長崎の巨樹・名木 (県 北)」カテゴリーアーカイブ

安楽寺のクスノキ・クロガネモチ  東彼杵郡波佐見町金屋郷

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安楽寺のクスノキ・クロガネモチ  東彼杵郡波佐見町金屋郷

東彼杵郡波佐見町金屋郷の安楽寺には、県道1号線で行く。波佐見町総合文化会館先に舞相交差点があり右折、裏通りを少し戻ると、大鳥居が左にある。金屋神社の入口道で神社へ向かって進むと、まもなく左方の高台に安楽寺がアナンダ幼稚園とともに見える。

クスノキは幼稚園との広場、クロガネモチは参道を上がって本堂の左奥にある。金屋神社へ行く途中に見かけた大木。道路を回り込んで寺へ寄ってみたら、金屋自然の会の同じような樹木札があり、クスノキは樹齢約400年、クロガネモチは同500年とあった。
波佐見町「はさみ100選 ガイドブック」1987年刊109頁は安楽寺を載せているが、木は記していない。   

金屋神社のイロハモミジなど  東彼杵郡波佐見町金屋郷

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金屋神社のイロハモミジなど  東彼杵郡波佐見町金屋郷

波佐見町金屋郷にある金屋神社には、県道1号線で行く。波佐見町総合文化会館先に舞相交差点があり右折、裏通りを少し戻ると、大鳥居が左にある。金屋神社の入口道で神社へ向かって、この道を山手へぐんぐんと上がる。かなり奥まで進むと金屋神社へ着く。背後は猿岩の奇岩が見える。
社殿のある広場左に、まずイロハモミジの古い大木。樹木札に樹齢約700年と書いてあった。

上宮である奥神殿岩窟へは、左方の植林地内コンクリート舗装の林道を上がる。途中から右石段道へ入る。林道・石段ともかなり急坂。300mというが、休み休み15分以上はかかる。
植林地の杉は幹周り3m弱。石段道になると、岩に長い根を張った珍しい木が多く、「金屋自然の会」が樹木札を立てている。下からメモすると次のとおり。
いろはもみじ 樹齢約500年、 けやき 同300年、 ゆすのき 同300年、
つが(まつ科) 同500年。
Otoji.K氏HP「長崎の樹木」リストの中(街路樹)の説明は次のとおり。

波佐見町金屋郷・金屋神社

境内にはスギの大木の他、カエデの大木(2.5m)がある。神社左手のスギ林の中を登っていくと岩窟があり、上宮が祀られている。
周辺にはイスノキ・エノキの大木がある。シイ・アラカシ・カゴノキ・ヤブツバキの他、ミサオノキの若木もあった。珍しい!

なお、波佐見町「はさみ100選 ガイドブック」1987年刊100頁による説明は次のとおり。

69.金屋神社と杉の大木(金屋郷)

金屋谷の奥、大がす小がすの山ふところに金屋神社は鎮座し、神域には杉の大木が林立して静かです。上宮はさらに300mほどの急坂を登った岩窟に祭られています。祭神は金山彦命を中に伊邪那岐命、伊邪那美命(神体は行基菩薩の作という)副神橘諸兄。…
境内には、ていていとした杉の大木がそびえており、最も大きいのは、周り2.45m、高さ25mに及び名木です。また楓の古木は根周り2.5mもあり風情を添えています。

庄屋跡のイチョウ  東彼杵郡波佐見町宿郷

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庄屋跡のイチョウ  東彼杵郡波佐見町宿郷

東彼杵郡波佐見町宿郷にある。道路がわかりにくいから県道4号線の宿郷交差点まで行き、右折して武雄方面県道1号線に入るとすぐ波佐見町役場入口。
庄屋跡のイチョウはこの県道1号線の道路反対側、裏通りにあるので歩いて行く。根元辺りは家が建て込んで、巨木が映えないし写真が写しにくい。町指定天然記念物。
Otoji.K氏HP「長崎の名木」リストの中の説明は次のとおり。

波佐見町庄屋跡の大イチョウ

幹周り5.3m、樹齢およそ450年のイチョウ。雌株。波佐見町で最も古い樹木で、町の天然記念物に指定されている。宿郷にある。昔は高等小学校の運動場であったようだが、今では住宅地に変わり、ちょっと窮屈そう。

なお、波佐見町「はさみ100選 ガイドブック」1987年刊18頁による説明は次のとおり。

6.庄屋跡の大銀杏(宿 郷)

宿郷の旧道端にあるのが庄屋の大銀杏といって、江戸時代から親しまれました。上波佐見の庄屋屋敷にあって目印となっていたのです。波佐見村の庄屋は、岳辺田郷平瀬にあったのですが、村が藩内で一番広いので一カ所の庄屋では行き届かぬため、ここに新たに庄屋を建てたのが、四代藩主純長のころです。
庄屋では、藩に納める年貢米や運上銀(税)が集められ、毎年正月には村中の人に踏絵(キリスト教信者を見分けるためキリストやマリア像を踏む)が行われました。前には辻札が立つ所もありました。
明治になって庄屋は戸長役場、村役場と変わりましたが、上波佐見行政の中心であったのです。明治22年には上・下両波佐見村が合同して高等小学校を建てることになり、それに鹿山小学校が合併し、二階建の洋式校舎が建ったのも庄屋屋敷内でした。大銀杏は運動場内に立っていました。(昭和34年廃校)
大銀杏は、周り4.8m、樹齢300年とされています。江戸時代から明治、大正、昭和と時勢の移り変わりをよく知っているこの大銀杏は町の宝です。

田ノ頭のシダレザクラ  東彼杵郡波佐見町田ノ頭郷 ( 長崎県 )

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田ノ頭のシダレザクラ  東彼杵郡波佐見町田ノ頭郷

東彼杵郡波佐見町の次はシダレザクラの名木。県道4号線が波佐見温泉入口を過ぎ、川棚川が大きくカーブしているところの橋手前に道路案内板があった。波佐見町田ノ頭郷でシダレザクラの名木はすぐ右手の細い道を上がった突き当たりにある。
3月下旬の開花の時期を迎え、観覧場や丸太のベンチが用意されていた。まだほんの小さな蕾である。
Otoji.K氏HP「長崎の名木」リストの中の説明は次のとおり。咲いた写真は同HPを参照。

波佐見町田ノ頭郷のシダレザクラ

県道4号線沿いにシダレザクラの案内板があり、分りやすい。民家の山の斜面の畑にある。樹齢およそ百数十年という。道路に向って枝垂れ、10mほどにも広がっている。数ヶ所、支柱で支えられてある。
満開の時期はすこし過ぎていたが圧巻。こんな大きなシダレザクラは初めて見た。シダレザクラはエドヒガン系で、萼筒がくびれるのが特徴。

なお、波佐見町「はさみ100選 ガイドブック」1987刊19頁による説明は次のとおり。

7.田ノ頭の枝垂桜(田ノ頭郷)

毎年4月、淡いピンクの花がいっぱいに拡がるこの枝垂桜。丘の中腹にあるので、遠くからも人の目をひき、うららかな春を知らせます。近寄って見ると、樹齢は確かめられないが、百数十年を経た老木です。近くに子どもの若木が2本あって一層ひき立てます。波佐見の名木の一つでしょう。

(追 記 2015年3月29日)

開花写真は、私の先輩”gonbeyaの部屋 – エヌログ 「桜めぐり」”の記事から。2015年3月25日撮影。

楠本端山旧宅のマキ  佐世保市針尾中町

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楠本端山旧宅のマキ  佐世保市針尾中町

楠本端山は、幕末から明治維新にかけての激動変革の時期に活躍し、弟碩水と共に「西海の大儒」と呼ばれた儒学者。楠本端山旧宅は佐世保市針尾中町にあり、長崎県指定文化財となっている。国道202号線が西海橋を過ぎて針尾小手前の葉山バス停から左へ入る。

正門の右脇にかなり大きなマキの木がある。頭上のところが中膨れしているようでなお大きく感じる。左方には斜めに生えているヤマモモの木もあった。
マキは幹周り2.5m樹高13m。ヤマモモは幹周り1.5m、樹高8mくらい。
佐世保市高梨町の須佐神社には、樹齢およそ400年、秀吉の朝鮮出兵戦勝記念に植えられた大マキがあるらしい。

史跡「川原悠々宅跡」のクスノキ  東彼杵郡東彼杵町瀬戸郷

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史跡「川原悠々宅跡」のクスノキ  東彼杵郡東彼杵町瀬戸郷

国道34号線千綿駅前を過ぎると、東彼杵町瀬戸郷のバス停があり、JA千綿支所がある。史跡「川原悠々宅跡」はこの背後の高台にあり、手前の車道を上がって行くか、先の小川沿いから細い車道を高台を目指し上がって行く。
何れも高速道の下をくぐる。道路がわかりにくいから、高台に上がって高木の場所を探す。
Otoji.K氏HP「長崎の名木」リストの中の説明は次のとおり。

クスの巨木

東彼杵町瀬戸郷の民家の屋敷内にある。遠目から見るとさほどのクスでもないが、近づいて、その幹の大きさに圧倒される。思わず息をのんだ。
幹周り10m、樹高15m。県下のクスの巨木では、長崎市の矢上神社のクスに次ぐ5位のクスノキである。クスの根の一部は民家に入り込んでいる。根元には小さな石の祠が2つ置かれてある。

民家は「川原悠々宅跡」として町の文化財に指定されている。小さな庭園があり、池には鯉が泳いでいる。マンリョウとシロミノマンリョウが多数植えられてあった。川原悠々は習字師であったが、後に代官となり、この屋敷に居を構えた。俳諧を嗜み、82歳で没した。

太ノ浦のオガタマノキ  東彼杵郡東彼杵町太ノ浦郷

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              太ノ浦のオガタマノキ  東彼杵郡東彼杵町太ノ浦郷

 東彼杵町太ノ浦(たのうら)郷とは、自衛隊大野原演習場近く。千綿渓谷から車は行けないから、国道34号線千綿宿先の東そのぎグリーンテクノパークへ上がる道路に右折して入る。
「自衛隊道路」と言われ大野原までかなり進む。町営バスバス停があり、左方へコンクリート道を上がって行くと、太ノ原のまとまった集落に出る。

 「太ノ原」バス停の茶畑先にオガタマノキの木が見える。町指定天然記念物の巨木。この道をまっすぐ下って行くと、中尾郷を通り大楠小学校先で俵坂峠側の国道とまた合う。
Otoji.K氏HP「長崎の名木」リストの中の説明は次のとおり。

                        オガタマノキの巨木

 東彼杵町太ノ浦郷太ノ原の太ノ原公民館近くにある。周辺は彼杵茶の茶畑がある。茶畑の斜面にあり、枝を斜面下に垂らしていて、樹形がいい。幹周り5.7m、樹高20mほどある巨木。祠が安置されていて神木である。
町の天然記念物に指定されている。小長井町のオガタマノキに次ぐ巨木である。幹周りから想像すると樹齢900年ほどだろうか…。巨木の傍に、別のオガタマノキの大木があり、根元で繋がっている。

三根墓地のクロガネモチ(雄株)  東彼杵郡東彼杵町三根郷

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三根墓地のクロガネモチ(雄株)  東彼杵郡東彼杵町三根郷

東彼杵町三根郷にある。国道34号線を高速道IC交差点から嬉野の方へ向い、彼杵川の大きな橋を渡ると、川棚方面からの道と合いカーブする。この右手の共同墓地の真ん中に樹形のよい巨木が1本立っている。これがクロガネモチ(雄株)である。
Otoji.K氏HP「長崎県の名木」リストの中の説明は次のとおり。

クロガネモチの巨木(雄株)

東彼杵町三根郷にあるクロガネモチ。34号線に接する共同墓地の中央にそびえている。幹の中ほどから複雑に幹が分れていて、お墓のほぼ全てが枝で被われている。昔から、お墓を守ってきたという雰囲気が漂い、その樹形は圧巻。
幹周りは、両手で抱いて2回半ほどあり、およそ4m弱。幹周りから推定すれば、樹齢は250年前後だろうか…。長崎のクロガネモチの巨木では上位に位置する。

長崎街道のクスノキ(二世)  東彼杵郡東彼杵町菅牟田郷

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長崎街道のクスノキ(二世)  東彼杵郡東彼杵町菅牟田郷

東彼杵から国道34号線を嬉野の方へ向い約5分、高速道のガード下を通りしばらくすると大畑小学校へ下る右分岐がある。クスノキは学校前の車道のもう一段下側の車道に入口があるので、下って回りこむ。
この下側の道が長崎街道。東彼杵の町から続き車道としても整備されており、この道をたどってもこの場所に来られる。帰りの大村湾夕暮れ空にジェット機が上昇した。
Otoji.K氏HP「長崎県の名木」リストの中の説明は次のとおり。樹齢3500年以上の大楠だったとは?。シーボルトが描かせた画も転載した。今ある木はその二世である。

クスノキ二世

東彼杵町ニの瀬にあるクスノキ。以前は樹高23.6m、幹周り16.3mで、樹齢3500年以上の巨木であった。長崎街道にあり、1826年(文政9年)シーボルトがその姿を描かせている。明治27年頃、樟脳の原料として切り倒され、小学校建設の費用に当てられたらしい。現在のクスノキはその二世である。大楠小学校の近くにある。
最下部の画は、シーボルトが描かせた大楠。〜「シーボルト(日本)雄松堂より」〜。
幹が空洞になっており、畳八枚ほどの広さだったらしい。

彼杵小学校のエノキ  東彼杵郡東彼杵町蔵本郷

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彼杵小学校のエノキ  東彼杵郡東彼杵町蔵本郷

東彼杵町の町中に入るとすぐ国道に横断歩道橋があり、この左手に彼杵小学校がある。エノキは学校の体育館裏にあるので、学校正門前を車道は右へ行ってフェンス越しに木を見られる。
Otoji.K氏HP「長崎県の名木」リストの中の説明は次のとおり。

エノキの巨木

東彼杵町の彼杵小学校内にある。幹周り4.8m。目通りの高さにある枝は切断されていて、中は洞ができている。エノキの周辺はセメントで囲まれて保護されている。
小学校に隣接して彼杵(そのぎ)神社があり、彼杵宿本跡がある。近くを長崎街道が通っていて、このあたりが、長崎街道と平戸街道との分岐点になる。
近くの港には、二十六聖人乗船場跡がある。キリシタン禁止令によって捕えられた二十六聖人は、京都から護送されて、長崎街道を経てここに到着。ここから乗船して長崎に向い、西坂の丘で処刑された。二十六聖人も、このエノキを眺めたのだろう。