投稿者「misakimichi」のアーカイブ

大津街道杉並木  熊本市北区龍田町弓削 ( 熊本県 )

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大津街道杉並木  熊本市北区龍田町弓削

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。JR豊肥本線沿いの県道337号菊陽町境近く「ひかりのもり駅」付近の歩道橋などから撮影した。
遺産サイトの同じようなデータ「大津街道杉並木(肥後の大杉並木)菊陽町県道337号」は、本ブログ次を参照。   https://misakimichi.com/archives/4654

大津街道杉並木 おおつ 熊本市(北区)
(菊池)菊陽町 <豊後(大津)街道>→旧国道57号,JR豊肥線 杉並木 約20km→12km,幅34〜39m,1340本(昭和12)→1002本(平成11) 天正16(1588)以降 歴史の道/WEB/歴史の道・豊後街道p.95 旧国道側のみ杉並木が残る/大半は昭和初期の補植/原形を留めているのは三里木〜原水間 加藤清正により植栽された(将来の城の修築用材と、伐採による敵兵の進軍防止が目的とされる)/屋久杉を使用したとの伝承があるが証明されていない(当初の杉が1本も残っていない。戦後補植された杉は、屋久杉の実生苗を使用)/幅が広かったため、国鉄と国道が併設された 3 C

正院浦の堤  熊本市北区植木町内 ( 熊本県 )

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正院浦の堤  熊本市北区植木町内

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。植木町市街から県道3号に入り山本橋先から正院厳島神社の方へ向かう。正院川側へ下り川沿いの農道を終点まで進むと、「正院裏(「裏」が正?)古堤改修記念碑」があり、錦鯉の養殖場となっていた。
旧植木町資料は最初のとおりだが、草が繁茂し改修があっているため、排水路とも石堰堤として残るかは確認できなかった。

正院浦の堤 しょういん
熊本市(北区) 石堰堤 江戸期? 植木町教育委員会 放置保存 石堰堤で築かれた溜池(珍しい) 2 B

戸崎城跡・弁財天・土阿弥陀堂  菊池市今 ( 熊本県 )

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戸崎城跡・弁財天・土阿弥陀堂  菊池市今

菊池市HPの文化・歴史による説明は、次のとおり。菊池市街から国道325号により大津町方面に南下。菊池橋を渡ってすぐ老人ホームつまごめ荘の後ろ側へ行くと、戸崎城跡・弁財天・土阿弥陀堂への入口案内標識がある。

市指定文化財<史跡>  戸崎城城跡

指定日 昭和41年4月15日
所在地 菊池市今

今村集落の北背後にある標高101mほどの小山が城跡で、登り口に「土阿弥陀」の坐像が祀られ、鹿島刑部の墓といわれる。鹿島刑部大輔は正平14年(1359)の大保原合戦で菊池武光に従い勲功のあった人物で、この城は鹿島氏代々の居城という。
城跡の周りは雑木林で、北側の裾には堀跡らしき地形が50mほど続き、周りを削り取った頂上部は直径12mほどの円形状の平坦地となっており、城跡名を刻んだ石碑が建っている。この丘の形が茶臼に似ていることから別名を「茶臼山城」とも呼ばれる。
城跡から見て南に、道路を挟んだ約50mのところに物見に使われたという小山があり、比高差約20mの真下には菊池川の流れを望んでいる。
本丸跡と思える一段高い所から四方に良く展望がきく。城跡と物見の間に弁財天を祀る祠が建てられている。

宝永隧道(今村マブ)  菊池市今 ( 熊本県 )

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宝永隧道(今村マブ)  菊池市今

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。菊池市街から国道325号により大津町方面に南下、菊池橋を渡ってすぐ老人ホームつまごめ荘の後ろ側に向かうと、戸崎城跡の入口橋のところに宝永隧道(今村マブ)の案内標識がある。

宝永隧道(今村マブ) ほうえい
菊池市 今村井手 トンネル(水路) 長302m 宝永2(1705) WEB 毎年4月、小学生が内部を見学 河原手永惣庄屋・河原杢左衛門が今・赤星・森北地区に引水するため開削 1

菊鹿町松尾の道標  山鹿市菊鹿町松尾 ( 熊本県 )

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菊鹿町松尾の道標  山鹿市菊鹿町松尾

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。国道325号山鹿市来民交差点から県道196号に入り、菊鹿町城北小学校前まで行く。菊池市方面へ県道18号を少し進むと左手上が松尾字大林であり、集落内の東端入口道路に面して薬師堂がある。
道標は、薬師堂の裏側に拝殿の支え石となってあり、地元の人もあまりその所在を知らないので注意する。資料は菊鹿町史などから。

菊鹿町松尾の道標 きくか、まつお
山鹿市 (大林・薬師堂)<相良往還> 石道標 高100㎝,幅21㎝ 弘化2(1845) 市教委 県道拡幅により移動 (正面)「右、わいふ」、(左面)「左、山みち」 2 C

なお、最後の4枚は、菊池市方面へ県道18号をさらに進み、大林橋脇で見た地蔵道標。天保年間の建立で、台座正面に右左と地名刻字があるが、判読できない。

城野松尾神社のクスノキ  山鹿市菊鹿町木野 ( 熊本県 )

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城野松尾神社のクスノキ  山鹿市菊鹿町木野

HP「人里の巨木たち」全国巨樹探訪記 熊本県によるデータは、次のとおり。国道325号山鹿市来民交差点から県道196号に入り、菊鹿温泉の方へ向かうと、途中に松尾神社がある。

名称 城野松尾神社のクスノキ
(きのまつおじんじゃのくすのき)
名称の典拠 なし
樹種 クスノキ
樹高 20m(注1)
目通り幹囲 6.3m(注1)
推定樹齢 伝承700年(注1)
所在地の地名 熊本県山鹿市菊鹿町木野(注2)
山鹿市指定天然記念物(1983年8月2日、「松尾神社の樹木群」として境内の主な樹木を一括指定)

注1)環境庁「日本の巨樹・巨木林 九州・沖縄版」による
注2)2005年1月15日、山鹿市に合併。旧行政区は鹿本郡菊鹿町

松尾神社の境内に、2本のクスノキが立っている。いずれにも紙垂をつけた細い注連縄が巻かれている。神木とされているのだろう。奥の方に立つ方が大きい。
もう片方は境内前面で石造仁王像の後ろに立っている。神社に仁王さんとは奇妙な感じがするが、九州ではときどき見かける。
仁王像もクスノキと同じ注連縄を腰に巻いている。さすが、神社の仁王さんである。

浮田下ノ池・吐井手(再掲)  玉名市築地 ( 熊本県 )

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浮田下ノ池・吐井手(再掲)  玉名市築地

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによる説明は、次のとおり。現地は玉名市の北西部。旧岱明町との境界あたり。浮田溜池は三段あり、上・中・下の池がある。国道208号玉名バイパスから入り、すぐ左折すると浮田下の池があり、この池の土手に説明板と由来書きの顕彰碑がある。
この項は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/4604

浮田下ノ池・吐井手 うきた
玉名市 浮田下ノ池〜元口掛 護床敷石 長26m,幅5-7m 嘉永5(1852)以降 市教委(浮田溜池関連施設p11-17) 上流側2段は洋風に並べられた布石状の敷石、最下部は打込みはぎ状の敷石 惣庄屋・清田新之允によって文化13(1816)に浮田溜池(中ノ池)が造られたが、嘉永5の干魃を受けて中ノ池の上下に造られた溜池/下ノ池から流出する3本の水路のうちの「元口掛」に設けられた導水路 1 A

さて、遺産リストにある下ノ池から流出する「元口掛」に設けられた導水路の玉名市教育委員会提供写真である。玉名バイパスの土手道路敷となったのか確認できない。私が見たのは、下の池土手東側手前にあった導水路である。
7月28日、再び確認に出かけたが、現状写真のとおり玉名バイパスの工事で、最下部の打込みはぎ状の敷石は、コンクリートが張られ、導水路は改修されているようなので、比較写真を掲げる。

三重津海軍所跡  佐賀市川副町大字早津江津 ( 佐賀県 )

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三重津海軍所跡  佐賀市川副町大字早津江津

HP 明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域/構成資産による説明は、次のとおり。国道444号と県道48号により大川市方面へ向かうと、柳野内交差点に佐野常民記念館と三重津海軍所跡案内標識がある。最初の資料は、佐賀市世界遺産登録推進室パンフレットから。

三重津海軍所跡  佐賀県佐賀市

日本初の実用蒸気船を建造し、海軍教育でも名高い施設。

佐賀藩の長崎警備に伴う海防強化は、神ノ島、伊王島などの砲台建設や築地反射炉での鉄製大砲の鋳造によってなされましたが、それと並ぶもう一方の柱は蒸気船を主力とする洋式海軍の創設と整備にありました。
1853(嘉永6)年のペリー艦隊の浦賀来航をきっかけに、幕府は大船製造の禁令を解除しました。佐賀藩は、オランダに蒸気軍艦を発注するとともに、独自に蒸気船製造を計画。また、1855(安政2)年には、幕府が設置した「長崎海軍伝習所」へ多数の佐賀藩士を海軍伝習生として参加させ、操船技術に加え、造船や機械工学、火薬製造を学ばせました。

1858(安政5)年、佐賀藩は三重津船屋を拡張し、独自の海軍教育施設である「御船手稽古所」を設立しました。これが三重津海軍所の前身です。翌年には三重津船屋の西一角を海軍稽古場として拡張し、訓練場などを設置しました。その後、佐賀藩が保有する洋式帆船や蒸気船の修理のために乾船渠(ドライドック)、船の部品やボイラーを組み立てるための施設等を建設し、1865(慶応元)年には、日本初の実用蒸気船である「凌風丸」を建造しました。
なお、三重津海軍所や佐賀藩海軍所などの名称は、後の時代に付けられたもので、当時は一般に「三重津」と呼ばれていました。

三重津海軍所跡は、船屋地区、稽古場地区、修覆場地区の三つのエリアから構成されています。現況で視覚的に確認できる遺構は、船入場と堤防の一部だけですが、海軍所全体の範囲は平成13年度から15年度に実施した埋蔵文化財確認調査でほぼ判明しています。
また、修覆場地区については、平成21年度から調査を実施しており、金属加工関連遺構や乾船渠跡を発見し、三重津海軍所跡の「真実性の証明」を補強する資料となっています。
この乾船渠は、複雑な木組みの技術で骨格を造り、土で覆い階段状にした特異な構造をもち、その施工には日本在来の土木技術が随所に応用されています。このような乾船渠は国内に類例がなく、現存日本最古のものであることがわかりました。

三重津海軍所は明治初期に閉鎖されたと思われますが、その頃の状況はよくわかっていません。その後、海軍所跡地は、1902(明治35)年から1933(昭和8)年まで商船学校として利用されました。現在は、佐野歴史公園として整備されています。
なお、2013(平成25)年に国の史跡に指定されています。
2014(平成26)年には、隣接する佐野常民記念館3階に、三重津海軍所跡の内容や価値を知ることができるインフォメーションコーナーがオープンしました。

(追 記 2015年8月25日)
サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストのデータに、次のものが登載された。

船屋地区の河岸土留板の止杭・跡 ふなや
佐賀市 佐野歴史公園/早津江川河口 停泊施設? 江戸期 市・世界遺産登録推進室 木杭列(本物)が残るのみ 船屋地区は、海軍所が整備される前から佐賀藩の和船を管理する「御船屋」のあった場所→現存遺構がその時のものなのか、洋式船を動かすための訓練所「御船手稽古所」が置かれた時代のものなのかは不明(後者なら安政5)/なお、世界遺産・三重津海軍所に関しては、すべて埋設保存されており、視認できる遺構はない 3 C

御修覆場地区の荒籠 おんしゅうふくば
佐賀市 佐野歴史公園/早津江川河口 石水制 寛政5(1794)以前 市・世界遺産登録推進室 現存する石積みの表面は近・現代の補修を受けている 荒籠自体は、「川副下郷早津江村」(寛政5)に記載されているので、佐賀藩三重津海軍所とは直接の関係はない/なお、世界遺産・三重津海軍所に関しては、すべて埋設保存されており、視認できる遺構はない 3 C

昭和57年(1982)7月23日 長崎大水害記録写真展 ( 長崎県 )

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昭和57年(1982)7月23日 長崎大水害記録写真展

長崎市三和行政センター玄関ホールに展示中の「長崎大水害記録写真」。大水害後、移住してきた私には、三和地区のもう33年前となる被災状況は珍しく感じるが、写真説明で「大川橋」とあるのは、旧三和町庁舎や三和中学校がこのように写るのは、「為石橋」の間違いであろう。切り貼りをさせた。
最後の写真の撮影地は、国道34号日見山口大カーブの被災箇所だろう。

国土交通省九州地方整備局HPの主な災害の概要による「長崎大水害」の説明は、次のとおり。

[06]長崎大水害
昭和57年(1982)7月23日、長崎県中部から南部に停滞した梅雨前線は、降り始めから翌24日までの総雨量
572mmの降雨を記録した。特に長与町役場では、我が国観測史上最大の1時間で187mmを記録しており、土石流や山崩れなどが各地で多発し、国道34号の寸断等長崎県では多くの犠牲者と被害をもたらす未曾有の大災害となった。
被害状況
・死者、行方不明 299名  ・住家被害 39,755戸  ・崖崩れ 4,306箇所  ・地すべり 151箇所

国内最大の肉食恐竜の化石 ティラノサウルス科の歯2点 長崎市の白亜紀の地層から ( 長崎県 )

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国内最大の肉食恐竜の化石 ティラノサウルス科の歯2点 長崎市の白亜紀の地層から

2015年7月14日付 西日本新聞夕刊の記事は、次のとおり。

長崎市教育委員会と福井県立恐竜博物館は14日、長崎市の白亜紀後期(約8100万年前)の地層から、国内で初めて、肉食恐竜「ティラノサウルス科」の大型種の歯の化石2点を発見したと発表した。恐竜の体長は10メートル程度と推定され、肉食恐竜としては日本最大。同じ地層から別の恐竜の化石1点も見つかった。…
化石は昨年5月、長崎半島西海岸に分布する「三ツ瀬層」と呼ばれる地層から発掘された。1点は下顎左側の歯とみられ、エナメル質で覆われた「歯冠(しかん)」と呼ばれる部分はほぼ完全な形で残っていた。歯根を含む高さが8・2センチあり、最大幅が3・8センチ、厚さ2・7センチ。縁は肉食恐竜に特徴的なのこぎり状だった。もう1点は欠けたり、圧力で変形したりしており、高さが7・8センチ、最大幅3・7センチ、厚さ2・2センチ。…
=2015/07/14付 西日本新聞夕刊=

化石は17〜20日と、25日〜9月23日に長崎市油木町の長崎市科学館で、7月21〜24日は同市布巻町の三和行政センターで公開されているので、きょう三和行政センターへ見学に行った。
発掘場所は、長崎半島西海岸というので、多分このあたりだろうと思われる。