長崎市の石橋」カテゴリーアーカイブ

県立長崎工業高校角の「かりさこ橋」は石橋か?  長崎市岩屋町

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県立長崎工業高校角の「かりさこ橋」は石橋か?  長崎市岩屋町

道の尾交差点から左へ虹が丘病院や岩屋神社に行く道へ入る。市道岩屋町滑石線。工業高校前バス停の手前岩塔橋にかかると、左下に長崎県立長崎工業高校があり、校舎の左角に「かりさこ橋」が架かって見える。一見すると見事なアーチ石橋。

しかし、この橋はHP「長崎県の石橋を訪ねて」には出てこない。総合サイトトップへ戻ると、”fwd‐net長崎・諫早”。HP同氏のか、「お気楽日記帳」2007年7月14日記事「石橋かな?」に次のとおり出てくる。

fwd‐net長崎・諫早の変化狸の森羅万象日々雑感  「石橋かな?」

岩屋町開成学院前かりさこ橋という記載が57年の長崎市の調査資料にあるが、長崎工業高校のところに有ると聞いたので、ちょっと拝見。
写真のように一見、石造アーチ橋のようにデザインされた橋が在った。親柱を見ると「かりさこばし」とあるから、この橋のことなんだろう。
(ここで「続きを読む」をクリックすると)
石積みはあるが、コンクリートアーチの桁橋であった。残念。

「かりさこ橋」で検索すると、同ブログはすぐ出てくる。長崎工業高校は、昭和46年、家野町から現在地の県立開成学園跡地へ全面移転している。
私のブログ中の「長崎の石橋」は、専門の記でないからこんな橋も訪ねる。解体されてとうの昔から新しくなっている橋も、どんなところか見てみたいから訪ねて記事にしている。
この岩屋川沿いのまだ上流、旧道には「山口橋」が石橋としてただ1つ残っているが、これは後項により紹介する。

鎮西橋・西山橋(西山川)と鳴滝橋(鳴滝川)  長崎市馬町ほか

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鎮西橋・西山橋(西山川)と鳴滝橋(鳴滝川)  長崎市馬町ほか

先項において、桃渓橋から上流の西山川に残るアーチ石橋4橋を訪ねた記事を載せた。うっかりしていた。諏訪神社前の国道34号線馬町交差点にある「鎮西橋」をもらしていた。
資料は、石橋を最も詳しく調べられている諫早在住の方のHP「長崎県の石橋を訪ねて」。このHPに「鎮西橋」は出てこない。それで私ももらした。他の人のHPでは、石橋として紹介されている。

(1)鎮 西 橋
鎮西橋(ちんぜいばし)は、昭和9年(1934)架設と銘板がある。欄干から下部を見るとアーチ石橋のようだ。桃渓橋側から全体が見える。最近の工事で石が新しく白っぽい。馬町交差点に地下歩道を造ったとき、改修されたのでないか。
川の景観に調和させるため、表に見えるところだけ石を張り、下のアーチ部分は全面コンクリート。近代工法の橋である。
そのため、同氏HPの石橋の範囲に「鎮西橋」は該当しなかったようだ。ほかにも理由があるかも知れない。すぐそばの大手橋側の川底から見た2つの橋の写真。大手橋は石橋が残っている。

(2)西 山 橋
大手橋のすぐまた上流の「西山橋」。今の橋に銘板があるので、橋は間違いない。長崎バイパスへ行く西山通りの県道を挟んで、正面に料亭富貴楼と松森神社のクスノキが見える。
この橋も昔は石橋だったようである。同氏HPの中に読者などからの情報に基づく「調査中の石橋」があり、「長崎市下西山の西山橋は現存するという。 07/01/2007消失を確認」とある。これは同氏が現地を見に来た日。現在の橋が架け変えられた時期はあくまで大水害後であろう。が、水害前もすでに石橋ではなかったという人もいる。
その人の話によると、長崎大学経済学部裏通りのリンガーハットへ出る橋も、昔は石橋だったそうである。

(3)鳴 滝 橋
鳴滝川の「鳴滝橋」。やはり同氏HPの中「調査中の石橋」に、「鳴滝橋が57年の長崎水害では被害を受けていなかったという。 06/30/2007架け替えを確認」とある。
「鳴滝橋」と言われるのは、現在、3つの橋がある。
①鳴滝の滝の上に架かる本来の鳴滝橋。自然石の橋名が残る。②鳴滝高グランド横から車道を進み、次に川を渡るところの橋。コンクリートの橋名がある。③鳴滝入口の石橋が残っている「古橋」(ふるはし)。これも一名「鳴滝橋」と呼ばれる。

現在の鳴滝橋は②だが、これは石橋でなかったようだ。HPの情報は③のことでなく、やはり本来の①のところの鳴滝橋であろう。今はここは暗渠橋で片側しか見えない。鳴滝高グランド横のここは、大水害前のまだ前、昭和30年代末頃までは、街のシシトキ川のような開渠であった。その年代には石橋が架かって、川を渡っていた。名残りが今の橋脇の標石であろう。改修されたのは暗渠工事の際でないだろうか。
地元で石橋のこんなことを聞いても知らない人が多い。関係官庁の保存資料もなくなっている。

古賀と船石地区に残るアーチ石橋  長崎市古賀町・船石町

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古賀と船石地区に残るアーチ石橋  長崎市古賀町・船石町

昭和57年長崎大水害から残ったアーチ石橋が長崎市古賀町に1橋、船石町に2橋ある。滝の観音境内にある羅漢橋、普済橋を除き、集落の里道で今も使われているこの橋を訪ねた。
その外に、船石地区の木場橋は存在が貴重である。水害により損壊し橋は新しくなっているが、近くの田嶋邸庭(並松翠鯉の苑)に旧橋欄干の片側が移設され、立派に保存されている。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。

写真 1   第118番  正念の橋(念橋 善八橋) 長崎市古賀町正念
年代 大正5年との近隣の住民の話   長さ 6.3m 幅員 2.0m
長崎バイパス市布古賀入口近く。付近には正念公民館や長崎市消防団第29分団6部詰所がある。もとは長崎へ山越えで抜ける間道に架かる橋のようだが、現在は下流に新しい橋が架かっている。
この橋は「2000年の東長崎」という郷土史によれば、「善八橋」として記載されている。著者が現地で橋の名前を、そのように取材されたそうだ。「善八橋」の名を併記する。

写真 2   第154番  下 大 野 橋  長崎市船石町千束野
年代 昭和35年  長さ 5.0m 幅員 4.0m
石垣バス停から右折し船石ポンプ場より左折。数多くの石橋が有った船石地区で57年の水害に残った石橋。親柱も欄干も架橋当時のまま残る。多少白い手すりが気になるが現役の橋としては安全の為にはいたしかたないだろう。このままでも充分美しい。

写真 3   第177番  千  歳  橋  長崎市船石町並松
年代 明治45年架橋、昭和12年拡幅  長さ 4.0m 幅員 4.4m
数多くの石橋が有った船石地区で57年の水害に残った石橋。古賀木場バス停から右手に入ってから更に右手に下る。拱環石もしっかりしている。周辺の風景に溶け込んで美しい。

写真 4           木  場  橋  長崎市船石町並松
近くの木場橋も水害で損傷は受けたものの残っているかも?との情報で近くを歩いたら、こんな所で遭うことが出来た。木場橋は千歳橋から少し下ったところにある田嶋邸の池の手摺に姿を変えていた。何でも大正3年に田嶋家のご先祖様の顕徳を記念して架橋したのが木場橋であったとかで、水害後の復旧工事の際に田嶋家が手摺部分を譲り受け、田嶋倉治翁の100回忌に親族の手で手摺だけが残されたものだそうだ。

57年の水害時の被害とし木場橋の上流、木場川に架かっていた石造アーチ橋で流出した橋は下流側から、すすき橋(市道中川内線、長さ6m、幅3.6m、単アーチ)・山下橋(市道山口線、長さ4m、幅4m、単アーチ)・山口橋(市道山口線、長さ4m、幅4m、単アーチ)、また更に支流となる二双船川の二双橋(市道曲田線、長さ5.3m、幅3.5m、単アーチ)で有った。

また木場橋から下流には都通川と名前が変わって千束野橋(市道上戸石千束野線)が現在コンクリート橋として架かっているが水害時半壊し、その後解体した。
さらに下流で本流の八郎川となって角橋(市道木場線)、鎧橋が石造アーチ橋であった。

長崎市西山川に残るアーチ石橋  中島川上流の川

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長崎市西山川に残るアーチ石橋  中島川上流の川

長崎市の中島川石橋群はよく知られている。これは桃渓橋から上流の西山川に残っているアーチ石橋。新大工入口から西山ダム上の仁田口にかけての4橋。(馬町交差点にある「鎮西橋」は、後項)
木場入口から西山ダム河川公園へ行くとき、アーチ橋が木場入口分岐の県道下とその先に西山町1号橋があるが、この橋は最近のコンクリート橋である。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。同HPも参照のこと。

写真 1  第 27 番  大 手 橋    長崎市新大工町入口
慶安3(1650)年  長さ12.5m  幅員4.5m(現在は拡幅)
上からは、ここが橋であることさえ忘れてしまいそう。
寛永6年27歳で渡来した唐通事の高一覧の私財と募った浄財で架橋された。高一覧は後に桶屋町の一覧橋も架橋したという。
親柱が、暫らくは付近にあったが、無くなってしまったと聞いていたが、電車通りの向うの曹洞宗光雲寺の門柱になっていると聞いて見に行ってきた。残念ながら文字は確認できなかった。
ばってん亀さんのご好意で昭和8年8月12日撮影の大手橋の写真をお借りしました。当サイトでは50%に縮小して掲載しています。
大手橋は昭和7(1982)年ころ、交通に不便ということで、それまでの階段付きの上部を車が通れるように改造されたので、上部がフラットになってガードレールとでも言いたくなるような白い手すりが付いていることがわかる。これまでの大水害でも崩落することもなかったが、昭和57(1982 )年の大水害の災害復旧の河川改修工事に伴い、現在の橋の上部は改修されたが、ア-チ部分は建設当時のまま残っている。

写真 2  第 50 番  拱(こまねき)橋  長崎市西山 
明治36年       長さ17.3m  幅員9.4m
長崎大学経済学部正門に架かる橋。中島川の支流、西山川に架かる。緩やかなアーチと丁寧に加工された部材。要石には他の枠石とは異なる加工がされている。
「拱橋」は、平成19年(2007)12月、文化庁の登録有形文化財となった。現地説明板は次のとおり。
拱(こまねき)橋 (旧長崎高商拱橋)

石造単アーチ橋、橋長17m、幅員9.1m
長崎大学経済学部の前身である長崎高等商業高校は西山川左岸東側に造成されたため、西山川を横断して道路と接続すべく明治36年(1903)11月30日に拱橋が架設された。高商設立当時の構造物である。拱橋上流には明治39年(1906)に西山橋。大正13年(1924)に片淵橋、すぐ下流には矢場下橋(大正13年)が建設されたが、すべてコンクリート橋である。
トラス形式の鉄製橋梁では学校正門前の橋梁には相応しくないため、上部空間が開かれた上路式アーチ橋が選ばれたと考えられる。石材の表面は細かく加工され、日本の石造橋が持つ土着性から離れた、端正な近代的設計がなされた石橋である。

途中の写真2枚は、木場入口分岐県道下と西山町1号橋の最近アーチ橋

写真 3  第 81 番  高 麗 橋      長崎市西山ダム河川公園
承応元(1652)年に中島川上部の伊勢町に架橋されたのが最初。長さ 15.5m 幅員 4.8m
河川公園を散策できる、西山のご近所の方がうらやましい。
慶応2(1866)年に拡幅改架され、昭和57年7月の大水害後の河川改修により昭和60年に解体し平成5年3月に現在地に移築。

写真 4  第 99 番  西山無名橋     長崎市西山の貯水池上流
大正7年ごろ      長さ 約7.0m 幅員 約3.0m
仁田口バス停から右へ入る。東洋商会のまえ。西山貯水池上流。
下流側はコンクリートで囲まれてアーチ橋とは見えない。僅かに上流側からわかるだけの状態。

西山ダム河川公園に移築復元されている高麗橋  長崎市西山4丁目・木場町 

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西山ダム河川公園に移築復元されている高麗橋  長崎市西山4丁目・木場町

長崎市東部。国道34号線の諏訪神社前から長崎バイパス西山トンネルへ行く県道に入る。バイパス道と分岐する木場入口交差点から左折。バイパス道の下を通り、西山ダムの堰堤下に行くと河川公園がある。
高麗橋の石橋は、もと中島川の伊勢の宮前に架かっていた。大水害後の河川改修のため解体し、平成5年に西山ダム河川公園に移築復元されている。長さ15.5m、幅員4.8m 。
現地説明板は次のとおり。
高 麗 橋

この橋は、もと、中島川上流部の伊勢町、八幡町間に架けられていた石造アーチ橋である。承応元年(1652年)明国人によって創架されたと伝え、慶応2年(1866年)に拡幅改架された。昭和57年7月の大水害後の河川改修のため、昭和60年に解体し、平成5年3月、現在地に移築復元した。移築にあたっては、アーチ石等の主要部は旧材を用いたが、川幅が広がったため端部には石材を補足し、また失われていた高欄も復旧した。

小さな石の桁橋  烽火山番所谷と蚊焼松尾橋

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小さな石の桁橋  烽火山番所谷と蚊焼松尾橋

石橋には、アーチ型に石組みしたアーチ石橋と、数本の石柱をただ横にして渡した桁橋というのがある。石橋に関するHPを見ると、この石の桁橋にも関心を持って訪ね歩いている方がいる。調査の対象となるのは、もっぱら長大な橋であろう。
ここに紹介する桁橋は、恥ずかしいほどの小橋。路地裏探検のラビリンスの部類となるが、少し記しておきたい。

烽火山番所谷にある小さな小橋は、長崎街道歩きの江越先生が今年春、見つけられた。烽火山ののろし台が廃止されてから、永年歩かれていない番所道を「長崎市史」の記録から探し出し、その折にこの谷の小沢に石橋が架かっていることがわかった(橋画像は青田氏から)。
後の蜀山人、長崎奉行所支配勘定役大田南畝も烽火山に登って漢詩を詠んでいる。別項のとおり山頂に「南畝石」があった。この番所道を歩いたのだろう。
話を聞いたときアーチ型の小橋かと思ったが、桁橋だったから少し残念に思った。同じような小橋は、城の古址道を健山との鞍部近くまで来て山腹の竹林に入ったとき、もう1つを見る。こういった石まで運んで道を造っていることは、由緒ある道だった証拠でないだろうか。

前の三和町、蚊焼町松尾にある「松尾橋」は、町中にあるそれこそ今風コンクリートの小橋。近所だから気にとめていた。橋に似合わず、大きな銘柱をつけていた。
写真を撮りに行き、よく見た。銘柱の寸法は25cm角、高さ70cm。橋から少し下に立ち、刻面は4面。「松尾橋」が2面、後は「第五支部」「昭和六年七月」とある。橋は巾2m、長さ1.9m。
国土地理院明治34年旧版地図を見ると、ここは往時の「みさき道」から分かれ、蚊焼の浜へ下る里道となっていた。橋、銘柱ともコンクリート製。石橋と言えないが、古い時代を偲ばせ、もの珍しい橋と感じた。 

長崎大水害で流失した茂木街道の柳山石橋  長崎市茂木町

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長崎大水害で流失した茂木街道の柳山石橋  長崎市茂木町

強固な橋とは言いながら昭和57年の長崎大水害で流失・破損したものが多い。そして災害復旧の際に、防災の観点や修復費用の問題から修復されることなく消えていった石橋もあった。先人が残した郷土の財産である石橋。せめて関心だけでも持っていただければと思う。
「長崎県の石橋を訪ねて」HP氏の言だが、こんな運命をたどった石橋がかつて茂木町の若菜川上流に架かっていた。江戸時代の茂木街道の道筋にあった。

もぎ歴史懇談会「茂木の名所旧跡」資料の説明は次のとおり。流失前写真も同資料から(カラーを取り寄せ中)。
・柳山石橋跡
若菜川に沿い辻を通り柳山、転石、田上を経て長崎に通じる石畳みの旧道があり、明和6年(1769)江波市左衛門温石の石畳を敷きつめ、その後安政5年(1858)長崎出来鍛冶屋町竹内億助、東築町蒲池喜兵衛の両名私費で浄善田の石橋を架け交通の便をはかる。
昭和47年6月 市指定有形文化財に指定  昭和57年7月 長崎大水害で流失

また、長崎市南公民館どじょう会「長崎の碑(いしぶみ)第四集」平成7年刊56頁は次のとおり。
※柳山石橋(長崎市茂木町浄善田に所在した)
寛永十一年(一六三四)の長崎の眼鏡橋に始まる石橋には、近郊の石工や人夫多数が参加したと思われるが、彼等は見聞や経験を通じてアーチの理論を体得し、正規の切石ではなく、野石またはそれに近い自然石を巧みに積んで、アーチ橋を架けた。この柳山石橋もその一つで、安政五年(一八五六)六月、長崎の商人竹内億助、蒲池喜兵衛の両名が私費をもって架けた。
億助は天保十三年(一八四二)米百俵の施与を賞され、苗字を許されており、寛永二年(一八四九)には同じく私費をもって日見街道に石を敷き、旅人の難渋を救った。この橋はいた状の緑石麻岩を用い、川幅十一米に架かる。径間九・六米という。この種石橋の中では最大の誠に立派なものであった。(『昭和五十七年の長崎大水害で流失してしまった』)

なお、最後の絵葉書古写真は、長崎大学附属図書館が所蔵する幕末・明治期写真のタイトル「茂木道(1)」。次のとおり説明を「柳山付近と思われる」としているが、石橋でない。
背景の山の形も違い、これは柳山付近でなく、新道(旧県道)の河平川沿いの風景ではないだろうか。
茂木道(1) 写真説明
長崎から茂木に向かう江戸期からの街道。正覚寺下から八剣神社前を経て田上に至り、さらに転石、柳山を経て茂木港に達する。写真は田上から下り終えた柳山付近と思われる。道端には馬が草を食んでいる。道路は明治18(1885)年に新道(旧県道)として整備された。

茂木の旧県道に残る河平橋  長崎市茂木町

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茂木の旧県道に残る河平橋  長崎市茂木町

田上から茂木に下る現在の国道324号線の左谷間に河平川が流れる。旧県道は転石から左に入り、ホテル古都下を右にこの谷間を下って黒橋へ出た。明治18年(1885)人力車・馬車道として開通した。石橋はほぼこの中間地点、河平バス停手前のあの大カーブ沢の下流に架かる。

江戸時代の茂木街道にあった柳山橋が、昭和57年大水害により流失した(別項あり)後、河平橋は茂木に残る唯一のアーチ石橋となった。
石橋の写真は上のとおり。「河平橋」と「かわひらはし」と刻んだ橋の銘柱2本がある。橋上の縁石に横倒しされて利用されている石に「明治四十一年九月架」とあった。
最後のは、現代のコンクリート製アーチ橋。国道の道は昭和9年開通。黒橋手前の国道坂道で下から見える。

まぼろしの石橋  本河内高部貯水池のダム底に眠る

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まぼろしの石橋  本河内高部貯水池のダム底に眠る

長崎市本河内町にある。ダムの底から渇水期にだけ姿を現していた「まぼろしの石橋」。長崎市指定有形文化財に指定された。この石橋も平成18年春の新ダム完成により、ほとんど見ることはできなくなった。

その名のとおり「まぼろし」となった石橋。しかし、今までもこれからも、貯水池の中にたしかに存在する。石橋のHPによると、長さ8.0m、幅員2.8mの橋。
季刊「Web旅ムック」2007晩秋号 Ⅴol.7の16〜17頁の特集「石橋の旅 第4回」から転載した。

復元された鮎帰橋  長崎市田中町中尾ダム

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復元された鮎帰橋  長崎市田中町中尾ダム

インターネットHP「石造アーチ橋を訪ねて」を見ていたら、長崎市田中町の中尾ダムに「鮎帰橋」という石橋があり、復元されていると記事があり、訪ねてみた。吊り橋の中尾大橋を渡り、中尾中央公民館の先に城戸岩橋があり、このすぐ下流側に「鮎帰橋」はある。

大正6年造られた橋は、写真のとおり平成12年中尾ダムの建設によって橋は新しくなって、親柱は昔のものを取り付けているが、橋全体が当時のまま復元されたのでなく、近くの花壇の場所に、それを模したものが昔の橋の輪石を利用して造られ、公園として整備されていた。

「鮎帰り」というとおり、すぐ上流にはやや高い滑滝の岩面が見られた。なお、中尾ダムの風景は「長崎の風景」の項に別掲した。