四国(徳島・高知)」カテゴリーアーカイブ

堀川眼鏡橋  高知県須崎市東糺町

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堀川眼鏡橋  高知県須崎市東糺町

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」によるデータは、次のとおり。

№5,589   堀川眼鏡橋

須崎市東糺町
橋幅:4.0m  径間:5.2m  拱矢:m  環厚:m
輪石:51列
眼鏡橋
「糺ノ池より市街地を東に流れる堀川に、糺町(現、東糺町、西糺町)と横町(現、横町、西古市町へ通じる往還道として架橋したもので、明治初年の記録には木橋で糺橋と呼ばれていた。この道は古く藩政時代より幡多路への往還道でもあった。その後明治34年に橋からアーチ形の石橋に架け替え眼鏡橋と命名された。市内唯一の石橋であったが交通量の増大によって昭和56年に取り壊されコンクリート橋となる。
水と緑の川端シンボルロード整備事業によって、ここに旧石材を使用して眼鏡橋を架橋したものです。
形式 石橋アーチ橋 全幅4.0m、径間5.2m、輪石51列   平成5年3月」
川端シンボルロードに移設保存されています。

五色ノ浜の横浪メランジュ  高知県土佐市宇佐町

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五色ノ浜の横浪メランジュ  高知県土佐市宇佐町

土佐市HP(掲載日 : 2011/03/30)による解説は、次のとおり。地図・地質写真も同HPから。
横浪黒潮ラインから「五色ノ浜」へ下ったが、潮が満ち台風後のうねりがすごい。現地確認はできなかった。詳しい「フィールドガイド 横波メランジュ巡検ルート」は、次にあるので参照。
http://www.arito.jp/FG09.shtml

平成23年2月7日 国天然記念物指定
名 称  五色ノ浜の横浪メランジュ(ごしきのはまのよこなみめらんじゅ)
所 在  高知県土佐市宇佐町竜
指定理由
横浪半島の五色ノ浜の海岸には、四万十帯とよばれる海洋プレートの地層(玄武岩・チャート・遠洋性粘土等)が、プレートが沈み込みむ際の付加作用で混じり合ったメランジュと呼ばれる地層になって分布しています。
1970年代以降、我が国のような弧状列島は、海洋プレートの移動とそれに伴った地層の付加作用によって成長してきたことが明らかになりました。五色ノ浜の横浪メランジュは、こうした学説が提起・証明された場所として重要です。

横浪黒潮ライン  高知県土佐市・須崎市

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横浪黒潮ライン  高知県土佐市・須崎市

日本100名道の「横浪黒潮ライン」。浦ノ内湾を抱き細長く伸びるリアス式海岸の横浪半島を、18.8kmにわたって縦走する四国でもNO1のスカイライン。南に雄大な太平洋、北に穏やかな浦ノ内湾を望むことができる。7枚目は、住友大阪セメント須崎工場。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

横浪黒潮ライン

横浪黒潮ライン(よこなみくろしおライン)は、高知県土佐市から須崎市を結ぶ横浪半島を縦断する全線通行無料の道路。横浪道路とも呼ばれている。かつては横浪有料道路だった。路線名は高知県道47号横浪公園線である。

概 要  延長:18.8km
解 説
桂浜から黒潮ラインを西へ向かい、高知県道23号須崎仁ノ線から南方面へ分岐する。宇佐大橋を渡って横浪半島の東端部へ渡った先に休憩所がある。さらに近くに竜の浜駐車場がある。
森の中に入り途中に「須ノ浦パーキング」がある。同パーキングには武市半平太像が設置されている。浦ノ内湾沿いを走っていくと再び高知県道23号須崎仁ノ線に合流する。
歴 史  1998年12月10日:無料開放。
周 辺
・浦ノ内湾
・宇佐大橋
・四国八十八箇所第36番札所青龍寺
・明徳義塾中学校・高等学校
・鳴無神社

大谷のクス  高知県須崎市大谷

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大谷のクス  高知県須崎市大谷

高知県HP「高知の文化財」による解説は、次のとおり。大谷へは、県道23号から大谷?トンネルを通った方が近い。

大谷のクス

名称ふりがな おおたにのくす
指定等  国指定 記念物(天然記念物) 指定年月日 : 大正13年12月 9日
所在地・所有者等 高知県須崎市大谷 須賀神社・須賀神社
解 説         
須崎市大谷の海岸近くにある須賀神社境内に生育しているクス巨木である。
根元の周囲約20m、胸高周囲16m、推定樹齢1200年で県内では最も大きいクスである。
主幹の下部は空洞となっており、その中に 「樟神様」 と呼ばれる小さな祠がまつられている。
度々の台風などで主幹の上部も一部おれるなどして、樹形はあまりきれいではない。 しかし、そのためかえって老樹らしい雰囲気をかもし出している。

大樽の滝  高知県高岡郡越知町

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大樽の滝  高知県高岡郡越知町

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

大樽の滝
所在地 高知県高岡郡越知町

大樽の滝(おおたるのたき)は高知県高岡郡越知町山室字大樽にある滝。日本の滝百選に選定されている。

概 要
仁淀川の支流の大桐川水系大樽谷川水域にある。今から4億年以上前の花崗岩で形成された岩肌を流れ落ちている。落差は34メートル。越知市街地の近郊にあり、水源の山は標高200メートル程度の低山である。

滝の名は大きな樽の水を撒いたように豪快に流れ落ちることに由来する。滝の上部には囲炉裏ヶ淵、中樽、上樽などの淵が点在し悲恋物語など伝説が残っており、囲炉裏ヶ淵には大蛇が棲んでいたとの伝承もある。

昭和31年(1956年)横倉山県立自然公園の一部に指定された。滝の直下には橋が架けられており、ここから滝を眺めることが出来る。滝の前には「大樽自然塾」というログハウスが建っており有料で貸し出されている。

涼 月 橋  高知県高知市春野町

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涼 月 橋  高知県高知市春野町

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」によるデータは、次のとおり。
仁淀川大橋手前から県道14号へ入る。春野町新川橋の少し上流側の堰の所。

№3,923   涼 月 橋

高知市春野町森山 新川
新川川
橋長:9.0m  橋幅:2.7m  径間:1.9m×4  拱矢:0.55m
4連アーチ
架設:明治30年頃

涼月(りょうげつ)橋
「承応元年(1648)土佐藩主忠義公の執政野中兼山先生(春野神社祭神)により、新川川、新川町がつくられた。
当初これにかかる橋は木造であり、現在の橋の片側に残っている純石造橋は明治30年(1897)頃の造りといわれ、この碑は当時の橋名柱の一部である。その工法のすぐれた形からメガネ橋と呼ばれ広く親しまれた。」
昭和60年8月施工  新川自治会・新川老人クラブ

新川川に架かる4連アーチです。左岸側のアーチは上・下流ともRC拡幅。
中央の2つのアーチは上流側から確認できます。上部、石畳がオリジナル部。

桂 浜  高知県高知市浦戸

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桂 浜  高知県高知市浦戸

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。
4枚目は、同じ桂浜公園内「浦戸砲台場跡」だが、写真が暗かった。説明板は下のとおり。
この日は、台風17号が高知市に最接近中で大雨。テレビ局が桂浜から中継準備中だった。

桂 浜

桂浜(かつらはま)は、高知県高知市浦戸に位置し太平洋に臨む海岸。土佐民謡「よさこい節」にも詠われ、そして太平洋を望んで立つ坂本龍馬の銅像がある浜辺は、高知を代表する名所の一つとして知られる。

概 要
上竜頭岬が北東端に、下竜頭岬が南西端にあり、その間に挟まれて弓形に砂浜が延びている。下竜頭岬には竜王宮があり鳥居が立っている。桂浜の近くには、1591年(天正19年)長宗我部元親が北側の丘陵部に浦戸城を築き、一時この地が岡豊城に代わって土佐の中心地になった時期もあった。しかし、初代土佐藩主として土佐入りした山内一豊がこの地では手狭であると感じ、1603年(慶長8年)高知城を築いて移ったため浦戸城は廃城となった。現在は、坂本龍馬記念館・桂浜水族館・大町桂月記念碑などの文学碑等がある。

昔から月見の名所としても知られ、毎年中秋の名月の夜になると地元出身の歌人・大町桂月を偲びながら文芸を語り酒を酌み交わす「名月酒供養」が開催される。
近隣の浦戸地区には、回天および震洋の格納庫の跡がある。

浦戸砲台場跡

この場所には万治年間(1658〜1660)に建設された浦戸の灯明台があって、夜間船の出入りする時の目印になっていた。寛永15年(1638)に外国船来航を監視するに土佐藩内4ヶ所に遠見番所がおかれ、正徳6年(1716)の記録によると浦戸にもおかれていた。やがて外国船が日本近海に出没するようになり、文化5年(1808)に大筒を配備し、文久3年(1863)には本格的な砲台場を構築した。この場所は弾薬を貯蔵していたと言われている。

播磨屋橋(はりまや橋)  高知県高知市はりやま町1丁目

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播磨屋橋(はりまや橋)  高知県高知市はりやま町1丁目

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。下は「江戸期はりまや橋の由来」碑文。

播磨屋橋

播磨屋橋(はりまやばし)は、高知市中心部にある道路橋で、長さ約20mの桁橋である。俗に、ひらがなではりまや橋と表記されることも多い。
国道32号支線と、土佐電気鉄道桟橋線が通る。

歴 史
名称の由来
江戸時代に、高知の豪商である播磨屋と櫃屋(ひつや)は、互いに本店が堀で隔てられていた。この両者の往来の為に架けられた私設の橋が、「播磨屋橋」(はりまや橋)の名称の由来である。
城下町・高知の中心部に位置しているので、橋の付近には、江戸時代初期に、掛川から移住した山内家の家臣たちの住居が集まっていた。

明治から現在まで
竹林寺の僧・純信が恋人であるいかけ屋・お馬の為に髪飾りを買ったという悲恋物語は「よさこい節」の歌で有名である。

元来は堀川に架かる小橋であったが、1928年の土佐電鉄桟橋線延伸開業に伴う高知市の街路整備により、同市の目抜き通りに一変した。1960年代に入ると、製紙工場からの排水に起因する市街地河川の水質汚濁が顕著となり、堀川はほぼ全長に渡って埋め立てられた。

1998年、車道の隣に歩道専用の太鼓橋として新しい播磨屋橋が設けられ、橋の下には人工水路が設置された。旧欄干は、播磨屋橋公園の地下に展示されている。
また、播磨屋橋公園には、明治時代の播磨屋橋を復元した橋も架かっている。

江戸期はりまや橋の由来

藩政時代、堀で隔てられていた豪商播磨屋と、富商柩屋(ひつや)が互いの往来のために架けた私橋が、後に“はりまや橋”と呼ばれるようになります。当時は、簡素な木造りの橋でした。
橋は、時代とともに幾度か架けかえられ、昭和33年には南国博覧会のため、朱色の欄干が登場します。翌年、歌謡曲“南国土佐を後にして” がヒットしたことで、同名の映画が創られ、スクリーンに映し出された朱色の欄干が“はりまや橋”として、全国に知られるようになりました。
ここに架かる木造りの橋は平成5年、全国から寄せられた680件の“はりまや橋に対する整備のイメージ”を素に、江戸期のはりまや橋として再現したものです。

土佐神社  高知県高知市一宮しなね2丁目

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土佐神社  高知県高知市一宮しなね2丁目

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

土佐神社
所在地 高知県高知市一宮しなね2丁目16-1

土佐神社(とさじんじゃ)は、高知県高知市にある神社。式内社(大社)、土佐国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
明治以前の旧称は土佐高賀茂大社・高賀茂明神。現在は別称として「しなねさま(志奈禰様)」とも呼ばれる。

祭神
現在の祭神は以下の2柱。古くは単に「土佐大神」と称していた。
・味鋤高彦根神
・一言主神
祭神は両神とも古来より賀茂氏により祀られていた神であり、賀茂氏の同族が土佐国造に任ぜられたことから当地で祀られることになったものとみられている。

文化財
重要文化財(国指定)
・本殿
・幣殿及び拝殿(合わせて1棟)
本殿、幣殿、拝殿は元亀2年(1570年)の長宗我部元親による再建。幣殿と拝殿を合して十字型に造る「入蜻蛉」と称される独特の様式である。
・鼓楼 – 慶安2年(1649年)建立、山内忠義の寄進
・楼門(神光門)- 寛永8年(1631年)建立、山内忠義の寄進
高知市指定有形文化財
・土佐神社の鰐口
・土佐神社の能面
・土佐神社の銅鏡

土佐国分寺  高知県南国市国分

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土佐国分寺  高知県南国市国分

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

土佐国分寺
所在地 高知県南国市国分546

土佐国分寺(とさ こくぶんじ)は高知県南国市にある真言宗智山派の寺院。摩尼山(まにざん)、宝蔵院(ほうぞういん)と号す。本尊は千手観世音菩薩。四国八十八箇所霊場二十九番札所。札所寺院としては単に国分寺と称するのが通例である。
本尊真言:おん ばさら たらま きりく
ご詠歌:国を分け 宝を積みて 建つ寺の 末の世までの 利益のこせり

歴 史
聖武天皇が発した「国分寺建立の詔」により全国に建立された国分寺(金光明四天王護国之寺)の一つである。当寺は寺伝によれば天平13年(741年)に行基が千手観世音菩薩を刻み本尊として安置し開創したとされる。その後弘仁6年(815年)空海(弘法大師)が毘沙門天を刻んで奥の院に安置、その頃真言宗の寺院となったという。史実としては、『続日本紀』に天平勝宝8年(756年)、土佐を含む26か国の国分寺に仏具等を下賜したことがみえるため、この年以前には創建されていたとみられる。

国分寺周辺は古代から中世まで土佐国の国府の所在地であり、「土佐日記」の作者紀貫之も国司として4年間当地に滞在した。国府の中心である国庁は国分寺から徒歩15分の位置にあり、かつてその近くにあった土佐国総社は現在当寺境内に移されている。

寺はたびたび兵火に遭ったが、永禄元年(1558年)には長宗我部国親、元親によって金堂が再建。明暦元年(1655年)に土佐藩2代藩主山内忠義が山門を寄進した。大正11年(1922年)に境内全域が国の史跡に指定されている。

文化財
重要文化財(国指定)
・金堂(本堂) – 1904年(明治37年)指定、杮茸、寄棟造。永禄元年(1558年)建立
・木造薬師如来立像 – 1913年(大正2年)指定、平安時代中期作、像高99.5cm、檜材一木彫
・木造薬師如来立像 – 1911年(明治44年)指定、鎌倉時代作、像高35.5cm、寄木造、応永13年(1406年)修理銘入
・梵鐘 – 1956年(昭和31年)指定、平安時代前期の作、口径47cm、高さ63.8cm、重量225kg
史跡(国指定)
・境内 – 1922年(大正11年)指定
高知県指定保護有形文化財
・本堂の厨子・須弥壇 – 1997年(平成9年)指定
・絹本著色両界曼陀羅 – 1997年(平成9年)指定、室町時代作
弥生時代の住居跡