四国(徳島・高知)」カテゴリーアーカイブ

下津井めがね橋  高知県高岡郡四万十町

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下津井めがね橋  高知県高岡郡四万十町

現地説明板の「めがね橋の歴史」、及び四万十町HP「四万十町所有文化財情報」歴史・文化2による解説は、次のとおり。

めがね橋の歴史
めがね橋は昭和16年〜19年のダム建設での軌道の敷設替により電力側で建設した物で、もとの軌道は橋脚部を通っていた。橋の完成は昭和19年と思われる。高さは約20m、橋の幅は2mほどである。
この橋は当時の橋としては営林署の最高の土木技術を駆使して作り上げられた自慢の橋であったので、その美しい景観は町民の人々の誇りであり、親しみを込めてめがね橋と呼ばれている。

下津井めがね橋
所在地 高知県高岡郡四万十町下津井
下津井は山に囲まれ、緑に包まれた閑静な郷です。梼原川のそのまた小さな枝流、払川に架かるのが佐川橋、通称「下津井のめがね橋」。津賀ダムの湖畔に映る姿が眼鏡のように見えることからこう呼ばれています。
橋は、かつて林業がさかんだった頃走っていたトロッコ列車の軌道橋として昭和19年頃完成したものと思われます。郷愁を誘う橋桁の優雅な曲線は、土地の風景にすっかりとけ込んで、ノスタルジックな姿を今も留めています。
また、県の近代化遺産にもなっています。

ユス谷川橋・旧大正林道ユス谷川橋  高知県高岡郡四万十町

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ユス谷川橋・旧大正林道ユス谷川橋  高知県高岡郡四万十町

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」によるデータ、文化遺産オンライン、及び四万十町HP「四万十川流域の文化的景観」による解説は、次のとおり。
現地は、国道439号の小石清流橋を渡って、小石トンネル手前から下流側の方へ旧国道(現町道)に入ると、わかりやすく近い。今、資料を調べると、町道に架かるのが石橋「ユス谷川橋」、下流側に寄り添って一段下に架かるRC橋が「旧大正林道ユス谷川橋」だった。

2橋とも2008年3月7日、国の登録有形文化財(建造物)に指定された。3枚目写真は、「旧大正林道ユス谷川橋」の上に立って、上流の「ユス谷川橋」を写しているが、肝心な足下の「旧大正林道ユス谷川橋」は写していない。
川に降りないと確認できない橋だった。美しい2ショット写真を、私は完全に撮影し忘れたので、上記石橋HPの贄田様にお願いし、最後の画像をお借りした。

№3,922   ユス谷川橋

高知県高岡郡四万十町字江師(旧幡多郡大正町)
ユス谷川
橋長:8.2m  橋幅:3.1m  径間:5.4m  拱矢:2.7m
架設:昭和10年頃
ここも現存するかしないか分からないところでした
役場に問い合わせてもユス谷川橋はご存知ありませんでしたので、大正林道の場所を教えていただきたどり着きました。
左手下流側に寄り添って架かるRC橋は旧大正林道ユス谷川橋。すぐ下流は梼(ゆす)原川。

旧大正林道ユス谷川橋

高知県高岡郡四万十町字江師(旧幡多郡大正町)
橋長:8.0m  橋幅:2.0m  径間:5.1m
右手ユス谷川橋の下流に並んで架かっています。

ユス谷川橋 ゆすたにがわばし
高知県
昭和前/1935頃
石造及び煉瓦造単アーチ橋、橋長8.2m、幅員3.1m
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高知県高岡郡四万十町字江師
登録年月日:20080307
四万十町
登録有形文化財(建造物)
旧大正林道ユス谷川橋の東側に架かる道路橋。橋長8.2m、スパン5.2m、幅員3.1mとした半円アーチ形の単アーチ橋で、アーチ部分を3枚厚の煉瓦で築くほかは、間知石の布積とする。煉瓦と石材を使い分け、精緻に築かれた小規模なアーチ橋。

旧大正林道ユス谷川橋 きゅうたいしょうりんどうゆすたにがわばし
高知県
昭和前/1944
鉄筋コンクリート造単アーチ橋、橋長8.0m、幅員2.0m、石垣付
1基
高知県高岡郡四万十町字江師
登録年月日:20080307
登録有形文化財(建造物)
四万十川水系梼原川左支流ユス谷川の最下流部、梼原川との合流点近くに架かる。橋長8.0m、スパン5.1m、幅員2.0m、半円アーチ形の鉄筋コンクリート造単アーチ橋で、両岸には表面布積の石垣を連続的に築く。梼原川沿いに築かれた旧大正林道関連施設。

7 旧大正林道ユス谷川橋
9 ユス谷川橋

所在地/四万十町江師
管理者/四万十町
ユス谷川は、四万十川支流梼原川に注ぎ込む谷川で、工法が異なる2つの時代の橋が架かっている。一つは、町道から見過ごしてしまう位置にあるが、旧国道439号線に平行して架橋されていた森林鉄道橋である。この橋は、昭和初期に旧大正林道の橋梁として建造されたもので、連日、機関車に引かれ木材を満載したトロッコがこの橋を通行し、四万十川流域で活発に展開された国有林事業を支えた。
もう一つは、昭和10年頃に郡道松原線旧大正〜梼原間の橋梁として建造され、国道439号線に引き継がれた国道橋である。現在は、国道の改良工事でルートが変更され、町道となっている。この2つの橋は、四万十川流域の奥山から産出される農林産物の搬出をはじめ、上・下流域の集落間の流通・往来に大きな役割を果たし、近代期の山村地域の発展を支えた。また、素材、工法、目的の違う二つの橋は、河川を使った筏流しや高瀬舟から森林鉄道、その後のトラックの輸送へと、四万十川流域における流通・往来の歴史とその変遷を今に伝える貴重な存在である。

北の川口橋  高知県高岡郡四万十町

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北の川口橋  高知県高岡郡四万十町

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」によるデータ、及び四万十町HP「四万十川流域の文化的景観」による解説は、次のとおり。

№3,921   北の川口橋

高知県高岡郡四万十町昭和(旧幡多郡大正町)
北の川
橋長:18.0m  橋幅:3.4m  径間:13.2m  環厚:63cm
架設:大正8年(1919)
橋の名前となっている「北の川」を探してたどり着きました。
国道381号線の旧道のようです。
左岸下流側から楽に降りることができました。
径間約13m、環厚63cm、おそらく四国一の大きさではないかと思います。

35 北の川口橋

北の川口橋は、四万十川の支流北の川に架かる橋で、この橋に平行して走っている国道381号線の旧国道橋である。高知県では、明治18年に道路百年の大計が立てられ、明治30年頃から工事が始まった県道窪川宇和島線の橋梁として建設された。
この橋は大正中期に建造された石造りのアーチ橋で、施工は高知県安芸郡の石工である堅田一族という説と、伊予の石工によるという2説がある。窪川宇和島線は、昭和50年に国道381号線となり、以後、国道橋として四万十川の上・下流域、県境を越えて宇和島間との流通・往来に大きな役割を果たした。北の川口橋は、四万十川中流域の流通・往来と道路建設の歴史を理解するうえで貴重な建造物で、国の登録文化財に指定されている。

架橋年度 大正中期
路線名 町道
周辺環境 地勢:山地
通行 車輌通行可
代替橋の有無 有
橋長・幅員 石造アーチ橋 橋長18m 幅員3.4m 脚部間15m

四万十川の沈下橋  高知県四万十市ほか

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四万十川の沈下橋  高知県四万十市ほか

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による「沈下橋」の解説は、次のとおり。
四万十川の津野町不入山源流から四万十市の河口まで下った。途中の国道沿いなどで見た主な沈下橋と漁などの風景。橋名と場所は説明できない。

沈 下 橋

沈下橋(ちんかばし、ちんかきょう)とは河川を渡る橋の一種。地方により潜水橋、潜没橋、潜流橋、沈み橋、潜り橋、冠水橋、地獄橋などともいう。

概 要
沈下橋・潜水橋の模式図沈下橋は、低水路・低水敷と呼ばれる普段水が流れているところだけに架橋され、また床板も河川敷・高水敷の土地と同じ程度の高さとなっていて、低水位の状態では橋として使えるものの増水時には水面下に沈んでしまう橋のことをいう。なお、沈下橋ではない通常の橋は、「沈下橋」の対語としては「永久橋」「抜水橋」などと呼ばれ、橋の床板は、増水時などの高水位状態になっても沈まない高さに設けられており、増水時にも橋として使うことができるようになっている。

沈下橋は、低い位置に架橋されることや、架橋長が短くできることから、低廉な費用で作ることができるというメリットを持つ反面、増水時には橋として機能しなくなるという欠点を持つ。

沈下橋の特徴として、橋の上に欄干がないか、あってもかなり低いもの・増水時に取り外し可能な簡易的なものしか付いていないことがあげられる。これは、増水時の橋が水面下に没した際に流木や土砂が橋桁に引っかかり橋が破壊されたり、川の水がせき止められ洪水になることを防ぐためである。また、壊れても再建が簡単で費用が安いという利点もあり、実際に流されることを前提としている例もあり、これらは「流れ橋」などと呼ぶ場合がある。増水時に流木などが橋脚・橋桁を直撃して損害を与えることを防ぐために、上流側に斜めに傾けた丸太・鉄骨などの流木避けが設置されているケースもある。

その構造から建設費が安く抑えられるため山間部や過疎地などの比較的交通量の少ない地域で生活道路として多く作られた。しかし現在では山間部でも広い道路や本格的な橋が造られること、また慣れているはずの地元住民といえども転落事故が絶えないことから、徐々に姿を消しつつある。

日本各地の沈下橋
1999年の高知県による調査によれば全国の一級河川及び支流には合計410ヶ所の沈下橋があり、都道府県別に見ると、高知県(69ヶ所)、大分県(68ヶ所)、徳島県(56ヶ所)、宮崎県(42ヶ所)の順で多い[1]。一級水系以外も含めると、大分県では、合計212ヶ所の沈下橋が確認されている(2007年8月6日現在)[2]。

現存するか否かを問わず、確認されているうちで日本で最古の沈下橋は、1876年に大分県杵築市の八坂川に架けられた永世橋であるが、この橋は2004年9月29日に台風21号による増水で流失した[1](もちろん、確認されていないものは、はるかに歴史を遡る)。現存する日本で最古の沈下橋は、1912年(明治45年)に同じく八坂川に架けられた龍頭橋である[2]。

高知県
高知県の四万十川には支流も含め47の沈下橋がある。吉野川流域では潜水橋や潜り橋と呼び、四万十川流域では沈下橋と呼ぶ。1993年に高知県では沈下橋を生活文化遺産ととらえ保存し後世に残すという方針を決定している。現存する高知県で最古の沈下橋は、1935年に架けられた四万十川の一斗俵沈下橋(国指定登録有形文化財)である。

仁井田のヒロハチシャノキ  高知県高岡郡四万十町

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仁井田のヒロハチシャノキ  高知県高岡郡四万十町

高知県HP「高知の文化財」による解説は、次のとおり。

仁井田のヒロハチシャノキ

名称ふりがな にいだのひろはちしゃのき
指定等 国指定 記念物(天然記念物) 指定年月日 : 昭和18年 8月24日
所在地・所有者 高知県高岡郡四万十町魚ノ川 ・ 四万十町
解 説         
チシャノキは、その樹皮がカキノキに似ていることから、カキノキダマシとも呼ばれる。
分布は、本州中国地方以南の低地で、しばしば栽培される。ヒロハチシャノキは、チシャノキの葉の広い形のものである。
旧窪川町魚ノ川の路傍にあるヒロハチシャノキは、もとは2本の木が並んでいたので、「2本ヂシャ」 と呼ばれていたが、1本が枯れて現在は1本となっている。
現在残っているものは、根元周囲約8.5m、樹高約16mで、樹齢約700年と推定されている。樹幹の下部は空洞になっているが、年々花を咲かせ果実をつけている。
四国地方で、この木のように大きなチシャノキは、他に知られていない。

大引割・小引割  高知県吾川郡仁淀川町・高岡郡津野町

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大引割・小引割  高知県吾川郡仁淀川町・高岡郡津野町

高知県HP「高知の文化財」による解説は、次のとおり。
国道439号の津野町日曽の川から林道大引割線により大引割峠の駐車場まで上がる。通行止は仁淀川町側だった。天狗高原縦走路へ行くと、大引割・小引割を見学できる。
天狗の森と鳥形山のほぼ中間点。海抜約1110mに位置する。白木谷層群(古生代二畳紀)に属する赤色及び赤褐色のチャート(珪岩)にできた二本の亀裂である。大きく深い。

大引割・小引割

名称ふりがな おおひきわり・こひきわり
指定等 国指定 記念物(天然記念物)  指定年月日 : 昭和61年 2月25日
所在地・所有者 高知県吾川郡仁淀川町、高岡郡津野町・ 農林水産省
解 説         
四国カルスト県立自然公園内の仁淀川町(旧:仁淀村)と津野町(旧:東津野村)との町境付近、鳥形山の西南約3kmの大引割峠で、峠の西約160mの地点の赤褐色のチャートにほぼ東西の大きな亀裂が2本ある。
南のものが大引割、北のものが小引割で、両者は30〜40m離れている。
大引割は、全長60m以上、幅3〜8m、深さは底が落石・枯葉などで埋まり不明であるが30m以上、小引割は全長80m以上、幅1.5〜6m、深さ20m以上である。
成因については諸説あるが、第4洪積世(100万年〜2万年前)の隆起を伴う地殻変動によって生じたものと推論されている。
このような巨大な裂開の存在が、現在でも保存されているのは全国的にも少なく、学術上貴重なものである。

四万十源流の大モミ  高知県高岡郡津野町

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四万十源流の大モミ  高知県高岡郡津野町

四国森林管理局HP「森の巨人たち100選」管内にある7箇所の紹介による解説は、次のとおり。四万十源流の大モミは、まぎらわしい解説だが「四万十川の源流点」の方ではない。
県道378号をさらに登って行くと、大モミルートマップ(管理局図)のとおり、船戸林道入口に案内板がある。ゲートを越し不入山登山道でもある林道終点近くまで歩く。

後ろの2枚は、船戸林道終点からと、県道を矢筈トンネルへ下るときの景色。日鉄鉱業鳥形山鉱業所は、セメント生産の石灰岩鉱山。切羽の現在の平均標高は1200m、もとは1459mあったそうだから、259mは掘り下げている。

77.四万十源流の大モミ

幹周り 380cm
樹高 38m
樹齢 200〜290年
所在地 高知県高岡郡津野町

不入山 (いらずやま)
「日本最後の清流」といわれる四万十川の源流点が、不入山にあります。
全国には、江戸時代などに数多くの御留山(おとめやま)と呼ばれた山があります。これは、一般の人々の立ち入りや樹木の伐採を禁じていたところで、不入山も名前のとおり人の立ち入りを禁止した土佐藩の御留山でした。
標高1,336mの山頂へは、船戸林道入口から徒歩午前2時間の行程です。

四万十川の源流点は、津野町船戸から仁淀川町に向かう途中を標識にしたがって左折していくと、「源流の碑」まで車で30分、その後碑の横を25分登ったところにあります。
また、不入山周辺には、ヤナセスギの繁る馬路村魚梁瀬の千本山と相対し、「西の千本」と称されている樹齢100年のスギが残されている展示林や、展示林に隣接して「水土保全複層モデル林」などがあります。
入山では、アケボノツツジ、ヒカゲツツジ、ブナ、モミ、ツガなどが見られます。

四万十川源流点  高知県高岡郡津野町

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四万十川源流点  高知県高岡郡津野町

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。駐車場の源流碑から沢の源流点までは、急な山道を約25分登る。

四万十川
水系 一級水系 渡川(四万十川)
種別 一級河川
延長 196 km
水源の標高 1,336 m
流域面積 2,270 km²
水源 不入山(高知県高岡郡津野町)
河口(合流先) 土佐湾(高知県四万十市)
流域 高知県

四万十川(しまんとがわ)は、高知県の西部を流れる渡川水系の本川で、一級河川[1] 。全長196km、流域面積2270km²[2]。四国内で最長の川で、流域面積も吉野川に次ぎ第2位となっている。本流に大規模なダムが建設されていないことから「日本最後の清流」、また柿田川・長良川とともに「日本三大清流の一つ」と呼ばれる。名水百選[3]、日本の秘境100選にも選ばれている。

四万十川には支流も含めて47の沈下橋があり、高知県では生活文化遺産として保存する方針を1993年に決定している。

地 理
高知県高岡郡津野町の不入山(いらずやま)を源流とし、高知県中西部を逆S字を描くように蛇行しながら多くの支流を集め、四万十市で太平洋に注ぎこむ。河口附近では「渡川」という名前であるため、水系名は「渡川水系」となっている。

清流2つの名前
「日本最後の清流」といえば、「四万十川」を想起するほどに有名になっているが、河川法上においては過去65年間「渡川」が正式名称であった。1896年(明治29年)の旧河川法により、1928年(昭和3年)11月1日に「渡川」を法律上の公式名称に採用。その後の昭和39年の新河川法でもそのままであったが、平成6年7月25日に「四万十川」と改名された。一級河川の名称変更はこれが初めてで、この川が「日本最後の清流」として、全国的に有名となり認知されているという実情によるところが大きい[4]。同じ高知県では、知名度では劣るものの仁淀川の方に水質では軍配が上がる。

古くから「四万十川」と書いて「わたりがわ」と呼ばれていたこともあるという。また「四万渡川」と書かれることもあった。これが省略されて「渡川」の名称が発生したものと思われる。宝永5年(1708年)の土佐物語には「四万十川 わたりがわ」と記されているという。

一方、周辺の河川名を見ると、古来関係の深かった九州に向かって「向川(現在名:中筋川)」、「渡川」を渡って中村(四万十市)の市街、その後ろに「後川」があり、位置的な名称と考えることもできる。

四万十川源流の森
不入山北麓に広がる四万十川源流のを中心とした森林であり四国カルスト県立公園の指定区域にあり、四万十川源流の森として水源の森百選に指定されている[5]。
樹齢200年に近い自然林と国有林が管理する針葉樹林の人工林が茂る。源流はv字谷を刻み岩肌と森林の緑と清流と石灰岩質の岩肌で渓谷美を形成している。
所在地:高知県高岡郡津野町大字船戸

土佐藩砲台跡  高知県須崎市中町

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土佐藩砲台跡  高知県須崎市中町

高知県HP「高知の文化財」、及び現地説明板による解説は、次のとおり。西浜歴史公園となり見事な台場跡だったが、日没写真となりどうしょうもない。月が出た。

土佐藩砲台跡

名称ふりがな とさはんほうだいあと
指定等 国指定記念物(史跡) 指定年月日 : 昭和19年11月13日
所在地・所有者 高知県須崎市中町・須崎市
解 説
尊攘過激派が、京都を舞台に活躍した文久3年(1863)、土佐藩は港町須崎の海岸3ヵ所(現在の浜町2丁目、南古市町、中町)に砲台を築造した。
東の浜町は、半円形(砲門、火薬室各3ヵ所、面積約22a)、中央の南古市は、一文字形(砲門、火薬室各4ヵ所、面積約22a)の砲台だったが、今は壊され民家となり跡を留めない。
現在、史跡に指定されているのは、中町の西砲台で、形状は円形で外側に半円形の壕を備え、海からは単なる堤防に見えるよう偽装していた(砲門、火薬室各7ヵ所、面積約50a)。
これらの砲台は、突貫工事で約1ヶ月で築造されたという。
西砲台は、大正3年(1914)に西浜公園になり、昭和19年(1944)、国の史跡文化財に指定された。

土佐藩砲台跡
昭和19年11月 国の史跡指定

幕末、異国船の来航があり、海岸防備のため藩命により文久3年(1863年)7月に着工し1ヶ月半の短時日に完成した。須崎には西・中・東の3ヶ所に台場が築かれたが、その内現存するのはこの西台場のみである。規模が最大で長さ116メートル、砲門7座、内側に弾薬室が7ヶ所あったが、明治初年埋められた。この砲台跡は明治40年、須崎市が払い下げをうけ、公園として保存してきた。当時使用した砲弾が残っている。慶応3年(1867)8月6日、イギリス水兵殺害事件で公使パークスは土佐藩と交渉するため軍艦(バジリスク号)で須崎港に入港し、幕府艦(回天丸)や坂本龍馬も来港して外国交渉の舞台となった。
平成10年3月20日  須崎市教育委員会

ノルマントン号事件の碑  高知県須崎市南古市町

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ノルマントン号事件の碑  高知県須崎市南古市町

HP「すさきガイド」須崎史跡めぐりによる解説は、次のとおり。

ノルマントン号事件の碑

教科書に載っている事件。
場所 須崎市南古市町13付近
明治19年10月、横浜発神戸行きの英国汽船ノルマントン号が紀州沖を通過のおり難破した。船長以下26人の外国人船員全員はボートで脱出したが、日本人乗客23人全員が水死した。そのなかに、新土居(現津野町)の山崎正善も乗船していた。裁判では、幕末に締結した不平等条約によって船長は無罪となり、裁判の不当性に国民は憤慨した。政府は条約改正に向けて諸外国と交渉を重ねて条約改正に成功し、日本が近代国家へと発展していくきっかけとなる。この碑は、条約改正を祝って海に近いこの場所に建てられたものと思われる。