播磨屋橋(はりまや橋)  高知県高知市はりやま町1丁目

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播磨屋橋(はりまや橋)  高知県高知市はりやま町1丁目

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。下は「江戸期はりまや橋の由来」碑文。

播磨屋橋

播磨屋橋(はりまやばし)は、高知市中心部にある道路橋で、長さ約20mの桁橋である。俗に、ひらがなではりまや橋と表記されることも多い。
国道32号支線と、土佐電気鉄道桟橋線が通る。

歴 史
名称の由来
江戸時代に、高知の豪商である播磨屋と櫃屋(ひつや)は、互いに本店が堀で隔てられていた。この両者の往来の為に架けられた私設の橋が、「播磨屋橋」(はりまや橋)の名称の由来である。
城下町・高知の中心部に位置しているので、橋の付近には、江戸時代初期に、掛川から移住した山内家の家臣たちの住居が集まっていた。

明治から現在まで
竹林寺の僧・純信が恋人であるいかけ屋・お馬の為に髪飾りを買ったという悲恋物語は「よさこい節」の歌で有名である。

元来は堀川に架かる小橋であったが、1928年の土佐電鉄桟橋線延伸開業に伴う高知市の街路整備により、同市の目抜き通りに一変した。1960年代に入ると、製紙工場からの排水に起因する市街地河川の水質汚濁が顕著となり、堀川はほぼ全長に渡って埋め立てられた。

1998年、車道の隣に歩道専用の太鼓橋として新しい播磨屋橋が設けられ、橋の下には人工水路が設置された。旧欄干は、播磨屋橋公園の地下に展示されている。
また、播磨屋橋公園には、明治時代の播磨屋橋を復元した橋も架かっている。

江戸期はりまや橋の由来

藩政時代、堀で隔てられていた豪商播磨屋と、富商柩屋(ひつや)が互いの往来のために架けた私橋が、後に“はりまや橋”と呼ばれるようになります。当時は、簡素な木造りの橋でした。
橋は、時代とともに幾度か架けかえられ、昭和33年には南国博覧会のため、朱色の欄干が登場します。翌年、歌謡曲“南国土佐を後にして” がヒットしたことで、同名の映画が創られ、スクリーンに映し出された朱色の欄干が“はりまや橋”として、全国に知られるようになりました。
ここに架かる木造りの橋は平成5年、全国から寄せられた680件の“はりまや橋に対する整備のイメージ”を素に、江戸期のはりまや橋として再現したものです。