旧・「長崎開港旧町」の石垣 長崎開港当時の旧6ヶ町一帯
サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストのデータは、次のとおり。
旧・「長崎開港旧町」の石垣 ながさき
長崎市 桜町〜興善町〜賑町〜築町〜県庁・南〜樺島町〜五島町〜金屋町 石垣 長約1.6㎞(当初) 16C後半
or 江戸期 WEB(みさき道人)/WEB 県庁南側と、五島町〜金屋町にかけて3ヶ所に分かれて残る 長崎の語源となった「海に長く突き出た岬」を囲むように築かれた石垣/長崎開港(16世紀後半)当時の長崎の遺構と見る説もある(大村・長崎対深堀・西郷の抗争の中で次第に構築されていった)/表題の「長崎開港旧町」は最初の6ヶ町を意味する→決まった名称はない 3 A
布袋厚氏著「長崎石物語 石が語る長崎の生いたち」長崎文献社2005年刊の42〜43頁による説明は次のとおり。
喧嘩坂 — 長崎版討ち入り事件の発端となった石段
忠臣蔵で知られる赤穂事件の前年、その元祖ともいうべき討ち入り事件「長崎喧嘩騒動」が起こっている。事のあらましはつぎのとおりである。
…事件の発端となった天満坂はのちに喧嘩坂とよばれ、現在は史跡に指定されている。その坂には長崎産の安山岩でできた石段があって、その両側には同じ材質の大きな自然石(または、それを二つに割った石)が空積みされた立派な石垣がある。
旧・「長崎開港旧町」の石垣は、この喧嘩坂の後段に次のとおり記述がある。
裏手の丘はもともと海に長くつきだした岬で、これが「長崎」の語源になったといわれている。長崎の町は、この岬からはじまり、周囲にひろがっていった。江戸時代の地図をみると、この丘をとりかこむ石垣が描かれており、そのあとにはいまなお自然石の石垣や、ていねいにしあげた正方形の石材を水平積みした石垣が断続的にのこっている。県庁の南東側には自然石の石垣の上に正方形の水平積みの石垣をつぎたしたものが見られる。全部が江戸時代またはそれ以前の遺構ではないとしても、このようなものが都市のまんなかに存在していること自体が貴重である。
さらにつけ加えれば、片寄俊秀氏(現関西学園大学教授)は、著書『長崎歩く考える』のなかで、結城了悟二十六聖人記念館前館長の考えを紹介し、この石垣が開港当時(16世紀後半)の城塞都市「長崎」の遺構である可能性を示唆している。当時の長崎はキリシタンの町であり、しばしば敵対勢力による攻撃をうけていた。
その意味からも、市中心部の石垣については、これをしっかりと保全し、調査していく必要がある。
先般、NHKテレビ「ブラタモリ 長崎編」により紹介があった。遺産サイトは城郭・山城までは調査対象としていないが、都市形成の遺構であり、私も現地を訪ねた。主に遺構が確認できる所在図赤線通りの金屋町・江戸町・築町一帯の石垣の現状を撮影して報告した。すでにコンクリート化された箇所もある。
出島の対岸となる一帯で、護岸もあるだろう。船つなぎ石も残る。私の調査は専門的な歴史研究ではないので正確な史実ではなく、石垣遺構の概要として判断いただきたい。
本ブログ古写真考の次も参照。 https://misakimichi.com/archives/3623
「長崎石物語」以外の長崎開港史を記述した主な文献類を、次の記事により少しまとめて載せる。