九州(熊 本 県)」カテゴリーアーカイブ

宝永隧道(今村マブ)  菊池市今 ( 熊本県 )

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宝永隧道(今村マブ)  菊池市今

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。菊池市街から国道325号により大津町方面に南下、菊池橋を渡ってすぐ老人ホームつまごめ荘の後ろ側に向かうと、戸崎城跡の入口橋のところに宝永隧道(今村マブ)の案内標識がある。

宝永隧道(今村マブ) ほうえい
菊池市 今村井手 トンネル(水路) 長302m 宝永2(1705) WEB 毎年4月、小学生が内部を見学 河原手永惣庄屋・河原杢左衛門が今・赤星・森北地区に引水するため開削 1

菊鹿町松尾の道標  山鹿市菊鹿町松尾 ( 熊本県 )

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菊鹿町松尾の道標  山鹿市菊鹿町松尾

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。国道325号山鹿市来民交差点から県道196号に入り、菊鹿町城北小学校前まで行く。菊池市方面へ県道18号を少し進むと左手上が松尾字大林であり、集落内の東端入口道路に面して薬師堂がある。
道標は、薬師堂の裏側に拝殿の支え石となってあり、地元の人もあまりその所在を知らないので注意する。資料は菊鹿町史などから。

菊鹿町松尾の道標 きくか、まつお
山鹿市 (大林・薬師堂)<相良往還> 石道標 高100㎝,幅21㎝ 弘化2(1845) 市教委 県道拡幅により移動 (正面)「右、わいふ」、(左面)「左、山みち」 2 C

なお、最後の4枚は、菊池市方面へ県道18号をさらに進み、大林橋脇で見た地蔵道標。天保年間の建立で、台座正面に右左と地名刻字があるが、判読できない。

城野松尾神社のクスノキ  山鹿市菊鹿町木野 ( 熊本県 )

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城野松尾神社のクスノキ  山鹿市菊鹿町木野

HP「人里の巨木たち」全国巨樹探訪記 熊本県によるデータは、次のとおり。国道325号山鹿市来民交差点から県道196号に入り、菊鹿温泉の方へ向かうと、途中に松尾神社がある。

名称 城野松尾神社のクスノキ
(きのまつおじんじゃのくすのき)
名称の典拠 なし
樹種 クスノキ
樹高 20m(注1)
目通り幹囲 6.3m(注1)
推定樹齢 伝承700年(注1)
所在地の地名 熊本県山鹿市菊鹿町木野(注2)
山鹿市指定天然記念物(1983年8月2日、「松尾神社の樹木群」として境内の主な樹木を一括指定)

注1)環境庁「日本の巨樹・巨木林 九州・沖縄版」による
注2)2005年1月15日、山鹿市に合併。旧行政区は鹿本郡菊鹿町

松尾神社の境内に、2本のクスノキが立っている。いずれにも紙垂をつけた細い注連縄が巻かれている。神木とされているのだろう。奥の方に立つ方が大きい。
もう片方は境内前面で石造仁王像の後ろに立っている。神社に仁王さんとは奇妙な感じがするが、九州ではときどき見かける。
仁王像もクスノキと同じ注連縄を腰に巻いている。さすが、神社の仁王さんである。

浮田下ノ池・吐井手(再掲)  玉名市築地 ( 熊本県 )

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浮田下ノ池・吐井手(再掲)  玉名市築地

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによる説明は、次のとおり。現地は玉名市の北西部。旧岱明町との境界あたり。浮田溜池は三段あり、上・中・下の池がある。国道208号玉名バイパスから入り、すぐ左折すると浮田下の池があり、この池の土手に説明板と由来書きの顕彰碑がある。
この項は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/4604

浮田下ノ池・吐井手 うきた
玉名市 浮田下ノ池〜元口掛 護床敷石 長26m,幅5-7m 嘉永5(1852)以降 市教委(浮田溜池関連施設p11-17) 上流側2段は洋風に並べられた布石状の敷石、最下部は打込みはぎ状の敷石 惣庄屋・清田新之允によって文化13(1816)に浮田溜池(中ノ池)が造られたが、嘉永5の干魃を受けて中ノ池の上下に造られた溜池/下ノ池から流出する3本の水路のうちの「元口掛」に設けられた導水路 1 A

さて、遺産リストにある下ノ池から流出する「元口掛」に設けられた導水路の玉名市教育委員会提供写真である。玉名バイパスの土手道路敷となったのか確認できない。私が見たのは、下の池土手東側手前にあった導水路である。
7月28日、再び確認に出かけたが、現状写真のとおり玉名バイパスの工事で、最下部の打込みはぎ状の敷石は、コンクリートが張られ、導水路は改修されているようなので、比較写真を掲げる。

三十六のめがね橋  熊本市北区植木町清水 ( 熊本県 )

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三十六のめがね橋  熊本市北区植木町清水

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。国道3号植木町岩野交差点から県道3号へ、さらに山本小学校から県道119号に入り北上すると、三十六集落の県道右下に天満宮の鳥居が見える。

三十六のめがね橋
熊本市(北区) 人道<豊前街道>/天満宮<大清水川> 石アーチ橋 (凝灰岩) 長7.5m,S3.9m(A) 嘉永3(1850) WEB(石橋) 昭和59移築/C高欄 3 C

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№1,346  三十六の眼鏡橋
植木町清水
橋長:7.5m  径間:3.9m
架設:嘉永3年(1850)
昭和59年移築
植木町支所前から国道3号線を900m北上、県道3号線へ左折、4Km先右下天満宮境内にあります。
鹿央町の千田村と植木町の山本村境に架かっていたもので、三十六は小字名。

石橋の由来
「この石橋は、幕末の嘉永3年(1850)山本郡下大清水村庄屋畠山理左衛門、大清水村庄屋服部甚之助、玉名郡広村庄屋木村茂四郎、江藤又左衛門によって、村内を流れる大清水川に架橋されたもので、熊本新一丁目を起点とし、植木町味取、内村、三十六を経て本橋を渡り、山鹿町、南関町を経由して筑後、筑前、豊前小倉に至る九州屈指の入道を誇り、豊前街道の呼称で、参勤交代の道として利用された。築造以来約130年間その恩恵は実に多大なものがあった。
昭和57年の水害を契機として、今般千田川河川災害関連事業により、やむなく撤去せざるを得なくなったが、先人の偉業を偲ぶためにぜひ保存したいとの強い要望があり、県の協力を得てここに復元移築したものである。」
昭和59年3月  熊本市教育委員会

改寄立石の道路状遺構  熊本市北区改寄町立石 ( 熊本県 )

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改寄立石の道路状遺構  熊本市北区改寄町立石

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。
私が資料としたのは、『鞠智城跡2−論考編1−』熊本県立装飾古墳館(Adobe PDF)から、「鞠智城西南部の古代官道について」木本雅康氏の研究紀要。
詳しい説明や場所説明は省くが、熊本市北区植木町(第4図地点は写真1,第5図地点は写真2)や改寄町立石(第6図地点は写真3〜8、特にヲ→レ、二→ヲを望む)の古代官道道路状遺構の現況写真である。

改寄立石の道路状遺構 あらきたていし
熊本市(北区) <西海道> 道路 東西約200m、その先直角に南下して約220mの区間 古代 木下 良 視認できる古代道路跡地としては、大規模 立石地区は東西約200m×南北約300mの長方形区画が明瞭で、空堀状の窪地で囲まれており、さらに道路状遺構と思われる帯状窪地がある 2 A

正院メガネ橋  熊本市北区植木町小野 ( 熊本県 )

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正院メガネ橋  熊本市北区植木町小野

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。植木町の熊本市北区役所前から市道を東へ2.3km。小野泉水公園に移築復元されている。

正院メガネ橋 しょういん
熊本市(北区) 人道/ 小野泉水公園<正院川> 石アーチ橋 (凝灰岩) 長5.5m,S4.8m(A),幅2.1m 安政3(1856) 市有形 WEB(石橋) 昭和52移築 楔石に関係者の名前が刻まれている/小野小町が産湯を使ったという伝承のある池 2 C

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№1,345  正院メガネ橋
植木町小野字七国
橋長:5.5m  橋幅:2.1m  径間:4.8m  拱矢:3.3m
架設:安政3年(1856)
昭和52年移築
植木町支所前から町道を東へ2.3Km。左手、小野泉水公園内にあります。
東側の要石には名前が刻んであります。

正院メガネ橋 市指定有形文化財
「安政三年(1856年)に正院川に架設されていた橋であるが、河川工事により昭和52年3月に、正院より現在地に移転して復元されている凝灰岩製。単一のアーチ橋である。幅2.1m。両脚間の幅4.8m、水面までの高さ2mである。楔石に陰刻銘がある。」
熊本市

滴水の眼鏡橋  熊本市北区植木町小野 ( 熊本県 )

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滴水の眼鏡橋  熊本市北区植木町小野

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。植木町の熊本市北区役所前から市道を東へ2.3km。小野泉水公園内に移築復元されている。

№1,344  滴水橋
移築前
植木町滴水(たるみず)
木葉川
橋長:6.1m  橋幅:4.46m  径間:3.2m  拱矢:1.54m  環厚:31cm  輪石:17列
国道3号線・国道208号線交差点から国道3号線を600m南下、2つ目の信号を右折 700m先、桜井小を過ぎて右折、800m先に架かっていました。

5年2ヶ月ぶりの訪問
今年1月に撤去されました。小野泉水公園に移設されるそうです。
左手ブルーシートの下に石材が保管されています。
以上 2010.02.06撮影

滴水の眼鏡橋(移築復元)
元所在地 植木町大字滴水字高田の滴水と平野の間
「もとは木葉川上流の神の木川に架かっていた単一アーチ橋で、垂直な橋台の上に洪門(アーチ)がのる構造です。
長さ6.3m、幅4.4m、アーチ径3.2m、アーチ部の高さ2.7mで、輪石17列と橋台3段(使用石材数155個)で構成されていました。アーチ部はボルトやコンクリートを使用せずに石材のみで組み上げられています。
小型橋ながら構造は堅牢で破損がなく、架橋当時の状態が非常に良く残っています。石材は凝灰岩切石で、精緻に組み上げられており、当時の技術の高さを物語っています。中央の楔石は、他の輪石より少し大きい石材が使用され、輪石下の橋台は切石を垂直に積み上げてあり、輪石と共に精美な印象を与え、丁寧な仕事ぶりがうかがえます。脇にあるもとの高欄と親柱の一部は川から引き上げました。
架橋した年代や施主、石工は現在のところ記録がありませんが、明治〜大正時代のものと思われます。」
平成22年(2010)3月 熊本市教育委員会

滴水からここ小野泉水公園に移築復元されました。
以上 2010.03.22撮影

龍田の里数木(二里)と道標石  熊本市北区龍田7丁目 ( 熊本県 )

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龍田の里数木(二里)と道標石  熊本市北区龍田7丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストのデータは、次のとおり。県道337号の熊本市北区龍田7丁目、二里木バス停横の一角にある。
後ろの写真は、この一角に一緒に設置している道標石だが、もともとの位置はここではない。付近から移設したとのことである。年代は不明。

龍田の里数木(二里) たつだ
熊本市(北区) <豊後(大津)街道> 一里木 榎(南側1本) 江戸期 WEB/歴史の道・豊後街道p.93 根元が空洞化→保存に成功 豊後(大津)街道に残る唯一の一里木 2 B

熊本市龍田校区まちづくり協議会HPによる説明は、次のとおり。

【歴史ある二里木里数木の保存】
台風シーズンを前に歴史ある二里木の里数木を守れ!
天正16年(1588)熊本城主となった加藤清正は、政治経済、軍事の重要なルートとして豊後街道を整備しました。この街道は、熊本城内・札の辻を起点として、大津、阿蘇の二重峠を越え、内牧、九重を通り、豊後鶴崎に至る道です。
街道には、札の辻を起点として、1里(約4km)毎に塚が設けられ、そこにエノキ等の樹木が植えられました。江戸時代には細川藩主が参勤交代の時に通った路として知られ、また、商業においても多くの人々が行き交ったとされます。 現在、龍田7丁目、熊日新聞販売所の前にある二里木里数木は、豊後街道の一部であった大津街道では里数木として生き残っているただ1本の貴重な木であり、先代の枯死したと思われたエノキが芽を吹き出し、隆々と緑の葉を繁らせています。
しかし 、根元が空洞化しており、台風等の影響を受ければ倒木の恐れがあり、また、通行する人にも被害が及ぶ危険がある為、歴史委員会では、剪定及び支柱等の対策を考えましたが、当委員会の予算では難しく、熊本市当局の方へ相談に行きました。そして、東部土木センター及び龍田まちづくり交流室の協力を得て、この歴史ある里数木を保存することができました。関係各機関の皆様のご協力ありがとうございました。

【二里木道標石の説明】
龍田町上立田字吉ノ平この道標石は、擬灰岩の自然石の石柱で、現高120cm底辺32cmの四角錐に近い形をしている。表上には「1628番」とあり、その下に二行に分けて「右あそ・大分」「左大津・内牧」と大きく刻み、左側面には「等所清水旦次・阿蘇郡甲斐有雄」と刻まれている。
甲斐有雄は阿蘇郡野尻村尾下(現高森町)の石工であるが、旅人の道に迷う者の多いのに心を痛め、文久元年(1861年)から道標石の建設を始め明治10年の西南の最中もその事業を継続した。 県下では阿蘇を中心として上益城・飽詫まで足を延ばし、宮崎県では臼杵郡大分県では直入郡などにも建設し総数1900基にも及んでいたる。尚、甲斐有雄の道標石は、熊本市では現在、この1つしか発見されていない。
2003年8月20日  龍田町まちづくり協議会・歴史委員会

豊後街道櫨並木  菊陽町大字津久礼 ( 熊本県 )

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豊後街道櫨並木  菊陽町大字津久礼

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストのデータは、次のとおり。菊陽町県道337号(旧国道57号)の、JR豊肥本線三里木駅西側となる県道138号高架下から菊陽ボウル前あたりに、櫨並木の大木が残る。

豊後街道櫨並木 ぶんご
(菊池)菊陽町 <豊後街道> 櫨並木 (産業遺産) 約300m,約15本 元禄15(1702)以降 WEB(みさき道人)/WEB 一見並木に見えるが他の木も混植 江戸細川邸に預けられた大石内蔵助が、厚遇に感謝して、ロウソクの原料となる櫨(ハゼ)の栽培を勧めたことに由来する 2 B