投稿者「misakimichi」のアーカイブ

宗方神社の大クス  諌早市宗方町  

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宗方神社の大クス  諌早市宗方町

国道57号線が諌早市街を抜ける所に小野小学校がある。右へ入り学校正門入口の脇に宗方神社がある。境内は石垣上の高台で、大木が茂って車窓からもすぐわかる。
Otoji.K氏のHP「長崎県の名木」リストの中の説明は次のとおり。現地に諫早市の説明板はなかった。
宗方神社の大クス

諌早市小野小学校側の宗方神社にある。幹周り7.6m。境内には、クロガネモチやホルトノキの木の大木やヒゼンマユミがある。

女夫木の大スギ  諌早市小川町

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女夫木の大スギ  諌早市小川町

国道57号線諌早の総合運動公園前を通り、小栗町交差点の先で小栗小学校前となる小川町交差点から右の小栗団地へ入る。団地奥に新しい長崎刑務所があり、道を進むと女夫木のバス終点に着く。ここに国の天然記念物の大スギがある。
度重なる落雷・台風などの被災から守るため、痛々しい姿で保護され立っている。現地説明板は次のとおり。

国指定天然記念物  女夫木の大スギ  昭和50年6月26日指定

女夫木の大スギは、昔から地域のシンボルとして市民に親しまれてきました。
高さ31m、目通り幹廻り9m、樹齢約600年といわれており、全国有数の巨樹として国の天然記念物に指定を受けています。
この大スギがある地域は女夫木と呼ばれていますが、昔は2本の大スギが夫婦のように自生していたので、このような名がついたといわれています。
この大スギの表皮をはいだり傷をつけたり、また火災を出したりしないよう大切にしましょう。
長崎県教育委員会 諌早市教育委員会  平成5年3月建

諌早市森山町下井牟田にある水準点

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諌早市森山町下井牟田にある水準点

水準点がある場所は、島原鉄道森山駅前の国道から南へ少し下る。諌早市森山町下井牟田の「原」という集落。現行地形図によると3.4mの水準点がある。明治初期、この道路が干拓前の海岸沿い主要道であったと思われる。道を間違ってここへ出て、たまたま「水準点」の標識があったので、よく見てみた。

写真のとおり広い干拓農地を背景にして道路脇にある。コンクリート製の枡囲いでガードされている。蓋のプレートは「基本 一等三角点 建設省国土地理院」。重い蓋を開けたら、頭部にあの突起のある石柱の旧型だった。長崎市では見かけない古い水準点を生かす保存方法。国土地理院は苦労しているようだ。干拓の歴史も感じた。

「歳旦塚」(さいたんつか)は芭蕉の句ではない

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「歳旦塚」(さいたんつか)は芭蕉の句ではない

長崎市西山本町9番30号松本宅の家囲い一段下の庭にある。「長崎の歳旦貰ふ歳暮哉 芭蕉翁」と刻まれ、「歳旦塚」と言い芭蕉の句として紹介されることが多い。本ブログ先項も他本から間違って紹介していた。

実はこの句は芭蕉の句ではない。西山の中尾氏の協力により文献があることがわかった。長崎手帖社「長崎手帖 No.11」昭和33年1月25日発行の「碑をたずねて 6」27頁に、次のとおり中西啓氏の稿「歳旦塚について」があったから載せて訂正したい。
長崎にある句碑は、タッちゃんのブログ「あしたのビルフィッシャーのために(その1)」がよく調べられてわかりやすい。「歳旦塚」を参照ください。「長崎名勝図絵」も『傍に芭蕉翁の歳旦塚あり』と記述しているらしい。

歳旦塚について    中 西  啓

西山の奥、椿原の祗樹林(旧崇福寺末庵)の跡に歳旦塚と呼ばれる巨石が残っている。
歳旦塚という名は、芭蕉翁の句として
長崎の歳旦貰ふ歳暮哉
を巨石に刻んだ為に起ったものであるが、これは実は江戸座の俳人湖十の作で、芭蕉の句ではない。然し長崎の大原洵美及び加賀金沢の暮柳舎三世北圣が志主となって祗樹林の境内にこの句碑を建立した時は既に芭蕉に仮托されたものである。
金沢出身の梅室は化政時代の大家であるが、この句を称して文政二年刊、古賀梅調の「牛あらひ集」の序に引用している程である。但し梅室は「六七十年むかしの句なるよし」と云っていて、芭蕉作とは述べていない。そしてさすがにこの句の意味も正しく理解している。
元来、この句は歳旦の意味が判らなくては句意も摑めないであろう。即ち、この歳旦は当時年始に発行されていた歳旦帖のことで、年末に長崎の歳旦帖を貰う程交通が開けていることを詠ったものである。先頃、長崎で出された二・三の歳旦帖を管見に入ったので別の機会に紹介したいが、長崎の歳旦は当時としては特異なもので、在留唐人に題字を書かせたものもあり、今日も尚何となくエキゾチックな匂いを保っている。
この句碑が特に意義があるのは、芭蕉の誤伝句を伝えたということの他に、寛政十年作劉雲台の七言詩と、陸秋実撰、程赤城書の長文が刻まれているからである。秋実の文には芭蕉が長崎に来遊したかの様に記してあり、芭蕉の九州来遊のことを記した偽書簡が流布していた頃とは云え、祗樹林が西山に移ったのが芭蕉没後であることも考慮してないけれども在留唐人が俳諧を理解する上に一つの契機を与えたものとして国際文芸交流の大切な郷土史蹟と云えるであろう。然しこの句碑も次第に曾っての清閑な環境を失って了ひ、歳旦の意味と共に忘れ去られようとしている。                                  (筆者 長崎学会々員)

ダイヤランドの開発前と下方の道の地図資料・写真はないか

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ダイヤランドの開発前と下方の道の地図資料・写真はないか

小ヶ倉源右衛門茶屋から土井首大山祗神社前までの区間の道の状況は、次の地図資料によって第1集から説明している。
① 文久 元年(1861)「彼杵郡深堀郷図 深堀本村・小ヶ倉村・土井首村・大籠村・竿浦村」      長崎;歴史文化博物館蔵
② 明治34年(1901)「国土地理院旧版地図」 〔大日本帝国陸地測量部作製〕

ダイヤランドは広大な団地開発が昭和56年起工し、昭和59年4月から販売を開始した。当時の道跡はたどれない。長崎バス終点下に山道が残る。この下方の道は、実際に歩いて異論を感じる方もおられるかも知れない。
今回はそのため前の2資料と別に、手元に持っている次の2地図資料を掲載してみる。説明は省略したい。よく見ていただきたい。どの地図を見ても、今歩いている道しか考えられない。この道は6年ほど前、地元の磯道中山秀雄氏が「殿様道」と中島先生へ教えてくれた道である。④による「市道磯道第7号線」となる。
③ 明治17年(1884)測図同27年製版 軍事機密 長崎近傍ノ六 陸地測量部「深堀村」
④ 昭和25年(1950)3月測図 昭和44年5月印刷 中庭測量株式会社調製
長崎市 1:10000 都市計画図「長崎市認定道路網図(茂木〜小ケ倉、土井首地区)」

なお、ダイヤランド地域全体の開発前の姿を写した航空写真は、先項において小ヶ倉小学校創立百周年記念誌「小ヶ倉のあゆみ」(昭和53年)から載せていたが、今回また貴重な写真が見つかった。
ダイヤランド3丁目山下雄氏の協力によるもの。同団地2丁目自治会が2年前発行した会報に、昭和56年(1981)3月(着工前)の詳細な航空写真があった。また、同氏は当時、自分が写した2枚の写真を所持されていたので、ここに載せてみる。

長崎学さるく “江戸期の「みさき道」を歩く Ⅱ”  平成19年11月

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長崎学さるく “江戸期の「みさき道」を歩く Ⅱ”  平成19年11月

平成19年11月25日(日)実施。参加者はスタッフとも38人。「みさき道」の後半コース。
午前9時30分三和行政センター前広場集合。蚊焼峠ー永一尾ー徳道ー野母崎ゴルフ場コース管理事務所(昼食)ー延命水ー高浜ー古里ー堂山峠ー脇岬観音寺まで約15kmを歩く。午後4時着解散。

今日も快晴。春からの学さるく行事はすべて天気に恵まれた。「みさき道」の道塚7本、郷路八幡・妙道尼信女墓・延命水など珍しい石碑を多く探訪し、美しい長崎半島の海の景色が広がった。高浜公民館の講座も23日あり、草刈りが完全に行われていて歩きやすく、予定より早く観音寺へ着いた。今回も参加者のスナップを多く紹介する。(大塚氏画像も含む)

1月2日は恒例の新春「みさき道」初歩き。岬木場より殿隠山・遠見山のコースとなるので、希望の方はまた参加ください。

深堀の「金谷山菩提寺の沿革など」と「長崎喧嘩騒動」

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深堀の「金谷山菩提寺の沿革など」と「長崎喧嘩騒動」

当山卅四世 普山結制記念発行の資料から抜粋。寺の沿革によると、創建は建長7年(1255)。鎌倉幕府の御家人、当地領主三浦能仲によって建てられた。現在は曹洞宗の寺。歴代住職が長崎半島近郊の主な寺、観音寺(脇岬)・宝性寺(為石)・円福寺(香焼)・天福寺(樫山)・地蔵寺(蚊焼)・円通寺(伊王島)などを開山や復興した。
深堀鍋島家の菩提寺で同家の墓地や、赤穂浪士が討ち入りの参考としたとも伝えられる「長崎喧嘩騒動」の深堀義士墓碑などがある。

長崎学さるく “江戸期の「みさき道」を歩く Ⅰ”  平成19年11月

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長崎学さるく “江戸期の「みさき道」を歩く Ⅰ”  平成19年11月

平成19年11月23日(祝日)実施。参加者はスタッフとも24人。「みさき道」の前半コース。
午前9時新地湊公園集合。十人町ー二本松ーダイヤランドー土井首大山祗神社(昼食)ー深堀ー女の坂ー大籠ー三和行政センターまで約17kmを歩く。午後4時30分着解散。
汗もかかない秋晴れ。柚の新種「ゆうこう」が色づいていた。深堀菩提寺では住職自らの説明があった。今回は参加者のスナップを多く紹介する。(大塚氏ら撮影)
後半コース、蚊焼ー脇岬観音寺間は25日に実施予定。

「一ノ間路」はどこか。江川河口へは柳田回りか、網代回りか

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「一ノ間路」はどこか。江川河口へは柳田回りか、網代回りか

A 「一ノ間路」はどこか。測図上の「間路」の定義

平成16年11月国土地理院測図部管理課へ電話照会。測図上の「間路」の定義である。
国土地理院 「地形図の測図実行法」 明治44年作成 図式の適用の部
第4編 道路・鐵道・境界
道 路 國 道
縣 道
里 道
達 路(たつろ) 著名な居住地を連絡するもの。著名な居住地から國道、縣道又は達
路から分岐し、数村落を貫通するもの。
聯 路(れんろ) 相隣する居住地を連絡するもの。
間 路(かんろ) 連路に存する小路網とする。
小 徑

広辞苑による、かんどう〔間道〕は ①わきみち。ぬけみち。②⇒かんとう(間道)←→本道
明治34年測図「深堀」による土井首辺りの間路は、次のとおりである。
1 唯念寺先公園前から四つ辻に至る山道入口の人家まで
2 網代先切通しから江川に至る毛井首、平瀬の浦道(文久元年古地図は道なし)
3 土井首中からマリンセンターに至る現在の車道沿い

B 江川河口へは柳田回りか、網代回りか

佐賀藩深堀領に、こういった深堀道の歴史資料があればと、本当に願いたい課題である。深堀の殿様道が街道と言えるが、佐賀藩主の下向や深堀領主の長崎との行き来は、他藩と違い全て船であったろう。殿様道と言ってもそれは番所・台場の見回りと領内巡視の時、高台に上って村を望見し説明を受けることもあったようである。(平氏「肥前国深堀の歴史」ほか)
江川へ柳田回りか、網代回りか。これは両方考えられる。関寛斎が記述した「一ノ間路」「小渚」「迂路」を関連づけてさまざま考えてみるが、史料がなくどうしても確定できないでいる。「関寛斎日記に表れた地名等の特定と解釈」では、一番楽で近道となる土井首小学校から江川へ行く今のバス道沿い(土井首支所のところは川沿いにノア動物病院から林兼車検センター裏を行ったようである。)を、皆が納得できる道ではないかと紹介した。
この道は明治18年「西彼杵郡村誌」の土井首村とも深堀村とも何の記述がないのが、かえって「間路」と思われる。網代回りは平瀬が断崖であるので、当時はどうしても遠回りとなる。
同「西彼杵郡村誌」にある土井首村の「平瀬村路」が字法城方(放生がた 磯道団地)より西に折れず、シューズ前国道まで行き反対側右手の竹林の山道に入り、鶴見台の白百合荘前を通りジョイフルサンの裏手の字小名切に出たのであったら、これとしたいとも考える。ここも小径がある。土井首でもそういった説がある。
同村誌にある街道筋の竿ノ浦村界にある「柳田」とはどこであろうか。学校前がバス停の「南柳田」というももの、実際は長崎市土井首支所やコープ長崎南部支所も柳田町である。そして現在の江川町のジョイフルサンまで川向いは字「柳田」であるので困っている。街道は竿ノ浦村の樫永迫に入る。