平野井手の真府 和水町大字平野
サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。国道443号から三加和温泉の方へ行くと、和仁川と十町川の合流点のすぐ下流に、平野井手の取水堰(北原松右衛門ぜき)はあり、前記事とした。この下流側約1kmの平野橋脇に、当時の顕彰石文碑と説明板があり、「真府(まふ)」という素掘りトンネル水路1箇所はここで確認できる。
平野井手の真府 ひらの、まぶ
(玉名)和水町 平野井手 素掘トンネル(水路) 長約35m, 高約1.8m 文政13(1830) 町教委/平野井手由来 保存状態良好 施主:庄屋・緒方勘左衛門/平野井手完成当時、山を迂回→洪水被害→トンネルを2ヶ所掘削/現役 1 C
現地説明板は、次のとおり。
北原松右衛門ぜきと平野真府(ひらのまふ)
和水町大字平野
和仁・十町両川の合流点をせき止め、平野地区を潤している此のせきは、文化6年(1809)6年の歳月をかけて、平野村の庄屋北原松右衛門が苦心の結果つくり上げたものである。
由来平野地区は畠多く、田地少なく、用水に恵まれず、村民の生活は困窮をきわめていた。松右衛門は此の窮状を見るにしのびず、光格天皇の享和3年(1803)、郡代の許可を得て工事に着手し、幾多の困難・妨害を屈服してつくり上げたものである。
井手の水をより遠くより広く流すことにも大変な苦心が払われている。数十米の川底をうがって対岸に流したり、又文政庚寅の年(1820)に庄屋緒方勘左衛門によって、20余間の真府が掘られ、より安全で確実な流水の法もとられている。
此の用水による田13町余、水路の長さは1390間、此のせきの完成により平野地区は、用水の憂なく、経済も豊かになり生活は安定をもたらすことになる。
此等のせきや真府の由来は文久3年(1863)時の庄屋北原加右エ門、頭百姓4名による此の石文が永遠に伝えている。
せきは、この川の上流約1キロメートル。
平成4年3月31日 三加和町教育委員会