九州(熊 本 県)」カテゴリーアーカイブ

通潤橋・五老ヶ滝  熊本県上益城郡山都町 ( 熊本県 )

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通潤橋・五老ヶ滝  熊本県上益城郡山都町

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。ゴールデンウイークに帰省した長男が、帰りに熊本県の通潤橋・五老ヶ滝を訪ねて撮影した。

通潤橋

通潤橋(つうじゅんきょう)は、熊本県上益城郡山都町(やまとちょう)にある石造単アーチ橋。江戸時代の嘉永7年(1854年)に阿蘇の外輪山の南側の五老ヶ滝川(緑川水系)の谷に架けられた水路橋で、水利に恵まれなかった白糸台地へ通水するための通潤用水上井手(うわいで)水路の通水管が通っている。

概要
石造単アーチ橋で、橋長は78メートル、幅員は6.3メートル、高さは20メートル余、アーチ支間は28メートルである[1]。橋の上部には3本の石管が通っている。肥後の石工の技術レベルの高さを証明する歴史的建造物であり、国の重要文化財に指定されている。なお通潤橋を含む通潤用水は日本を代表する用水のひとつとして農林水産省の疏水百選に選定され、橋と白糸台地一帯の棚田景観は、通潤用水と白糸台地の棚田景観の名称で国の重要文化的景観として選定されている。

橋の中央上部両側に放水口が設置されており(川の上流側に2つ、下流側に1つ)、灌漑利用が少ない農閑期には観光客用に時間を区切って20分程度の大規模な放水を行っている[2]。この放水の本来の目的は、石管水路の内部にたまった泥や砂を除くためのものである。最近では全国から通潤橋の放水風景を見に来る観光客も多い。

この場所に石橋が建造されたのは最も谷が狭かったからであるが、200メートル程下流には五老ヶ滝(落差50m)があり原料となる石材が上下流の川底に大量に存在していたことも理由の1つである。江戸時代に造られた石橋としてはアーチの直径ならびに全体の高さは日本国内最大である。常時人が渡れるもののあくまで水路のための橋であるため手摺等は一切ないが、これまで転落した人は1人もいないという。

重要文化財指定後、水需要の増大に対応できるよう、上流の川底に送水管(内径0.8メートルのヒューム管)が埋設され、通潤用水ではこれがメインで使われるようになった。そのほか通潤橋近くの河川から取水する下井手や電気揚水施設もある。重文指定による文化財の保護目的と観光放水による漏水の発生が頻発することで、現役から引退し、その後は主に放水用に通水されている。(ただし、定期的にメンテナンスは行われており、大量の水が必要な時期には通潤地区土地改良区が、一時使用している)

歴史
通潤橋は嘉永7年(1854年)、水源に乏しい白糸台地へ水を送るために架けられた通水橋で、石造の通水橋としては日本一である[要追加記述]。建造にあたっては地元の総庄屋であった布田保之助が中心となって計画を立て、地元の役所・矢部手永の資金や、細川藩の資金を借り、熊本八代の種山村にあった著名な石工技術者集団種山石工の協力を得、近隣農民がこぞって建設作業に参加した。

この水路付き石橋は、アーチ型の木枠(支保工)を大工が作った上に、石工が石を置き、石管と木樋(緩衝材の役目)による水路を設置して橋が完成したところで木枠を外す工法により建造された。石橋の木枠を外す最終段階には橋の中央に白装束を纏った布田翁が鎮座し、石工頭も切腹用の短刀を懐にして臨んだという逸話が残っている。

単一アーチ式水路石橋という特異な構造と物理的原理が見事に成り立っていることから、その貴重さが認められ、霊台橋より7年はやい昭和35年(1960年)に、国の重要文化財の指定を受けた。

また、くまもとアートポリス選定既存建造物にも選定され、地域の名物・象徴となっている。この地域には通潤橋の他にも規模の大きなアーチ石橋が架けられており、遠く鹿児島や東京などにも石工技術者が招かれて石橋を作った。これらは、加藤清正以来の肥後石工集団の技術の高さを示すものである。

技術
この橋は2つの地区を水路で結んでいるが橋の位置は2つの地区よりも低い位置にあるため、水を通す時には噴水管(逆サイフォン)の原理を利用している状態になる。ゴムなどのシーリング材料の無い時代であり、石で作られた導水管の継ぎ目を特殊な漆喰で繋いで漏水しないように密封して橋より高台の白糸台地まで用水を押し上げている。

通潤橋は日本の独自技術で実現した最初の噴水管(逆サイフォン)の橋と考えられており、NHKの番組「新日本紀行」などで紹介された。またこの橋の建設を物語にした『肥後の石工』という児童文学作品がある(国語の教科書への採用例もある)。

交通
・熊本交通センターから熊本バス南14系統・通潤山荘行で約1時間半、通潤橋前停留所下車。 通潤橋前停留所のひとつ手前にある中央公民館前停留所までは別の路線も走っており、有効本数が増加する。当停留所からは徒歩10分の所要となっている。

・九州自動車道御船ICから国道445号を東へ約35km

関連項目
・円筒分水(円形分水 えんけいぶんすい)
昭和31年(1956年)に笹原川(緑川上流に位置する一支流)の脇に設置され、ここで採分水された水が通潤橋を通って白糸台地へと送られている。
・眼鏡橋
・道の駅通潤橋 – 通潤橋隣の物産館がそのまま道の駅に昇格している。
・くまもとアートポリス – くまもとアートポリス’92既存選定建築物に選定。
・美しい日本の歩きたくなるみち500選
・五老ヶ滝

参考文献・出典『矢部町史』 矢部町著
『通潤橋架橋150周年記念誌』 矢部町・通潤土地改良区著
『解説版 新指定重要文化財 13 建造物III』、毎日新聞社、1982

五老ヶ滝

五老ヶ滝(ごろうがたき)は、熊本県上益城郡山都町にある滝。矢部四十八滝の一つ。昔は轟川(とどろきがわ)と呼んでいた、五老ヶ滝川の水が流れ落ちている。上流近くには通潤橋があり、周遊出来る散策路が整備されている。 下流にはダムが築かれ、やがて笹原川と合流する。古くはこのあたりに田吉橋という石橋があった。

概要
落差50mで断崖や滝壺も広く、矢部四十八滝中、千滝、聖滝、越早滝や福良滝と同規模の大きさを誇る最大級の滝である。 水量が豊富で、阿蘇カルデラ起源の溶結凝灰岩を穿って豪快に落ちる。 付近は国の重要文化財である通潤橋とあわせ公園化されており、滝前へは各方面より遊歩道で容易にアクセスが可能。 近年、滝壺側の川の上に吊り橋が架けられ、滝壺まで降りなくても、豪快な滝の姿を見ることが出来るようになった。
時間帯によって、虹が出る。歩道は濡れて滑りやすいので、靴には注意した方が良い。

百間井樋  玉名市築地字沓掛・西ノ山 ( 熊本県 )

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百間井樋  玉名市築地字沓掛・西ノ山

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。玉名市の北西部、国道208号玉名バイパスにより浮田溜池に行くと、溜池や玉名病院北側に遺構がある。

百間井樋 ひゃっけん
玉名市 石積水路 長約50m(石積)、全長は約1km 江戸後期 市教委 小川から溜池に通水する用水路の一部に石積が残る 3 C

バイパス改築事業に伴う玉名市文化財調査報告第23集 「浮田溜池関連施設」玉名市教育委員会2010年発行から、「第22図 浮田溜池導水図」を載せる。
現地撮影写真ほか資料は、玉名市立歴史博物館こころピア 荒木様の協力により提供を受けた。写真説明は、次のとおり。
1 百間井樋 水の取り入れ樋門。水路は水門の上から、左(木立ちのある)に流れる。水樋門下流から上流を見る。
2 百間井樋 中央草地(凹部分)が水路。
3 百間井樋 暗渠入口。
4 百間井樋 暗渠出口。
5 百間井樋 水路。手前から奥に流れる。

「謎の隧道遺構 トンカラリン  熊本県玉名郡和水町」は、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/3479

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり更新され、「浮田下ノ池・吐井手」も新規登載された。

百間井樋(呑口) ひゃっけん
玉名市 西の川〜浮田溜池 石トンネル(用水) 長95m 嘉永5(1852) 市教委 保存状態良好/現役 惣庄屋・関忠之亟/切石を積み上げた側壁上に石板を載せた堅固な構造 1 A

浮田下ノ池・吐井手 うきた
玉名市 浮田下ノ池〜元口掛 護床敷石 長26m,幅5-7m 嘉永5(1852)以降 市教委(浮田溜池関連施設p11-17) 上流側2段は洋風に並べられた布石状の敷石、最下部は打込みはぎ状の敷石 惣庄屋・清田新之允によって文化13(1816)に浮田溜池(中ノ池)が造られたが、嘉永5の干魃を受けて中ノ池の上下に造られた溜池/下ノ池から流出する3本の水路のうちの「元口掛」に設けられた導水路 1 A

西海道肥後国玉名郡家内道路と伝路  玉名市立願寺 ( 熊本県 )

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西海道肥後国玉名郡家内道路と伝路  玉名市立願寺

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。JR玉名駅前から少し進み、玉名高校と中央病院との間の市道に入る。玉名市立歴史博物館に聞くと、この直線道路が資料どおり、「玉名郡衙通」の一部遺構である。

西海道肥後国玉名郡家内道路と伝路 さいかい
玉名市 <西海道> 道路 南北:約30m,東西:約60m,30mの2ヶ所 古代 木下 良 住宅地の中に、痕跡が残る 玉名郡庁と郡津を結ぶ南北道路、とれと交差する東西の伝路/微高地の畑の間に帯状窪地となった道路遺構があって、古代道路としては典型的な状態を示している 3 B

立願寺地区の現地撮影写真ほか資料は、玉名市立歴史博物館こころピアの荒木様の協力により提供を受けた。写真説明は、次のとおり。
1 郡衙通A。玉名高校と中央病院の間を通る。玉名高校通用門の横から、郡家方面を見る。
2 郡衙通B。ブロック塀の下のくぼみ。草地が道跡。
3 郡衙通C。古代道と郡衙通が交わるところ。左右の道が古代道。中央の道が郡衙通。 
4 古代道。 古代道と郡衙通が交わるところの少し東側。
5 郡衙通。 3の少し先。私の撮影。
6 立願寺公園。 私の撮影。

玉名市歴史資料集成第12集「玉名郡衙」平成6年発行554〜555頁から、「郡衙通」を載せる。 

玉名市HP [歴史博物館こころピア] > [歴史] > による説明は、次のとおり。次を参照。
http://www.city.tamana.lg.jp/q/aview/472/1560.html

玉名郡衙

郡衙とは、律令時代の役所のことです。玉名郡の郡司は日置氏で、現在の疋野神社周辺に居館があったと考えられています。8世紀はじめ一斉に完成した郡衙は、9世紀末に終焉を迎えます。玉名郡衙の造営にあたっては、国司道君首名と郡司日置氏との強力な結びつきがあったものと考えられます。

完備した郡衙は庁院・館院・(郡家)の主要部と倉院・厩・公文屋などからなる付属部分で構成されます。さらに郡司の氏寺がこれに加わります。玉名郡衙の場合、発掘によって上記の諸施設がすべて確認できました。加えて郡家に至る郡衙道(朱雀大路や大湊)、それに祭祀上の磐座(金毘羅山)も明らかになりました。

玉名郡倉跡推定地発掘の様子の画像
郡倉は疋野神社の東側に位置していたと考えられています。南北100尺、東西180尺の長方形の柵列の中に南北2棟、東西4列の計8棟の倉庫群が造営されました。郡倉は7世紀末に始まり、8世紀中頃までは掘建棟で、8世紀後半になると礎石棟に建て替わり、9世紀末まで存続しました。郡倉は度々火事に遭っています。

道路の堀切りの画像
JR玉名駅付近にあった大湊と日置氏の神(疋石神)と思われる金毘羅山の磐座は真北線上にのっており、この間に郡衙道(朱雀大路)は敷設されました。その間は1.6キロメートルです。郡衙道は8世紀初めに敷設されて以来、今日に至るまで使用され続けています。また、JR玉名駅近くは小字名を大湊といい、袋状の入り江になっていました。湊は南側に開口しており、東西170メートル、南北120メートル、入口幅60メートルと推定されます。大湊は8世紀末の菊池川の氾濫によって、湾内に砂礫が堆積し、湊の機能を失ました。

第1期金銅跡発掘の様子の画像
立願寺廃寺は白鳳時代に始まり、奈良時代までの約1世紀存在しました。第1期 金堂は地山を削って基壇を造り、掘建柱で桁行4間、梁行2間の南側に入口をもつ建物です。第2期 講堂は新たに版築して基壇を造り、桁行4間(72尺)梁行2間(36尺)総柱の掘建柱建物になります。伽藍配置は法起寺式です。第3期 講堂は2期と同じ伽藍配置で礎石建物に変わります。

立願寺廃寺出土鬼面鬼瓦の画像
立願寺廃寺から出土した瓦をみると、玉名郡衙(日置氏)が太宰府あるいは都と強いつながりがあったことがうかがえます。
軒丸瓦(素文縁線鋸歯文複弁八弁蓮華文)の画像
軒平瓦(扁行忍冬唐草文)の画像
人面瓦の画像

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり更新された。

立願寺の郡衙道・西海道交差 りゅうがんじ
玉名市 <郡家〜水駅/西海道> 道路 郡衙道:長1.6㎞ 古代(8世紀初) 市教委(玉名郡衙p474,555)/木下 良 C舗装されて生活道路化/写真は郡衙道(縦)と西海道(手前横)の交差部/立願寺は地名 玉名郡庁と郡津を結ぶ南北道路(郡衙道)、とれと交差する東西の伝路(西海道)/微高地の畑の間に帯状窪地となった道路遺構があって、古代道路としては典型的な状態を示している/郡衙道は全線切通し 3 B

石貫車橋  玉名市石貫 吐合 ( 熊本県 )

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石貫車橋  玉名市石貫 吐合

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。県道4号により玉名市役所から南関町に向かい、石貫簡易郵便局先の繁根木川の吐合橋を渡ってすぐ右折、570m先右手に架かっている。

石貫車橋 いしぬきくるま
玉名市 人道/山口川 石アーチ橋 (凝灰岩) 長6m(A),幅2m 江戸期? 市重文 WEB(石橋) 若干の時代の経過による破損 ほとんど迫石だけでできた橋 2 C

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№1,674  車橋

玉名市石貫 吐合
橋長:6.1m  橋幅:1.9m  径間:5.03m  拱矢:1.92m  環厚:43cm
輪石:22列
県道4号線を玉名市役所から南関町に向かい、石貫簡易郵便局の前の繁根木川の吐合橋を渡ってすぐ右折、570m先右手に架かっています。

腹切坂の切通し  和水町永ノ原台地〜寺ノ本間 ( 熊本県 )

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腹切坂の切通し  和水町永ノ原台地〜寺ノ本間

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。豊前街道「腹切坂」には、国道
443号山鹿市側梅迫バス停から永ノ原台地へ上がると、車で腹切坂上に出る。

腹切坂の切通し はらきりざか
(玉名)和水町 <豊前街道> 切通し 長約280m, 最大高約7-8m,幅3-5m 江戸初期以前 国史跡 町教委 長年の洗掘で6mえぐられていたのを、埋め戻した 永ノ原台地〜寺ノ本間の急坂/慶安4(1651)の『御帳之控』に地名が現れる 2 B

平野井手の真府  和水町大字平野 ( 熊本県 )

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平野井手の真府  和水町大字平野

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。国道443号から三加和温泉の方へ行くと、和仁川と十町川の合流点のすぐ下流に、平野井手の取水堰(北原松右衛門ぜき)はあり、前記事とした。この下流側約1kmの平野橋脇に、当時の顕彰石文碑と説明板があり、「真府(まふ)」という素掘りトンネル水路1箇所はここで確認できる。

平野井手の真府 ひらの、まぶ
(玉名)和水町 平野井手 素掘トンネル(水路) 長約35m, 高約1.8m 文政13(1830) 町教委/平野井手由来 保存状態良好 施主:庄屋・緒方勘左衛門/平野井手完成当時、山を迂回→洪水被害→トンネルを2ヶ所掘削/現役 1 C

現地説明板は、次のとおり。

北原松右衛門ぜきと平野真府(ひらのまふ)
和水町大字平野

和仁・十町両川の合流点をせき止め、平野地区を潤している此のせきは、文化6年(1809)6年の歳月をかけて、平野村の庄屋北原松右衛門が苦心の結果つくり上げたものである。
由来平野地区は畠多く、田地少なく、用水に恵まれず、村民の生活は困窮をきわめていた。松右衛門は此の窮状を見るにしのびず、光格天皇の享和3年(1803)、郡代の許可を得て工事に着手し、幾多の困難・妨害を屈服してつくり上げたものである。
井手の水をより遠くより広く流すことにも大変な苦心が払われている。数十米の川底をうがって対岸に流したり、又文政庚寅の年(1820)に庄屋緒方勘左衛門によって、20余間の真府が掘られ、より安全で確実な流水の法もとられている。
此の用水による田13町余、水路の長さは1390間、此のせきの完成により平野地区は、用水の憂なく、経済も豊かになり生活は安定をもたらすことになる。
此等のせきや真府の由来は文久3年(1863)時の庄屋北原加右エ門、頭百姓4名による此の石文が永遠に伝えている。
せきは、この川の上流約1キロメートル。
平成4年3月31日   三加和町教育委員会

平野井手の取水堰  和水町津田字下津留 ( 熊本県 )

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平野井手の取水堰  和水町津田字下津留

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。国道443号から三加和温泉の方へ行くと、和仁川と十町川の合流点のすぐ下流に、平野井手の取水堰(北原松右衛門ぜき)はある。

平野井手の取水堰 ひらの
(玉名)和水町 平野井手 <取水堰> 文化6(1809) 町教委/平野井手由来 本体はRC化/石畳は一部復元 施主:庄屋・北原松右衛門/堰体の両脇に石積構造が残る(現地では、「石畳」と呼称している) 3 B

現地説明板は、次のとおり。

北原松右衛門ぜき (町指定文化財)
所在地 和水町津田字下津留
指定日 昭和61年4月18日

北原松右衛門は、寛延元年(1748)玉名郡南関手永平野村の農家に生まれました。若い時から人望があり、18歳で頭百姓、28歳で手永横目、そして37歳で庄屋となり、85歳で職を辞すまで48年間を庄屋として勤め、弘化元年(1844)97歳で亡くなりました。
当時の平野地区は、農業用水に恵まれず、水田が少なくて村民の生活は、非常に苦しいものでした。そこで松右衛門は、農業用水の確保を目指して平野井手の構築を思い立ち、享和3年(1803)に郡代の許可を得て、和仁川と十町川の合流点のすぐ下流で井手の構築に着手し、幾多の困難と妨害を屈服しながら、6年の歳月をかけて文化6年(1809)に完成させました。「せき」の近くには、水の量を調整する水門を設け、川の対岸にはサイフォンの原理を応用して、川底に松の木で作った菅(底樋)を通して水を送り、堰本体のの水たたきや川底を保護するための大きな石を敷詰めるなどいろいろな工夫が凝らされています。また、洪水の際、菊池川本流からの逆流での被害を防ぐため、山腹に「真府(まふ)」と呼ばれるトンネルを文政13年(1830)に完成させたのは、次の庄屋の緒方勘左衛門です。
この「せき」の完成により、以後1390間余(約2.7km)の水路が巡らされ、開田は、13町余(約13万㎡)にも及び、以後の生活は次第に豊かになっていったと伝えられています。
平成23年3月   和水町教育委員会

田中城跡  和水町和仁 ( 熊本県 )

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田中城跡  和水町和仁

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。和水町三加和総合支所前から県道195号により北西に向かう。耳の神様近くから右上へ行く町道に入ると、和仁集落先の高台に田中城跡がある。

田中城 (肥後国)

田中城(たなかじょう)は、別名を和仁城とも呼ばれ、中世に熊本県旧三加和町一帯を支配した肥後国の国人和仁氏が本拠とした城。現在の熊本県玉名郡和水町和仁に位置する。1587年(天正15年)に発生した肥後国人一揆において、最後まで抗戦を続けた城のひとつである。
国の史跡に指定されており、指定名称は田中城跡(たなかじょうあと)という。

構造
和仁川の東側に接する小山に築城され、規模は総面積約8万平方メートルと推定されている。 主郭の平坦部は50メートル×42メートルの楕円形で、城周辺の水田からの比高は47メートルある。実戦向きの城で、一万余の軍勢を相手に千人足らずの守兵で38日の籠城戦に堪えた。本丸を取り囲む空堀のほか捨て曲輪跡・建物跡・井戸跡などが良く保存されている。

歴史
肥後国では菊池氏が衰退した後、戦国期は国人割拠状態が続き和仁氏も肥後国の国人の一つだった。和仁氏は古代豪族和珥氏の末裔とされるが和仁氏が滅んでしまった為、何時から肥後に土着したかその歴史は不明である。九州征伐後の1587年(天正15年)6月、豊臣秀吉により佐々成政が肥後国主に任じられ検地を行おうとしたが肥後の国人は服さず、翌月には隈部親永が兵を挙げて肥後国人一揆が始まった。和仁氏当主の和仁親実もこの動きに呼応し、弟の親範と親宗および姉婿の辺春親行と共に田中城の守備を固めた。佐々成政は肥後の各地で離反した国人を単独で鎮圧できず援兵を請い、豊臣秀吉は同年9月、西国大名に出兵を命じ一揆の鎮圧に向かわせた。 田中城に対しては、小早川秀包を主将として、安国寺恵瓊・鍋島直茂・立花宗茂・筑紫広門など計一万余の軍勢が振り向けられ10月28日に到着。城の周囲に二重の柵を築いて包囲戦に入った。和仁氏は十倍する攻め手からよく城を守ったが、安国寺恵瓊による内応工作もあり、12月5日ついに落城して和仁氏は滅ぼされた。

現状
1986年(昭和61年)に熊本県の史跡指定を受け本格的な発掘調査が始まった。1989年(平成元年)、山口県文書館『毛利家文庫』から攻城戦の様子を描いた絵図『辺春和仁仕寄陣取図』が発見され[1]、攻城側の部署や軍令が明らかになると共に、図に描かれた城の構造が発掘結果とよく合致することが確認された。これにより戦国期の歴史を知る上で貴重な遺構であるとして2002年(平成14年)3月に国の史跡に指定された。

映像作品
2002年(平成14年)、地元の三加和町によって、田中城の攻防戦を描いた映画『おんな国衆一揆』(監督:三池崇史)が製作された。この作品は熊本県の史跡を舞台とした『熊本物語』の第三部に当たり、当時の潮谷義子熊本県知事も高台院役で特別出演している。

アクセス
九州自動車道南関インターチェンジ より県道4号線を車で約15分

参考文献
・『三加和町文化財調査報告 第11・12集』三加和町教育委員会、1997年
1.^ 田中城(たなかじょう) 和水町 – 熊本県庁

上板楠神社の眼鏡橋  和水町大字上板楠 ( 熊本県 )

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上板楠神社の眼鏡橋  和水町大字上板楠

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。県道195号和水町三加和総合支所前から十町川南側の町道を北上。750m先の写真入口の道を左折、上板楠神社の裏手に架かっている。

上坂楠神社の眼鏡橋 かみいたくす
(玉名)和水町 人道 石アーチ橋 (凝灰岩) 長3.6m,S2.8m(A),幅1.1m 文政-天保(1818-43)頃 町教委 保存状態良好 橋の中央部のみ装飾高欄を配した特殊な形態 1 C

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№1,682  上板楠神社眼鏡橋

和水町大字上板楠 上東
橋長:4.5m  橋幅:1.3m  径間:2.6m  拱矢:1.3m  環厚:30cm
輪石:15列
県道195号線、旧三加和町役場前の十町川に架かる橋の南側の道を北上。750m先を左折、上板楠神社の裏手に架かっています。

上板楠神社と眼鏡橋
「この神社は、江戸時代には、「妙見宮」と呼ばれていた(神殿の扁額など)。明治になってから、地名をとって「上板楠神社」と称し、天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神の三神を御崇神とした。また、「三霊神社」ともいった(鳥居の額束)。
神社の由来については、鳥居の横にある明治30年(1897)建立の石碑の銘文によると、「後鳥羽天皇の文治5年(1189)に、岡原城主の梶原景末の願いにより、八代妙見宮の御分神を勧請して建立された」というが、この記述が、この神社の神社帳(現在所在不明)などの文献によるものか、あるいは言い伝えによるものかはわからない。
境内社としては、祗園さんと天神さんを合祀したお社とお伊勢さんのお社、それに社日さんの石祠(安政5年、1858)がある。
境内には、前述の石碑のほか、天保15年(1844)奉納の一対の石灯篭、明治30年(1897)建立の石鳥居、無名の手水鉢(2基)があり、」さらに、安政4年(1857)にできた重厚な玉垣が境内を囲んでいる。
裏参道にある御手洗池には、小さいながらも見事なつくりの石造眼鏡橋が架けられている。この橋は、欄干が玉垣と類似しており、玉垣をつくった石工の作ではないかと思われる。」
平成8年3月   和水町教育委員会

この奥に上板楠神社があります。鳥居扁額には「三霊神社」と書かれています。
目指す眼鏡橋は神社の裏手に架かっています。欄干。安政4年作の玉垣。

小原宮のイチイガシ  南関町大字小原   ( 熊本県 )

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小原宮のイチイガシ  南関町大字小原  

くまもと緑・景観協働機構サイトの老樹名木めぐりによるデータは、次のとおり。国道443号南関町小原交差点にイチイガシ案内板があり、山手の集落へ上がって行く。小原天満宮の右奥高台にイチイガシが立っている。

小原の石櫧(こばるのいちいがし)

所在地・樹種・樹齢(推定)・幹囲・樹高
玉名郡南関町 イチイガシ 400年 7.0m 20m
半分の幹で命を支える御神木
小原天満宮の境内にある御神木。根元から10mほどの高さまで幹の半分を失い、片側の樹皮だけのように見える幹でこの高い木を支えていますが、樹勢は盛んです。町指定天然記念物です。
【場所】
県道4号の小原バス停から北へ徒歩10分。小原宮境内。