姫の松原 北松浦郡小値賀町笛吹郷・柳郷
小値賀港ターミナルから笛吹大通りを上り、信号のある交差点から右折し島内を一周する県道161号線に入る。小値賀町役場の先は右方に下り小値賀空港の方へ向かうのが県道だが、まっすぐ左方の道へ行き、島の中央を南北に進むと、島の文教地区だ。
「幼稚園前」バス停先に北松西高・小値賀小・小値賀中と続き、この道の両側約450mが「姫の松原」通りとなる。Yahoo!地図には「松香丘」の地名もあった。
昭和58年「日本の名松100選」、平成6年「日本街路樹百景」に選ばれた。名松100選は、(社)日本の松の緑を守る会が全国の名松、松林を選定。長崎県内では野田浜(南島原市)・千々石海岸(雲仙市)・姫の松原(小値賀町)の3ヵ所である。
途中に志々伎神社があり、境内に元軍船の碇石といわれるものがある。
長崎県HP「文化百選 五島編」による説明は次のとおり。
27 姫の松原(小値賀町)
…この松原は小値賀島の中央を南北に走る道路沿いに幅約20メートル、長さ450メートルにわたって広がり「姫の松原」と呼ばれているが、名前の由来はだれも知らない。ただ松原の中ほどにひっそりと、何かいわくありそうな「姫松様」と呼ばれる小祠がある。この松原は古文書によると江戸時代の延宝3年(1675)に小松を植林したのが起源らしい。今から320年も昔の話である。
小値賀島は松の豊かな島である。五島列島で唯一低位平坦な女性的と評される端麗な島姿は、一方で絶えず海風にさらされ、農業生産に影響を受ける宿命を持っている。そこで島民は防風防潮林として長年松を植林し続け、大切に育んできた。その努力は今も続けられ、全島に美しい松林の景観が保たれているのである。
ところで、この記事にある「姫松様」の小祠や、現地説明板にある老松2本のことがよくわからない。役場では道路右側にひとかかえある松の大木2本が今もあると聞いてきたが、それと思われるのは後の方の写真。
根元に地蔵があった。しかし、大した大木でない。これくらいの松なら、島内のあちこちで見る。昭和61年の説明板は「最近までは2本の老松が道を覆い姫松様と呼んで信仰の対象となっていた」と過去形だ。すでに大木の老松は枯れ果てたのか。
地峡埋立地と思われる中村三叉路近くの「御前(?)様」の松も大きいと地元で聞いたが、さほどでない。
今、HPを調べると次の「姫の地蔵さん」という写真と記事があったが、和歌山県太地町だった。古式捕鯨に関連した土地の、同じ名の松原と地蔵の伝わり方と思われる。
私には、「みさき道」と呼ばれる道が和歌山にもあることは知っていたが、ここの地蔵の傍らに「右ハみさきみち」と現実に刻んだ標石が存在し、残っていることがわかったのがなによりも嬉しい。
姫の地蔵さんの伝記
8代将軍徳川吉宗の享保12年(1727年)頃、姫の松原の道端に道しるべの地蔵さんがたてられていたそうです。
その頃のことですが、太地浦の鯨舟が大島沖で捕鯨合戦の末、姫の松原に上陸して一休みしました。その若者たちは、この地蔵さんを鯨に見立てて、銛を投げて突く稽古をしたのだそうです。その翌日、漁に出て大鯨を見つけたので、銛を鯨にいくつも打ち込み、格闘しながら沖へ沖へと引きずられていきました。そしてとうとう行方がわからなくなり、いくら探しても見当りませんでした。
そのときの乗組員は約30人でしたが、村中あげての大騒ぎとなり、神様に無事をお祈りしました。そのとき、祈祷師の話に、姫の地蔵さんのたたりで、若者が命を失ったのだということでした.。それから、太地の人たちは新しく地蔵尊を寄進して、亡き人の冥福を祈ったそうです。
その後、幾度かの道路拡張で座位置をかえられ、現在の所に祠が建てられ祭られています。
この地蔵さんは、今では若いお母さんの乳受けの御利益があるというので、近郷近在はいうにおよばず、遠方からもご利益を受けに祈願に参られます。また、お礼参りの後も絶えません。その折り、地蔵さんに前だれを献納するならわしで、何十枚かの前だれが重ねられています。
なお、地蔵尊の前側には次のことが記されています。
右ハわかやまみち 享保十二丁未
左ハみさきみち 願主 太地浦 澤信坊 (養春小学校100年のあゆみより)