土佐藩砲台跡  高知県須崎市中町

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土佐藩砲台跡  高知県須崎市中町

高知県HP「高知の文化財」、及び現地説明板による解説は、次のとおり。西浜歴史公園となり見事な台場跡だったが、日没写真となりどうしょうもない。月が出た。

土佐藩砲台跡

名称ふりがな とさはんほうだいあと
指定等 国指定記念物(史跡) 指定年月日 : 昭和19年11月13日
所在地・所有者 高知県須崎市中町・須崎市
解 説
尊攘過激派が、京都を舞台に活躍した文久3年(1863)、土佐藩は港町須崎の海岸3ヵ所(現在の浜町2丁目、南古市町、中町)に砲台を築造した。
東の浜町は、半円形(砲門、火薬室各3ヵ所、面積約22a)、中央の南古市は、一文字形(砲門、火薬室各4ヵ所、面積約22a)の砲台だったが、今は壊され民家となり跡を留めない。
現在、史跡に指定されているのは、中町の西砲台で、形状は円形で外側に半円形の壕を備え、海からは単なる堤防に見えるよう偽装していた(砲門、火薬室各7ヵ所、面積約50a)。
これらの砲台は、突貫工事で約1ヶ月で築造されたという。
西砲台は、大正3年(1914)に西浜公園になり、昭和19年(1944)、国の史跡文化財に指定された。

土佐藩砲台跡
昭和19年11月 国の史跡指定

幕末、異国船の来航があり、海岸防備のため藩命により文久3年(1863年)7月に着工し1ヶ月半の短時日に完成した。須崎には西・中・東の3ヶ所に台場が築かれたが、その内現存するのはこの西台場のみである。規模が最大で長さ116メートル、砲門7座、内側に弾薬室が7ヶ所あったが、明治初年埋められた。この砲台跡は明治40年、須崎市が払い下げをうけ、公園として保存してきた。当時使用した砲弾が残っている。慶応3年(1867)8月6日、イギリス水兵殺害事件で公使パークスは土佐藩と交渉するため軍艦(バジリスク号)で須崎港に入港し、幕府艦(回天丸)や坂本龍馬も来港して外国交渉の舞台となった。
平成10年3月20日  須崎市教育委員会