長崎の珍しい標石」カテゴリーアーカイブ

壱岐にある明治38年建の街道標石  壱岐市石田町・郷ノ浦町

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壱岐にある明治38年建の街道標石  壱岐市石田町・郷ノ浦町

写真のとおり明治38年8月に建てた街道の標石を、壱岐市へ行って2本見かけた。
1本は、印通寺港から国道382号線により郷ノ浦町へ向かうと、すぐ右手から中心街を抜けてきた車道と合う交差点がある。昔からここが街道の辻だったのだろう。
今も付いてある道路標識と電柱の根元に古い標石があった。
四面に刻字。「←いんつふじ道 ごふのうら道→」「←いしだついき道」「明治三十八年八月建」「石田村」。

あと1本は、今度は郷ノ浦町に着いて「壱岐郷土館」の庭で見た。壱岐では「ステゴドン象化石」が発見されているので、象の実物大復元模型を庭に据えている。
その近くに隠れて、石田町交差点で見た標石とまったく同じ造りの標石があった。
四面に刻字。「←ひの□□道 ごふのうら道→」「←いんつふじ道」「明治三十八年八月建」「武生水村」。場所は、移設して展示しているのだろうか。

当時の街道、県道標石と思われる。同種のものは、長崎市矢上町・西彼杵郡時津町・諌早市・大村市で見ている。
取り立てるほど珍しい標石ではないが、数は少なくなっている。壱岐へ行って偶然、2本を見かけたので記しておく。

明治時代?の新街道伝える「一里標」  西彼町に残る

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明治時代?の新街道伝える「一里標」  西彼町に残る

次はHPにより調べた平成16年(2004年)7月2日828号、西広島タイムスの新聞記事。

明治時代の新街道伝える 道しるべ「一里標」を設置

▲新街道で道しるべとして設置されていたという「一里標」
【大竹市】明治維新後、江戸時代の西国街道に替わってつけられた新街道で道しるべとして設置されていた「一里標」。現在の大竹市油見三丁目あたりに建っていたと思われる一里標を、保管していた大竹市油見一丁目の伊藤正保さんが大竹市教育委員会に寄贈し、市教委は六月二十三日(水)、市総合市民会館(立戸一丁目)敷地内に説明板とともに設置した。
山坂が多く難路だった西国街道は明治時代に入り、平たんな海岸沿いに移す計画が上がった。廿日市−大竹間の工事は一八八○(明治十三)年に完成。開通の五年後には西国街道の一里塚に替わって、新街道に一里標が設置された。
大正時代まで設置されていたと推測される一里標は現存しているものが少なく、市民会館に設置されたものはその中の貴重な一つ。御影石造りの高さ百六十四センチ(地中部分含め全高百八十三センチ)ほどの道しるべには、大和橋まで「拾三町五拾六間二尺五寸」と里程などが刻まれており、当時の様子を推し量ることができる。市教育委員会は「昔の国道に設置されていた道しるべを多くの人に見てもらいたい」と話している。

西海市西彼町八木原郷に、これと同じような「一里標」が残っていた。江戸時代の街道一里塚と違う、明治から大正時代にかけての「一里標」のようだ。
場所は国道206号線西海橋の少し手前となる。真珠園療養所を過ぎると八木原で、「八木原 JA長崎せいひ大串支店」がある。このすぐ先の国道沿い左手、倉庫としている空家の庭先に石柱が2本立つ。通るたびに手前のは気にかけていた。
5月31日伊万里・佐賀方面に行くとき、バイクをUターンして調べてみた。奥にあと1本あるとは今まで気づかなかった。いずれも18cm角、高さ1.1mの石柱。手前のは無刻か表面が削られている。

奥のには4面に刻字があった。正面「長崎十二里」、裏面「面高三里二分」、右面「一里標」、左面「長崎縣」。「一里標」とは珍しい。
これは県が設置している。通りかかった高齢の地元井田喜八さんに聞いてみた。
「この石柱はもともと少し先の中郷集落船着場の所にあった。面高(西海町面高郷)を起点に設置され、昔は数本あった。空家の主牧山氏が石柱を貰い受け、この庭先へ据えた」という話。

長崎県にも何も設置史料は残っていないと思われる。日本がメートル条約に加盟したのは、明治19年(1886)。尺貫法併用から完全にメートル法に移行したのは、実に昭和33年(1958)年のことだ。国土地理院の旧版地図は、明治34年測図。一般的な地域のみ。西彼杵半島の特に外海地方は、戦後もまだ陸の孤島であった。
これらを勘案し、設置年代の手がかりとするほかはない。「西彼町郷土誌」に記述がないだろうか。この手の種類として珍しく、貴重な標柱であることは確かだ。

(平成22年5月29日 追記)
この記事は、ブログ「標柱図鑑 〜明治期標石・標柱類 博物館〜」を参照。
http://racoon60.cool.ne.jp/Meiji_milestones/Meiji_Ser.html

長崎街道辻道標  大村市杭出津

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長崎街道辻道標  大村市杭出津

大村市杭出津3丁目に「長崎街道辻道標」がある。場所は国道34号線から長崎空港へ行く入口の次の交差点「杭出津2丁目」から右折し、大村藩主墓所のある本経寺へ出る手前の路地の角である。ここは旧長崎街道の道が曲がった所。古い標石で、縦29cm、横22cm、高さ75cmの角柱。正面のみ刻みがあり「そのぎ道」と読める。

以前の写真によると、標石の傍に長崎街道案内標柱が立ち「史跡 長崎街道辻道標」「由来 江戸時代、小倉・長崎間に通じていた長崎街道の道しるべで、これよりそのぎ道とあり、大村城下宿から彼杵宿へ行く道標と思われる」とあった。
(HP「長崎街道ボタボタ道中記」及び「長崎街道2(諌早市〜東彼杵町)」の”アーケードを真っ直ぐに進路を取り、杭出津付近から、L字型に街道が曲がっており、ここに「追分石」がある…「これより左そのぎみち」”の掲載写真)
史跡案内標柱は、地主駐車の邪魔になったのか、なぜか今ははずされて立っていなかった。

この標石が「長崎街道辻道標」と呼ばれることはわかった。上の写真の地図のとおり、HP「伊能忠敬測量による長崎県内の主な街道・長崎街道」大村の項にきちんと「街道道標」と認められ、位置と写真がある。
また、HP「長崎県大村市の観光・コンベンション情報 よって行かんね おおむら」の「異国文化行き交う長崎街道」では、”辻道標 長崎街道に残る貴重な道標です。高さが約80cmで「是より左彼杵道」と彫ってあります。”と紹介している。

市中において街道の道筋を故意にL状に曲がらせることは、敵の侵入をふせぐため全国の各所でもよく見られる。ここの大村もその1つであると何かで読んだ覚えがある。
私は本経寺を見学ついでに、5月4日杭出津に初めて寄って、この道標の標石を確認した。あと1つ報告したいのは、この手前の角にも別の道標の標石があるのを見た。

この角は杭出津2丁目となる。黄色の点滅信号機がある交通量の多い交差点。前記写真の地図に、場所を緑●で加え表示してみた。
標石の刻みはすでに薄く、各面に「かやせ□□道」「明治三十三年六月 西大村」とか読める。「そのぎ□□」もあるようだ。この標石の存在は、HPを見たかぎりまったく紹介されていない。
「明治三十三年六月」と新しい時代の建立のためか。地元でもう少し関連づけて説明してほしい杭出津3丁目と同2丁目の2つの標石である。

岩屋山の岩屋神社道にある標石  長崎市虹が丘町

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岩屋山の岩屋神社道にある標石  長崎市虹が丘町

平成20年4月13日、岩屋神社から岩屋山(標高475m)へ登り、稲佐岳まで縦走した。岩屋神社道から岩屋山に登ったのは30年ぶりくらいとなる。この登山道で2つの標石を見た。
岩屋神社から谷間沿いのゴロ道をほどなく上がると、岩屋龍神と彫られた岩にはヒサシの小屋が設けられ祀られている。2つの標石はこのすぐ上の登山道脇に見られる。

岩屋龍神から登って30mほど、1つは登山道から少し離れた谷間にある。下山中の人が教えてくれた。立石で正面は平たく、よく見ると何か彫っている。彫りが薄くなり何かわからないが、梵字のようなものではないだろうか。
これからまた30mほど登山道を登ると、2つ目は道標である。石柱で「右 ○○○ミチ 左 ○○○○ミチ」。左方が今、岩屋山に登っている本道である。右方はかすかな踏跡があり、これは山腹を巻いて、岩屋山頂上からの北西尾根に出、園田トンネルや九州自然歩道まで伝えば式見ダムへ下れる。

石柱の刻字は「右 式みユミチ」、「左 シ子ヲヒミチ」のような字の格好をしている。しかし、どうしても解読不明で、写真もうまく写らない。
江越先生は石柱の存在を知っておられ、講座で案内している。文献の記録はないらしい。左の式見の方角だけは確かだそうだ。

先生の話によると、この石柱から山頂までの間にあと1つ立石があり、梵字のようなものを彫っている石がある。そして園田トンネルへの尾根道で、岩に4段ほど階段を彫っている不思議なものがあるそうである。近々、先生と現地を訪ねる約束をした。

現代の道標  長崎市鳴見町

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現代の道標  長崎市鳴見町

現代の道標も捨て難い。親切な自治会がある。日当自治会。自治会が道標を建ててくれている。初めての道で道標に何度助けられたことか。前来た道でも最近の幹線道路・林道・農道の新設改良により昔の記憶は全く役立たない。

日当自治会は、鳴見台団地や豊洋台団地の背後山手の集落。日当・白河・二ツ岳の集落によって構成されているのではないだろうか。こういう大型団地の開発や鳴見ダムなどの建設によって、昔からの道がわからなくなっている。
現地の山は時津町との境。滑石トンネルや時津の日並へ抜けろと言われても、岐路が多く簡単に進めない。

この点、自治会の配慮に感謝する。写真のとおり立派な道標を建ててくれている。現代の道標を要所に3本、時津清掃工場前の三叉路には大きい道路表示版を見た。

手熊橋の古い親柱  長崎市手熊町

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手熊橋の古い親柱  長崎市手熊町

長崎市西部の手熊町。手熊川河口にある小さな石橋「杉の上橋」を見に行った。HP「長崎県の石橋を訪ねて」によると、「河口の手熊橋も石造アーチ橋で有ったが、昭和57年の水害後撤去してしまった」とある。
現在、この「手熊橋」には、脇に古い親柱が2本残されている。地元で聞くと、石橋が解体されたのは、長崎大水害後でなく昭和40年代である。国道202号線ができ、橋の老朽化と道路拡幅のためである。銘板によると「昭和47年3月竣工」とあった。
古い橋の親柱をこうして保存されているのは、地元の心にくい配慮といえよう。1本は「手熊橋」、1本は「てぐま橋」と刻まれている。

明治33年建長崎街道の標石 (1)  長崎市矢上町

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明治33年建長崎街道の標石 (1)  長崎市矢上町

時津町浦郷の茶屋(本陣)跡道角にあった時津街道の道標、明治33年建の標石については、先日に報告した。これと同じ造りの標石がこんどは長崎街道の矢上にも残っていた。
標石があった場所は、矢上神社を出た街道が国道34号線を斜めに横切り、50mほど八郎川に向って入った右道脇。一帯は住宅地。井出松次様宅の玄関にあたり、ガレージとの間にあった。
小さなマキの木の根元でやや目立たない。刻面は次のとおり。寸法は18cm角、高さ65cm。

正 面  ←喜々津 諌 早  長 崎→
左側面  ←有 喜 愛 野
右側面  仐矢上村字宿
裏 面  明治三十三年九月建

「明治三十三年九月建」とあるとおり、旧街道時代でなく明治中期となって県道として認定された当時設置された道標となる。この矢上の標石の存在は、ほとんどガイド本に紹介されていないようである。
同じ造りの標石は、滑石の平宗橋と滑石公民館近くにも現存し、時津にもあった。これで4本となった。諌早市野中町の旧刑務所近くのも入れると5本。旧街道の名残りを残すそのままの道の時代の道標であるから、もっと知られてよいのではなかろうか。

明治34年国土地理院旧版地図を見ると、今の地点に街道であった県道分岐はない。もともと建ってあった場所から移設されているのではないか。
矢上地区は土地区画整理事業が実施された。やはり、今の戸石方面へ行く矢上交差点の裏通り、旧街道の分岐となった地点にあったと思われる。

昭和50年建の「示道標」標石  長崎市松崎町

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昭和50年建の「示道標」標石  長崎市松崎町

平成19年12月18日、神浦ダムから奥の新牧野町で前外海町の木「ヤマモモ」を見て、山越えして畦刈へ出た。この標石はその途中、松崎町・西海町の町境となる山手の道脇で見つけた。
場所を逆に説明すると、樫の久保バス停から森林基幹道「西彼杵半島線」が上がっている。約3分ほど走るとここは四叉路となり、九州自然歩道の「神ノ浦ダム 畦刈・三京」標識があった。対面の案内図の根元に標石があった。

刻みは、「示道標」「昭和五十年三月 才木栄建」「右 才木、岩立、桂山ニ至ル」「左 長田、黒崎、外海方面ニ至ル」。寸法は、28×20×90cm。新しい年代造りの道標石のため、取り立てる標石ではないが、殊勝な方が地元にいたものだ。基幹道が整備され、道も変わってきている。しかし、昔からここは重要な分岐点だったと思われる。

茂木旧県道の道しるべ  長崎市茂木町

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茂木旧県道の道しるべ  長崎市茂木町

田上から茂木へ国道324号線を下ると、ガソリンスタンドのある黒橋バス停のやや手前の右脇に立つ。花が供えられ、屋根の形から供養塔とも思われる。刻んである字句が読めれば、何の石碑かわかるのだが、どじょう会「長崎の碑(いしぶみ)」にも紹介がない。

さるく博用により、もぎ歴史懇談会が作った「茂木の名所旧跡」の説明は次のとおり。「道しるべ(旧県道)」としているので、そのまま紹介する。旧県道とは下手の河平川に沿った道で、明治18年(1885)人力車・馬車道として開通した。
会の代表、宮本酒店の宮本氏に尋ねたが、石碑のこれ以上のことはかわからない。

道しるべ(旧県道)

旧県道開通時に建てられたと思われる。前は現在地の下の段にあったと云われ交通の安全祈願と思われる。

虚空蔵山系の飯盛山と歌舞多山頂にある「鑛福」の標石

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虚空蔵山系の飯盛山と歌舞多山頂にある「鑛福」の標石

京都市上西勝也氏は、測量標石から見た近代測量史の研究家。インターネットサイト「三角点の探訪」を作成されている。氏のもとに鹿児島の測量業の方から、同県内で「鑛福」と刻字のある標石が見つかったので素性を知りたい、と相談があった。
氏が調べると、戦前、九州全体の鉱山を統括する福岡鉱山監督署またはその関係によって設置された鉱区の境界を示す標石のようで、鹿児島だけではなく、長崎や他県にもあることがわかったそうである。
長崎県では、山歩きをする人のHPに虚空蔵山系の飯盛山と歌舞多山にこの標石があることが記録として出ており、現地へすぐに行けないので、私に調査依頼があった。

平成19年9月26日、車で調査に行く。東そのぎインターで降りて北を見ると、飯盛の形そっくりの山がすぐわかる。国道34号線嬉野へ下る俵坂峠手前から左の「広域基幹林道虚空蔵線」へ入る。5分ほど走ると飯盛山への尾根を越すところがあり、ここから植林地の尾根の踏み跡を伝うと15分で飯盛山の山頂へ着いた。四等三角点009 426。標高362.4m。
この傍らに53cm離れて「鑛福」の標石があった。15cm角、高さは低く、地面から14cm。赤茶けた色をしており花崗岩のよう。刻面は正面の「鑛福」と上面に方角を示した「+」のみ。「鑛福」は横書きで左から読めばそうだが、右からは「福鑛」と読め、これが正しいのでないだろうか。

虚空蔵山の奇岩鋒下を回り込み、波佐見に続く広域林道をさらに20分ほど行く。岩屋・木場の両登山口を過ぎ、木場林道分岐から石木ダム建設に揺れる川棚町木場の集落へ降りた。歌舞多山は、岩屋川と木場川に挟まれた山。集落の背後にそびえるコニーデ状の山で、山城跡である。
中木場バス停に車を置き、上に見える山頂を目指した。植林地の中は右手尾根沿いに道跡があり、谷間をつき上げると後は大石の岩場の稜線を頂上へ10分ほど急登した。歌舞多山は現行地形図に山名はないが、標高343.0mの山。中木場は150m位だから標高差200mほど登ったこととなる。山頂近くに境塚らしきものを10基ほど見、その写真を撮りながらであったから、約50分を要した。
植林の山頂は、歌舞多城跡の表示あり、四等三角点009 412がある。この傍らに74cm離れて「鑛福」の標石があった。飯盛山のとまったく同じもので苔むしていた。

帰りは虚空蔵山の方へ尾根が続き、道がはっきりしていたので辿ってみた。頂上直下はロープが長く張られた岩場の急斜面を降下する。ここにも木場へ下る道があるようだ。あとは雑木林の尾根道がたんたんと続き、頂上からは30分ほどして「木場へ」の標識あり、下ると林道となり、すぐ木場の水汲み場のところへ出た。この尾根縦走路は、平成15年県体コースで整備されているようで、広域林道の木場登山口に出て虚空蔵山へと続いている。
なお、後日虚空蔵山へ行った時、上木場の橋脇に「歌舞多城址登り口」の案内標石を見た(最後の写真)。この道から登るのがいいようだが、もう荒れているのではないか。

「彼杵鉄鉱山跡」と「歌舞多古城」の史料

山歩きの人のHPは、「鑛福」で検索すると標石の記録と写真が出てくる。これを参考に現地の標石を確認したわけであるが、帰ってから史料など少し当ってみた。
標石の設置史料はまだ見出しえないが、その背景となる史料類。まず「彼杵鉄鉱山跡」は、大村史談会「大村史談 第十二号」昭和52年3月発行に掲載されている。東彼杵教育委員会「東彼杵町史跡あんないー探訪のしおりー」中の113頁に以下のとおり説明がある。
虚空蔵火山が造り出した各種鉱石の鉱脈は、山系周辺の各地に見られた。明治以後、波佐見では大金山が採鉱された。嬉野温泉センターの泉源も石炭試掘の恩恵とのことである(波佐見史下巻)。また、川棚史談会松崎会長にお聞きすると、飯盛山の標石はご存じなく、歌舞多山のは見ている。山の持ち主標石と思っていた。他にある所は調べられてないということであった。

彼杵鉄鉱山跡
飯盛山のふもとに川内郷木場前からと飯盛側から何本かの坑道が掘られ鉄鉱山の跡が残っている。この鉄鉱山から産出する鉄鉱石は褐鉄鉱という黄褐色の鉱石で鉄の含有量は三〇〜四〇%の貧鉱であり、鉄の生産には余り適当とはいえない。この鉄鉱石がいつの頃発見され、利用され始めたかは不明である。大正の初期この鉱石を製鉄のためでなく顔料(ペンキなどの着色剤)の原料として採掘したことがあったが収益上らず廃鉱となった。
昭和に入り、戦争が激しくなると、重要鉱山として指定され、昭和十三年から三和工業所(本社・大阪 社長倉本徳一氏、鉱長野田寛治氏)の手で製鉄のための鉱石採掘が再開され一〇〇名ぐらいの人が就労し、鉱石は八幡製鉄所に送られた。採鉱は敗戦の時まで続いたが廃鉱となり現在は全く放置されている。

次は藤野保編「大村郷村記 第三巻」昭和57年刊、川棚村の項224頁の「歌舞多古城」の古記録。
一 歌舞多古城
東川棚村木場と云ふ所にあり、此城至て嶮岨にて、東北の方は鳥も翻りかたき難所也、西の方追手と見へ少しの平易あり、北の方山の八合目の所に樵夫の通ふ細き横道あり、此道より頂上まで五拾七間、手の裏を立たるか如し、天和の記曰、本丸東西壱町、南北拾弐間、石垣高四間、長拾五間、西の方にありと云、今は石垣の形ちのみ残れり、此所より小峰の城酉の七度に當る、二の丸南の方堅六間、横三間、石垣高三尺五寸、長九間、今は雑木山にて其跡分明ならす、水の手弐間程下にあり…