九州(熊 本 県)」カテゴリーアーカイブ

手永の馬繋石  大津町大津 ( 熊本県 )

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手永の馬繋石  大津町大津

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。県道30号大津町役場東の大津交差点から北へ県道202号に入る。旧豊後街道へ出て右側の日吉神社鳥居の先に広い駐車場があり、ここに史跡説明板がある。穴の空いた馬繋石が5本並んで確認できる。

手永の馬繋石 てなが
(菊池)大津町 馬繋石(5基程度) 高30㎝,幅15㎝,厚10㎝ 江戸期? WEB(みさき道人) 原位置 石の上部に丸く穴を開け馬を繋ぎやすくしたもの/道に沿って並んでいる 1 B

現地説明板は、次のとおり。

御茶屋跡北側の馬繋石群
この左側に約15cm×10cmで高さ30cmの四角の石柱が並んで立っています。雑然に立て並べてあるようですが、どれも上部に径5cm程の穴が1つ貫かれています。実は、これは馬繋石と呼ばれる支柱で、江戸の頃には右側を通っていた旧豊後街道が大津宿駅の中心路として使われていた当時、通行に用いた馬の手綱を繋いで馬を休ませておく、いわば駐車場として使用された空間の名残です。…
平成21年10月1日   大津町教育委員会

大津町の史跡と文化財マップ  大津町大津・室 ( 熊本県 )

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大津町の史跡と文化財マップ  大津町大津・室

大津町HP「町の史跡」による説明は、次のとおり。文化財マップは町中心部(大津・室)のみ載せる。

■大津手永会所跡
旧大津手永(管内51ヶ村)の政治・経済・軍事などを司る細川藩の役所が置かれていました。手永とは「領主が手いっぱいに治め得る区域」という意味で細川藩独特の地方行政区画で、大津手永は現在の大津・菊陽・旭志の3町村をほぼ合わせたぐらいの区域のことです。
ここには、行政・子弟教育・裁判・医療などの施設があり、郡代、惣庄屋のほか、年貢取立てや犯罪取蹄りなどの諸役人が勤務していました。
隣接して北側には御茶屋(所謂本陣)がある他、内外に3箇所の御客屋などもあり、往来する各藩の 高官が宿泊・休憩しました。大津宿の官庁街であります。
もっと北へ登った上大津には、御蔵跡があり、往時は阿蘇郡全部、菊池郡南半の年貢が集まりました。

■大津御茶屋跡
江戸時代の豊後街道往来の折、藩主が宿泊・休憩する施設でした。普通には「本陣」と呼ばれるもので、「御茶屋」とは細川藩独自の名称です。手永会所に隣接していました。構内に御茶屋番宅があり、当番の役人が常時管理に当たっていました。
瓦葺の堂々たる建物で、330坪の敷地内に本屋174坪、別棟75坪部屋数は29あり、其の偉容を誇っていました。道路に面し御門があり、構内には馬舎、番所、詰所、道具蔵などがあり、平素はお茶屋番と言われる役人が近村の人々に公役を割り当て管理していました。

■日吉神社
古くは上大津に「椋天神」として祀られて、合志7天神のひとつとされていたといいます。天保元年(1644年)に近江国坂本の日吉神社を勧請して大字大津の氏神として天神の森に社が建てられ、祭りの奉納相撲が盛大に行われていました。それにならって各地でも相撲が盛んに行われるようになりました。大正11年(1922年)9月に火災で焼失したため、昭和3年(1928年)4月に東嶽城跡の現在地に遷宮されました。大津町の最大の神社で街の総氏神的存在になっています。街を一望するこの地はつつじの名所としても知られています。

■人馬所跡
細川藩が設置した人夫駅馬継所のことを略して人馬所といいます。 ここには約6百坪の広場があって、 豊後街道や上井手を利用した年貢の運搬・早馬などの藩の公役・公用に備えて、 大津・竹迫両手永に割り当てられた人夫が1日に約20人、 駅馬が約30頭常に待機し、 彼らを役人が監督していました。
また年に1・2回、 合志郡代が、 大津の御家人(在住の武士たち)を召集して彼らの日頃の鍛練を試した場所でもあります。

■大津御蔵跡
江戸時代、大津手永の全域、竹迫手永の一部、及び阿蘇郡全部からの上納年貫米を格納する細川藩の年貢の倉庫です。
この様な「御蔵」は大津の他、川尻・高瀬などに建てられていました。大小二棟の御蔵の一棟は幅10間、長さ96間あり、二棟に蔵入れする年貢米は毎年7万石、16万俵にのぼったといわれています。
旧10月末より11月中にかけて農民が年貢を納める「御蔵払」の期間は、上大津より仲町にかけて人馬雑踏の賑わいを呈しました。御蔵前の住民のほとんどがこの御蔵に関連した生計を営む者で、上大津の町並みができていました。

■室簀戸口門跡
藩主の通行前後の臨時 関所の跡です。簀(すだれ)は男竹、直径1寸5分(約4.5メートル)の真竹で、高さ2間(約2.8メートル)に編んだ2枚を左右に立て簀戸守が警戒に当たりました。

■五里木跡
豊後街道には、熊本城から一里毎に里程を示す木が植えられています。その五里を示す木が、上大津の桜山にありました。この桜山の「五里木」一帯は、街道筋室附近の「八丁桜馬場」の桜の木を育成したところで、花見の場所もなっていました。
また、藩主参勤の折、大津の人々が行列を出迎える「殿様拝み」の場所は、この地より東側と定めてありました。ちなみに、四里木は菊陽町南方、六里木は新小屋、七里木は古城峠にあります。

光尊寺橋  大津町大字大津 ( 熊本県 )

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光尊寺橋  大津町大字大津

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。県道30号大津駅前通りを北へ入ると、上井手沿いの町道に出る。上流へ進むと復元された御客屋門、松古閑橋の次に、この橋が架かる。

№257  光尊寺橋
菊池郡大津町大字大津
瀬田上井手
橋長:6.2m  橋幅:2.1m
架設:文化12(1815)年
大津町役場前を東へ約300m進み、法務局前を左折、130m先の上井手沿いに左折。100m先に架かっています。

上井出(堀川)と光尊寺橋
「熊本藩主加藤忠広は父清正の遺志を継いで元和4年(1618)堀川の開削に着手、瀬田鍋倉の瀬に取入口を設けて多くの難所を排除しつつ工事を進めましたが、寛永9年お取潰しにより中断しました。かわって藩主となった細川忠利が遺業を継ぎ、寛永13年(1636)工事を再開、次代光尚により坪井川まで全長約24Kmの『上井手』(菊陽町原水玄蕃橋より下流は『堀川』と云います)が完成。大津・菊陽・合志の原野は、約460haもの広大な穀倉地帯に変容していきました。このことは肥後3大御倉の1つ大津御倉が置かれたことが如実に物語っています。
以来上井手に沿って集落が形成され『塘町筋』と呼ばれ、物資集散の場所として大津手永の会所の所在地として政治経済の中心地となり、また参勤道(豊後街道)の宿場町として繁栄を続けました。上井手の本流や用水を配る分流には、水流を利用した水車が往時20余輸を数え、精米・製粉・製材等の動力源として地域産業発展の基礎となりました。後に米粉加工による郷土銘菓銅銭糖の誕生をみることにもなります。
北岸の光尊寺は、承応2年(1653)に藩主綱利により宿駅安定のために開基された古刹です。また、その山門に架る光尊寺橋は、文化12年(1815)架設で上井手に現存する石橋の中でも貴重な単一眼鏡橋として町文化財に指定されています。古い親柱に『山鹿郡下内田村石工』と刻んであり、県北山鹿市鹿本町下内田にいた石工集団が造った橋であることがわかります。街並の歴史を感じさせる界隈です。」
平成21年10月1日 大津町教育委員会

堀川(上井手)
「史蹟 堀川(上井手) 加藤忠広公は父清正公の遺志を継いで元和4年(1618)堀川の開墾に着手、瀬田鍋倉の瀬に取入口を設けて幾多の難所を排除しつつ工事を捗めた。しかし寛永9年没封国除となり、かわって入国した細川忠利公がその遺業を継ぎ、寛永13年(1636)工事を再開、次代光尚公により坪井川まで全長約24kmの堀川が完成。原野変じて大津穀倉地帯の基が礎かれた。このことは肥後三大御倉の一つ大津御倉が置かれたことが如実に物語っている。
以来堀川に沿って集落が形成され大津手永会所の所在地として政治経済の中心地となり、また参勤道の宿場町して繁栄を続けた。往時堀川には流れを利用した水車が20余輪を数え、後に米粉加工による郷土銘菓銅銭糖の誕生をみることになる。当光尊寺は承応2年(1652)に開基された古刹で山門に架る石橋は文化12年(1815)架設で堀川に現存する石橋の代表的な一つである。」
大津町教育委員会

松古閑橋  大津町大字大津 室 ( 熊本県 )

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松古閑橋  大津町大字大津 室

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。県道30号大津駅前通りを北へ入ると、上井手沿いの町道に出る。上流へ進むと復元された御客屋門の先に、この橋が架かる。

松古閑橋 まつこが
(菊池)大津町 一般道/上井手 石アーチ橋 (凝灰岩) 長5.0m,S2.3m(A),幅2.5m 文政12(1829)頃 WEB(石橋) 上部C補強 2 C

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№256  松古閑(まつこが)橋
菊池郡大津町大字大津 室
橋長:5.0m  橋幅:2.5m  径間:2.3m  
昔の隅府街道

御巡検道口の松古閑橋
「ここ松古閑の『古閑』は空閑、すなわちと景色のいい静かなところいう意味で、そこに松が茂っていたということになります。古くから丘陵地帯できれいな水が湧くところで、人の生活には適したところでした。井手の北側の高みを車道が通じていますが、これは旧来の菊池往還の名残です。大正9年(1920)に上大津の下御客屋跡に下る隈府道(新道)が造られるまでは、この松古閑橋に下りる道が本道でした。
菊池往還は古く室町の頃から既に通じていたと謂われています。恐らく筑前那の津(博多)から日向宮崎へ通じる古道の一部と思われます。町内はここから中学通りを経由して陣内から岩坂・阿原目に抜けています。江戸期には幕府の巡検使が諸国の国情(年貢となる作物の出来柄)を見回るためのルートとされ、御巡検道と呼ばれました。周囲は稲作には向かない台地上の道ですし、手心を加えてもらうように配慮したのでしょうか。
松古閑橋は、その御巡検道が上井手を跨いで参勤道と交差する処に架けられた橋です。単一眼鏡橋で古書には安永8年(1779)の架設とあり、大津では古い時期の橋となりますが、時代的に新しい輪石の並びがみられ、現行の橋は後で架け替えられた可能性があります。古くから重要な交差点ですし、やはり何度か流失と架設を繰り返したものと思われます。井手の幅に合わせた小規模なアーチで、上流の光尊寺橋と同じく県北の石工の作でしょうか。今も現役で活躍していますが、数少ない古い石橋の一つであり、町の歴史を物語る重要な建造物として町文化財に指定しています。
対岸の坂道を登る途中に、地蔵様があり、古書によれば町の地蔵祭の発祥地の一つとされています。その近くには、古くからの祠や神社があり、古くからの人の暮らしが感じられる地域です。」
平成21年10月1日 大津町教育委員会

大津手永会所の御客屋門(移設)  大津町大津 ( 熊本県 )

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大津手永会所の御客屋門(移設)  大津町大津

現地説明板は、次のとおり。県道30号大津町役場先から北へ入り、上井手の手前広場に復元された移設門がある。

大津手永会所の御客屋門(移設)

大津の室三簀戸口から塘町筋・上大津に至る界隈は、江戸期に熊本から阿蘇・大分鶴崎に向かう参勤道(豊後街道)の経由地となりました。特に大津宿は熊本から参勤の第一泊の宿地として整備されるとともに、その他の利から肥後熊本藩における地域行政の中心地の1つとなりました。
そのため、藩主の参勤交代やその他の来遊に供された「御茶屋(本陣)」や、その他行き交う藩や遠来の高級武士の宿舎であった3つの「御客屋(脇本陣)」などの施設、手永会所・御蔵など地域行政の施設群がありましたが、今では明治以来の街並の変化、世代交代、価値観の変遷などに伴い、江戸の香りを残す街道の館群はすべて失われました。その中で唯一奇跡的に残された建物がこの薬医門形式の御客屋門で、屋根瓦には九曜の紋が並んでおり、細川藩の施設であった面影を残した建造物です。
この門は、手永会所の南側に附設された御客屋の街道への出入口に本来ありましたので、公的なお屋敷として裁を整えた御客屋の薬医門として、幕末頃までには建造されたと思われます。しかし、建造に関する古記録が見つからず確かなことは不明です。災害で周囲の施設群の役割が変わった場合も考えられるので、これまで「会所門」・「御茶屋門」など複数の名称で呼ばれてきました。昭和36年(1961)頃まで原地にありましたが、その後町内の寺院の山門に転用・移設されました。しかしながら、江戸の大津を物語る唯一の建造物として、その保存を望む声が強く、町が寺院からの寄贈を受け、ここに移設してその保存を図ることにしました。
大津町教育委員会

大願寺橋  大津町室 ( 熊本県 )

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大願寺橋  大津町室

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。県道30号大津駅前通りを北へ入ると、上井手沿いの町道に出る。下流へ少し戻ると大願寺がある。
高さ0.72mの高欄の石材が山門内に保存とは、確認忘れ。

大願寺橋 だいがんじ
(菊池)大津町 参道(人道)/上井手 石アーチ橋 (凝灰岩) 長5.8m,S5.5m(A),幅2.2m 文政2(1819)? WEB(石橋)/歴史の道・豊後街道p.99 高欄改修、階段新設(色が不適合) 高さ0.72mの高欄の石材が山門内に保存 3 C

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№255  大願寺橋
菊池郡大津町大字室
橋長:5.8m  橋幅:2.2m  径間:5.5m  拱矢:2.8m
松古閑橋から西へ約300m、大願寺前に架かっています

塘町筋
「塘町筋(とうまちすじ)寛永の頃に熊本藩主細川忠利公により堀川(瀬田上井出)の開削工事が再開された際、工事の排土により築かれた川塘の上に建てられた町並みが塘町筋である。ここは、豊後街道に面しており、宿場形成のために一部白川筋の住民を移住させるなど、当時政策的に作られた町である。旅籠・商家などが軒を連ねて宿駅大津の中心地となった。堀川の北側に並ぶ光尊寺・年禰神社・大願寺は何れも新住民の定着を願って建立されたものである。また、堀川には、上流から地蔵橋・光尊寺橋・松古閑橋・大願寺橋・井出上橋の5基の石造眼鏡橋があり、このうち下流の4基がこの町筋にある。さらに、西南戦争の弾痕の残る大願寺山門や芭蕉百年忌に建立された芭蕉句碑など、往時をしのばせる史跡が多く、ここは歴史の香りのする町並みである。」
大津町教育委員会

井手上橋(塔之迫橋)  大津町室 ( 熊本県 )

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井手上橋(塔之迫橋)  大津町室

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。県道30号大津駅前通り西手前の室交差点から北へ入ると、上井手沿いの町道に出るので、上流へ遡って行く。
井手上橋の上流側に桁石3列×3の方杖桁橋で拡幅しているのは、確認忘れ。5枚目に少し写る。

井手上橋 いでうえ
(菊池)大津町 一般道/上井手 石アーチ橋 (凝灰岩) 長5.1m,S4.7m(A),幅3.3m 文化14(1817) WEB(石橋) 上流側・石方杖、下流側・RC桁で拡幅 石工:猿渡吉蔵 4 –

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№1,537  塔之迫橋(井手上橋)
大津町室
上井手
橋長:5.1m  橋幅:3.3m  径間:4.7m  拱矢:2.0m  環厚:cm
架設:文化14年(1817)

大願寺橋から150m南西に架かっています。下流側は拡幅されていますので、覗き込まないと輪石は見えません。
下流側、コンクリートで拡幅してあります。
上流側には桁石3列×3の方杖桁橋で拡幅してあります。
この方杖桁橋と同じ型式は下流の西鶴橋、大分県香々地町の鵯越橋などがあります。

大津町役場前の道路元標  大津町大津 ( 熊本県 )

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大津町役場前の道路元標  大津町大津

大津町役場玄関前の左側に残る。正面「大津町道路元標」、右面「熊本縣菊池郡大津町字大津一二三三番地」と刻む。
左面・裏面の刻字は写さなかったが、1919年(大正8年)の旧道路法では各市町村に一個ずつ道路元標を設置することとされていたので、この時代の道路元標だろう。大津町のは、HPに表れないため記録しておく。
ウィキペディアフリー百科事典による「道路元標」の説明は、次のとおり。
3枚目の写真は、熊本県道30号大津植木線の通り。

道路元標

道路元標(どうろげんぴょう)とは道路の起終点を示す標識である。

変遷
日本では1873年(明治6年)12月20日政府は 太政官日誌により各府県ごと「里程元標(りていげんぴょう)」を設け陸地の道程(みちのり)の調査を命じている[1][2][3]。1911年(明治44年)に現在の日本橋が架けられたとき「東京市道路元標」が設置され、1919年(大正8年)の旧道路法では各市町村に一個ずつ道路元標を設置することとされていた[3]。

設置場所は府県知事が指定することとされており、ほとんどは市町村役場の前か市町村を通る主要な道路同士の交叉点に設置されていた。東京市に限っては旧道路法施行令によって日本橋の中央に設置することと定められていた。道路の起終点を市町村名で指定した場合は、道路元標のある場所を起終点としていた。

現行の道路法では道路元標は道路の附属物とされているだけで特段の規定はなく、道路の起終点は道路元標と無関係に定められている。道路元標の設置義務がないため、取り壊されたり工事などでいつの間にかなくなってしまった道路元標も少なくない。

岩 下 橋  菊池市大字四町分字岩下 ( 熊本県 )

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岩 下 橋  菊池市大字四町分字岩下

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。国道325号菊池市街の南東から県道201号に入る。5.5km先、岩下交差点の右手奥「岩平橋」の下に残っている。

岩下橋 いわした
菊池市 <廃道>/河原川 石アーチ橋 (凝灰岩) 長10.9m,S9.0m(A),幅2.9m 文政8(1825) WEB(石橋) 保存状態良好 石工:備前の勘五郎(棟梁)・茂吉/橋を渡った所に、馬頭観音が祀られている 2 C

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№1,225  岩下橋
菊池市大字四町分字岩下
河原川
橋長:10.9m  橋幅:2.9m  径間:9.0m
架設:明治5年(1872)
県道325号線、河原小学校付近から県道201号線へ、5.5Km先右手、岩平橋の下に架かっています。
新橋の下にあります。

古川兵戸井手  菊池市豊間〜雪野〜重味〜原 ( 熊本県 )

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古川兵戸井手  菊池市豊間〜雪野〜重味〜原

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。私は参考文献を調べていないので、正確に説明できないが、「古川井手」取水口と思われる現在の国道387号沿い菊池川上流にある古川発電所あたりから水路を辿って下り撮影した。
熊本県HP掲載の「■水をめぐる争い」にある写真の場所は、撮影写真4,5枚目のところである。この先の途中は訪ねていない。
次に「■その後 古川井手由来碑・水分神碑」の場所を訪ねた。「戸豊水村を見下ろす北浦」というところの高台である。菊池市街立町交差点から国道387号に入る。菊池公園上部の豊間には、現在「菊池台地用水土地改良区」事務所がある。
「由来碑・水分神碑」の場所は、国道のまだ先で大柿交差点から左折して納骨堂がある高台まで上がる。ここに菊池遺産「古川兵戸井手」と由来碑の説明板があった。撮影写真は、10枚目以降である。

旧・古川兵戸井手 ふるかわひょうど
菊池市 菊池川 用水路 文化13(1816)→天保8(1837) 市教委/WEB 部分的に残存(非C水路) 五島五郎衛門→平山八左衛門(取水口を拡大)/素掘トンネルが幾つか残る 4 C

熊本県HPの 地域発 ふるさとの自然と文化 > 県北 > 建造物 > による説明は、次のとおり。

古川兵戸井手(ふるかわひょうどいで) 菊池市
所在地  菊池市豊間〜雪野〜重味〜原
解説

■平野井手の開設と五島五郎衛門
文化9年(1812年)、河原手永大柿村と平野村の庄屋・五島五郎右衛門は、村の零落した生活を改善したいと願い、かねてより練り上げていた計画を実行に移しました。それは台地上の畑地を水田に変えるため、菊池川の上流から水を取り入れ、台地上に長い井手(いで、用水路のこと)を建設することでした。
五郎右衛門が練り上げた計画は、惣庄屋を通じて藩に提出した「平野井手開設願」で知ることができます。台地よりはるか下を流れる菊池川から飲み水を運び上げる苦労や、干ばつ時の生活状況のひどさを示し、用水路の必要性を訴えると共に、増加する水田面積や生産高を予想し、工事設計の絵図面や事業費の見積帳を添えています。
五郎右衛門がこのような詳細な計画を立てた背景には、五郎右衛門が庄屋となる前に、この構想が持ち上がりながら見送りになった経緯があったからだといわれています。
「五島五郎右衛門顕彰碑」によれば、五郎右衛門は現在の菊池市河原地区の生まれです。子供のころから学問に優れ、元服後すぐに手永会所の見習いとなり、庄屋になるまでの約20年間、手永会所や郡代詰所の役人として勤務しました。
こうして、願い出た翌年に藩の許可が得られ、3年後の文化13年(1816年)に完成しました。井手には、いくつもトンネルが掘られ、その総延長は計画時の2倍を越える約30kmになり、新田数十町が開かれました。

■水をめぐる争い
平野井手は菊池川沿いの「古川」という場所に取水口があるところから、「古川井手」とよばれるようになりますが、この地はもっとも上流の取水口でした。つまり、干ばつの年にも有利に水を利用することができます。
このため、すぐ下流にある大場堰を取水口とする原井手を利用する村々、また菊池川から水を引く下流域の河原手永や深川手永の村々にとって重大な問題となりました。
これらの村々は水利用の優先権を持つため、平野井手は完成したものの、取り入れ口は幅60cm、深さ30cmと制限され、畑に使用する水は飲料水の余りでまかなうなど、さまざまな制約を受けました。
もっとも下手の大柿村に到達するころにはわずかな水量になっていて、降雨がなければ水が余らなかったといわれています。

そして、もっとも過酷な制約は、干ばつの年に川下の村々が乾田になった場合、井手口をふさいで飲料水だけ通し、降雨があって水が増えたら井手口を開けるが、それまで平野村では手を触れてはならない、というものでした。干ばつに備えた五郎右衛門の計画でしたが、水に対する農民の厳しい考え方の前に、妥協せざるを得なかったようです。
平野井手開通の2年後、文政元年(1818年)には早くも干ばつがやってきました。百年に1回といわれた大干ばつで、河原・深川両手永一円に菊池川の水をめぐる大規模な騒動が発生しました(文政の水喧嘩)。
もちろん、平野井手の取水口がふさがれたことはいうまでもありません。しかし、皮肉なことに、この大干ばつが五郎右衛門が思い描いた平野井手に近づくために大きな貢献をすることになりました。

■戸豊水村庄屋・平山八左衛門
文政元年(1818年)の大干ばつ後、東迫間村と戸豊水(とりうず)村兼任の庄屋となった平山八左衛門は、「文政の水喧嘩」のときに、もっとも大きな騒動の舞台となった東迫間村の庄屋を務めていました。郡代や深川手永惣庄屋と共に謹慎処分を受けましたが、農民531名に対して申し渡された処罰はそれ以上に過酷なものでした。
平野井手の水量を増やす抜本的な計画を作る必要を感じ、数年にわたって計画を練ったことが知られています。八左衛門は、迫間眼鏡橋を資金集めから施工までの世話を自分で行うほど有能な庄屋であり、その計画は五島五郎右衛門以上に詳細なものであったことが古文書から知ることができます。

■夢のような「兵藤(兵戸)井手」建設計画 
八左衛門が作った計画は、当時の感覚からいえば実現困難なものでした。それは現在の大分県、当時は幕府の領地であった上津江川原村笹原を流れる川原川(筑後川上流)に堰(せき)をつくり、井手を引き、兵戸峠(とうげ)を6つのトンネルで越え、菊池川に水を流すことでした。
つまり、八左衛門は菊池川の水量そのものを増やし、平野井手を大きく改修し、戸豊水村まで井手を延長する計画でした。その増えた分の水利権を主張し、井手に課せられた制約を取り除こうと考えました。
この計画は、急な斜面に井手を掘り、長いトンネルを通し、トンネルの出口と古川の取水口で水量を量らなければならないという技術的な問題も抱えていましたが、幕領であった上津江川原村を治める日田代官所を通して幕府の許可を得るという大きな壁が立ちはだかりました。

■古文書からわかる八左衛門の苦労
現在、菊池神社宝物館に保管してある「戸豊水文書」や菊池市西迫間の平山家に残る「平山家文書」には「兵藤井手」の計画立案から完成までの経過が記録されています。
これらによると、文政10年(1827年)に幕府から許可され、天保8年(1837年)の古川取入口完成まで、10年間にわたる工事の苦労とともに、すでに文政5年(1822年)ごろから、上津江や手永内の村々、郡や藩役人、日田代官所との交渉や調整が始まり、工事完成まで続いたことがわかります。
有能な技術者でもあった八左衛門ですが、峠付近の風化した花崗岩(かこうがん)地盤のもろさにはどうしようもなく、当初の計画を大幅に変更せざるを得なくなりました。このような工事の遅れ、交渉などの気苦労は計り知れないものだったと思われ、「兵藤井手」完成の翌年に八左衛門は亡くなっています。

■その後
古川井手由来碑・水分神碑
兵藤井手完成後、戸豊水村を見下ろす北浦には井手で掘削された石、兵戸峠のトンネルで掘削された石、それに古川取水口を新しくしたときに掘削した石の3つを御神体とする「水分神碑」と「古川兵戸井手由来碑」が建立されました。
その後、平野井手は古川・兵藤・戸豊水をとって「古川兵戸井手」とよばれるようになりました。井手は183町(約183ha)の面積を水田に変え、改修や上津江村との水使用の合意を経て、昭和32年(1957年)まで使用されましたが、上津江村との協定は更新されず、菊池市は分水権を放棄しました。
上津江村からの分水はなくなりましたが、現在でも古川兵戸井手は、国土交通省が新たに造った菊池川の立門揚水場から台地に水を送り続けています。取入口の大きさは八左衛門が苦労して大きくしたときの規格が守られており、平野井手の時代に戻ることはありませんでした。

参考文献
菊池市史編さん委員会 編 『菊池市史 下巻』  菊池市 1986年
建設省菊池川工事事務所 編・発行 『菊池川 菊池川流域見聞録』