長崎市の石橋」カテゴリーアーカイブ

小菅修船場跡に残るアーチ石橋  長崎市小菅町

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小菅修船場跡に残るアーチ石橋   長崎市小菅町

またまた立派なアーチ石橋が長崎市内に残っていた。場所は、国指定史跡「小菅修船場跡」。明治元年にできた我が国最初の近代的ドック。船台の形から”ソロバンドック”と呼ばれている。
長崎市南部方面へ行く国道499号線の戸町トンネル北入口の手前が修船場跡。奥深い入江の地形をよく利用してドックが造られている。

石橋の情報を教えてくれたのは、九州・京都・東京など石橋巡りに熱中されるHP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」の制作者N氏。この方のアンテナには驚くしかない。
「ドックの右側。干潮時しかよくわからない」と聞き、探しに行った。
戸町トンネル口が正門で、ドックへ入ると今は左手は小菅マリーンセンターがある。まずこの先の桟橋まで行って、対岸の海岸石垣を見てみた。ポッカリと丸い穴が空いていた。

次は日本最古の赤煉瓦建物という船台捲上げ小屋の前を通り右手へ。ここは三菱長崎造船所の大きな小菅倉庫建物が立ち塞がる。奥に行けないと思っていたら、海岸際は見学者通路の標識があり、ドックの港入口の方へ行けた。
100mほど歩いて小川を跨ぐ道下に写真のとおりの石橋が残っていた。小菅の谷水を集めた小川が国道沿いに流れ、ここで港へ出していたのである。
長さ2m、幅員9m、アーチ下の高さは1.8mほどの見事な石橋。海面が普段は1.3mまで来るため牡蠣殻がこの高さまで着いている。

橋の先は右手へ古い石段が上がる。国道がカーブしたラーメン店「一麺亭」駐車場の外側塀に突きあたる。ここは西琴平の岬の突端であったろう。明治元年創立時の小菅修船場正門口は、ここでなかったかと思わせる古い石段と立派な石橋である。
国指定史跡「小菅修船場跡」現地説明板は次のとおり。石橋はまったく知られていないのか、観光情報やHPなどにも記したものは見あたらない。
ドックの先まで見学通路を設けているので、ドックに付随した歴史遺産として石橋の存在をもっと広めてよいのではないだろうか。
N氏へ画像を送った。長崎市さるく観光推進課の馬見塚氏は、石橋を知っておられた。

国指定史跡  小菅修船場跡

指定年月日 昭和44年4月12日  所有者 三菱重工業株式会社長崎造船所
薩摩藩士五代才助(のち友厚)が小松帯刀・英人グラバーの協力を得て建設した洋式スリップ・ドックで、明治元年(1868)12月竣工した。船台がソロバン状であったから、通称ソロバンドックとよばれた。船体引揚げ用蒸気機関その他施設一切は、グラバーの仲介で英国から輸入された。
明治2年(1870)3月政府が買収、対岸の官営長崎製鉄所の所管とした。のちこの官営は民営に移管され、三菱造船所となる。
長崎県教育委員会・長崎市教育委員会

シシトキ川に残るレンガ造石橋  長崎市銀屋町

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シシトキ川に残るレンガ造石橋  長崎市銀屋町

次は布袋厚著「長崎石物語」(2005年刊長崎文献社)24〜25頁の”石張りの川 シシトキ川”から。最後の図とも。

長崎では道ばかりでなく、川のなかまで石が張られている。中通り商店街と寺町のあいだを流れる「シシトキ川」がそれである。この川は中島川の支流となっている銅座川の、そのまた支流である。…
川幅は約二メートルで、大きな溝という感じにちかい。上流にさかのぼるにつれて、しだいに川幅がせまくなる。写真でわかるように、両脇の板石が斜めに張られ、水量がすくないときに、流れをまんなかに集めるしくみになっている。
このような川は、桶屋町から築町をへて出島橋にいたる「地獄川」(公会堂の裏、および中央公園裏で川底がみえる)、樺島町、館内町などもある。地獄川の名は、公会堂裏にある市役所別館の場所に、むかし、牢屋「桜町牢」があったところから来ている。

地獄川の桜町、栄町に残るレンガ造石橋2つについては、この前この抜粋によりすでに報告している。 https://misakimichi.com/archives/787
今度は本家のシシトキ川にもレンガ造石橋があった。場所は眼鏡橋のひとつ下流、袋橋からまっすぐ寺町の方へ行った通り。逆にいうと幣振坂から寺町通りを突き切って下り、シシトキ川と合う所。
銀屋町5街区にくんち出し物鯱太鼓倉庫を兼ねた銀屋町公民館がある。長崎市さるく観光推進課馬見塚氏から聞いたこの角の橋。地獄川と同じレンガ造石橋が、写真のとおり立派に残っていた。長さ1.8m、幅員5.7mほど。

シシトキ川やこれに架かる橋についてHPやブログは少しある。さるくマップも通称・裏めがね橋(以前、めがね屋だった時に架けられためがね形の最近の橋)は紹介しているが、銀屋町公民館角のこの橋が、明治時代の本物の石橋であるとまったくふれてない。
上流と下流をたどった。上流の諏訪小学校表通りと裏通りは古い桁橋だった。長崎さるくマップブック30頁の「ししとき川」説明は次のとおり。

⑤ ししとき川
1600年代に長崎奉行により、火事対策として作られた人工の川。明治には川底に石畳が敷かれ、清らかな水流が保たれるようになったといいます。当時の長崎の下水道技術の高さがしのばれます。かつては「川端通り」と呼ばれ。共同井戸などもあったそう。

(追 記 平成20年6月19日)

銀屋町公民館角のこのレンガ造橋の名前がわかった。史料はまた長崎楽会西山3丁目中尾氏が見つけてくれた。長崎手帖社「長崎手帖 No.13」昭和33年7月10日発行5頁の「茶のみ話」の中に次のとおりあった。長崎手帳編集者の田栗杢作氏文と思われる。
長崎手帖によると、この橋名は「稲荷橋」と出てくる。川端に稲荷神社があり昭和60年頃、鯱太鼓倉庫を兼ねた公民館をここに新築したため、稲荷神社は屋上へ祀り直したことを、私は職務上から記憶していた。
一 目 七 橋

これは橋好きの私に、岩永さんがわざわざ明治二十一年刊行の長崎年表を見せて下さったものです。昔は編笠橋附近から川下の眼鏡橋の方を眺める石橋風景を「一目七橋」と言ったらしいので、見せて貰った年表の鍛冶屋町裏の屠鹿川に架った七つの小さな橋も、昔は一目におさまったのではないかと思って、表題を借りました。
屠鹿川に架った橋は、その名はおろか姿すら薄くなっていますが、七橋とも鍛冶屋町に架って、上流から言いますと、磨屋町のは屠鹿(とろく)橋、銀屋町のが稲荷橋、東古川町のは川添橋、本古川町のは鍛冶橋、榎津町の孕(はらみ)橋、萬屋町のは斜(ななめ)橋、アーケードの下の東浜町から架っているのは浜口橋です。   (西古川町 金物店 岩永関夫氏)

大浦川の暗渠下に残るアーチ石橋「大浦橋」

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大浦川の暗渠下に残るアーチ石橋「大浦橋」

長崎市大浦海岸石橋通り。電停「石橋」の名前の由来になったアーチ石橋が、大浦川の暗渠下に今でも残っている。このことを紹介した資料やHPがほとんどなく、うかつだった。
九州、東京、京都等の石橋巡りを熱中されているHP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」の制作者N氏から教えてもらった。同氏も友人の話で初めて知られたらしく、長崎へ来られる。

4月17日干潮を見計らって暗渠下へもぐってみた。「大浦橋」と「寄附者 大浦郷林増五郎 村川勝太」の銘柱が横断歩道手前に残っていることは知っていたが、古写真を見ると桁橋のようであり、アーチ石橋は架け替えられてないものと思っていた。
アーチ石橋は、暗渠下に見事に残っていた。

暗渠は現在、橋から上流をスラブ補修工事中である。ライトにアーチが浮かび上がった。幅員4.2m、長さ10.5m。かなり大きな石橋である。上が道路で塞がれているほか、損傷は見あたらない。工事監督の人の話によると、この上流には石橋はない。
銘柱がある横断歩道反対側に最近、さるく博により次の「大浦橋」説明板が設置されていた。

大  浦  橋

石橋バス停前の道路には大浦橋(石橋)が架かっていました。実は今も道路の下を川が流れていて、かつての石橋が残っています。路面の盛り上がっている所がその目印で、親柱は、同バス停横にあります。昔は河口からこの辺りにも小舟が入っていたそうです。大浦橋は当初、木橋だったといわれていますが、明治初年に簡素な石橋となり、明治19年(1886)、地元有力者により、この写真の石橋に架け替えられました。
管理者:長 崎 市

説明板は、あと1つ「大浦川沿いのまち並み」が石橋電停につけられている。古写真の左下隅にアーチの一部がかすかに写っている。
石橋寄付者の7代目にあたる地元の林先生を訪ねた。説明板に「この写真の石橋に架け替えられた」とあるのはまぎらわしい。三角桁は車を通すため後でつけられた。暗渠になったのは、昭和30年頃。暗渠下のほんとうのアーチ石橋がわかる実物写真も添えた方が良いのではないかとの話である。

地元テレビNIBが2006年10月「まちかど探検① 幻の石橋を探せ!」で現地取材しており、ビデオを見せてもらった。先生はブライアントさん一家を暗渠下に案内している。
なお、ぼんでん氏ブログ「ぼんでんの徒然日記」に、次の記事があった。

2007/11/3 「長崎は今日も異国だった〜南山手洋館、港が見える坂〜(通さるく)」
…最初の説明は、現在暗渠となっている大浦橋の説明、「大浦橋」は、石橋電停の名前の由来にもなった橋である。昔は、入り江の末端であった場所である。居留地時代はここを多くの外国人が渡り、東山手方面に向かっていたという。現在、橋はアスファルトでそのまま埋められているという。信号の側にある橋の欄干が当時の名残を残すのみである。…

地獄川に残るレンガ造石橋  長崎市桜町・栄町

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地獄川に残るレンガ造石橋  長崎市桜町・栄町

次は布袋厚著「長崎石物語」(2005年刊長崎文献社)24〜25頁の”石張りの川 シシトキ川”から。最後の図とも。

長崎では道ばかりでなく、川のなかまで石が張られている。中通り商店街と寺町のあいだを流れる「シシトキ川」がそれである。この川は中島川の支流となっている銅座川の、そのまた支流である。…
川幅は約二メートルで、大きな溝という感じにちかい。上流にさかのぼるにつれて、しだいに川幅がせまくなる。写真でわかるように、両脇の板石が斜めに張られ、水量がすくないときに、流れをまんなかに集めるしくみになっている。
このような川は、桶屋町から築町をへて出島橋にいたる「地獄川」(公会堂の裏、および中央公園裏で川底がみえる)、樺島町、館内町などもある。地獄川の名は、公会堂裏にある市役所別館の場所に、むかし、牢屋「桜町牢」があったところから来ている。

私の話は、名前がすごい公会堂裏にある「地獄川」の方である。川に沿った一段高い家の入口や駐車場となって、桁石やコンクリートで川を渡っている。由緒ある町並みなので、主な通りはまだ古絵図に近い。職場が近くだったからよく通ったのに、今まで気づかなかった。橋の下を覗くとやはり石橋だった。

場所は、市役所別館から公会堂裏へ下る車は一方通行の通り。上はコンクリート橋となっているが、下に赤レンガ造の小さい石橋が残っていた。幅員2.5m、長さ2mくらい。レンガアーチに切石の礎石がはめられている。
少し細工した跡があるが、刻字はなかった。橋名は仮に「地獄川の桜町橋」としよう。江戸時代は「桜町牢」の入口だったかも知れない。魚の町公会堂付近は長崎の最初の魚市場があったところらしい。

この辺りの暗渠は、だいぶん開かれている。栄町の長崎女子商業高校前の通りまで、海野酒店側から暗渠を10mほど入った。ここにもやはり同じレンガ造石橋が眠っていた。通りが広い分だけ幅員は4mほど。これは「地獄川の栄町橋」としよう。
この先にはもう見あたらない。中央公園裏までいくらなんでも暗渠を進みきれない。石橋の年代は、川に板石を張って整備したときと考えてよいだろう。
他の町の同じ造りの川も、一度は見てみる必要があろう。 

稲佐山公園にあるアーチシンボル  長崎市大浜町

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稲佐山公園にあるアーチシンボル  長崎市大浜町

稲佐山は標高340.3m。長崎市街を見下ろす展望台があり、港外の島々や五島灘も広がり、市民の憩いの場となっている。
駐車場付近はつつじ公園となって、野外ステージや噴水広場がある。この一隅に長崎の石橋を模した美しいアーチシンボルが設けられている。
銘碑の説明は次のとおり。

国際花と緑の博覧会 (1990.大阪・鶴見緑地)
出展記念庭園 「ナガサキ・エキゾチック・ガーデン」  長崎県

アーチ石橋が新たに見つかる  長崎市三ツ山町に残る「小谷橋」

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アーチ石橋が新たに見つかる 長崎市三ツ山町に残る「小谷橋」

きっかけは、長崎街道ネットワークの会会長、江越弘人先生の話。先日大瀬戸へ行ったとき、勤め先の大瀬戸歴史民俗資料館に寄った。大瀬戸の眼鏡橋以外の石橋を知らないか尋ねたところ、かえって長崎市内の石橋を教えられた。
流合橋上の畦別当町側の本流4つの石橋は知られている。まだ下流の支沢、三ツ山町の方にも石橋があるという。付近を歩いて以前から知っておられた。
この橋は、県内の石橋を詳しく調査しているHP「長崎県の石橋を訪ねて」に表われていない。場所を聞いたので、3月8日調べに行った。長崎大水害にもめげず、見事なアーチ石橋が残っていた。

県道44号線を犬継教会(カトリック三ツ山教会)まで行く。長崎バイパスを挟んで、この対面の小沢に架かる。肉眼ではもうアーチが建設会社の青い倉庫の左脇に小さく見える。
バス停先の高政建設から県道を分かれる。右へ下るとバイパス上の新平床橋に出る。そのまま行き、黒川宅角でコンクリート道を右へ下ると橋に着く。県道から200mほどの距離。

橋は標柱が両脇にあり、「小谷橋」「昭和九年十二月 石工 河浪」。長さ5.2m、幅員3.18m。あまり損傷がない。下から覗くと真ん中の底石が1つだけ少しへこんでいた。中央要石か。
この道は高台の畑地を越して六枚板へ通じる。すぐ先に教会墓地がある。このため架けられた橋であろう。ただ先はすぐ細い赤道だ。
今までなぜ知られなかったのだろう。人や車がほとんど通らないせいか。私どもの思い違いがあるかも知れない。川平金山の坑口跡はこの上流にある。

あぐりの丘に移築されている畦別当の二号橋  長崎市四杖町

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あぐりの丘に移築されている畦別当の二号橋  長崎市四杖町

前の項でふれたように、畦別当のアーチ石橋「二号橋」は、県道拡幅工事のため解体され、平成10年(1998)に長崎市四杖町”あぐりの丘”の西側池に移築、復元されている。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり

第 106 番 アグリの丘2号橋  アグリの丘街のゾーン
大正中期に架橋された畔別当から移築された橋。 長さ 約7.0m 幅員 約3.0m
五島灘をバックに良い雰囲気です。長崎在住のyoukoさんがメールで教えてくれました。移築に関与された、布袋 厚氏から掲示板で教えていただいた。感謝!!

石橋の検索をやっていて,たまたま貴サイトに行き当たりました.石橋一覧表を拝見したら,あぐりの丘の二号橋のことが調査中と書かれておりました。
この橋は浦上川上流の畦別当橋のシリーズのひとつだったもので,県道拡幅工事に伴って,1996年に解体され,1998年にあぐりの丘内に復元されたものです。

三ツ山・畦別当に残るアーチ石橋  長崎市三ツ山町・畦別当町

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三ツ山・畦別当に残るアーチ石橋  長崎市三ツ山町・畦別当町

浦上川の最上流となる三ツ山・畦別当に残るアーチ石橋が、3橋ある。長崎バイパスに沿った県道45号東長崎長与線の流合橋から畦別当のバス停間。改良前の廃道に残る。
同じ名の新橋が脇に架けられ、そこから前の石橋は川へ下りよく見ないと石橋とわからない。橋の番号は上流側から付けられているようだ。
五号橋は昭和52年撤去されている。新橋は「昭和55年3月架」とあった。二号橋はあぐりの丘の西側池へ移築されている(次項へ)。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。四号橋は「畦別当四号橋」としているが、三ツ山町である。

写真 1  第 54 番  畦別当4号橋  長崎市畦別当町
大正中頃  長さ 7.2m 幅員 3.0m
みつやま4号橋隣の旧道に架かる。コンクリートで拡幅して使用していたが、現状は廃道同然の状態。農作業中の地元の方から付近の石橋について親切に教えていただいた。なお、この下流の5号橋は昭和52年に撤去となった。

写真 2  第 55 番  畦別当3号橋  長崎市畦別当町
大正中頃  長さ 6.0m 幅員 2.8m
3号橋向かいの旧道に架かる。コンクリートで拡幅して使用していたが、現状は廃道同然の状態。農作業中の地元の方から付近の石橋について親切に教えていただいた。橋の上は駐車場になっていた。

写真 3  第 56 番  畦別当1号橋  長崎市畦別当町
大正中頃  長さ 5.5m 幅員 2.9m
畦別当橋向かいの旧道に架かる。コンクリートで拡幅して使用していたが、現状は廃道の状態。農作業中の地元の方から付近の石橋について親切に教えていただいた。橋の上は駐車場同様になっていた。蛍の里の看板が有る。

写真 4  現在の五号橋の写真。石橋は昭和52年撤去。

写真 5  あぐりの丘池へ移築された二号橋

長崎の住宅地などに残るアーチ石橋  長崎市伊良林2丁目ほか

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長崎の住宅地などに残るアーチ石橋  長崎市伊良林2丁目ほか

長崎市の中島川石橋群は有名であるので、これら以外の長崎の住宅地などに残るアーチ石橋。最近の橋の姿を写した。
西山川・古賀・船石・平野・坂本はすでに紹介している。畦別当・出島・あぐりの丘は後日訪ねたい。HP「長崎県の石橋を訪ねて」リストによる順序。説明は次のとおり。

写真 1  第 68 番 若宮神社参道橋   長崎市伊良林2丁目
元治2(1865)年  長さ2.8m  幅員約2.4m
竹の芸で有名な若宮稲荷神社の参道に架かる橋。
小さいが端正な石橋だ。写真中央の左下に見える穴は、川の断面積を広げるためのバイパス。橋の保護のための手法の一つ。

写真 2  第 85 番 森   橋      長崎市館内町18〜十人町11
明治25年 長さ約2.5m  幅員 約2.0m
森伊三次氏が寄贈した橋。地元出身の森伊三次氏が寄贈した橋は、同じ川の上流に、もう2橋ある。アーチ橋ではないのだが、これも石橋。榮(さかえ)橋とが森伊橋。

写真 3  第 51 番 杉の上橋      長崎市手熊町
大正5年  長さ4.6m  幅員1.8m
手熊川の河口から50m程上流の支流との合流点に架かる。
河口の手熊橋も石造アーチ橋で有ったが、昭和57年の水害後撤去してしまった。杉の上橋は気をつけていないと、ただの歩道に見えてしまう。

写真 4  第 160 番 三原町2号橋    長崎市三原1丁目13番地(浦上川支流)
年代は未確認  長さ6.0m  幅員2.7m
浦上川の支流だが正式には下の川都市下水路という。
西山線のバス停、登立口バス停から下る。付近の車は通るが、外部の人間には通行が難しい。10

写真 5  第 161 番 山 口 橋       長崎市虹が丘町6番地(岩屋川)
年代は未確認  長さ4.9m  幅員3.8m
親柱が4本とも残っているが、橋の上部は嵩上げされていて判りにくい。
道の尾から、長崎工業高校に向けて走って、並行する岩屋川に沿って旧道にはいる。橋の向こうは岩屋山公園の上り口。だから山(の)口橋かも。

写真 6  第 153 番 本河内3号橋    長崎市本河内1丁目トンネル西口バス停そば
年代は未確認  長さ3.52m  幅員2.52m
長崎街道に架かる橋
日見トンネル西口から、峠の入り口に架かるこの橋は、長崎街道の通過点。

(追 記  2010年11月17日)

写真 7  第 209 番 下向の橋      長崎市向町
長さ2.0m  幅員2.1m  径間1.6m
向町といっても馴染みが少ないが式見漁港の住宅街の小道に架かる橋。径間僅か1.6m、長い石材が少ない地域とはいえ道路に架かる橋としては最小径間クラスの橋だ。
次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2448

写真 8           若宮神社参道の桁橋  長崎市伊良林2丁目
長さ2.3m  幅員3.0m
若宮神社の大鳥居がある参道石段の途中に架かる。アーチ式石橋の下流側。

長崎大学附属病院横に赤レンガのミニ石橋?があった  長崎市坂本1丁目

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長崎大学附属病院横に赤レンガのミニ石橋?があった  長崎市坂本1丁目

最初は、長崎市平野町22街区にある赤レンガと切石の「階段橋」写真。長崎大学附属病院前から医学部正門の方へバス道路はカーブする。すぐ左に富士医科精器長崎支店ビルと看板があり、歩道から下方の小川を覗くと階段橋はある。
階段部分は崩落しかけている。原爆落下中心地は間近か。よく耐え、灼熱地獄を見たであろうと思われる年代の不思議な橋。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」の説明は次のとおり。

第 100 番 平野町の階段橋   長崎市平野町22番の旧道(裏道)
年代は未確認   長さ 約3.0m 幅員 約1.2m
赤レンガと切石の階段橋。長崎大学付属病院からの小川にかかる。
もとはどんな役目の階段だったんだろうか? 行き場の無くなった橋は哀しい。

源流は、坂本小学校上の穴弘法寺の山。下流と上流をたどった。下流はすぐ暗渠となって、九電工ビルからバス通りの下をくぐっているようだ。バス道路を渡って上流の旧道を行く。「清水橋」「大正十三年八月竣工」と銘があるコンクリート橋があった。
川の先はすぐ右から枝川がある。合流点にコンクリートの堰堤が築かれ、2本の小川の流れを集めている。

大学病院が現在地の坂本にあるのは、第五高等中学校医学部時代の明治24年(1891)から。堰堤は水を溜めてない。大雨時に右道路下暗渠?へ川の流れを変えるよう鉄柵の落し口がある。この上方の枝川流れ込み出口が赤レンガのアーチ式ミニ石橋?となっている。
上は大学正門左横から坂本小学校へ上がるれっきとした広い市道。底に降りて調べた。

アーチ部分は、長さ6.3m、幅員1.1m。奥は現在、大学の駐車場と正門道となり、暗渠か真っ暗である。赤レンガはただ張っているようであり、厳密なアーチ式石造橋とは言えないかも知れない。下水路のような橋であるが、HPを作成している方のリストには表われてないので、見てもらいたい。
橋の場所は、長崎市坂本1丁目8街区。大学病院前交差点から30mほど市道を入った木谷内科ビルのすぐ先角である。