月別アーカイブ: 2008年1月

専照寺のイチョウ  雲仙市千々石町戊

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専照寺のイチョウ  雲仙市千々石町戊

雲仙市千々石町の専照寺は、国道251号線が千々石の街に入って、JAのGSより右方の温泉鉄道跡県道へ行く。商店街通りを過ぎてまもなくすると、千々石少年自然の家入口の標識がある。これに入り千々石幼稚園手前から左へ戻るとすぐである。商店街通りを上がって右折してもよい。野田神社は近い。

境内には、イチョウの大木が2本ある。楼閣山門の右のは目通り幹回り4.5m、左のは5.5mあった。右手の家裏に幹回り3.5mのケヤキがあり、空洞ができている。秋に訪れてみたい寺。
千々石町「千々石町郷土誌」平成10年刊1174頁に、「昭和15年頃の専照寺風景」があった。位置から高木2本がイチョウだろうか。貴重な写真だ。

専照寺について雲仙市千々石の地域情報サイト「千々石ネット」史跡の説明は次のとおり。
瑞雲山専照寺    宗 派:浄土真宗本願寺派  本 尊:阿弥陀如来
野田名にあり、千々石第一小学校裏側(旧道側)より約50m入り左側に山門が見える。1615年、諫早市の安勝寺の末寺として開山した。町内ほとんどが浄土真宗の門徒であり、一町一ヵ寺というのは珍しい。

大勝寺跡のイチョウ  長崎市川原町

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大勝寺跡のイチョウ  長崎市川原町

長崎市川原町の川原本村バス停先から、右へ舗装のきれいな車道へ入る。つきあたりに住吉神社がある。市指定天然記念物大クスノキを回りさらに行くと、左へ分かれる車道があり、これに入るとすぐ大勝寺跡史跡の案内標識がある。
三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊の第五章「植物」73頁、外山三郎氏稿の説明は次のとおり。なお、大勝寺跡から高い石段を登ると大師堂があり、その狭い境内にもクスノキ・アベマキなどのかなりの大木がある。
入口標識へ戻り車道をさらに進んだ八幡神社上祠脇にも大木が見られる。

大勝寺のイチョウ

昔、川原に大勝寺という寺があったらしい。それがいつのころか廃寺となったといい、この寺に関連したと思われる墓石群もある。この寺に植えられた一本のイチョウの雌株がある。このイチョウは目通り幹囲、二メートル足らずで大木というほどではないが、幹の下の方が膨らんでいることなどから、かなりの古木と思われる。また大勝寺記念の木として意義がある。

蚊焼海岸通りのエノキ  長崎市蚊焼町

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蚊焼海岸通りのエノキ  長崎市蚊焼町

長崎市蚊焼町の蚊焼小学校前から海岸通りへ出て、右方へ曲がるとこのエノキがすぐ見える。大きな石を組んだ石垣の内側の斜面庭に生え、根元から2本の支幹に分かれ、端正な枝ぶりである。目通り幹回り4.5m、樹高15mくらい。蚊焼町の唯一の大木。
隣家の入口に地蔵堂があった。防波堤上にあった別の石祠はラビリンスの風景。

深堀城山の善長谷の座禅石  長崎市大籠町

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深堀城山の善長谷の座禅石  長崎市大籠町

深堀の菩提寺、六代賢外普門和尚が座禅を行い悟りを開いた。「座禅石」が寺背後の山、深堀城山(標高350m)の北西側山腹、善長谷に残っているという。

善長集落へは、深堀または平山台から行き、大籠町の迎川橋脇に教会入口の案内標識がある。善長谷カトリック教会前に車を置き、集落の横道により畑地の中を深堀方向へしばらく行くと山腹鞍部に出て4叉路となる。右上の山頂八幡社への参道山道を登ると、すぐ「←お水・座禅石」の標識があり、左へ入る。230歩で座禅石に着く。
幹まわり3.7mのタブノキ老木が横に立つ。お水場はさらに120歩先の沢である。

座禅石には、たしかに五言絶句のような刻字があった。字が小さく読み取れない。深堀の歴史を良く識る有海の森節男氏を訪れて聞いたが、文意を記録したものはない。自分も何と刻んでいるかわからない。菩提寺も同じであった。一度、拓本を取る必要があるだろう。下の谷に二つに割れた石の痕跡を探したが、何もなかった。

中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の説明は次のとおり。

(三八) 座 禅 石
菩提寺六代賢外普門和尚が座禅を行い悟りを開いた処で、此の故に禅定谷と呼ばれる様になり訛って善長谷となったとも言われる。此処には五言絶句の石があるが、現在は風化してその文意さだかならずして且つ二つに割れている。座禅をしたであろうと想像される境石をもって仕切ってある。
此処の空をおほふ老木は其の当時のもので今に到るも繁茂しこれを切れば祟があると信じられて誰も伐る者がない。

(三九) 藩主の水
座禅石より東約百米の谷に清水が垂れ落ちている。現在は善長部落の用水に取水されているが、盛夏時には渇水する程の水量である。善長にお水方がいて所要に応じて運んでいた。

星取墓地公園道脇のは、長崎要塞第二地帯標第二十七号  高橋氏確認

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星取墓地公園道脇のは、長崎要塞第二地帯標第二十七号  高橋氏確認

星取山の山頂手前、星取墓地公園道脇の長崎要塞第二地帯標は、平成18年1月の調査により見つけたが、下部は埋設しているため番号不明として、先項では次のとおり報告していた。

2−J 星取墓地公園道脇 (確認 長崎要塞第二地帯標 下部埋設番号不明)

略図では小ヶ倉村境に描かれている。「2−特」大崎林道鹿尾町尾根で、略図外の標石が見つかったため、風頭町と線を結び、星取山に間違いないと推定して調査した。
長崎統制無線中継所そば三角点270.0mと二本松側尾根には見当たらない。戻って星取バス停側の大カーブ地点から山頂へ以前の山道を歩いたが中継所で途切れ、ここにもなかった。その帰り星取墓地公園へ道が分かれていたので墓地に入った。

この墓地道脇の肩の高さの石垣上に、標石が頭を覗かせていたのを高橋氏が見つけた。下部は石垣と土に埋め込まれている。他の標石と異なる立派な白御影石である。21cm×17cm角。地上上部35cmの刻面は「2ndZ 長」「第」「陸」「明治三」だけしか読み取れない。勝手に掘り出すわけにいかず、現在、高橋氏が墓地(大正寺管理墓地)管理者や長崎県と交渉中だが埒があかない。近くには基準点があった。

この高橋氏とは、佐世保市に住む高橋輝吉氏である。正月早々、えらい写真が送られてきた。
80歳になるというのに、愚かな戦争の生き証人「要塞地帯標」を探しに、県内・九州はどこでも、小笠原諸島や宮古島へも出かける。健在ぶりの一端は、すでに新聞記事などで紹介している。
今回送られてきたのは、私と調査した上記星取墓地公園道脇のである。彼は何とか探求したく、遂に自ら下部を掘った。長崎要塞第二地帯標「第二十七号」と確認できた。
はじめの写真2枚は、以前撮っておいた標石の写真。掘ってあとをどう埋め戻しているか、現地へ写真を撮りに行き、後日報告したい。

2012年2月9日に宮さんが、この要塞標を確認に訪ねる。標石は元通り埋め直されていた。最後の写真がそれ。

若宮稲荷神社のコウヤマキ  長崎市伊良林2丁目

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若宮稲荷神社のコウヤマキ  長崎市伊良林2丁目

秋の祭り10月14,15日に狐の姿をして行われる「竹ン芸」行事で有名な若宮稲荷神社は、長崎市伊良林2丁目にある。風頭公園下の龍馬通り上段から神社へ下る車道がある。

神社説明板の古写真に写っている大きなマキと、クスノキが現在もそのまま残っている。マキの神木は幹まわり4mある。ものすごい高木である。神社に尋ねると「コウヤマキ」と言っているそうだ。神社参道には、石橋の参道橋がかかり、方形の鳥居も珍しい。

「コウヤマキ」とは「高野槇」のこと。悠仁親王のお印の木。このくらい大きかったら市指定天然物ものだろう。HP「自然界へようこそー巨樹巨木ー樹種解説書」による説明は次のとおり。

高野槇 コウヤマキ  学 名 Sciadoptys verticillata
スギ科 コウヤマキ属 常緑針葉高木

概 要 マキと呼ばれる樹には、コウヤマキ・イヌマキ・ラカンマキがありますが、コウヤマキはスギ科、イヌマキとラカンマキはマキ科です。
日本特産種で、コウヤマキ科と1科をたてる場合もあり、この場合には、1科1属1種の木ということになります。
真言宗総本山のある高野山(和歌山県伊都郡高野町)に多いのでこの名がありますが、「木曽の五木」の一つに数えられる良木です。
分 布 本州(福島県以西)、四国、九州(宮崎まで)
特 徴 大きいものでは高さ40m、直径1.5mを超すものもあり、3〜4月に花を付け、球果は長さ8〜13センチの楕円状円柱形で、翌年の秋に褐色に成熟します。しばしば球果の先に葉が出る。
樹皮は赤褐色で縦に裂け、長い片で剥がれる。長枝には褐色の鱗片葉が螺旋状につき、短枝には2個の葉が合着した長さ6〜13センチの線形の葉が20片ぐらい輪生する。
用 途 庭木、建築材、器具材、船舶用材など。材は耐水性があるため、風呂桶などに重用されます。

また、HP「恵那山ねっと」によると「ヒマラヤシーダー、ナンヨウスギとともに、世界の三大庭園樹としてその樹形の美しさが賞賛されているコウヤマキ。現在では日本だけに残り、福島から西の本州、四国、九州の山地に自生しています」という。

深堀城山の座禅石横のタブノキ  長崎市大籠町

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深堀城山の座禅石横のタブノキ  長崎市大籠町

長崎市大籠(おおごもり)町善長谷カトリック教会上のタブノキは、前項に載せた。教会背後の深堀城山(標高350m)の北西側山腹にある「座禅石」横にも、大きなタブノキがある。
善長教会前に車を置き、集落の横道により畑地の中を深堀方向へしばらく行くと山腹鞍部に出て4叉路となる。右上の山頂八幡社への参道山道を登ると、すぐ「←お水・座禅石」の標識があり、左へ入る。230歩で座禅石に着く。幹まわり3.7mのタブノキ老木が横に立つ。座禅石にはたしかに五言絶句の刻字がある。お水場はさらに120歩先の沢である。

座禅石などの中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の説明は次のとおり。

(三八) 座 禅 石
菩提寺六代賢外普門和尚が座禅を行い悟りを開いた処で、此の故に禅定谷と呼ばれる様になり訛って善長谷となったとも言われる。此処には五言絶句の石があるが、現在は風化してその文意さだかならずして且つ二つに割れている。座禅をしたであろうと想像される境石をもって仕切ってある。
此処の空をおほふ老木は其の当時のもので今に到るも繁茂しこれを切れば祟があると信じられて誰も伐る者がない。

(三九) 藩主の水
座禅石より東約百米の谷に清水が垂れ落ちている。現在は善長部落の用水に取水されているが、盛夏時には渇水する程の水量である。善長にお水方がいて所要に応じて運んでいた。

善長谷開拓碑脇のタブノキ・エノキ  長崎市大籠町

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善長谷開拓碑脇のタブノキ・エノキ  長崎市大籠町

善長谷開拓碑(長谷川佐八・甚介碑)は、長崎市大籠(おおごもり)町の善長谷カトリック教会の左上にある。善長へは深堀または平山台から行き、大籠町迎川橋のところが登り口となり、案内標識がある。
この開拓碑の脇にかなり大きなタブノキ2本とエノキがまとまって立つ。幹まわり3〜4mはあるようだ。善長谷教会前庭のもタブノキである。鐘がつり下げられている。 

善長谷開拓碑の長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅢ 長崎の史跡(歌碑・句碑・記念碑)」平成16年刊による説明は次のとおり。

132 善長谷開拓碑 (所在地:大籠町)
この地の開拓は、文政6年(1823)佐賀藩深堀領東樫山から水方佐八に率いられた人達の移住に始まる。彼らは全員キリシタンであったが、鍋島家より原野数町歩を与えられ、城山頂上の八幡神社の祭祀や掃除等を課せられた。さらに、旦那寺は菩提寺であったが、踏絵は免除された。このようなことが絶好の隠れみのとなり、以後も信仰を隠すことができ、幕末維新に至った。

三和みさき駅出荷の「ゆうこう」の木など  長崎市平山町・布巻町・川原町

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三和みさき駅出荷の「ゆうこう」の木など  長崎市平山町・布巻町・川原町

柑橘類の新種「ゆうこう」について、先項により長崎市大籠町の木を紹介している。これは、三和物産販売所「みさき駅」に出荷している実の木など。新種発見のきっかけをつくり、木の分布を調査している川上正徳氏に同行し、出荷されている方などに案内してもらって現地の木を訪ねた。出荷シーズンが終わり、実はほとんど取られている。

写真上から3枚が、平山町の木。布巻町岩原さん所有。みのり園上のサイクリング道路松尾岳登山口の近くにある。幹まわり1.3m、樹高10m位。大籠町のより大きいような木である。そばにあと1本、幹まわり0.6mの木がある。

次の3枚が、布巻町の木。浄信寺先の薬師様水場近く道路沿いにある。これは参考のためで別の人所有。出荷されてない。実をつけているのは幹まわり0.8m、樹高6m位。小さい2木は庭に栽培中である。

後の3枚が、川原町の木。川原町橋田さん所有。宮崎川中流の川向い、畑地の斜面に立つ。幹まわり1.27m、樹高10m位。これも大籠町のより大きいような木である。

食のたからもの再発見プロジェクト第6弾「ゆうこう」  東京財団HPから

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食のたからもの再発見プロジェクト第6弾「ゆうこう」  東京財団HPから

東京財団は、日本財団および競艇業界の総意のもと、極めて公益性の高い活動を行う財団として、1997年に設立された。研究事業として「食のたからもの再発見プロジェクト」が組まれ、第6弾「ゆうこう」が取り上げられた。
昨年12月末、料理研究家の黒川陽子氏が長崎を現地取材し、同財団HPにより紹介されている。次はその一部である。
詳しくは、http://www.tkfd.or.jp/research/sub1.php?id=52

TOP研究事業【プロジェクト一覧】
食のたからもの再発見プロジェクト第6弾「ゆうこう」

「食のたからもの取材レポート」第6弾は、「ゆうこう」のレポートをお届けします。日本では、ユズやその近縁と考えられる香酸カンキツ(レモンのように主に調理用に利用されるカンキツ)の在来種が、屋敷の庭木の1つなどとして古くから各地で自給的に栽培され、酢の物や香り付け、薬味などとして食文化に彩を加えてきました。「ゆうこう」は、近年、長崎市土井首地区と外海地区に伝わる独自の在来種であることが確認された品種で、日本の香酸カンキツが元来持っている様々な特徴を受け継いでいます。自給的な食材の大切さや現代の暮らしを見直す上で私たちに多くの示唆を与える「ゆうこう」とその再生の取り組みについて、料理研究家の黒川陽子氏が取材しました。

————— <目次> ——————
1.なぜ、たからものなのか
2.どうやって作られているのか
3.味を育む背景や用途について
4.どこで味わい、買うことができるのか/5.人物紹介
6.「香酸カンキツ」文化マップ
————————————————

1.なぜ、たからものなのか

■ 歴史的背景

香酸カンキツとは、レモンやライムのように、カンキツ類の中で酸含有量が多く優れた香気を有し、主に調理用として利用されるものを指す。日本において、最も代表的なのはユズである。原産地は中国とされるが、かなり古くから日本に渡来し、奈良・平安時代には既に植えられていたことが確認されている。日本には、ユズの他、ユズの近縁と考えられる地域独自の品種が多く発生し、世界的にみても独特の香酸カンキツが発達している。徳島県のスダチ、大分県のカボスなど地域在来の香酸カンキツが西日本を中心に古くから栽培され、酢の物や香り付け、薬味などに利用されてきた(*1)。「ゆうこう」は、最近になって「再発見」された在来香酸カンキツの一つである。

「ゆうこう」の外見は、ユズやカボスに似ており、熟すと外皮も果肉もレモンのような鮮やかな黄色になり、丸みのある酸味と水分、種の多さ、日向夏と同じように果皮の白い部分も食べられるのが特徴で、成熟果の果皮にはザボンまたはユズに似た甘い香りがする(*2)。

来歴は名称の意味や由来を含めいまだに不祥で、一説にはユズやザボンなどの自然交配で偶発したものと言われている。実生で無性繁殖する「ゆうこう」の持つ多胚性という特性のため、樹齢100年を超える「ゆうこう」の実生樹が複数本現存しており、江戸時代後期から明治初期には、すでにあったのではないかと考えられている(*3)。

「ゆうこう」は、長崎県長崎市の土井首(どいのくび)地区と外海(そとめ)地区の2つの地域でその存在が確認されている。2つの地域は、江戸時代、同じ佐賀領であったという共通点があるが、20km近く離れていて、それぞれ独自に発展してきたとされている。なお、同じ佐賀領で、現在、佐賀県唐津市馬渡島(まだらじま)にも、野生化した「ゆうこう」が確認されている。土井首地区のうち深堀の南部の山奥の大籠地区や小ケ倉の山奥に大山という隠れキリシタンの集落があり、外海から逃れて住み着いたものであり、馬渡島も外海の隠れキリシタンが移住したという3地区に歴史的な共通性があるが、外海の隠れキリシタンが多く住みついた五島にゆうこうの生息は確認できていないので、決定的な因果関係は確認できない。土井首と外海のどちらが原木なのかもまだ、未確認である。

土井首では、ざぼんや夏みかんなどの他のカンキツ類と一緒に屋敷の敷地や畑に植えられ、自給的に利用されていたが、その他、道端などあちらこちらに「ゆうこう」があったといわれている。これは、鳥が「ゆうこう」をついばみ、種を運ぶなどして自生していったからだと地元では考えられている。

外海でも、屋敷の敷地や畑に古くから植えられ、自給的に使われていた。また、キリスト教徒が多く住む外海では、隠れキリシタンを含むキリスト教との関連が深いことが推測されており、村人たちの貧困生活を見て布教により地域住民の暮らしの向上に尽くしたフランス人宣教師ド・ロ神父(1840年〜1914年)が広めたと考えている人もいる。  

「ゆうこう」の用途については、どちらの地域でも、酢の物や鰯などの青魚の調味料、子供のおやつや飲み物代わり、お風呂に浮かべたり、風邪をひいたときなどの薬の代わりとして愛用されてきた。長崎では、一般的に、香酸カンキツは、ダイダイやユズが使われてきたが(*4)、2つの地域では、風味が柔らかく食材の味を引き立たせるので、「ゆうこう」が一番使いよいと言われている。また、どちらの地域でも、ダイダイの導入以前から「ゆうこう」があったと言われている。

しかし、1960年代に入り、第1に、温州みかんの導入・産地化に伴い、交雑が恐れられたこと、第2に、手軽に購入・利用できる酢などの調味料が普及したこと、第3に、野菜用の畑を増反するのに邪魔となったこと、第4に、樹勢が強く高木となり、実が採取しにくいことなどから、「ゆうこう」は急速に地域から姿を消していった。土井首においては、都市化・宅地化の進展が「ゆうこう」の衰退に拍車をかけた。

こうして、「ゆうこう」が絶滅の危機に瀕する中で、2001年に当時長崎市役所土井首支所長兼地区公民館長であった川上正徳氏が「ゆうこう」の存在を知り、長崎県果樹試験場などと連携して調査が実施されたのをきっかけに、2つの地域を中心に「ゆうこう」を守り、再生する取り組みがはじまった。

現在、「ゆうこう」の再生に取り組んでいる人たちは、いずれも、「「ゆうこう」は、地域に自生的に存在し、自給的に使われているものだったので、その大切さがわからなかった。しかし、絶滅の危機に瀕してはじめて、地域における食文化や生活、歴史を特徴づけるものであり、なくてはならないものであることがわかった。」と語っている。

今日の日本において、地域の食文化や生活において大切ではあるが、自給的な性格が強いため、生産性や経済性が重視されるようになるにつれ、衰退、さらには、絶滅の危機に直面している食材は少なくないと思われる。特に、元来、屋敷の庭木の1つなどとして植えられ、調味料や薬味として自給的に利用されてきた香酸カンキツなどは、そうした傾向が強いといえるが、自給的な食材の大切さや現代の暮らしの中での見直しを考える上で、「ゆうこう」とその再生の取り組みは、私たちに多くの示唆を与えてくれると思われる。

● 他の香酸カンキツとの比較
ゆず・ユコウ・ゆうこうの栽培される香酸カンキツの果実形質比較
「ゆうこう」とよく比較されるものを選抜)
(上からユズ、ゆうこう、ユコウ)               
(提供:独立行政法人果樹研究所・根角博久氏)

「ゆうこう」という名前から、徳島県で栽培されているユズの近縁種で、果汁を食酢として利用する香酸カンキツ“ユコウ”と間違えられることがあるが、果実外観、果皮、果肉、種子の形質から、形態学的にも成分的にも異なることが、独立行政法人果樹研究所の根角博久氏らにより明らかにされ(*5)、長崎の2地域にしか存在が確認されていない「新種」として紹介された。

2.どうやって作られているのか

■ 生産状況

2007年12月現在、原産地の2つの地域で確認されている「ゆうこう」の樹は、土井首地区52本、外海地区64本の計116本である。2007年に確認された果実の数は、全体的には不作の年と言われながらも、およそ土井首地区で960個、外海地区で906個となっており、1樹で200個の果実をつけるものも3樹あった。近年、「ゆうこう」再生の取り組みが進められる中で、この他、両地域の母樹園で計220本の苗木が育成されている。また、両地域とも自家用として使っているだけで、加工品を含め、販売はされてこなかったが、外海地区にある道の駅「夕陽が丘そとめ」では、2007年12月に初めて消費者へ本格的に「ゆうこう」が売り出されたが、家にある樹木から採取したものを販売しているため、1日20個程度にとどまっている。

■「ゆうこう」再生の取り組みと活動内容、生産者

「ゆうこう」の「再発見」は、長崎市役所土井首支所長兼地区公民館長であった川上正德氏(左写真)が、2001年に土井首地区に深堀藩の殿様(佐賀藩家老)が佐賀藩への往来に使った「殿様道」を調べに山に入ったのがきっかけだった。当時、土井首地区連合自治会会長だった小中龍徳氏から、道端にある木からもいでもらい、食べたのが「ゆうこう」であった。川上氏にとって、「ゆうこう」は、はじめてみるカンキツであり、見てくれはよくないが、夏蜜柑にも似た独特の味がした。その果実の正式な名前や名前の由来、特徴など詳しいことが知りたくて、「NHK趣味の園芸」へ「ゆうこう」の写真を送ったところ、(独)農業・食品産業技術総合研究機構果樹研究所カンキツ研究興津拠点研究支援センターの根角博久氏の目にとまった。それがきっかけとなり、根角氏と川上氏らによる「ゆうこう」についての調査が開始された。その後、ほどなくして、根角氏が長崎県果樹試験場に転勤し、本格的な調査研究が始まり、「新種」であることや他の香酸カンキツと比較した特徴などが明らかにされた。同時に、現地踏査に基づき、「ゆうこう」の分布図や分布表を作成し、「ゆうこう」の保全のための基礎資料としている。

川上氏は、市役所を退職された現在も、休日になると、地元の方々と連れ立って、新たな「ゆうこう」の樹を探しに出かけ、分布図や表の確認や更新をおこなっている。また、2つの地域における「ゆうこう」再生の取り組みのよきアドバイザーとなって活動を盛り上げている。  (以下略)