月別アーカイブ: 2008年7月

神ノ崎遺跡  北松浦郡小値賀町黒島郷

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

神ノ崎遺跡  北松浦郡小値賀町黒島郷

黒島は小値賀港ターミナルのすぐ左方にある島。黒島大橋によって渡れるので海岸通りを左へ行く。大橋の先に黒島展望台・黒島園地へ行く右新道ができているが、そのまままっすぐ進む。
黒島公民館横に黒島郷若宮神社があり、この神社の社殿裏から波止場先の小値賀漁協造船所にかけての細長い岬が「神ノ島遺跡」の場所である。県指定史跡だが、何も案内や説明板がない。

松林の丘。足元は草ぼうほう。草つきの中を歩くと何度か石につまづき、これが遺跡の石らしいとわかる。造船所の前まで車道を行ったら、道路を広げたコンクリート崖面の一角に石棺を残して見えるようにしていた。
西海の古代を感じさせる岬の遺跡。小値賀港の近くであり史跡としてもう少し整備してよいのではないだろうか。

神ノ崎遺跡  県指定史跡

指定年月日 平成3年3月29日  所在地 北松浦郡小値賀町黒島郷字庭ノ畑2番1
所有者 小値賀町
遺跡は笛吹港に突き出た全長約60m、幅4m〜15mからなる小さな岬上に位置する。弥生時代中期から古墳時代後期にかけて約500年間継続して営まれた墓地で「板石積石墓」「地下式板石積石棺墓」などと呼ばれる、有明海周辺に分布の中心を持った特殊な形態の石棺36基からなる。
この遺跡のように、長期にわたって同じ形態の墳墓が営まれる例は県内外においても稀であるが、同時に五島列島の空白期であった5〜6世紀の墳墓が初めて明らかにされた点でも重要な意義を持っている。

大島のアコウ・エノキ・ハゼノキ  北松浦郡小値賀町大島郷

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

大島のアコウ・エノキ・ハゼノキ  北松浦郡小値賀町大島郷

大島は小値賀島の属島で、小値賀笛吹港の南西部にあり町営船「第3はまゆう」が通う。所要時間10分。片道270円。
火山弾を見に行き、ついでに大島の中で目立った大木も見て回った。

アコウの島一番の大木は、大島の船着場から大島公民館まで行き、この裏手の路地へ入る。民家前の石垣に根を張り、根元はかなり大きい。
次は公民館前をそのまま行くと「神島神社」がある。神社の手前一角に大きなエノキがある。枝を広げた高木ですぐわかる。
神社にはもう1本、境内の左奥に大きなハゼノキがある。これは鳥居からだとわかりにくいので、神社のすぐ先の井戸のある小道から入って見に行く。
ハゼノキとしては大木だが、根元のすぐ上で二又に分れている。その部分にアコウが着生し、片方の幹は危なくなりかけ、地元の人が心配していた。

大島巨大火山弾産地  北松浦郡小値賀町大島郷

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

大島巨大火山弾産地  北松浦郡小値賀町大島郷

大島は小値賀島の属島で、小値賀笛吹港の南西部にあり町営船「第3はまゆう」が通う。所要時間10分。片道270円。
火山弾は小値賀町歴史民俗資料館通りの石垣上に並べて展示している。長崎県HPはここの写真を載せているが、大島へ渡り大きな実物を見ることとした。

同船した小値賀小学校大島分校の先生の話から、まず学校正門にある火山弾を見に行った。門柱の両脇に1mあまりの大きさのを2つ乗せていた。
大島は現在31世帯100人位が暮らす。分校は小学生のみで6人。

島の人の話では、火山弾の産地は「中ダキ」という島西側の断崖海岸に大きいのが多くあるそうだ。船でしか行かれない場所なので、集落の中を探した。
波止場の「自力更生碑」の基礎部、公民館後ろの民家(ここの方はマニア。島内の火山弾と石器を収集)、墓地奥の「英霊碑」の下石に見事な火山弾を見た。

大島分校HPのアルバムを見ていたら、波止場に昭和61年小値賀町が設置した古看板の写真があったので、火山弾場所の参考のため載せた。
後の2枚の写真は、大島へ渡らなくても小値賀本島で見られる火山弾。小値賀町歴史民俗資料館前通りと、前方郷後目公民館の門にもあった。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

大島巨大火山弾産地  県指定天然記念物

指定年月日 昭和29年12月21日  所在地 北松浦郡小値賀町大島郷尾泊
所有者 小値賀町
小値賀島とその周辺に点在する属島(納島・斑島・古路島・薮路木島・大島・宇久島・黒島など)の地質は、ほとんど玄武岩の溶岩流と火山砕屑物とで構成されている。溶岩状の玄武岩は、一般に平坦な溶岩台地をつくるが、火山砕屑物は噴石丘(臼状火山)をつくる。火山砕屑物は、色の黒っぽい(黒、褐、赤など)岩滓を主とし、この中にしばしば火山弾を含んでいる。
とくに大島では、形の大きい火山弾が多量に見られる。火山弾は、流動性に富んだ玄武岩質のマグマが火口から空中に飛ばされ、飛行中に特定な形をとったものである。形は球、楕円形、紡錘形などと種々あるが、いずれも空中で固結した時に生ずるものである。

浜崎のエノキ  北松浦郡小値賀町浜津郷

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

浜崎のエノキ  北松浦郡小値賀町浜津郷

小値賀港ターミナルから島内を一周する県道161号線により、島の北西部へ行く。約5分ほど走ると、浜津郷に「斑島入口」の標識があり、左折すると「斑大橋」へ通じる。
浜崎のエノキは、「斑島入口」標識から曲がらず、県道161号線をそのまままっすぐ進む。左方3つ目の鋭角角から浜崎湾の集落へ下る道があり、この坂道を下って行くと左手にすぐエノキが見える。

小値賀島のエノキとしては、大きい方だろう。小値賀町役場正面や小値賀町歴史民俗資料館庭にもエノキがあったが、これよりは大きいと役場に聞いたので訪ねた。
ここのエノキは上部や枝が伐り払われていてすっきりしている。若葉が茂り樹勢はまだあるようだ。

後の写真はついでにアコウ。小値賀町町役場正門の道路向い側駐車場奥に立つ。これも小値賀島の大木として目についた。

浜津海岸のアコウ群落  北松浦郡小値賀町浜津郷・笛吹郷

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

浜津海岸のアコウ群落  北松浦郡小値賀町浜津郷・笛吹郷

小値賀港ターミナルから島内を一周する県道161号線により、島の北西部へ行く。約5分ほど走ると、浜津郷に「斑島入口」の標識があり、「斑大橋」へ通じる県道225号線へ左折する。
アコウは「斑島入口」標識から入ってすぐの県道右脇にまず1本の大木(最初の2枚)がある。
浜津海岸は、県道をこの先へ行って左方下にまもなく見える。

手前の海岸を埋め立てて「浜津公園」ができている。公園の道へ下ると、集落の石垣や広場にかけてアコウの大木10本ほどが群落をなす。漁港先の笛吹郷の斜面にも大木(後の2枚)があった。口之津「早崎漁港の群落」に比べると規模がやや小さいが、小値賀島の観光スポットにしてよいのではないだろうか。
HP創作かるた「おぢか・良かとこかるた よかとこめぐり(双六)」による説明は次のとおり。

ほっとする アコウの下は 憩いの場  西村 熊一
アコウ
クワ科の亜熱帯性植物であるアコウは、琉球(沖縄)から北上したもので、小値賀は北限の一つです。納島の群落は見事なもので、島内でも浜津の海岸、殿崎に多く見られます。琉球から海流に乗ってきたものだけに海岸部に限られて自生しています。

古路島の岩頸  北松浦郡小値賀町薮路木島郷

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

古路島の岩頸  北松浦郡小値賀町薮路木島郷

古路島は小値賀島西部沖500mにある無人島。島の西側の海食崖に赤色の岩滓層が露出し、それに貫入してY字型の岩頸が見られる。
船でないと近くで見れないため、斑島や大島から見た島の写真のみ載せた。島は間違っているかもわからない。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

古路(ころ)島の岩頸(がんみゃく)  県指定天然記念物

指定年月日 昭和29年12月21日  所在地 北松浦郡小値賀町古路島
所有者 小値賀町
古路島は小値賀島西部沖500mにある無人島で、最高点が56mの小島であり、地質は小値賀火山群の一員として、玄武岩溶岩と岩滓とから構成されている。
島の西側の海食崖に赤色の岩滓層が露出し、それに貫入してY字型の岩頸が見られる。幅約3m、高さ12m程度の小さなものである。火山岩頸とは、火山体が浸食作用によって失われた後も、火道を満たした溶岩や火砕岩が浸食に抵抗して、塔状の岩体として残ったものとされているため、古路島の岩頸はあるいは岩脈の分類に含まれるものかも知れない。

斑島玉石甌穴  北松浦郡小値賀町斑島郷

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

斑島玉石甌穴  北松浦郡小値賀町斑島郷

小値賀港ターミナルから島内を一周する県道161号線により、島の北西部へ行く。約5分ほど走ると、浜津に「斑島入口」の標識があり、県道225号線へ左折し「斑大橋」を渡る。
玉石鼻は島の北部。漁港の先へ海岸沿いの道を行く。「斑島玉石甌穴」は、海食でできた甌穴としては国内最大であり、世界でも2番目の大きさの甌穴とされる。
玉石様の石祠に同じような玉石が祀られている。これも本物だろうか。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

斑島玉石甌穴  天然記念物(国指定)

指定年月日 昭和33年3月13日  所在地 北松浦郡小値賀町大字斑島郷字斑島
所有者 小値賀町
斑島は、五島列島北部の小値賀島の西方に隣接し、東西・南北ともに約1.5kmの属島で、昭和53年に本島と斑大橋によって結ばれた。島の南西部には成層した火山砕屑岩が分布するが、島の大部分は玄武岩溶岩で構成される。海岸に露出する玄武岩上の波食台には、波食により生じたいくつかの甌穴があるが、北東端の玉石鼻にある甌穴が、国指定の天然記念物となっている。
玄武岩中の亀裂が交差する所が、直径80〜90cmの深い円筒状に刻まれ、深さは2.5mにも達する。穴の底には、直径約40cmの玄武岩の球状の円礫が座る。玉の表面は黒光りをし、土地の人から「玉石様」として信仰されている。満潮時に大しけでもあると、海に通ずる亀裂から侵入するはげしい海水の動きによって、玉石が甌穴の底を転動し、削磨作用を続けているという。

五両ダキ・長崎鼻  北松浦郡小値賀町柳郷

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

五両ダキ・長崎鼻  北松浦郡小値賀町柳郷

小値賀港ターミナルから、島内を一周する県道161号線により行く。長崎鼻は島の最北となり、柳郷の交差点から右方の道へ入る。すぐ「柿の浜海水浴場」の下り口があり、そのまま進むと、長崎鼻の牧場で道は行き止まりとなる。

五両ダキの断層は長崎鼻の左湾曲奥部にあり、牧場の柵を開けて中へ入る。牛だけいてなにもないところ。斑島の大橋と島がかすんで見える。五両ダキの近くまで歩いていけず、斑島から写した最後の遠景の断層が五両ダキのようだ。
HP長崎県五島列島小値賀島「観光よかとこ」による説明は次のとおり。

五両ダキ

死火山のクレータが波の海食により湾曲に徐々に、削り取られて段差が出来て、内部に美しい断層が露出する。これをダキと云い、小値賀の海岸付近では、至る所、色取り取りのダキを見ることできる。
中でもこの五両ダキの湾曲奥部は、標高差が60メートルの断崖あります。
その下には、町指定の「はまゆうの」植物が群生し夏場には、あでやかでエキゾチツクな大輪の花が咲き乱れる。その先は真っ白い砂浜に、抜けるような透明な青い海が広がる景勝の地である。

姫の松原  北松浦郡小値賀町笛吹郷・柳郷

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

姫の松原  北松浦郡小値賀町笛吹郷・柳郷

小値賀港ターミナルから笛吹大通りを上り、信号のある交差点から右折し島内を一周する県道161号線に入る。小値賀町役場の先は右方に下り小値賀空港の方へ向かうのが県道だが、まっすぐ左方の道へ行き、島の中央を南北に進むと、島の文教地区だ。
「幼稚園前」バス停先に北松西高・小値賀小・小値賀中と続き、この道の両側約450mが「姫の松原」通りとなる。Yahoo!地図には「松香丘」の地名もあった。

昭和58年「日本の名松100選」、平成6年「日本街路樹百景」に選ばれた。名松100選は、(社)日本の松の緑を守る会が全国の名松、松林を選定。長崎県内では野田浜(南島原市)・千々石海岸(雲仙市)・姫の松原(小値賀町)の3ヵ所である。
途中に志々伎神社があり、境内に元軍船の碇石といわれるものがある。
長崎県HP「文化百選 五島編」による説明は次のとおり。

27 姫の松原(小値賀町)

…この松原は小値賀島の中央を南北に走る道路沿いに幅約20メートル、長さ450メートルにわたって広がり「姫の松原」と呼ばれているが、名前の由来はだれも知らない。ただ松原の中ほどにひっそりと、何かいわくありそうな「姫松様」と呼ばれる小祠がある。この松原は古文書によると江戸時代の延宝3年(1675)に小松を植林したのが起源らしい。今から320年も昔の話である。
小値賀島は松の豊かな島である。五島列島で唯一低位平坦な女性的と評される端麗な島姿は、一方で絶えず海風にさらされ、農業生産に影響を受ける宿命を持っている。そこで島民は防風防潮林として長年松を植林し続け、大切に育んできた。その努力は今も続けられ、全島に美しい松林の景観が保たれているのである。

ところで、この記事にある「姫松様」の小祠や、現地説明板にある老松2本のことがよくわからない。役場では道路右側にひとかかえある松の大木2本が今もあると聞いてきたが、それと思われるのは後の方の写真。
根元に地蔵があった。しかし、大した大木でない。これくらいの松なら、島内のあちこちで見る。昭和61年の説明板は「最近までは2本の老松が道を覆い姫松様と呼んで信仰の対象となっていた」と過去形だ。すでに大木の老松は枯れ果てたのか。
地峡埋立地と思われる中村三叉路近くの「御前(?)様」の松も大きいと地元で聞いたが、さほどでない。

今、HPを調べると次の「姫の地蔵さん」という写真と記事があったが、和歌山県太地町だった。古式捕鯨に関連した土地の、同じ名の松原と地蔵の伝わり方と思われる。
私には、「みさき道」と呼ばれる道が和歌山にもあることは知っていたが、ここの地蔵の傍らに「右ハみさきみち」と現実に刻んだ標石が存在し、残っていることがわかったのがなによりも嬉しい。
姫の地蔵さんの伝記

8代将軍徳川吉宗の享保12年(1727年)頃、姫の松原の道端に道しるべの地蔵さんがたてられていたそうです。
その頃のことですが、太地浦の鯨舟が大島沖で捕鯨合戦の末、姫の松原に上陸して一休みしました。その若者たちは、この地蔵さんを鯨に見立てて、銛を投げて突く稽古をしたのだそうです。その翌日、漁に出て大鯨を見つけたので、銛を鯨にいくつも打ち込み、格闘しながら沖へ沖へと引きずられていきました。そしてとうとう行方がわからなくなり、いくら探しても見当りませんでした。

そのときの乗組員は約30人でしたが、村中あげての大騒ぎとなり、神様に無事をお祈りしました。そのとき、祈祷師の話に、姫の地蔵さんのたたりで、若者が命を失ったのだということでした.。それから、太地の人たちは新しく地蔵尊を寄進して、亡き人の冥福を祈ったそうです。
その後、幾度かの道路拡張で座位置をかえられ、現在の所に祠が建てられ祭られています。
この地蔵さんは、今では若いお母さんの乳受けの御利益があるというので、近郷近在はいうにおよばず、遠方からもご利益を受けに祈願に参られます。また、お礼参りの後も絶えません。その折り、地蔵さんに前だれを献納するならわしで、何十枚かの前だれが重ねられています。

なお、地蔵尊の前側には次のことが記されています。
右ハわかやまみち 享保十二丁未
左ハみさきみち  願主 太地浦 澤信坊        (養春小学校100年のあゆみより)

牛ノ塔  北松浦郡小値賀町中村郷

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

牛ノ塔  北松浦郡小値賀町中村郷

小値賀港ターミナルから笛吹大通りを上り、信号のある交差点から右折し島内を一周する県道161号線を右回りする。小値賀町役場の先は右方に下り小値賀空港の方へ向かう。
途中に中村郷船瀬海水浴場があり、この手前の海岸の岩礁に「牛ノ塔」は祀られ、堤防で参道が繋がっている。
HP「おぢかの歴史」の資料である小値賀町教育会「小値賀町歴史・文化フィールドワーク」による説明は次のとおり。
2 牛ノ塔 (町指定史跡)

現在一島である小値賀島はその昔,前方地域とその西側の地域の二島に分かれていた。松浦平戸家15代を継承した肥前守源定は鎌倉時代末期,命じてこの両島間を埋め立て田となした。現在神殿と新田と呼ばれている一帯である。
この工事は「潮見様」という人柱の伝説を生むほどの難工事で,使役した牛が多く犠牲になったという。これを哀れんだ源定は工事が竣工した建武元年(1334),これら犠牲となった牛を供養するため舟瀬の海岸に妙典経約七万字を書写した一字一石経を埋納し,その上に供養塔を建立した。
これが『牛ノ塔』である。現在も毎年4月に牛ノ塔祭りが開催されている。

なお、HP”小値賀風土記”に、古記録や絵図に基づいた詳しい「牛ノ塔建設物語」があるので参照。
http://www.yosimoto-ojika.jp/usinotou.html