海峡の落日。日の出から日没まで、光と影の移ろいとともに妖しく変化する大自然の光景に、あるいは四季折々に綾なす色彩の美しさに、ここに立つ人は息を呑みます。

和多都美神社社叢  対馬市豊玉町仁位

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

和多都美神社社叢  対馬市豊玉町仁位

国道382号線により豊玉町の中心仁位まで行き、佐保方面への県道232号線へ左折して入る。豊玉小学校前に「和多都美大橋」があり、橋を渡って対岸の山際を進むと赤い大鳥居があるが、神社はまだだいぶん先である。

「和多都美神社」は、下って浦へ出たところ。正面の5つの鳥居のうち、2つは海中にある。神社は風景・史跡の項を参照。烏帽子岳展望台は、神社の先から車道が上がる。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明、及び対馬観光物産協会発行「対馬の巨木と自然」(2003年改訂)リストによる説明は次のとおり。

和多都美神社社叢  県指定天然記念物

指定年月日 昭和51年2月24日  所在地 下県郡豊玉町大字仁位字和宮
所有者 和多都美神社
この社叢は、対馬上島と下島に囲まれた浅茅湾奥の波静かな入江に面して位置する。主木は、スタジイ・ウラジロガシの照葉樹のほか、アズキナシ・ケヤキ・ハリギリ・イロハモミジなどの落葉樹を若干まじえる。林下にはコバノカナワラビ・テイカカズラ・ビナンカズラ・ベニシダが繁茂する。林縁にはヤマボウシ・ハナイカダ・ウリノキが生え、大陸系のオオチョウジガマズミやケイリンギボウシも見出される。
社叢は全体として、対馬中部の低海抜丘陵地の原型をよく残しているばかりでなく、高地性の落葉樹や大陸系の植物をも生じていて貴重である。

61 和多都美神社社叢    ムクノキ  幹回り 3.5m  樹高 28m 

和多都美神社  対馬市豊玉町仁位

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

和多都美神社  対馬市豊玉町仁位

国道382号線により豊玉町の中心仁位まで行き、佐保方面への県道232号線へ左折して入る。豊玉小学校前に「和多都美大橋」があり、橋を渡って対岸の山際を進むと赤い大鳥居があるが、神社はまだだいぶん先である。

「和多都美神社」は、下って浦へ出たところ。正面の5つの鳥居のうち、2つは海中にある。社叢は巨樹・名木の項を参照。烏帽子岳展望台は、神社の先から車道が上がる。
境内にある神社由緒板は次のとおり。

名神大社 和多都美神社

鎮座地 / 長崎県下県郡豊玉町大字仁位字和宮五五番地
御祭神
彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)
豊玉姫命(とよたまひめのみこと)
御由緒
当社の所在地表示は、現在「下県郡」であるが、以前は「上県郡」であった。平安時代の律令細則である「延喜式」の「神名帳」の中に「対馬国上県郡和多都美神社(名神大)」とあるのは当社である。貞観元年(八五九年)に清和天皇から従五位上の神階を賜り、また、「三代実録」によれば、永徳元年(一三八一年)に、更に従一位を叙せられ、往古より島内は言うに及ばずわが国の名社大社の一つに数えられた。
縁起を辿れば、神代の昔、海神である豊玉彦尊が当地に宮殿を造り、宮を「海宮」と名づけ、この地を「夫姫」と名付けた。その宮殿の大きさは、高さ一町五反余り、広さ八町四方もあったという。そして神々しい神奈美「夫姫山」のさざ波よせるこの霊地に彦火々出見尊と豊玉姫命の御夫婦の神を奉斎したと伝えている。
豊玉彦尊には一男二女の神があり、男神は穂高見尊、二女神は豊玉姫命・玉依姫命という。ある時、彦火々出見尊は失った釣り針を探して上国より下向し、この宮に滞在すること三年、そして豊玉姫を娶り妻とした。この海幸彦・山幸彦の伝説は当地から生まれたものである。
満潮の時は、社殿の近くまで海水が満ち、その様は龍宮を連想させ、海神にまつわる玉の井伝説の遺跡跡や満珠瀬、干珠瀬、磯良恵比須の磐座などの旧跡も多く、また本殿の後方に二つの岩がある。これを夫婦岩と称し、この手前の壇が豊玉姫命の墳墓(御陵)である。
また、西手の山下に、石があり、それが豊玉彦尊の墳墓(御陵)である。このように当社は古い歴史と由緒を持ち、時の国主や藩主の崇敬も篤く、たびたびの奉幣や奉献それに広大な社領の寄進があった。現在でも対馬島民の参拝は勿論のこと全国各地からの参拝が多い。

吉田のムクノキ  対馬市峰町吉田

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

吉田のムクノキ  対馬市峰町吉田

国道382号線が、豊玉町の八割トンネルを抜けると峰町へ入る。吉田川と合うところに吉田バス停があり、国道のすぐ右方に「吉田のムクノキ」が立つ。
対馬市ファミリーパークのまだ手前である。枯れかかったような根元だが、樹勢はあるらしい。
対馬観光物産協会発行「対馬の巨木と自然」(2003年改訂)リストによる説明は次のとおり。

42 吉田のムクノキ  (峰町吉田)

国道の側にあるムクノキの巨樹です。根元に小さな祠があり、神社の跡であると言われています。生育条件は悪くなっていますが、樹勢は今だに旺盛な木です。
42 吉田のムクノキ    ムクノキ   幹回り 6.64m  樹高 28m