投稿者「misakimichi」のアーカイブ

川棚、波佐見、西有田の陸軍省「長崎要塞(地)区域標」 ( 長崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

川棚、波佐見、西有田の陸軍省「長崎要塞(地)区域標」

佐世保市高橋輝吉氏から送られてきた川棚、波佐見、西有田の陸軍省「長崎要塞(地)区域標」の標石写真とメモ。内容の説明があまりないが、要点は次のとおりだろう。

1 先日、川棚町をまた訪ねた。「長崎要塞(地)区域標」の同じ番号「第11号」が、川棚町歴史民俗資料館と有田町歴史民俗資料館にあるが、
川棚町歴史民俗資料館前庭のは、(私の背より?)標石の方が高い(長い)。「長崎要塞区域標」と刻む。初めて見た時は(2011年頃か?)、全部「ウス」黒でした。ミカゲ石です。第11号は解りました。西有田の分も「11号」です。川棚町役場内のは、上面が平です。
西有田の分は、「長崎要塞地区域標」と「地」が一字多い。明治三十二年七月十四日。先が尖がった角柱。
2 川棚町役場敷地内に、共に地元持ち込みのあと1本「長崎要塞区域標」「第17号」が横倒しになっているのを、植え込みの中に新しく見つけた。
3 波佐見には、次の「長崎要塞区域標」もある。 
「第36号」 個人 32号かも? 寺の敷地内
「第22号」 個人 「写真アリ」
4 「長崎要塞区域標」は、佐世保市江迎町元大岩の上の方に「第130号」、同市小佐々町楠泊の野島にも「第140号」があるので、標石写真を参考に送る。

2、3が主眼の報告のようだが、他は本ブログ以前の高橋氏稿も参照。まだ、未整理もある。
西有田の陸軍省「長崎要塞(地)区域標」
https://misakimichi.com/archives/2823 
陸軍省要塞地帯(区域)標と海軍省軍港境域標の調査
https://misakimichi.com/archives/3152
佐世保市周辺に残る陸軍省要塞地帯(区域)標の調査結果一覧表
https://misakimichi.com/archives/3517

長崎市内の石張りの川 三角溝・四角溝  長崎市東山手町ほか ( 長崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

長崎市内の石張りの川 三角溝・四角溝  長崎市東山手町ほか

長崎市東山手町活水大学上の石畳坂道にある「三角溝」現地説明板は、次のとおり。なお、1994年6月、土木史研究第14号に、岡林隆敏先生らの「長崎外国人居留地における石畳道と側溝・排水溝の調査」報告書があるので、正しくはこれを参照していただきたい。

三 角 溝
平石を2枚合わせて碑V字に組んだ側溝は、「三角溝」と呼ばれている。出島や外国人居留地であった南山手、東山手の道路脇の側溝として、今でもあちら、こちらに残されている。これらは居留地造成当時に造られた側溝であり、外国人居留地の遺構として大切に保存されている。この形の側溝は、水が少ない時でも多い時でも排水し易いように工夫されたものと考えられる。旧外国人居留地には、この他に半円形、階段状になったものなど様々な形の側溝がある。        平成17年10月設置   長崎市教育委員会

長崎市内に残る三角溝・四角溝については、布袋厚氏著「長崎石物語 石が語る長崎の生いたち」長崎文献社2005年刊の22〜25頁を参照。
三角溝が比較的限られた場所にしかないので、居留地造成当時に造られた側溝であり、外国人居留地の遺構とわかるが、これに対して、普通の長方形断面になった石張りの側溝(四角溝)は、市内のあちこちでその姿を見ることができる。
私は実際、高島にも外国人炭坑技術者居留地跡に三角溝があり、長崎港の対岸地区入口の西泊番所跡近くにも四角溝を見ている。本ブログ次も参照。

シシトキ川に残るレンガ造石橋  長崎市銀屋町
https://misakimichi.com/archives/810
地獄川に残るレンガ造石橋  長崎市桜町・栄町
https://misakimichi.com/archives/787
高 島 (2)  長崎市高島町
https://misakimichi.com/archives/1613
西泊の石張りの川  長崎市西泊町
https://misakimichi.com/archives/2674

四角溝の現在残る形が、いつ頃の築造年代か、長崎石物語ははっきり書いていない。外国人居留地の四角溝は、三角溝と同じく居留地造成当時に造られた側溝であろうし、このような四角溝は、市内中心部の主な地区には、明治初め頃から不完全ながら石張りの側溝(四角溝)としてあったと思われる(銀屋町ししとき川の石畳説明板)。

長崎水道の歴史HPには、次のような記述がある。明治18年(1885)8月、長崎から発生したコレラ大流行により、下水道溝の改良工事及び上水道建設が急務となったので、四角溝はこの頃から、市内一円に現在見られる統一的な形に改良され、整備されたものと考えられる。

近代水道の創設
…海外からの輸入品とともに伝染病の流入も多く、コレラなどの疫病が長崎から全国に広がっていきました。なかでも明治18年(1885)8月、浪ノ平町から発生したコレラは猛威をふるい、死者617人を数えました。コレラなどの悪疫の流行は、住民の衛生観念の欠如もさることながら、倉田水樋の老朽化による飲料水の汚染が原因のひとつとされ、居留地の外国人を中心に水道施設の必要性が叫ばれました。

明治19年(1886)長崎県令に着任した日下義雄知事は、港湾都市長崎の発展には下水道溝の改良工事及び上水道建設が急務であるとして、同年長崎区長に就任した金井俊行区長と意見の一致をみて水道設置を決意し、東京大学助教授の吉村長策を長崎県技師に任用して設計にあたらせました。 吉村氏の設計は、給水人口を6万人、1人1日最大使用量を91リットル、1日最大給水量を5,460立方メートルと想定し、工事費を30万円と算定したもので、この金額は、当時の区の年間予算4万円の7.5倍という莫大なもので、区費で支払うことは不可能であり、住民から調達するのも困難でした。…

サイト「近世以前の土木・産業遺産」都道府県ごとの特徴分析 長崎県の解説 ( 長崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

サイト「近世以前の土木・産業遺産」都道府県ごとの特徴分析 長崎県の解説

サイト「近世以前の土木・産業遺産」都道府県ごとの特徴分析の中、長崎県の解説については、このたび全面改訂され、4頁から6頁に充実された。
調査には私も協力し、多くの画像を掲載してもらっているので、各位の参考に掲げる。
http://www.kinsei-izen.com/pref/42_Nagasaki.pdf

豊前坊の石切り場跡  長崎市本河内2丁目 ( 長崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

豊前坊の石切り場跡  長崎市本河内2丁目

長崎の江戸時代の主な石切り場跡、風頭山・城の古址・豊前坊の3箇所を訪ねた。これは、豊前坊の現況。
豊前坊の石切り場跡は、田手原町から飯盛神社(豊前坊)駐車場まで行く。神社すぐ下の鳥居のところに赤い稲荷堂があり、稲荷堂の左下へロープを張った山道を下ると、石切り場跡の入口に着く。クライマーの訓練岩場となっている。
布袋厚著「長崎石物語 石が語る長崎の生いたち」長崎文献社2005年刊の84〜85頁による説明は、次のとおり。これは間接的な記述。豊前坊の石切り場跡はあまり知られていない。

彦山に分布する岩石—「七高山めぐり」の名所にある異色の岩石

電車の終点「蛍茶屋」から南東に、みあげるような急傾斜の山が迫っている。これが、「彦山」である。その左奥にみえる同じぐらいの高さのとがった山は「豊前坊」(ぶぜんぼう)という。どちらも、長崎で正月に行なわれる年中行事「七高山めぐり」のコースにはいっている。…
彦山、豊前坊の岩石は、複輝石安山岩よりもやや明るい灰色の均質な安山岩である。…この岩石は、長崎の地質関係者のあいだで「彦山溶岩」などとよばれているので… 数こそすくないものの、街のなかで彦山溶岩がつかわれている。…

城の古址の石切り場跡  長崎市片淵2丁目 ( 長崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

城の古址の石切り場跡  長崎市片淵2丁目

長崎の江戸時代の主な石切り場跡、風頭山・城の古址・豊前坊の3箇所を訪ねた。これは、城の古址の現況。
城の古址(しろのこし)の石切り場跡は、夫婦川町春徳寺右から同寺墓地の最上段駐車場まで車道を登る。城の古址への坂段途中から左の山道へ入るとある。布袋厚著「長崎石物語 石が語る長崎の生いたち」長崎文献社2005年刊の52〜55頁による説明は、次のとおり。

春徳寺と「城の古址」—最初の教会跡、最大規模の唐人墓がみどころ

…「東海の墓」の百メートルほど北東にある西向き斜面には、幅四十・五十メートル、奥行き十五・二十メートルの凹地があって、片側は高さ十メートルほどの垂直な崖になっている。ここが江戸時代に石材を切り出した採石場あとのひとつである。現在はうっそうとした森に包まれていて、外からはまったくみえない。しかし、西(山頂に向かって左側)のほうにまわりこむ小道があるので、これにそって歩いていけば、かんたんになかまではいることができる。そのすぐ裏山が「城の古址」(しろのこし)である。…

風頭山の石切り場跡  長崎市風頭町 ( 長崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

風頭山の石切り場跡  長崎市風頭町

長崎の江戸時代の主な石切り場跡、風頭山・城の古址・豊前坊の3箇所を訪ねた。まず、風頭山の現況。
風頭山の石切り場跡は、風頭町の風頭公園内展望台の西と北側に残る。布袋厚著「長崎石物語 石が語る長崎の生いたち」長崎文献社2005年刊の102〜104頁による説明は、次のとおり。

風頭山の石切り場跡—坂本龍馬も歩いた溶岩の山

江戸時代の長崎で最大の石材産地は風頭山(かざがしらやま)である。現在、石切り場のあとは公園となっていて、その全容をかんたんにみることができる。風頭山は寺町の背後にある標高百五十二メートルの丘…
公園の園路を200メートルほど歩くと、左に「坂本龍馬の像」や展望台がみえてくる。それらのまわりにある一段低いところが石切り場のあとである。まわりをかこむように切り立った岩肌が露出しており、展望台の下には、石を割るときにクサビを打ちこんだあとのくぼみがのこっている。とくに運動広場から上る階段の近くにはたくさんみられる。
崖からみると、数十センチメートルの間隔で、たて方向に割れ目がはいっているのがわかる。しかし、水平方向の割れ目はあまりないので、長い柱状の石がとれるのである。岩肌には、ところどころ、直径数センチメートルほどのまるいかたまりがはいっていて、眼鏡橋などの石材と同じものであることがわかる。
風頭山は厚さが百メートル以上もある溶岩でできており、市街地付近の溶岩としては最大規模である。…

幣振坂1〜3・ピントコ坂・ドンドン坂  長崎市寺町ほか ( 長崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

幣振坂1〜3・ピントコ坂・ドンドン坂  長崎市寺町ほか

長崎市の坂で有名なのは、「オランダ坂」「天満坂」のほか、寺町や筑後町に3つの「幣振坂」、上小島1丁目に「ピントコ坂」、南山手町に「ドンドン坂」があるので、現況を報告する。
現地説明板や長崎市公式観光サイト「あっ!とながさき」、HP「長崎県の坂」リストによる説明は、次のとおり。

幣振坂 1  (皓台寺側 長崎市寺町と鍛冶屋町の間から寺町と高平町の間まで 一部階段 下部は車道コンクリート化)
晧台寺と大音寺の間の坂道。幣振坂の名前は,寛永11年(1634),諏訪神社の一の鳥居に使用するための石材を麓に下ろした際,宰領が御幣(紙を切り細長い木に挟んで垂らした神祭用具)を振って,人夫達をこぶしたことに由来するとも言われています。長崎では,この坂のほか延命寺と長照寺の間や東本願寺横の坂も幣振坂と呼ばれています。この坂は,長崎でロケがおこなわれた映画「解夏」の冒頭やラストシーンに出でてきます。   管理者:長崎市

幣振坂 2   (長照寺側 長崎市寺町 階段 下部はコンクリート化)
風頭山頂へと続く坂道。幣振坂の名前は,寛永11年(1634),諏訪神社の一の鳥居に使用するための石材を麓に下ろした際,宰領が御幣(紙を切り細長い木に挟んで垂らした神祭用具)を振って,人夫達を鼓舞したことに由来するとも言われています。長崎では,この坂のほか晧台寺と大音寺の間や東本願寺横の坂も幣振坂と呼ばれています。   管理者:長崎市

幣振坂 3   (東本願寺側 長崎市筑後町 階段 ほとんどコンクリート化)
幣振坂の名前は,寛永11年(1634),諏訪神社の一の鳥居に使用するための石材を麓に下ろした際,宰領が御幣(紙を切り細長い木に挟んで垂らした神祭用具)を振って,人夫達を鼓舞したことに由来するとも言われています。長崎では,この坂のほか晧大寺と大音寺の間や延命寺と長照寺の間の坂も幣振坂と呼ばれています。長崎でロケがおこなわれた映画「解夏(げげ)」の冒頭に登場する「井戸」が坂の途中にあります。   管理者:長崎市

ピントコ坂   (長崎市上小島1丁目 斜度=10°/道幅=3.1m ほとんどコンクリート化)
ピントコ坂とは、旧茂木街道にあたる上小島の墓域から長崎県立南高等学校正門前まで続く坂段のこと。
寛永年中(1624〜1643)、贋金作りの唐人・何旻徳(か・ぴんとく)が処刑された場所で、彼を慕った悲恋の遊女、阿登倭(おとわ)がここで自死。この遊女を葬った傾城塚(けいせいづか)があることからこの名で親しまれるようになったという。
下部にあるピントコ坂と表示板の場所から南高前にある表示板まで、それにしてもピントコ坂は結構険しくて長い。古く長崎では険しい坂段を上り下りするときに“ぴんとこどっこいしょ”というからピントコ坂という説もあるのだとか。

ドンドン坂   (長崎市南山手町 一部階段)
坂の特徴 坂の方向  南東に向かって上る。長さ 110m,道幅=1.7m 傾斜 急坂(高低差27m,平均斜度14度)
形態  直線の狭い坂。坂の頂上部で短い階段になる。
由来他  南山手に残る居留地時代の坂道。オランダ坂に匹敵する歴史的な遺構で,今なお居留地時代の雰囲気が残っている。石畳で,石材は建設当時のまま,舗装されたのは1877(明治10)年以降と考えらる。(「ARCHITECTURAL MAP」」より)
雨が降ると流れ落ちる水が途中でどんどん速くなることから,こんな名がついた。両脇の溝の形がU字・三角溝・四角溝など違っているのも水量とスピードを調整するためという。(「長崎さかみち散歩」より)
命名時期  明治時代
参考文献  『長崎さかみち散歩』真木雄司 春光社 2006 『ARCHITECTURAL MAP ドンドン坂』

長崎居留地の地番標石1〜4  長崎市南山手町ほか ( 長崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

長崎居留地の地番標石1〜4  長崎市南山手町ほか

サイト「近世以前の産業・土木遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。境石1〜5は、前記事に。
長崎の外国人居留地の境石や地番標石は、東山手町や南山手町を中心に全体で約90本近く残っている。
遺産リストでは、高さ50cm以上を取り上げているため、この分の標石のみ改めて紹介する。
現地写真は各2枚ずつ。標石の所在場所など詳細は、本ブログ書庫「長崎の外国人居留地跡標石」リストから、以前の各記事をそれぞれ参照。

長崎居留地の地番標石1 ながさき
長崎市 南山手町15-39 居留地の地番標石 高50㎝,幅15㎝ 文久元(1861)以降 どじょう会No1/WEB(みさき道人) 原位置?/同上 同上/(正面)「35、南山手 三十五番」 1 C

長崎居留地の地番標石2 ながさき
長崎市 南山手町13-30 居留地の地番標石(尖頭角柱) 高59㎝,幅18㎝ 文久元(1861)以降 どじょう会No14/WEB(みさき道人) 原位置?/同上 同上/(正面)「B乙 十六番/B乙 十五番」 1 C

長崎居留地の地番標石3 ながさき
長崎市 南山手町10-25 居留地の地番標石 高56㎝,幅17㎝ 文久元(1861)以降 どじょう会No26/WEB(みさき道人) 塀に埋め込み/同上 同上/(正面)「乙 十四番」 3 C

長崎居留地の地番標石4 ながさき
長崎市 出島復元整備室<出島> 居留地の地番標石 高70㎝,幅17㎝ 文久元(1861)以降 WEB(みさき道人) 保管 同上/(正面)「十一番、No.11」 2 C

長崎居留地の境石1〜5   長崎市南山手町ほか ( 長崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

長崎居留地の境石1〜5   長崎市南山手町ほか

サイト「近世以前の産業・土木遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。地番標石1〜4は、次記事に。
長崎の外国人居留地の境石や地番標石は、東山手町や南山手町を中心に全体で約90本近く残っている。
遺産リストでは、高さ50cm以上を取り上げているため、この分の標石のみ改めて紹介する。
現地写真は各2枚ずつ。標石の所在場所など詳細は、本ブログ書庫「長崎の外国人居留地跡標石」リストから、以前の各記事をそれぞれ参照。

長崎居留地の境石1 ながさき
長崎市 南山手町16-30 居留地の境界石 高111㎝,幅30㎝ 文久元(1861)以降 どじょう会No6/WEB(みさき道人) 原位置?/本リストでは高さ50㎝以上のもののみを取り上げるが、それ以下のものを含めれば80基以上が現存し、大半が原位置もしくはその近くに残る 安政の五カ国条約により外国人に開放され、安政7以降、大浦の海岸が埋め立てられて居留地が造成された。グラバー邸の完成が文久3(1863)、長崎大学附属図書館が作成した慶応3(1868)の長崎居留地の敷地割の地図では丘陵部の敷地割は完成しているので、現存する当該地区の居留地境石、地番標石は幕末〜明治初期のものと推測される/(正面)「居留地境」 1 B

長崎居留地の境石2 ながさき
長崎市 南山手町16-30 居留地の境界石 高78㎝,幅27㎝ 文久元(1861)以降 どじょう会No7/WEB(みさき道人) 原位置?/同上 同上/(正面)「居留地境」 1 C

長崎居留地の境石3 ながさき
長崎市 小曽根町1-13 居留地の境界石 高92㎝,幅28㎝ 文久元(1861)以降 どじょう会No27/WEB(みさき道人) 原位置?/同上 同上/(正面)「居留地境」 1 B

長崎居留地の境石4 ながさき
長崎市 グラバー園 居留地の境界石 高111㎝,幅28㎝ 文久元(1861)以降 どじょう会No31/WEB(みさき道人) 移設・集約/同上 同上/(正面)「居留地境」 2 B

長崎居留地の境石5 ながさき
長崎市 東山手町1-41 居留地の境界石 高145㎝,幅27㎝ 文久元(1861)以降 どじょう会No69/WEB(みさき道人) 煉瓦塀に埋め込み/同上 同上/(正面)「□留地境」 3 B

唐人屋敷の境石  長崎市館内町 ( 長崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

唐人屋敷の境石  長崎市館内町

サイト「近世以前の産業・土木遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。館内町唐人屋敷跡の上部、天后堂後ろ側角に「福建地堺」の境石はある。
稲佐国際墓地の最上部(稲佐山登山道路側)には、「福建墳?地堺」と刻む境石(高52cm,29cm角)もある。
本ブログ次も参照。  https://misakimichi.com/archives/422
天后堂資料は、布袋厚氏著「長崎石物語 石が語る長崎の生いたち」長崎文献社2005年刊の30頁から。

唐人屋敷の境石 とうじんやしき
長崎市 天后堂・裏 唐人屋敷の境界石 高100㎝,24㎝角 元文元(1736)以降 WEB(みさき道人)/長崎石物語 煉瓦塀に埋め込み/他に高さ50㎝以下のものが1基現存 唐人屋敷は、清の「遷界令」の撤廃(1684)を受けて、元禄2(1689)、長崎奉行所が設けた中国人居留地であるが、境界石の設置年代は不明(左記の年代は天后堂の建立年)→安政の開国により廃屋化したので、下記の外国人居留地境石よりは古いと推測される(刻字が浅く、居留地境石と同時期の建立とは考え難い)/(正面)「福建地堺」 3 B