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龍良山原始林  対馬市厳原町豆酘

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龍良山原始林  対馬市厳原町豆酘

厳原港から南下、県道24号線により豆酘方面へ行く。久田トンネルを抜けると、安神の山上に三叉路があり、右上手の豆酘瀬へ向かう県道192号線へ入る。
同県道は山手を越し、豆酘瀬へ下っていくが、その途中の鮎もどし滝上部、吊り橋がある「鮎もどし自然公園」の入口まで行かず、約2kmほど手前の「内山橋」から左折して、山腹の「龍良山自然公園センター」まで上がった方が、近くて楽となる。

センター駐車場に車を置いて、駐車場外の未舗装林道を左方へ600m行くと、「龍良山登山入口」の道標があり、山道を20分登ると、龍良山原始林最大の板根スタジイ巨樹と対面できる。
この区間は自然観察路となっており、木々には名札が付けられている。ここから龍良山山頂(標高558.5m)まで登るのは、まだ1時間30分かかる。
登山口の未舗装林道は、豆酘の美女塚まで続いているようだが、長路となり悪路である。

長崎県HP「長崎県の文化財」による説明、及び対馬観光物産協会発行「対馬の巨木と自然」(2003年改訂)リストによる説明は次のとおり。
最後の写真は、裏側の与良内院から見た龍良山。

龍良山(たてらさん)原始林  天然記念物(国指定)

指定年月日 大正12年3月7日  所在地 下県郡厳原町大字豆酘  所有者 国
龍良山は海抜558.5m、原始林はその北側斜面に海抜120mの低地から山頂まで広がっている。海抜350m付近を境に、下方にはスダジイ林、上方にはアカガシ林が発達している。スダジイ林は樹高20m、最大幹径は1mに達する。場所によりイスノキも多い。
上方のアカガシ林は雲霧帯に発達する森林でアカガシを主木とし、ヤブツバキ・カクレミノ・ネズミモチが生育し、ミヤマシキミの低木を伴う。原始林全域の自然度は極めて高く、しかも低地から高地まで連続しているのは貴重な存在である。

111 竜良山(たてらやま)原始林  国 (厳原町内山)

緩傾斜地に残る照葉樹林の原生林としては世界に類を見ない高い自然度と広さをもった林です。板根の発達したスタジイの巨樹のほか、普通は巨木となりえないような種類の太さ大きさにも感動する原始林です。
111 竜良山原始林    スタジイ    幹回り 8.05m  樹高 22m
111 竜良山原始林    スタジイ    幹回り 7.30m  樹高 24m
111 竜良山原始林    イスノキ    幹回り 4.20m  樹高 22m 

豆酘寺門「樫ぽの」遺跡  対馬市厳原町豆酘

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豆酘寺門「樫ぽの」遺跡  対馬市厳原町豆酘

厳原港から南下、県道192号線または県道24号線により豆酘へ行く。対馬市役所豆酘出張所前の県道を進むと、「多久頭魂神社」の参道へ入る案内標識がある。
豆酘寺門「樫ぽの」遺跡は、同神社鳥居がある参道入口から右手の農道へ入る。600mほど行って、権現川上流に出た小さな橋の脇一帯である。

現地に神社が設置した説明板はあったが、草に覆われてまったく穴の場所がわからない。図示や写真でもあればそこの草を払ってでも探しようがあるが、時間がなく切り上げた。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は以下のとおり。

なお、対馬新聞社HP「対馬ポータルサイト 対馬の文化/県指定有形民俗文化財 豆酘寺門樫ぽの遺跡」と、長崎県文化振興課HP「長崎文化ジャンクション 長崎文化百選(65)樫ぼの遺跡」に、もう少し詳しい内容と写真があるので参照。
貯蔵穴の「ほな」が樫の実を入れるため、地元では今「樫ぼの」に転訛し言われている。「対馬ポータルサイト」は、江戸時代記録を次のとおり紹介している。

江戸時代宝暦8年(1758)12月御郡奉行より出された「肝煎(きもいり)血判頭百姓之差図方並心得」に、「…或は孝行芋の切り干、櫧(かし)の実の水生け、干菜…ありあう時節になるだけ貯え置き…」とみえ、『楽郊紀聞』(中川延良編安政7)にも、「樫ノ実を家別拾ふて、儲蓄とす。川縁にほなを作りて蔵め置く也」とみえ、樫の実が人々の重要な食料であったことがうかがえる。

豆酘寺門「樫ぽの」遺跡  県指定有形民俗文化財

指定年月日 平成8年3月18日  所在地 下県郡厳原町大字豆酘字寺門2429番地
所有者 多久頭魂神社
「樫ぼの」遺跡は、豆酘湾に注ぐ神田川の支流である権現川の上流にあり、遺構は川の縁に群集している。
計15基が確認されており、大きさはそれぞれ異なっているが、直径が約1.5mから2m、深さが約1.5mのほぼ円形あるいは楕円形のピットである。内側から石積みされ、底に板石が敷き詰められ、常に水が替わるように工夫されている。
民俗学的調査では、明治時代中期以降は利用されていないとされ、江戸時代とそれ以前の遺構であることが推測される。一般に、樫の実は天日で乾かすか水漬けにして保存されていたが、水漬けの場合も比較的規模の小さいものが普通である。
これに対して、豆酘の「樫ぼの」は大規模で恒常的な設備として設けられている。これは、この地で樫の実が主食に近い食料であったことを裏付けるものであり、対馬の食習俗を知る上でも貴重な遺構である。

梵鐘(多久頭魂神社)  対馬市厳原町豆酘

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梵鐘(多久頭魂神社)  対馬市厳原町豆酘

厳原港から南下、県道192号線または県道24号線により豆酘へ行く。対馬市役所豆酘出張所前の県道を進むと、「多久頭魂神社」の参道へ入る案内標識がある。
神社にはこのほか、国指定重要文化財「金鼓」、県指定有形文化財「大蔵経」がある。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

梵鐘(多久頭魂神社)  重要文化財(国指定)・工芸品

指定年月日 昭和50年6月12日  所在地 下県郡厳原町大字豆酘
所有者 多久頭魂神社
多久頭魂神社遥拝所入口の鐘楼にあり、豆酘観音堂鐘とも呼ばれてきた梵鐘である。鐘の姿はやや丈長の端正な形で、双頭式の竜頭は竜の口が笠形上の柱を噛み、竜の上に三面宝珠が火炎につつまれて配されている。袈裟襷(けさだすき)も通常のもので、鐘身上帯は無文、下帯は唐草文を鋳出している。乳区には4段4列の笠形乳をならべ、撞座は筋蓮弁を用いた八葉蓮華をかたどって竜頭の長軸方向に2個を配し、下辺の駒爪は2段につき出している。
銘文により初鋳は平安時代の寛弘5年(1008)、改鋳が平安時代の仁平3年(1153)と南北朝時代の康永3年(1344)の二代にわたるものであることが知られる。また銘文中に上松浦山下庄の大工覚円、小工李興の名が見られ、竜頭に肥前鐘の特色が指摘されている。
総高98.5m。

豆酘多久頭魂神社社叢  対馬市厳原町豆酘

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豆酘多久頭魂神社社叢  対馬市厳原町豆酘

厳原港から南下、県道192号線または県道24号線により豆酘へ行く。対馬市役所豆酘出張所前の県道を進むと、「多久頭魂神社」参道へ入る案内標識がある。
対馬の中では最大級というクスノキは、拝殿の裏側にある。
対馬観光物産協会発行「対馬の巨木と自然」(2003年改訂)リストによる説明、及び厳原町「厳原町誌」平成9年刊、第9節対馬の自然林45〜46頁による説明は次のとおり。

121 豆酘多久頭魂神社社叢  (対馬市厳原町豆酘)

参道左手と拝殿奥の林に、クスノキ、ホルトノキ、ムクノキなどの巨樹や巨木が目につきます。特に、拝殿の奥のクスノキは幹回り7.09mと対馬でも最大級で、なかなかに樹形の良い巨樹です。
121 多久頭魂神社社叢   クスノキ   幹回り 7.09m  樹高 30m
121 多久頭魂神社社叢   ムクノキ   幹回り 5.52m  樹高 38m
121 多久頭魂神社社叢   ムクノキ   幹回り 5.09m  樹高 32m
121 多久頭魂神社社叢   スタジイ   幹回り 7.70m  樹高 23m
121 多久頭魂神社社叢   ホルトノキ  幹回り 3.40m  樹高 36m

豆酘多久頭魂神社の社叢

この神社の参道を左を見ながら上っていくと巨木が目につく。クスノキ、スタジイ、ムクノキ、カゴノキ、オガタマノキ、イスノキ、ホルトノキ、ヤブツバキ、カヤなどである。拝殿の裏側には対馬の中では最大で、幹囲9m、高さ25mに及ぶクスノキが、その地上8m位の高さから4本の大枝を出し、すばらしい樹形を保っている。
林床には全域にわたってカナワラビ類が密生しているが、このほかムサシアブミ、ヤブラン、コクサギなどが見られる。

主藤家住宅  対馬市厳原町豆酘

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主藤家住宅  対馬市厳原町豆酘

19世紀中頃の対馬の家格の高い農家の三間取建築様式。対馬市厳原町豆酘の「主藤家住宅」。住家であるため、外観のみの見学となる。
厳原港から南下、県道192号線または県道24号線により豆酘へ行く。対馬市役所豆酘出張所前の県道を進むと、路地へ入る案内標識がある。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明、及び現地説明板は次のとおり。平面図は「厳原町誌」1117頁から。
主藤家住宅  重要文化財(国指定)・建造物

指定年月日 昭和44年3月12日  所在地 下県郡厳原町大字豆酘2752
所有者 主藤長太郎
建築年代について、これを証する資料はないが、19世紀中頃の建築と推定されている。平面は「台所」「本座」「納戸」からなる、いわゆる三間取りで、これに一間通りの入側が表側に付き、本座の前を「座敷」、台所に接する部分を「戸口」と呼んでいる。土間は狭く、かまど、流し、風呂などがある。
全体に木割りが大きく、特に長方形断面の柱を見付けが大きくなるように立てるのは、この地方の特徴である。小屋は和小屋で、大梁を格子状に組み化粧屋根裏天井。屋根はこの地方に珍しく、本屋根・ひさし共に本瓦葺きである。対馬地方の代表的な農家の例として、貴重な遺構である。
主藤家住宅

国指定重要文化財 建造物  昭和44年3月12日指定
この建物の特色は、土間の他に、「だいどころ(居間)」「ほんざ(座敷)」「なんど(寝室)」からなるいわゆる三間取りで、玄関側に幅一間の入側を付加し、さらに縁が二方についている。土間は比較的狭く、「だいどころ」が広い。骨組みは、周囲に太い扁平な柱を立て、弓状に反った大梁を格子状に組み、独特の意匠効果を上げている。
このような間取りは、全国的にも珍しい。建築年代は、部材の形状や家屋の構造から19世紀中期頃と推測され、建築の質、意匠が優れ、保存状態も良く、構造も典型的で、対馬の農家を代表する住宅として貴重である。                   厳原町教育委員会

八丁郭の社叢  対馬市厳原町浅藻

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八丁郭の社叢  対馬市厳原町浅藻

浅藻の湾入した谷奥は、霊山竜良山の麓まで入り、天道法師の墓と伝える「八丁郭」(はっちょうかく)がある。この一帯は天道茂とよばれる聖地。昔から人の住まぬ地とされていたらしい。
厳原港から県道24号線により豆酘方面に南下する。浅藻隧道を越すと浅藻漁港の集落へ下って行くが、集落に入る手前の小橋のところに「八丁郭」の案内標識がある。

この道へ入り浅藻川の上流へ向かって、田んぼの中の車道を行き止まりまで進む。舗装が切れたら先は歩く。鳥居と堂があり、堂の裏の山道をまだたどると、ピラミッド型に石を高く積んだ「天道法師塔」があり、祠を祀っている。
もう竜良山裏側の谷奥。辺りはスタジイなどの大木が多い薄暗い林となっている。
対馬観光物産協会発行「対馬の巨木と自然」(2003年改訂)リストによると次のとおり。

115 八丁郭の社叢     スタジイ   幹回り 7.33m  樹高 20m
115 八丁郭の社叢     スタジイ   幹回り 5.46m  樹高 −
115 八丁郭の社叢     スタジイ   幹回り 5.05m  樹高 −
115 八丁郭の社叢     スタジイ   幹回り 7.20m以上樹高 −

内院塞の神のスタジイ  対馬市厳原町豆酘内院

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内院塞の神のスタジイ  対馬市厳原町豆酘内院

厳原港から県道24号線により豆酘方面に南下する。久和隧道を越して下ると与良内院、谷間の橋を渡って豆酘内院となる。
この谷間の橋を渡って県道は登りにかかるが、登るすぐ途中に海岸部の豆酘内院集落へ行く旧道が左へ下る。「内院塞の神のスタジイ」は、旧道へ入ってすぐ右方の道脇上の斜面に立つので、集落まで行く必要はない。旧道の左には1軒の小さな畑小屋があるところである。
対馬観光物産協会発行「対馬の巨木と自然」(2003年改訂)リストによる説明は次のとおり。

116 内院塞の神のスタジイ  (厳原町豆酘内院)

内院の入り口の塞の神の背にあるスタジイの巨樹で幹周り6.40m。道路整備の時に一部の枝が落とされていますが、堂々とした枝ぶりと根が美しい姿の良い巨樹です。
116 内院塞の神のスタジイ  スタジイ  幹回り 6.40m  樹高 18m

対馬藩お船江跡  対馬市厳原町久田

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対馬藩お船江跡  対馬市厳原町久田

厳原港から県道24号線により豆酘方面に南下する。厳原港のすぐ次の入り江が久田浦で、久田川の河口に「対馬藩お船江跡」がある。
県道から海岸に新しく架かった「お船江大橋」が見えるので、下って行って橋の中間の階段を利用し久田川の川岸へ降りると、そこに史跡説明板が設置されているそうである。
まだ町中に史跡案内板が整備されてなく、船着場がほとんどわからなかった。
最後の写真は、久田浦の南はずれで見た海岸の井戸。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

対馬藩お船江跡  県指定史跡

指定年月日 昭和44年4月21日  所在地 下県郡厳原町大字久田字白子4−1
所有者 長 美嘉
厳原港の南、久田浦に注ぐ久田川河口に構築された人工の入江に4基の突堤と、5つの船渠がある。対馬藩お船江の跡である。寛文3年(1663)の築造で、築堤の石積みは当時の原形を保ち、往時の壮大な規模を窺うことができる。
江戸時代、水辺の各藩はいずれも藩船を格納する施設を設けていたが、これほど原状をよく遺存している所は、他に例がない。日本近世史上、貴重な遺構である。

対馬藩主宗家墓所  対馬市厳原町西里

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対馬藩主宗家墓所  対馬市厳原町西里

厳原港から国道382号線により厳原の町の中央通りに進み、今屋敷の交差点から左折して対馬市役所の方へ行くと、この道先が「万松院」への参道となる。
寺の右手山腹に対馬藩主宗家墓所があり、百雁木(ひゃくがんぎ)とよばれる132段の自然石の大石段を登って行く。樹齢数百年の大スギが脇に立つ。
最後の写真は、金石城跡の復元された庭園から見た万松院。巨樹、石橋の項も参照。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

対馬藩主宗家墓所  史跡(国指定)

指定年月日 昭和60年2月18日 所在地 下県郡厳原町大字厳原西里字金石ほか
所有者 万松院 
清水山南麓の宗家の菩提寺である天台宗万松院を中心に、山腹の宗家歴代の墓地を含む広大な地域である。万松院は藩主義智(宗家第19代)を弔って、元和元年(1615)にその法号をとって創建された。
墓地は、桃山様式を残す山門のわきから、百雁木(ひゃくがんぎ)とよばれる132段の自然石の大石段を登った所にある。樹齢数百年の大スギが茂り、上段には義智以来の14人の藩主とその正室ら、中段には積極的な朝鮮外交で有名な室町期の貞国ほか、下段には側室などが眠る。
対馬藩は十万石の格式であったが、壮大な墓地は数十万石の大藩なみといわれている。

万松院のスギ  対馬市厳原町厳原西里

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万松院のスギ  対馬市厳原町厳原西里

厳原港から国道382号線により厳原の町の中央通りに進み、今屋敷の交差点から左折して対馬市役所の方へ行くと、この道先が「万松院」への参道となる。
寺の右手山腹に対馬藩主宗家墓所があり、百雁木(ひゃくがんぎ)とよばれる132段の自然石の大石段を登った所にある。樹齢数百年の大スギは、この石段脇に3本立つ。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

万松院のスギ  県指定天然記念物

指定年月日 昭和41年5月26日  所在地 下県郡厳原町大字厳原西里192
所有者 万松院 
万松院は対馬藩宗家の菩提寺で、国指定の史跡である。以前は、この墓地内や長い参道の石段の左右に20本ばかりのスギがあったが台風などで倒れ、現在は3本を残すのみとなった。
この3本は、それぞれ目通り幹まわりが5.2m・6.2m・7mで,樹高はいずれも35m内外である。