九州(熊 本 県)」カテゴリーアーカイブ

手形野水路  南小国町満願寺大字手形野 ( 熊本県 )

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手形野水路  南小国町満願寺大字手形野

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。県道40号南小国町役場前の次の交差点から左折し満願寺のきよら手形野トンネルへ登る町道に入る。新トンネル手前左に旧道手形野隧道と、「あっぷるみんと 自然食レストラン 風のもり」へ上がる道がある。
手形野水路のことは、ここの経営者が詳しい。取水した水路は旧手形野隧道下に出て、店前を通り南小国町内へ下っているという。この旧道や左へ曲がった車道沿いに当初の姿を見ることができる。

手形野水路 てがたの
(阿蘇)南小国町 用水路 長約3㎞,幅約1m 江戸期? 町教委 部分的に当初の水路が残る 町内に残る最長の水路 3 C

野出越えの石畳道  熊本市西区河内町野出 ( 熊本県 )

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野出越えの石畳道  熊本市西区河内町野出

金峰山の麓、県道1号熊本玉名線の追分バス停西側にある「草枕の道 野出越えの石畳道」。HP「旧街道を歩く」石畳道を歩くによる説明は、次のとおり。

漱石が歩いた石畳道

山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらする唯の人である。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行く許ばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶なお住みにくかろう。

夏目漱石「草枕」の冒頭である。熊本市内から金峰山山麓を越えて天水温泉への旅を描いたものである。
漱石が歩いた道には石畳があり、「鳥越の茶屋跡」の手前の鎌研坂(かまとぎざか)と「野出の茶屋跡」の手前の野出越えに残っている。

■鎌研坂の石畳道
鎌研坂の石畳は自然石がまばらに敷かれている。
鎌研坂の登り口にある石碑。
鎌研坂を登り切って、道路を渡った所にある鎌研坂公園の漱石句碑。
木瓜(ぼけ)咲くや漱石拙(せつ)を守るべく
鎌研坂の登り口付近から見た熊本市内。阿蘇の山並みが見える。

■野出越えの石畳道
県道の追分バス停の西。右手に漱石「草枕」ハイキングコースの標識が出ている。
県道からの入口。
石畳道入口の漱石句碑。家を出て師走の雨に合羽哉
杉林、竹林、そしてみかん畑の中を行く。

天明(1785年頃)の銘がある地蔵を漱石も見ただろうか。
石畳道の出口付近。みかんの収穫は終わっていた。

鼓 ヶ 滝  熊本市西区河内町野出

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鼓 ヶ 滝  熊本市西区河内町野出

熊本県環境立県推進課HP「水の国 くまもと」水の名所による説明は、次のとおり。県道101号岩戸観音入口橋のすぐ下流側にある。

鼓ヶ滝(つづみがたき)

滝から流れ落ちた水が洞内にこだまして、ポンポンと鼓のような音がしていたので、鼓ヶ滝という名がついたと言われている。鼓ヶ滝は、金峰山県立自然公園内を流れる河内川(2級河川)にある大岩(幅・高さともに約10m)から流れ落ちている。この景観は熊本市松尾町平山と同河内町野出地区境の県道沿いから間近に見ることができる。

鼓ヶ滝は金峰山カルデラの渓谷にあるため景勝地「肥後耶馬渓」の見所の1つとなっており、高低差はあまりないが、滝つぼの様子は、多くの写真愛好家の撮影ポイントとなっている。滝は熊本市の「水遺産」に登録されているほか、環境省認定の「平成の名水百選」に認定された金峰山湧水群にも近く、少し足を伸ばせば金峰山湧水群を訪ねることができる。

鮎 帰 橋  熊本市西区河内町河内 ( 熊本県 )

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鮎 帰 橋  熊本市西区河内町河内

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。雲巌禅寺から松尾町平山集落内を下り鮎帰橋へ出たが、細道で急坂である。九州自然歩道を県道101号岩戸観音入口まで下り、県道を河内町河内の平公民館手前まで下る方が良い。

№1,842  鮎帰(あゆがえり)橋

熊本市西区河内町河内
河内川
橋長:12.3m  橋幅:6.5m  径間:7.9m  拱矢:5.0m
架設:弘化3年(1846)

雲巌禅寺境内  熊本市西区松尾町平山 ( 熊本県 )

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雲巌禅寺境内  熊本市西区松尾町平山

熊本市HPの熊本市の文化財による説明は、次のとおり。雲巌禅寺は熊本市西区、金峰山の西麓にあり、国道501号上松尾から金峰山周遊道路を上がって訪ねた。

県指定 記念物  史跡及び名勝  雲巌禅寺境内   松尾町平山

古くから岩戸観音として知られた由緒ある霊場で景勝の地である。既に平安時代の頃、霊巌洞には石体四面の観音が祀られて人々の尊崇の対象であったことは、清原元輔や桧垣の伝承によって知ることができる。雲巌禅寺が創設されたのは南北朝の頃で、開山は元僧東陵永璵である。室町時代には衰退したが、加藤氏・細川氏の庇護によって江戸時代には再び整備の手が加えられた。細川家の重臣沢村大学助吉重が深く信仰し、宮本武蔵も霊巌洞に籠って「五輪之書」を著したことはよく知られている。宝永5年(1708)にできた釈迦三尊と十六羅漢の石像、さらに安永8年(1779)から24年かかって奉納された五百羅漢も有名である。

呑吐堰・跡  熊本市南区富合町杉島 ( 熊本県 )

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呑吐堰・跡  熊本市南区富合町杉島

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。国道3号緑川に架かる緑川橋から上流部に呑吐堰・跡はある。

呑吐堰・跡 どんどぜき
熊本市(南区) 緑川 石樋門 慶長8(1603) WEB 川の中に残骸が僅かに残るのみ 加藤清正/屈曲した緑川の洪水時の流下機能を高めるため、延長1,448m、幅127mの放水路を開削(堀川呑吐)→そこに造られた防潮用の樋門跡 5 C

HP「くまもとウォータライフ 熊本水遺産」土木・建設物による説明は、次のとおり。

66. 呑吐堰跡 (どんとぜきあと)
加藤清正の時代、緑川は富合町杉島で大きく北に湾曲しており、水はけが悪く大水害を引き起こしていた。そこで、杉島から緑川を直流させるため新川を堀削した。これが堀川呑吐と呼ばれるもので、緑川の放水路の役割をなした。ここに築かれた堰が呑吐堰であり、宇土一帯160町余の田畑を潤すと同時に、舟運のための砂防堰の役割も兼ねていた。
※写真は干潮で水が引いている時間に撮影したものです。
[場所]熊本市南区富合町杉島

中松尾橋  熊本市中央区南熊本5丁目 ( 熊本県 )

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中松尾橋  熊本市中央区南熊本5丁目

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。JR豊肥本線南熊本駅の北西側に寺田児童公園はある。

№1,341  中松尾橋

熊本市中央区南熊本5丁目
橋長:7.5m  橋幅:1.7m  径間:6.7m
南熊本駅の北西250m寺田児童公園内にあります。
松尾地区から移築した石橋

大津街道杉並木  熊本市北区龍田町弓削 ( 熊本県 )

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大津街道杉並木  熊本市北区龍田町弓削

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。JR豊肥本線沿いの県道337号菊陽町境近く「ひかりのもり駅」付近の歩道橋などから撮影した。
遺産サイトの同じようなデータ「大津街道杉並木(肥後の大杉並木)菊陽町県道337号」は、本ブログ次を参照。   https://misakimichi.com/archives/4654

大津街道杉並木 おおつ 熊本市(北区)
(菊池)菊陽町 <豊後(大津)街道>→旧国道57号,JR豊肥線 杉並木 約20km→12km,幅34〜39m,1340本(昭和12)→1002本(平成11) 天正16(1588)以降 歴史の道/WEB/歴史の道・豊後街道p.95 旧国道側のみ杉並木が残る/大半は昭和初期の補植/原形を留めているのは三里木〜原水間 加藤清正により植栽された(将来の城の修築用材と、伐採による敵兵の進軍防止が目的とされる)/屋久杉を使用したとの伝承があるが証明されていない(当初の杉が1本も残っていない。戦後補植された杉は、屋久杉の実生苗を使用)/幅が広かったため、国鉄と国道が併設された 3 C

正院浦の堤  熊本市北区植木町内 ( 熊本県 )

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正院浦の堤  熊本市北区植木町内

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。植木町市街から県道3号に入り山本橋先から正院厳島神社の方へ向かう。正院川側へ下り川沿いの農道を終点まで進むと、「正院裏(「裏」が正?)古堤改修記念碑」があり、錦鯉の養殖場となっていた。
旧植木町資料は最初のとおりだが、草が繁茂し改修があっているため、排水路とも石堰堤として残るかは確認できなかった。

正院浦の堤 しょういん
熊本市(北区) 石堰堤 江戸期? 植木町教育委員会 放置保存 石堰堤で築かれた溜池(珍しい) 2 B

戸崎城跡・弁財天・土阿弥陀堂  菊池市今 ( 熊本県 )

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戸崎城跡・弁財天・土阿弥陀堂  菊池市今

菊池市HPの文化・歴史による説明は、次のとおり。菊池市街から国道325号により大津町方面に南下。菊池橋を渡ってすぐ老人ホームつまごめ荘の後ろ側へ行くと、戸崎城跡・弁財天・土阿弥陀堂への入口案内標識がある。

市指定文化財<史跡>  戸崎城城跡

指定日 昭和41年4月15日
所在地 菊池市今

今村集落の北背後にある標高101mほどの小山が城跡で、登り口に「土阿弥陀」の坐像が祀られ、鹿島刑部の墓といわれる。鹿島刑部大輔は正平14年(1359)の大保原合戦で菊池武光に従い勲功のあった人物で、この城は鹿島氏代々の居城という。
城跡の周りは雑木林で、北側の裾には堀跡らしき地形が50mほど続き、周りを削り取った頂上部は直径12mほどの円形状の平坦地となっており、城跡名を刻んだ石碑が建っている。この丘の形が茶臼に似ていることから別名を「茶臼山城」とも呼ばれる。
城跡から見て南に、道路を挟んだ約50mのところに物見に使われたという小山があり、比高差約20mの真下には菊池川の流れを望んでいる。
本丸跡と思える一段高い所から四方に良く展望がきく。城跡と物見の間に弁財天を祀る祠が建てられている。