月別アーカイブ: 2008年3月

大瀬戸町に残るアーチ石橋  西海市大瀬戸町瀬戸樫浦郷

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大瀬戸町に残るアーチ石橋  西海市大瀬戸町瀬戸樫浦郷

西海市大瀬戸町に残るアーチ石橋は、1橋である。瀬戸樫浦郷の「眼鏡橋」。国道202号線の大瀬戸町西浜交差点から西彼町大串に行く県道12号線へ右折し上がる。総合運動公園・大瀬戸中学校前を過ぎ、しばらく進むと西肥バス「眼鏡橋」バス停がある。

このすぐ手前に川が流れ、(有)岩崎工務店横に分断されて残る旧県道に「眼鏡橋」がある。人道が拡幅されて旧県道が造られたため、上流側半分が石橋として残る。バス停名となっているのも珍しい。後の写真2枚は、下流側から。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。

第 164 番  大瀬戸町の眼鏡橋  県道、旧西彼大瀬戸線(12号)に架かる眼鏡橋
昭和28年供用開始といわれる  長さ 約5.5m  幅員 約3.6m+拡幅
県道12号線の眼鏡橋バス停近く。
随分前から気になっていた橋だが、現在の県道側から見る限り石橋だとの確証がないまま通り過ぎていた。石橋ファンの感には響くのだが見える限りは…。

今回、下流から川に入り確認をしてみたら、下流側は別として上流側の2間幅は石橋であることが確認できた。近くの農家の方に話を聞くと、昭和28年に開通した県道で、そのときから大瀬戸と西彼大串にバスが通ったとの事。終戦後に県道工事が始まったので、それまでは人が歩くだけの路だったとの事。
橋の状態は悪く、上流側の輪石も欠損が見られ、現在は人以外の通行の無いとは言いながら、崩壊の危険が感じられる石橋だ。

長崎の幕末・明治期古写真考 (2)

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長崎の幕末・明治期古写真考 (2)

朝日新聞長崎地域版、最近は毎週土曜日の紙面に「長崎今昔 長大写真コレクション」と題し、長崎大学附属図書館が所蔵する長崎の幕末・明治期古写真がシリーズにより昨年夏から紹介されている。

上の記事①は、つい先日の平成20年3月1日付「趣ある稲佐崎の伝馬船」。説明文は「長崎の対岸、稲佐崎の伝馬船です。場所は現在の平戸小屋付近で、旭大橋が架かっているあたりです」。明治初年に写真家上野彦馬が撮影したもの。タイトルは以前は「長崎湾水の浦」、撮影者未詳とされていた。
訂正したこの説明は、また間違った表現をしているのではないだろうか。

次の記事②は、この前に古写真考(1)でも載せた平成19年11月20日付「稲佐の和船」。説明文は「三菱電機工場横の丸尾公園あたりから朝日町(「旭町」が正)商店街付近を撮っている」。元治元年頃、英人F.ベアトの撮影したもの。タイトルは以前は「和船」で、撮影場所不祥とされていた。

①と②の写真を、よく見比べてもらいたい。年代・撮影者は違うが、ほぼ同じ地点(当時丸尾山にあった波止場。現在の丸尾公園西角あたり)から、ただカメラの向きを変えて撮影されている。ここは撮影のポイント地点だったらしく、ベアト、内田九一も撮影したことは、ちゃんと①の記事に書いている。
これら古写真類は、私が昨年春に現地調査し、撮影場所などを研究レポート第3集によって報告した。本ブログでも昨年7月28日、この項をすでに載せている。大学も私からの報告を参考に、説明を訂正しているが、②は正しく、①はまた説明をおかしくしている。

当時の地形図は、松竹秀雄著「稲佐風土記」から私が修整作成。根拠は①の写真松の木根元に写る石祠。現在も川端旭町商店街の裏に「恵比須神社」として現存する。ほか家の格好・高台から波止場へ下る道・背景の山並みなどからもよく考えていただきたい。
したがって、①の説明は②と同じく「現在の丸尾公園あたりから旭町商店街付近を撮っている」とならなければならない。「現在の平戸小屋付近で、旭大橋が架かっているあたり」とは、現在の現地ともまったく合わない表現となっている。

このシリーズの間違いは、今回で4回目。「鼠島」でした外国人野外パーティを「神の島」、玉園町「聖福寺」から写した長崎奉行所跡を銭座町「聖徳寺」から、「旭町」商店街を「朝日町」としていた。そのつど、新聞総局を通じて知らせるようにしているが、大学・新聞社とも監修を正しくしてほしい。

この項は次の記事を参照。。https://misakimichi.com/archives/1557

専念寺のソテツ  南島原市有家町山川

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専念寺のソテツ  南島原市有家町山川

南島原市有家町の専念寺は、国道251号線有家交差点から入る。島鉄有家駅・南島原市有家総合支所前など通り、2つ目の信号機がある4叉路を右方へ曲がるとまもなく寺に着く。
専念寺の大ラカンマキは、町指定文化財で先に紹介していた。
https://misakimichi.com/archives/569 参照)。

ところが、専念寺にはもう1つ住職宅の庭に見事なソテツがあると、佐藤氏から有家出身の奥さんの話を聞いた。地元でもあまり知られていないらしい。3月1日に再度寺を訪れ、家の方へ断わって庭を見せてもらった。
実に見事なソテツが手入れされて庭いっぱいに群生する。この庭を詠んだ下村ひろし句碑が庭にあったが、碑の写真はブレて句は控えていない。伊澤住職宅の珍しいソテツ庭である。

雲仙白雲の池のスギ  雲仙市小浜町雲仙

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雲仙白雲の池のスギ  雲仙市小浜町雲仙

雲仙国立公園の白雲の池にスギの巨木があると聞いて、とにかく出かけてみた。雲仙観光協会案内所で尋ねると、雲仙お山の博物館へ電話をかけてくれ、博物館の先生が一度白雲の池へ探しに行ったがわからなかった。白雲の池の遊歩道右側の林ではないかということ。

白雲の池は、写真のとおり池の周りにひときわ高い木が目立つ。ほとんどスギである。根元に行って、かなりのスギを探したが、幹周りは最大3.5mくらいである。オフ・シーズンにより白雲の池野営場セントラルロッジは休館中。聞く人がいない。
そこからキャンプ設営場の小高い丘へ上がる道脇に、根元の大きなスギがあった。これは幹周り4mはある。惜しいことに、この木は目通り上は2本の幹に分かれ、樹高も外の大木とそう変らない。「雲仙の素敵な朝にメジロ鳴く」の標語立て札の後の木である。

帰ってから、最初話しをしてくれた人によく聞いてみた。2年前、雲仙お山の博物館の講座で白雲の池へ行った。講師は巨木研究の宮崎正隆先生。やはり、この木を指して説明されたそうである。ひと安堵した。
スギとしては、大村市の萱瀬国有林内の大名杉は、樹高47m、幹周り4.9m、樹齢240年。雲仙市国見町烏兎神社のスギの最大は幹周り6.3m、東長崎川内町の河内神社のスギは幹周り5m。長崎岩屋神社のは最大5.4mとあった。
これらがかなりの巨木であるが、幹周りは再度よく公式に実測されないだろうか。

三鈷(さんこ)のマツ  雲仙市小浜町雲仙

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三鈷(さんこ)のマツ  雲仙市小浜町雲仙

雲仙市小浜町雲仙の西入口から小地獄温泉の方へ行く。国民宿舎青雲荘の先に「一切経の滝」入口鳥居があり、ここから下る。滝までは約600m。その途中、250m位下ったところの左手に「三鈷(さんこ)のマツ」2本が説明板とともに立つ。
Otoji.K氏HP「長崎の名木」リストの中の説明は次のとおり。枯れ枝とマツポックリ写真及び「一切経の滝」の説明も同HPから。滝まで下る道にはかなり大きいスギも見る。  

三鈷(さんこ)のマツ

雲仙温泉街の国民宿舎・青雲荘近くから、「一切経の滝」の案内に従って、山を下ると道沿いに三鈷のマツがある。表示板もあり、わかりやすい。5本あるが、3本は枯れて現在2本ある。樹高20m弱ほど。

三鈷のマツとは聞きなれないが、弘法大師(空海)が、唐から帰国する際、密教を広めるにふさわしい地を求めて、大鈷杵(だいこしょう: 両端が三叉になった法具 )を日本に向かって投げた。帰国後、大鈷杵を求めて各地を巡り、高野山の松の木に大鈷杵が掛かっていたことから、その地を真言密教の修行の地としたと云う。その松を「三鈷の松」と呼ぶようになった。
三鈷の松は普通の松と異なり、松葉は三葉だった。松は普通は二葉か五葉。カラマツは20個ほど束生。雲仙の地に三鈷の松があるのは、昔、雲仙は修験道の聖山だったらしく、高野山との交流があったらしい。高野山から移植されたものではと云われている。

枯れ枝が落ちていたが、確かに三葉だ! マツポックリは8cmほど。アカマツやクロマツより細長い。三葉になるマツにシロマツがあるが、中国原産で日本では植物園でしか見られない。樹皮は剥がれて白っぽくなる。…三鈷の松の樹皮とは違うので、三鈷の松はシロマツではない。不思議なマツだ…。三鈷の松から15分ほど下ると、一切経の滝がある。

一切経の滝

肥前風土記には雲仙は高来峰(たかぎみね)として登場する。真言宗の僧・行基が、この地に堂を建て仏道修行の道場として、一切経の経文を筆写して、この地に埋めた(滝に流したという説もある)と伝えられている。 ー表示板よりー
お堂の周囲にはスギの大木が数本ある。お堂の下に滝がある。高さ5mほど。静かな森に滝音だけが響く。県の新観光百選の地に指定されている。

諏訪の池の風景  雲仙市小浜町

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諏訪の池の風景  雲仙市小浜町

平成20年2月28日、諏訪の池を通り加津佐方面へ行く。諏訪の池は、島原半島で最大の池。灌漑用の池で上、中、下の3つの池よりなる。国民休暇村雲仙がある。池のまわりには1周5キロの自然歩道。原山ドルメンも近く。

水神社の連理樹  南島原市布津町乙

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水神社の連理樹  南島原市布津町乙

南島原市布津町坂下にある水神社。国道251号線が深江から布津へ入り大崎鼻に曲がって上がる手前に布津新田の橋がある。信号からすぐ右折し、そのまま高台へ上がって行き、飯野小学校や妙法寺を過ぎる。寺の先の集落に四つ角になる道があり、左へ入ってそのままずっと進むと水神社の鳥居へ出る。

ここは鳥居だけで、社と連理樹は道を回り込んだ先にある。湧水が山手から流れ、社名のとおり水量多い小川が音をたてて側を流れている。飯野のアーチ石橋の上流となる。
シラカシ・クスノキが根元の繋がった連理となり、これが祀られている。
Otoji.K氏HP「長崎県の名木」リストの中の説明は次のとおり。

布津町坂下・水神社の連理樹

二本の木の根元が絡み合って結びついているのを連理樹と言う。平成3年、町の天然記念物に指定された。右がシラカシで左がクスノキ。クスノキは樹皮が鱗状になっている。
案内板によると、鱗状のクスノキは龍(火)、シラカシは防火林(水)の象徴であり、またクスノキは陽(男性)で、シラカシは陰(女性)を象徴するとある。互いに助け合ってという意味だろうか? それとも、表面上は異なるが、その根では癒合しているということか?

布津町に残るアーチ石橋  南島原市布津町丙

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布津町に残るアーチ石橋  南島原市布津町丙

南島原市布津町に残るアーチ石橋は、飯野の眼鏡橋(新川橋)1橋である。嘉永6(1853)年架。公道上の石橋としては島原半島で最古といわれ、町指定文化財である。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。

なお、最後の写真は眼鏡橋上流にある水神社。丸桁石橋には縁石に盃状穴が彫られ、再生・豊饒信仰をうかがわせる大変珍しい民俗文化財となっている。

写真 1  第 37 番  飯野の眼鏡橋(新川橋)  南高来郡布津町坂下名 新川
嘉永6(1853)年 石工 平治兵衛 山石  長さ 7.9m 幅員 2.9m
公道上の石橋としては島原半島で最古といわれる。殿様道
欄干の石の大きな隙間や親柱との臍継ぎ手の抜け、また枠石の陥没など危険な兆候も散見される。町指定の文化財であるので何とか補修が出来ないものであろうか。