九州(熊 本 県)」カテゴリーアーカイブ

乙丸馬頭観音のクロガネモチ  南関町大字細永 ( 熊本県 )

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乙丸馬頭観音のクロガネモチ  南関町大字細永  

くまもと緑・景観協働機構サイトの老樹名木めぐりによるデータは、次のとおり。国道443号南関町関東交差点から県道23号に入り町の中心、関下交差点の少し先まで行く。金光教南関教会の案内板のある町道へ左折する。金光教南関教会の手前にクロガネモチ標識があり、右折して南の山手へ上がって行くと、乙丸集落奥に馬頭観音堂がある。

乙丸の黐(おとまるのもちのき)

所在地・樹種・樹齢(推定)・幹囲・樹高
玉名郡南関町  クロガネモチ  300年   4.3m  27m
県内最大のクロガネモチ
馬頭観音の境内にあり、まっすぐに伸びた幹の上部にこんもりと枝葉が集中しています。クロガネモチとしては異例の樹高を誇っていましたが、台風で上部を失い現在の樹形となりました。町指定天然記念物です。
【場所】
迎町交差点から南へ徒歩15分。乙丸馬頭観音境内。

尾楢の追分道標  南関町大字細永字尾楢  ( 熊本県 )

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尾楢の追分道標  南関町大字細永字尾楢  

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。国道443号南関町関東交差点から県道23号に入り町の中心、関下交差点の少し先まで行く。金光教南関教会の案内板のある町道へ左折すると、これが旧豊前街道である。金光教南関教会を過ぎ、山手へ街道を上がって行くと、細永尾楢の分岐道に追分道標がある。

尾楢の追分道標 おなら
(玉名)南関町 <豊前街道/高瀬街道> 境界石(凝灰岩) 高1.25m,幅25,厚26㎝ 江戸期? 町教委 保存状態良好 「左やまか道」「右たかせ道」 2 C

現地説明板は、次のとおり。

追分の道しるべ  (南関町大字細永字尾楢)

追分とはもともと道路の分岐点を指すことばで、あわせてその周辺に形成される集落のなまえにもなりました。またそこには旅人が休息するための茶屋や飯屋ができ、物資の流通拠点に発展することもありました。
ここ南関町の追分は、豊前街道と高瀬往還の分岐点にあたり、街道を南に下る旅人のための道しるべが建てられました。石柱に「左やまか道」、「右たかせ道」と大きく文字が彫り込まれています。残念ながら建てられた年代はわかりません。
道しるべのうしろに、左から地蔵さん二体、早馬(ハユマ)神社、恵比須さんが祀られています。早馬神社は牛馬の神様として信仰されてきましたが、その源流は古代駅伝制の駅馬(ハユマ)にあるといわれています。
また、ここから旧豊前街道を関町方面へ250mほど進むと、沓掛(くつかけ)という地名の畑地が広がります。沓掛とは履き古した沓を道端の木に掛けて旅の無事を祈るということから、休泊場所や難所にさしかかる地点の意味に転化したことばです。
この沓掛一帯を、古代の南関地区に存在したとされる「大水(おほむつ・おおず)駅」跡の有力な候補地と考える研究者もいます。
平成21年6月10日
協同組合南関ショッピングセンター ビッグオーク  豊前街道顕彰会

大津山阿蘇神社  南関町大字関東 ( 熊本県 )

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大津山阿蘇神社  南関町大字関東

大津山阿蘇神社HPによる説明は、次のとおり。九州自動車道南関IC近く、国道443号南関町関東交差点のところに「大津山阿蘇神社」参道口がある。

由 来   大津山阿蘇神社 

この地方に住んでいた私たちの祖先が、阿蘇の神々様の御神徳を得る為に、正治元年(1199)一の宮阿蘇神社おり、二柱の神様を勧請し、郷土の発展を祈り、崇敬してきました。最初は、現在の南関第一小学校の椋の木の所といわれており、その地を「下つ宮」といいます。
その後、南北朝時代大津山氏が当地方の領主となり入国し、大津山城主も阿蘇の神々様を大変崇敬し、応永2年(1395)に三代城主大津山経稜(つねかど)公が、関町葉山現在の温泉施設「うから館」の地に改築し朝夕参拝したといわれています。

さらに、五代城主大津山資秋(すけあき)公が、朝夕参拝に不便なため、現在地大津山別名つららが岳に社殿を移したといわれています。
それより大津山大明神とか、大津山阿蘇神社と呼ばれるようになりました。 正治元年より800年以上を経ています。

大津山氏とは、もともと藤原氏より分かれて、日野氏と名乗り天皇家とも親せき関係を保ち勢力を伸ばしました。室町時代に特に有名なのは、五代将軍足利義政公の妻日野富子の一族であるといわれています。その後、足利尊氏公は後醍醐天皇と対立し足利氏(北朝)側の勝利により、親交のあった日野資名(すけな)大津山城主第一代の父の功労により、足利四代将軍義持公が肥後の国南の関を資名の子八男日野資基(すけもと)に与えたといわれております。
又、地元の人々はつららが岳を別名大津山と呼んでおり、日野氏から大津山氏と姓をあらためたといわれています。

麻扱場(おこんば)橋  南関町大字関東 大津山公園 ( 熊本県 )

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麻扱場(おこんば)橋  南関町大字関東 大津山公園

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。九州自動車道南関IC近く、国道443号沿いに「大津山公園」の入口があり、園内に「麻扱場橋」が移設されてある。

麻扱場橋 おこんば
(玉名)南関町 大津山公園/<内田川> 石アーチ橋 (凝灰岩) 長11.9m,S8.9m(A),幅2.8m 江戸末期? 町有形 町教委 移設/保存状態良好 種山石工の流れを組む地元の作/中央部が迫石だけの、太鼓型のアーチ 2 C

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№1,675  麻扱場(おこんば)橋

玉名郡南関町大字関東
橋長:9.3m  橋幅:2.85m  径間:9m  拱矢:4.25m  環厚:45cm
輪石数:35
南関インター近く、「大津山自然公園」内にあります。

麻扱場(おこんば)橋
「おこんば橋は、南関町大字下坂下、北辺田の内田川に架かっていたアーチ式の石橋で、平成5年にほ場整備にともなう河川改修により、解体撤去のやむなきにいたり、ここ大津山公園内の太閤水の地に移転復元されました。
建造年代は不明ですが、江戸末期か明治の初期と考えられています。石工名も残念ながらわかっていません。
橋名は、昔内田川で麻のさらしが行われていて、橋の近辺を「麻(お)扱(こ)き場」と呼んだことによるものです。
撤去前は農道として近隣の人々が利用する程度でしたが、昔は肥猪方面から高瀬に出るには、この橋を渡り、上坂下、三ツ川を抜けるのが最短でしたので、多くの人々が利用する大事な橋でした。
おこんば橋は、やむをえず移転復元されましたが、これからもずっと町の文化財として大切にしていきましょう。
[測定値]
橋長11.9m 幅員2.77m スパン8.9m 拱矢4.7m 輪石数35」
南関町 南関町教育委員会

菰田船継所跡  和水町下津原 ( 熊本県 )

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菰田船継所跡  和水町下津原

現地説明板は、次のおり。県道6号和水町下津原の菊池川を渡る菰田橋の右岸にある。

菰田船継所跡    所在地  和水町下津原字菰田

安政2年(1855)の「菊池川全図」で、岩村川と菊池川の合流点すぐ下流に66間の石積みが記されています。ここが菰田船継所跡で、近世の水上交通の要所にも数えられる一方、船着場としても活用されてきました。以前は4階建ての商家が建っており、往時が偲ばれます。
寛永期(1624〜43)においては、菊池川中流から高瀬蔵納の拠点3箇所のうちの1箇所として繁栄しました。…(中略)…
明治になると、10年(1877)の西南戦争の際、菰田での渡河を記していることから、陸上交通の上でも重要な位置を占めていたことがうかがえますが、船継所の機能は次第に失われていき、鉄道の発達により物資輸送は陸上運送へと推移していきました。
平成21年3月    和水町教育委員会

岩本橋  荒尾市上井手字岩本 ( 熊本県 )

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岩本橋  荒尾市上井手字岩本

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№1,434 岩本橋(架設当初名:上井手目鑑橋)

荒尾市上井手字岩本
熊本県指定重要文化財
関川
橋長:32.7m  橋幅:3.4m  径間:12.6m  拱矢:5.9m
国道208号線、荒尾市役所前から県道314号線へ。5.4Km先県道29号線へ左折、1.2Km先左手関川に架かっています

岩本橋
「岩本橋は関川に架けられた石造のアーチ橋である。川幅が広く岸も低いので一つのアーチにすれば橋の高さが異常に高くなるところより、二つのアーチの設計を石工たちは考えたのであろうが、そうすると川の中央に基礎がくるので川の流れを阻むし、橋の根元が洗われて危険であった。そこで、石工たちは橋脚に水の抵抗に強い小岱石を運び、壁石を壊さないように「水切り」を上流と下流に設け水流をスムーズに両側に分けるように工夫した。アーチは厚さ60cm余りの43個の輪石で組み、その上には整然と切石を積みあげ水平床にし、人や車の往来を便利にするように造り、床の左右に高欄を設ける。高欄は地床に沿って地覆を捉え束石をたて笠木を載せた素朴なものであろうが、それらの数か所に浮彫装飾が施されている。その中には八弁及び十六弁の菊花がみられる。
この工事の石工や竣工年月日は瞭らかではないが、熊本県八代郡東陽村種山の石工橋本勘五郎が明治4年頃工事責任者となって架橋したのであろうと古者はいっている。勘五郎は明治6年3月上京し内務省土木寮に勤務し宮城二重橋等を架設し、肥後名工の名声をたかめた。勘五郎が矢部の通潤橋架設の際用いた橋枠の模型をみると厚さニ寸、幅八寸の板で橋の形の枠組みを大工が作り、この枠の中に輪石を積みこみ最後の要石をはめこんで枠を外すと奇妙な音をたてて橋がしまる。もし橋が壊れる場合工事責任者は切腹するのが橋かけの不文律であった。岩本橋をみるとき当時の命がけの仕事振りが窺われる。
昭和37年7月4日397mmの集中豪雨が橋を襲い橋の一部が破損したので道路改修の一環として新岩本橋を新設するとともに、分水路を開鑿し橋を災害より守り、昭和60年より三カ年計画で関川環境整備事業がなされ観光資源としての価値も高めた。」
上井手上子供会  荒尾市教育委員会

貨幣石産地  天草市河浦町宮野 ( 熊本県 )

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貨幣石産地  天草市河浦町宮野

これは鹿児島県への往路の話。天草鬼池港から本渡市へ出、新和町を通る天草下島東岸回り県道26号により牛深港へ行った。その途中、河浦町宮野で見た「熊本県指定天然記念物 貨幣石産地」の標石。写真1の珍しい塀構えの家の県道沿い手前に立っていた。
何かと思い、その家の裏手へ道を進むと、奥の民家は倒壊。右側に産地らしい崖面があったので写してきた。手前の家人に聞くと、化石らしく石はどこかの公民館へ持っていっていると言う。

今、改めて調べてみると、熊本県文化財の指定には、もうない?。HP上でわかったのは、次を参照。
http://home.384.jp/mejibee_sr/40600kumamoto.htm
「河浦町 …宮野の貨幣石産地は、残念ながら民家は住む人も無く荒れて、観察は出来ませんでした。
貨幣石は新生代の底生大型有孔虫で、示準化石となります。」とあり、私のと同じ「貨幣石産出地標識」「産出地跡」の写真があった。

熊本市立熊本博物館HPには、次のような「カヘイ石」解説と写真があるので、参照。
http://webkoukai-server.kumamoto-kmm.ed.jp/web/kids/k_chisitu/ksk_sin_001.htm
名称 : カヘイ石(原生動物有孔虫類)
学名 : Nummulites sp.
時代 : 新生代古第三紀
産地 : 熊本県牛深市
地層 : 白岳砂岩相当層
カヘイ石は貨幣石とも書くように、硬貨のような形をしていて、古生代の示準化石として知られているフズリナと同じ原生動物の仲間です。そして、カヘイ石は、古第三紀の示準化石です。日本のカヘイ石は、東京都の小笠原の母島、沖縄県石垣島と熊本県の天草南部などから産出することが知られてれています。

いずれにしても「貨幣石」とは、硬貨のような形をした「カヘイ石(原生動物有孔虫類)」という化石。天草ビジターセンターや熊本市立熊本博物館などに展示されているから、機会があったら見学してもらいたい。 

六郎次山  天草市深海町・河浦町路木

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六郎次山  天草市深海町・河浦町路木

天草市HPの文化財による説明は、次のとおり。国道266号深海分岐に案内表示板があり、山頂の公園展望台まで車道が上がる。山頂近くで車道がわかりにくいが、少し下ると表示板がある。

六郎次山
■指定区分 国指定
■指定種別 名勝
■指定年月日 昭和10年6月7日

天草下島の東海岸、深海町と河浦町の境界にそびえる六郎次山(標高405m)は下島における代表的な展望所で、下島大観山ともいい、昭和10年に千巖山及び高舞登山(上天草市)などとともに国の名勝に指定されています。
国の名勝には「観賞価値の高いもの」が選ばれますが、六郎次山の山頂からは、眼下に穏やかな深海湾の入り江を望むことができます。また、遠くには御所浦島や獅子島、長島など八代海(不知火海)に浮かぶ大小の島々を一望でき、これらのすばらしい風景を目の当たりにできます。

■地域 牛深
■所在地 深海町及び河浦町路木
■見学 常時

烏帽子坑跡  天草市牛深町西田代又

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烏帽子坑跡  天草市牛深町西田代又

天草市HPの文化財による説明は、次のとおり。牛深ハイヤ大橋を渡って、下須島の西岸「小森海岸」へ行くが、かなり遠い。「小森海岸」は、日本の夕陽百選の地である。

烏帽子坑跡
■指定区分 市指定
■指定種別 史跡
■指定年月日 平成4年12月2日

烏帽子坑は、明治30年天草練炭株式会社が創業を始め、数年間採炭されました。下須島西岸の海を隔てた「烏帽子瀬」に構築され、今も当時の姿をそのまま残している珍しい海底炭鉱跡です。
牛深を中心とした天草南部炭田は、俗に「キラ炭」と呼ばれる無煙炭で、カロリーが高く、揮発性の強い優秀な石炭で、軍艦の燃料となりました。このため、当時の海軍省などの天草炭田への期待は大きいものがあり、海底掘進という危険性があっても、露頭する炭層の採炭に着手し出炭しましたが、湧水等に悩まされ、数年間ほどで創業を中止したとされています。
それ以降約110年の間、何十回もの台風が来襲し大波を受けたにも関わらず、赤土と松ヤニを混ぜて接着したとされるアーチ型の赤レンガの坑口は現代にもその姿を留めています。
烏帽子坑の奥、西海岸に沈む風景は「日本の夕陽百選」にも選ばれています。

■地域 牛深
■所在地 牛深町字西田代又1103−2 海上にあるため、接近はできません。

牛深港のハイヤ像  天草市牛深町

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牛深港のハイヤ像  天草市牛深町

蔵之元港からフェリーで牛深港へ帰る。ハイヤ娘が出迎え。
牛深ハイヤ節は、熊本県天草市牛深(旧牛深市)で江戸時代から伝わる「元祖ハイヤ節」である。現在では全国40ヵ所以上のハイヤ系民謡のルーツとなっている。
写真3,4の「牛深ハイヤ」像は、昭和58年4月2日建立。牛深ロータリークラブ創立20周年記念。制作石原昌一。