長崎外の古写真考」カテゴリーアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号:4276 般若の茶店奈良坂

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4276 般若の茶店奈良坂

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4276 般若の茶店奈良坂

■ 確認結果

目録番号:4276「般若の茶店奈良坂」の、タイトルにある「般若」とは、日光の「般若滝」。いろは坂の上部あたりから撮影した写真でないだろうか。
現在の般若滝の写真は、HP「猫の目スチル」日光紅葉めぐり(6)いろは坂〜剣が峰から。

長崎外の古写真考 目録番号:4259 箱根畑

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4259 箱根畑

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4259 箱根畑
〔画像解説〕
湯本茶屋付近から眺めた双子山と箱根旧街道の様子。明治6年(1873)に東京・長崎間に敷設された電信線を支えるための腕木が松に見えるので、電信柱を立てる前の仮設のものとすれば、敷設直後の写真であろう。この構図で電信柱のあるもの(目録番号4414等) は、本写真より恐らく時代が下ろう。

目録番号:2111 箱根旧街道畑宿付近(1)
〔画像解説〕
湯本茶屋付近からの双子山と箱根旧街道の眺望。明治6年(1873)に敷設された東京・長崎間の電信線が見えず、それ以前の撮影であろう。石畳は文久年間(1861-64)に大改修されたもの。ここは休憩場所であったらしく、職人風の男二人が休憩している姿が見える。この写真と似た構図のものは極めて多い。

目録番号:4414 湯本からの二子山
〔画像解説〕
湯本茶屋付近から眺めた双子山と旧東海道。左の松の木の左手には、明治6年(1873)に東京・長崎間に敷設された電信線と電信柱が見えるので、それ以降の撮影である。石畳は文久年間(1861-64)に大改修されたものが残っている。職人風の男とやせ馬を背負った女性の後姿が見える。

■ 確認結果

目録番号:4259「箱根畑」のタイトルの意味がわからない。石畳は箱根旧街道の様子である。人が休んでいる。英文タイトルが「The Hakone field」なら、「箱根路」とかなるのではないか。
同じ構図の、次の目録番号:2111 タイトルは「箱根旧街道畑宿付近(1)」、電信柱に変わった目録番号:4414 は「湯本からの二子山」となっている。
「箱根畑」は、どうやら「箱根畑宿」のようで紛らわしい。同じ場所のが数点あり、タイトルの調整が必要。

長崎外の古写真考 目録番号:4235 菖蒲(夏)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4235 菖蒲(夏)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4235 菖蒲(夏)

目録番号: 80 堀切花菖蒲
〔画像解説〕
亀戸の藤と並ぶ江戸名所として堀切の花菖蒲は古来から有名で、 浮世絵や錦絵および紀行文にも描かれてきた。

■ 確認結果

目録番号:4235「菖蒲(夏)」は、次の目録番号: 80「堀切花菖蒲」と同じ場所の写真である。したがって、撮影地域は「東京」、場所は「堀切菖蒲園」であろう。
南葛飾郡堀切村は江戸後期より花菖蒲の名所として知られ、鈴木春信や安東広重等によって多くの錦絵が残された。

長崎外の古写真考 目録番号: 911 金沢八景(2) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 911 金沢八景(2)ほか 

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 911 金沢八景(2)
〔画像解説〕
金沢への路上の展望。横浜から鎌倉までの風光さぐる遠足から取材した一組の写真である。金沢を遠望したもの。美しい谷戸の彼方に村がある。The Far East 明治4年(1871)7月1日号。

目録番号:6325 金沢八景遠望(2)

目録番号:3074 金沢八景遠望(1)
〔画像解説〕
金沢八景遠望。能見堂(のうけんどう)からの眺めか。右手が室ノ木、平潟湾を挟んで対岸が洲崎村、左手に町屋村、さらに左に野島が見える。八景の絶好の眺望地として知られた能見堂は、明治4年(1871)年に炎上。以後再建されることはなかった。

目録番号:3986 能見堂(1)
〔画像解説〕
金沢八景遠望。能見堂(のうけんどう)からの眺めか。右手が室ノ木、平潟湾を挟んで対岸が洲崎村、左手に町屋村、さらに左に野島が見える。八景の絶好の眺望地として知られた能見堂は、明治4年(1871)年に炎上。以後再建されることはなかった。

■ 確認結果

1枚目の目録番号: 911「金沢八景(2)」と、2枚目の目録番号:6325「金沢八景遠望(2)」は、3枚目の目録番号:3074「金沢八景遠望(1)」や4枚目の目録番号:3986「能見堂(1)」のとおり、金沢への路上というより、すべて同じ場所「能見堂」から撮影された写真と思われる。

長崎外の古写真考 目録番号:3930 屋形船(7)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3930 屋形船(7)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3930 屋形船(7)

目録番号:3988 金沢
〔画像解説〕
瀬戸の料亭。平潟湾の眺望にすぐれ、明治以降、多くの文人や政治家たちが利用した。写真は瀬戸橋から撮影したもの。三棟のうち一番左が千代本楼(ちよもとろう)。正面に写る茶屋は扇屋(おうぎや)か村田屋か。

■ 確認結果

目録番号:3930「屋形船(7)」は、次の目録番号:3988「金沢」と、建物は同じと思われる。
したがって、撮影地域は「横浜」。「金沢八景」平潟湾の瀬戸橋近くから、茶屋「扇屋(おうぎや)か村田屋」前の屋形船を撮影した写真と考えられる。

石黒敬章氏著「続幕末・明治のおもしろ写真」平凡社1998年初版第1刷33頁に掲載されている。同解説は次のとおり。
屋形船の不思議
〔写真9〕金沢八景平潟湾の屋形船。撮影はたぶんスティルフリードだ。明治初頭の手彩色。六切大。

長崎外の古写真考 目録番号:3660 男性の肖像(26) 

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3660 男性の肖像(26)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3660 男性の肖像(26)

目録番号:3679 男性の肖像(30)

■ 確認結果

目録番号:3660「男性の肖像(26)」は、次の目録番号:3679「男性の肖像(30)」と同じ写真である。「撮影地域: 大阪」、「年代: 1908」となるのではないか。

長崎外の古写真考 目録番号:3466 歌舞伎役者(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3466 歌舞伎役者(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3466 歌舞伎役者(1)

目録番号:3467 椅子に座る男性の肖像(5)

■ 確認結果

目録番号:3466「歌舞伎役者(1)」と、次の目録番号:3467「椅子に座る男性の肖像(5)」は、作品の写真を入れ間違っている。

長崎外の古写真考 目録番号:3456 日光輪王寺相輪?と三仏堂

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3456 日光輪王寺相輪?と三仏堂

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3456 日光輪王寺相輪?と三仏堂
〔画像解説〕
相輪?は、寛永20(1643)年に天海大僧正が東照宮奥院に建てた青銅の塔。その後、二荒山神社付近に移されたが、神仏分離のため明治8(1875)年に現在の場所に移設された。輪王寺の三仏堂も、日光二荒山神社の境内から撤去され、明治12年に写真の場所に再建された

目録番号: 384 日光輪王寺相輪(2)      関連作品 目録番号: 31 同(1) 621 同(3) 6627 同(4) 
〔画像解説〕
日光輪王寺の相輪?は三仏堂と共に二荒山神社にあったが、 神仏分離令により相輪?は明治8年に、 三仏堂は明治14年に輪王寺に移された。 相輪?は多数の経典が収蔵された家光公発願の供養塔である。 相輪?の後に三仏堂が写っている。 相輪?の前にある2基の灯籠は糸割符仲間が奉納した糸割符灯籠。

■ 確認結果

目録番号:3456「日光輪王寺相輪?と三仏堂」は、次の目録番号: 384「日光輪王寺相輪(2)」など関連作品が(1)から(4)まであり、タイトルを合わせた方が良いと思われる。

長崎外の古写真考 目録番号:3421 アメリカ公使館からの善福寺

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3421 アメリカ公使館からの善福寺

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3421 アメリカ公使館からの善福寺
〔画像解説〕
「江戸のアメリカ合衆国領事館から撮影された風景」と解説があり麻布善福寺とされていた写真だが、それは間違いで、現高輪3丁目の東禅寺である。安政5年(1858)7月、幕府は日英修好条約を結び、それによりイギリス公使館に定められたのが東禅寺であった。幕末、おそらく外国人の撮影によるステレオ写真である。本写真は3420及び3443に写る山門を横から撮影したものである。

目録番号:3422 イギリス公使館庭のガワーと武士たち

■ 確認結果

目録番号:3421「アメリカ公使館からの善福寺」は、〔画像解説〕によると、現高輪3丁目のイギリス公使館となった「東禅寺」が正しい。タイトルを直してもらいたい。
次の目録番号:3422「イギリス公使館庭のガワーと武士たち」も、それでは「東禅寺」の庭と思われ、「撮影地域:東京」となるのではないか。
「ガワー」とは、デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説によると、次の人物と思われる.

ガワー    Gower, Erasmus M.

1830−1903イギリスの鉱山技師。海軍軍人の父親の任地イタリアで生まれ,イギリスで鉱山学をまなぶ。安政6年(1859)ジャーディン-マセソン商会の社員として来日。幕府,新政府にやとわれ,北海道や佐渡など各地の鉱山調査にあたり,高島炭坑などの近代化にもつくした。明治13年離日。1903年12月16日死去。73歳。

長崎外の古写真考 目録番号:3345 横綱の肖像 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3345 横綱の肖像 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3345 横綱の肖像

目録番号:3351 相撲の稽古
〔画像解説〕
相撲の組み手を撮影したもの。個人用アルバムから切り抜いたものであるから、商業用写真ではない。どこかの相撲部屋の内部であろうか。ほかの写真から明治後期の撮影と判断できる。

■ 確認結果

目録番号:3345「横綱の肖像」は、横綱が誰かわからないが、次の目録番号:3351「相撲の稽古」も同じ場所で撮影されている。

(2014年5月28日追記)

目録番号:3345「横綱の肖像」は、大相撲横綱伝『初代、梅ヶ谷藤太郎』に記録する「十五代横綱・初代、梅ヶ谷藤太郎」と判明した。福岡県朝倉郡出身 本名・小江藤太郎 湊soon玉垣部屋。
渡部一寛さんのたよりシリーズ http://ameblo.jp/kazuhirowatabe/entry-11034545945.html を参照。同じ古写真が掲載されている。記事は次のとおり。

梅ヶ谷藤太郎は弘化2年、福岡県杷木町字梅ヶ谷の紙すき業の家に生まれました。
17歳の時に大坂相撲の湊部屋に入門し、故郷の梅ヶ谷を名乗って土俵に上がりました。
スピード出世を果たし、明治3年には大関に昇進しましたが、大望を抱く梅ヶ谷は江戸へ出て、玉垣の弟子となります。
その頃の東京相撲は大坂相撲を見下していたので、梅ヶ谷は番付外の本中相撲から取らされ、三日目から幕下格という酷い扱いでした。
その後も好成績を上げながら、大坂力士ゆえの冷遇は続き、入幕したのは七場所後の明治7年でした。
しかし、梅ヶ谷はますます無敵ぶりを発揮し、明治12年には大関に昇進します。
そして、明治17年2月、天覧相撲に先立ち、吉田司家と五条家から同時に横綱を免許されるのであります。
横綱免許時は、すでに39歳でありました。
明治17年、芝浜離宮で行われた天覧相撲で、梅ヶ谷はお好み相撲の一番として新進の大達と取り組み、壮絶な死闘を演じます。
大達は、筋肉質で怪力の持ち主で、得意技は、両手で相手の首を左右から挟んで捻り倒すという、なんとも恐ろしげな「とっくり投げ」(合掌捻り)で、中腰に立って拳を前に出す独特の仕切りをされただけで、取組み相手は震え上がったといわれています。
水入りの大相撲は東京市民の噂となり、梅ヶ谷の名は天下にとどろきます。
身長176㌢、体重123㌔、均整のとれた身体の梅ヶ谷は、強烈な突っ張りを武器とし、相手にまわしを与えずに勝つ相撲でありました。
東京相撲に移ってからの黒星はわずかに8個、明治9年4月から明治14年1月にかけて58連勝を記録し、大関若島に一敗したあと、再び35連勝するという無敵ぶりでした。
勝率九割五分一厘は、歴代横綱でもトップです。