月別アーカイブ: 2008年7月

佐藤家住宅主屋外4棟(国登録有形文化財)  長崎市西泊町

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佐藤家住宅主屋外4棟(国登録有形文化財)  長崎市西泊町

明治初期から中期に造られた煉瓦外壁を配した木造家屋と石造倉庫など。再現することが容易でないものとして「佐藤家住宅主屋」外4棟が国登録有形文化財となっている。
長崎市の西部、西泊町バス停のすぐ裏手にある。現地説明板の概要は以下のとおり。

西泊は幕府の鎖国時代、長崎港警固のため戸町番所に相対する西泊千人番所があった港口の浦。古い町並みの名残りがまだある。
後の5枚は、近くで見た井戸、三角溝、石段手摺、海底電線倉庫。

登録有形文化財 佐藤家住宅主屋外4棟  登録年月日 平成9年11月5日

この佐藤家住宅は、主屋、木造別棟、木造附属屋、石造倉庫A、石造倉庫Bの5棟からなる。幕末から明治中期にかけて外国人居留地で多く建てられた石造倉庫と、町屋風の主屋や数寄屋風の木造別棟などが共存して全体をなす姿は極めて貴重であり、平成8年10月に文化庁が導入した登録文化財制度により、県内では2番目に登録された。

神崎神社から天門峰・西泊ヶ丘へ  平成20年7月

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神崎神社から天門峰・西泊ヶ丘へ  平成20年7月

平成20年7月28日(日)晴。長崎港口の神崎神社から天門峰・西泊ヶ丘へ。参加7人。飽の浦峠手前から岩瀬道へ下る予定が、あまりの暑さに西泊中までで止めた。
西泊9時半発ー神崎神社ー神崎台場ー天門峰ー鞍部(昼食)ー西泊ヶ丘ー西泊中ー西泊13時着。

天門峰は標高167.7m。昔は「しらと」と呼ばれ、海図に「鰯見岳」(いわせんだけ)とある。頂上から女神大橋などの景観がよく、「明治九年第四月 地理局測点」と刻んだ貴重な岩がある。
( 参照  https://misakimichi.com/archives/81 )
障子岩山は標高160.0m。戦時中高射砲陣地構築のため、山容を代えた。今は「西泊ヶ丘」という。兵舎跡や水槽が残る。

阿弥陀寺万日堂  北松浦郡小値賀町笛吹郷

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阿弥陀寺万日堂  北松浦郡小値賀町笛吹郷

小値賀港ターミナルから笛吹大通りを行き、親和銀行小値賀支店の1つ手前の角から左方の道に入ると小値賀町歴史民俗資料館前に出る。ここから左手に阿弥陀寺が見えるので、車はまっすぐに、徒歩では坂道へ下って寺を目指す。

堂内は本尊佛阿弥陀佛像が安置され(現在は阿弥陀寺に移設)、その周囲を小田家歴代当主の塑像坐像が安置されていた(現在歴史民族資料館展示)。
毎月25日及び見学希望者あった場合、内部公開。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

阿弥陀寺万日堂  県指定有形文化財・建造物

指定年月日 平成12年2月22日  所在地 北松浦郡小値賀町笛吹郷1512番地イ
所有者 阿弥陀寺
万日堂は、江戸時代初期から小値賀を根拠地として鯨組(捕鯨業)等を展開した小田家の、二代目当主・小田伝次兵衛重利(1671〜1724)が自家の私堂として正徳6年(1716)に建立した念仏堂である。記録等により建立年が明確なもので県内に現存する木造建築物としては、五島列島で最古の木造建築物である。幸いにも火災に免れて現代に伝えられ、昭和36年に小田家から阿弥陀寺に寄進された。
方三間の念仏堂であり、堂内全体の空間構成はよく引き締まっていて秀逸である。床は畳を敷き、正面両脇は半蔀(はじとみ)を建て込み、その上半は室内側に吊り上げて開く。中央の須弥壇(しゅみだん)に安置されている阿弥陀仏座像は、正徳5年(1715)、泉州堺の仏師・村田與三兵衛の作であることが墨書によって判明している。
当初の部材の残存率が高く、内外観とも意匠的・空間的に優れており、建築史上の価値が高い。

小値賀町歴史民俗資料館  北松浦郡小値賀町笛吹郷

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小値賀町歴史民俗資料館  北松浦郡小値賀町笛吹郷

小値賀港ターミナルから笛吹大通りに行き、親和銀行小値賀支店の1つ手前の角から左方へ入ると小値賀町歴史民俗資料館に出る。
築山の奥にエノキが大木があった。火山弾(大島の項で後掲)が通りの石垣上に並べられている。大きなものが道路工事で撤去され、裏庭にまとめられてあった。
HP「観光よかとこ」による説明は次のとおり。

小値賀町歴史民俗資料館

江戸時代、西海捕鯨に活躍した旧小田家の母屋、土蔵、を修復し、鉄筋二階建新館、江戸時代に造園された石州流庭園、屋外展示場等を有し平成2年に開館した。五島列島唯一の歴史民俗資料館で、考古資料を中心に歴史、民俗、地質など約30万点を収蔵している。
特に小値賀島は古事記や肥前風土記に記載された『値嘉島』の中心地と目され、数々の豊富な考古資料や捕鯨関係等の近世古文書等が注目されている。
新館一階では、年1回展示内容の総入れ替えをおこなっている。

小値賀町に残る桁石橋  北松浦郡小値賀町

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小値賀町に残る桁石橋  北松浦郡小値賀町

小値賀町に残る桁石橋。石板橋と牛渡橋は小値賀港ターミナルの観光案内所で聞いた。

写真   1   石  板  橋              笛吹郷字笛吹
小値賀港ターミナルのすぐ裏手の路地にある。
古い町並みの名残りがあり、格子戸のある家がまだ残る。小値賀港バス停から笛吹本通りを行き、すぐの食品店「エイダン」先角から右手路地に入ると、その奥に石板橋はある。
6本ほど板石を渡した桁橋。両脇は人家で溝下に潜れない。
この橋は、観光案内所でもらえる「勇魚捕り加子達の名残 漁師町レトロ案内図」に次のとおり説明と写真があった。中、上の橋は、人家が建て込み上流の溝(柳田水道)を確認できない。「上橋」はあるようだが、「中橋」は上面をアスファルト舗装されているらしい。
② 板石橋  江戸時代の享保3年(1718)に完成した。上、中、下の石橋の内の下の橋。

写真   2   小値賀町歴史民俗資料館の中庭池の橋    笛吹郷字木ノ下
笛吹本通りの親和銀行小値賀支店1つ手前の路地を左方へ入る。
資料館は鯨組小田家の住居跡。鯨捕り関する資料、小値賀の民俗資料が展示されている。
その前の石畳坂は「長崎県まちづくり景観資産」に指定されている。
中庭の池に2つの石橋があった。築庭は小田家の以前といわれている。

写真   3   牛  渡  橋              前方郷字牛渡
HP「おぢかの歴史」の資料である小値賀町教育会「小値賀町歴史・文化フィールドワーク」によると次のとおり、
2 牛ノ塔(町指定史跡)
現在一島である小値賀島はその昔,前方地域とその西側の地域の二島に分かれていた。松浦平戸家15代を継承した肥前守源定は鎌倉時代末期,命じてこの両島間を埋め立て田となした。現在神殿と新田と呼ばれている一帯である。
この工事は「潮見様」という人柱の伝説を生むほどの難工事で,使役した牛が多く犠牲になったという。これを哀れんだ源定は工事が竣工した建武元年(1334),これら犠牲となった牛を供養するため舟瀬の海岸に妙典経約七万字を書写した一字一石経を埋納し,その上に供養塔を建立した。
これが『牛ノ塔』である。現在も毎年4月に牛ノ塔祭りが開催されている。

以上は現在、中村郷船瀬海岸に残る「牛ノ塔」の話だか、船瀬から島の北東部へ県道161号線で回ると、今も地峡をなすような前方郷に「牛渡」の地名と集落があり、現在の県道路肩下の溝のような小川に桁石橋の「牛渡橋」が残っている。
HP資料のとおり、昔、小値賀がまだ2島であった頃、この「牛渡橋」は両島へ牛を渡すための貴重な石橋だったとも考えられるが、考証文献は不明。「牛渡橋」と言われる橋のすぐ上にも、あと1つ桁橋があった。「牛渡」バス停のすぐ先の県道下に「牛渡橋」はすぐ確認できる。

中筋公園のアコウ  南松浦郡新上五島町有川郷

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中筋公園のアコウ  南松浦郡新上五島町有川郷

上五島で大きいアコウは、国指定天然記念物「奈良尾神社のアコウ」に次いで、これだろうと聞いて訪ねた。中筋神社は、有川の中心通り街中の新上五島町有川支所近くにある。

中筋公園は、有川神社に合祀された祖母君神社跡地に造られた公園。拝殿があった上段右のところにアコウの巨樹が迎えてくれる。
現在の有川神社は、有川港ターミナルから上五島空港に向かう市街地を抜ける前に右手にある。有川町内の天神、八幡、祖母君の各神社が統合され、天満神社の地に合祀されたのが昭和61年11月。
現在の有川町の中心的な神社である。鳥居や灯篭、石碑などは各神社から集められた。くじらの鳥居で有名な海童神社もここに合祀されている。
(後段はHP「新上五島町に石橋を尋ねて」から)

稗ノ口のツバキ  南松浦郡新上五島町青方郷

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稗ノ口のツバキ  南松浦郡新上五島町青方郷

五島列島はツバキの島である。これは幹回りの大きさから上五島第一という大ツバキ。若松港ターミナルの観光案内所で聞くと、わざわざ「上五島やぶ椿会」岩永会長へ連絡を取ってくれた。青方バスセンター前公園で落ち合い、現地へ案内してもらった。

青方中心通りの青方郵便局前交差点から奈摩・青砂ヶ浦教会方面への県道170号線へ入る。まもなく左に上五島中学校があり、手前に「観音岳公園入口」の案内標識がある。左折してこの道へ入り、しばらくして右手小さな谷間へ上る山道がある。
大ツバキはこの道奥にすぐ2本がある。個人持ち山の道脇斜面地。

新上五島町及び上五島やぶ椿会作成「新上五島町管内椿及び巨木調査」資料による説明は次のとおり。
番 号  ⑯     種 類  椿       胸高直径  0.68(2.16m)
位 置  上五島 青方 稗ノ口
概 要  五島一の椿。近くにもう1本あり、0.58(1.85m)。要ツル切り。

月ノ浦のツバキ  南松浦郡新上五島町榊ノ浦郷

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月ノ浦のツバキ  南松浦郡新上五島町榊ノ浦郷

五島列島はツバキの島である。これは大きさ・樹形等総合点から上五島一とされる大ツバキ。本年春に存在がわかり新聞に載り、私は前に上五島へ行った時、高仏の大タブ前の小島鉄工所主から話と、日島とは湾を挟んだ対面となる月ノ浦にあると場所は聞いていた。

若松港ターミナルから山手の若松トンネルを越し、若松中央小学校前に出、右折して海岸沿いの市道を榊ノ浦方面へ進む。榊ノ浦の先は海岸沿いから山手高台を越すようになり、下ると月ノ浦の集落となる。
大ツギキは下りかけた最初の民家、左方の山田政夫宅の下道側に立つ。主の話ではツルに覆われていたが、平成元年伐り払い樹勢が戻った。実は多く早くつけるが、老木のため落ちる実が多いと言う。
後の2枚は大タブ。山田宅の周りに数本あった。

新上五島町及び上五島やぶ椿会作成「新上五島町管内椿及び巨木調査」資料による説明は次のとおり。
番 号  ⑤     種 類  椿       胸高直径 0.59(1.86m)
位 置  若松 月ノ浦 山田政夫宅前
概 要  大きさ・樹形等総合点で五島一

源寿院のイチョウ  南松浦郡新上五島町日島郷

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源寿院のイチョウ  南松浦郡新上五島町日島郷

奈良尾から行くと若松大橋を渡り若松側GSから左折し、県道169号線により若松島北西部の突端にある日島を目指す。魚生大橋や有福島を通り、日島まで堤防道路などで陸続きとなっているが、約15kmはある。
若松港からは山手の若松トンネルを越し中央小学校へ出、少し海岸沿いに戻ると同県道へ出る。

日島へ堤防を渡ったすぐのところの海岸部に曲地区の石塔類(県指定史跡)はあり、海水浴場などとともに島全体が「若松ディアパーク」となっていた。この半島や島は今でも九州鹿の生息域。県道を悠然と横切る。
島の奥へ海岸沿いの道を進むと日島漁港と集落がある。源寿院のイチョウがすぐ見える。
Otoji.K氏HP「長崎の樹木」の中の街路樹による説明は次のとおり。

源寿院のイチョウ  

若松大橋を渡って、先端の日島を渡るとすぐ右手に小さな半島があり、その海岸沿いには ハマジンチョウがある。源寿院には イチョウの巨木がある。幹周りおよそ6m。
源寿院の十一面観音菩薩立像は、33年毎に開帳される秘仏と云う。民家近くには九州鹿がいた。