平野井手の取水堰  和水町津田字下津留 ( 熊本県 )

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平野井手の取水堰  和水町津田字下津留

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。国道443号から三加和温泉の方へ行くと、和仁川と十町川の合流点のすぐ下流に、平野井手の取水堰(北原松右衛門ぜき)はある。

平野井手の取水堰 ひらの
(玉名)和水町 平野井手 <取水堰> 文化6(1809) 町教委/平野井手由来 本体はRC化/石畳は一部復元 施主:庄屋・北原松右衛門/堰体の両脇に石積構造が残る(現地では、「石畳」と呼称している) 3 B

現地説明板は、次のとおり。

北原松右衛門ぜき (町指定文化財)
所在地 和水町津田字下津留
指定日 昭和61年4月18日

北原松右衛門は、寛延元年(1748)玉名郡南関手永平野村の農家に生まれました。若い時から人望があり、18歳で頭百姓、28歳で手永横目、そして37歳で庄屋となり、85歳で職を辞すまで48年間を庄屋として勤め、弘化元年(1844)97歳で亡くなりました。
当時の平野地区は、農業用水に恵まれず、水田が少なくて村民の生活は、非常に苦しいものでした。そこで松右衛門は、農業用水の確保を目指して平野井手の構築を思い立ち、享和3年(1803)に郡代の許可を得て、和仁川と十町川の合流点のすぐ下流で井手の構築に着手し、幾多の困難と妨害を屈服しながら、6年の歳月をかけて文化6年(1809)に完成させました。「せき」の近くには、水の量を調整する水門を設け、川の対岸にはサイフォンの原理を応用して、川底に松の木で作った菅(底樋)を通して水を送り、堰本体のの水たたきや川底を保護するための大きな石を敷詰めるなどいろいろな工夫が凝らされています。また、洪水の際、菊池川本流からの逆流での被害を防ぐため、山腹に「真府(まふ)」と呼ばれるトンネルを文政13年(1830)に完成させたのは、次の庄屋の緒方勘左衛門です。
この「せき」の完成により、以後1390間余(約2.7km)の水路が巡らされ、開田は、13町余(約13万㎡)にも及び、以後の生活は次第に豊かになっていったと伝えられています。
平成23年3月   和水町教育委員会