西海道肥後国玉名郡家内道路と伝路  玉名市立願寺 ( 熊本県 )

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西海道肥後国玉名郡家内道路と伝路  玉名市立願寺

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。JR玉名駅前から少し進み、玉名高校と中央病院との間の市道に入る。玉名市立歴史博物館に聞くと、この直線道路が資料どおり、「玉名郡衙通」の一部遺構である。

西海道肥後国玉名郡家内道路と伝路 さいかい
玉名市 <西海道> 道路 南北:約30m,東西:約60m,30mの2ヶ所 古代 木下 良 住宅地の中に、痕跡が残る 玉名郡庁と郡津を結ぶ南北道路、とれと交差する東西の伝路/微高地の畑の間に帯状窪地となった道路遺構があって、古代道路としては典型的な状態を示している 3 B

立願寺地区の現地撮影写真ほか資料は、玉名市立歴史博物館こころピアの荒木様の協力により提供を受けた。写真説明は、次のとおり。
1 郡衙通A。玉名高校と中央病院の間を通る。玉名高校通用門の横から、郡家方面を見る。
2 郡衙通B。ブロック塀の下のくぼみ。草地が道跡。
3 郡衙通C。古代道と郡衙通が交わるところ。左右の道が古代道。中央の道が郡衙通。 
4 古代道。 古代道と郡衙通が交わるところの少し東側。
5 郡衙通。 3の少し先。私の撮影。
6 立願寺公園。 私の撮影。

玉名市歴史資料集成第12集「玉名郡衙」平成6年発行554〜555頁から、「郡衙通」を載せる。 

玉名市HP [歴史博物館こころピア] > [歴史] > による説明は、次のとおり。次を参照。
http://www.city.tamana.lg.jp/q/aview/472/1560.html

玉名郡衙

郡衙とは、律令時代の役所のことです。玉名郡の郡司は日置氏で、現在の疋野神社周辺に居館があったと考えられています。8世紀はじめ一斉に完成した郡衙は、9世紀末に終焉を迎えます。玉名郡衙の造営にあたっては、国司道君首名と郡司日置氏との強力な結びつきがあったものと考えられます。

完備した郡衙は庁院・館院・(郡家)の主要部と倉院・厩・公文屋などからなる付属部分で構成されます。さらに郡司の氏寺がこれに加わります。玉名郡衙の場合、発掘によって上記の諸施設がすべて確認できました。加えて郡家に至る郡衙道(朱雀大路や大湊)、それに祭祀上の磐座(金毘羅山)も明らかになりました。

玉名郡倉跡推定地発掘の様子の画像
郡倉は疋野神社の東側に位置していたと考えられています。南北100尺、東西180尺の長方形の柵列の中に南北2棟、東西4列の計8棟の倉庫群が造営されました。郡倉は7世紀末に始まり、8世紀中頃までは掘建棟で、8世紀後半になると礎石棟に建て替わり、9世紀末まで存続しました。郡倉は度々火事に遭っています。

道路の堀切りの画像
JR玉名駅付近にあった大湊と日置氏の神(疋石神)と思われる金毘羅山の磐座は真北線上にのっており、この間に郡衙道(朱雀大路)は敷設されました。その間は1.6キロメートルです。郡衙道は8世紀初めに敷設されて以来、今日に至るまで使用され続けています。また、JR玉名駅近くは小字名を大湊といい、袋状の入り江になっていました。湊は南側に開口しており、東西170メートル、南北120メートル、入口幅60メートルと推定されます。大湊は8世紀末の菊池川の氾濫によって、湾内に砂礫が堆積し、湊の機能を失ました。

第1期金銅跡発掘の様子の画像
立願寺廃寺は白鳳時代に始まり、奈良時代までの約1世紀存在しました。第1期 金堂は地山を削って基壇を造り、掘建柱で桁行4間、梁行2間の南側に入口をもつ建物です。第2期 講堂は新たに版築して基壇を造り、桁行4間(72尺)梁行2間(36尺)総柱の掘建柱建物になります。伽藍配置は法起寺式です。第3期 講堂は2期と同じ伽藍配置で礎石建物に変わります。

立願寺廃寺出土鬼面鬼瓦の画像
立願寺廃寺から出土した瓦をみると、玉名郡衙(日置氏)が太宰府あるいは都と強いつながりがあったことがうかがえます。
軒丸瓦(素文縁線鋸歯文複弁八弁蓮華文)の画像
軒平瓦(扁行忍冬唐草文)の画像
人面瓦の画像

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり更新された。

立願寺の郡衙道・西海道交差 りゅうがんじ
玉名市 <郡家〜水駅/西海道> 道路 郡衙道:長1.6㎞ 古代(8世紀初) 市教委(玉名郡衙p474,555)/木下 良 C舗装されて生活道路化/写真は郡衙道(縦)と西海道(手前横)の交差部/立願寺は地名 玉名郡庁と郡津を結ぶ南北道路(郡衙道)、とれと交差する東西の伝路(西海道)/微高地の畑の間に帯状窪地となった道路遺構があって、古代道路としては典型的な状態を示している/郡衙道は全線切通し 3 B