投稿者「misakimichi」のアーカイブ

阿蘇神社のケヤキ・イチョウ  長崎市琴海戸根町

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阿蘇神社のケヤキ・イチョウ  長崎市琴海戸根町

長崎市琴海戸根町の阿蘇神社はあまり紹介されてないが、ケヤキなど大木がある樹叢をなしている。戸根川沿いに行った国道206号線が橋を渡り、琴海中学校にかかる手前左方に中央幼稚園が見え、神社はこの裏手にあるので回り込んで行く。
幹回り3m位ある高いケヤキ2本は参道右に立つ。アカガシのような大木も参道にあった。林間にはかなりの大木が倒壊していた。

時津のともづな石  西彼杵郡時津町浦郷

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時津のともづな石  西彼杵郡時津町浦郷

長崎市樺島町のともづな石は前に紹介している。これは時津町浦郷にあるともづな石。時津町役場の北東側に八幡神社がある。裏手は時津中央公園。
神社石段の右手花壇の中に、中央地区区画整理事業により移されてある。現地説明板は次のとおり。神社は天明8年(1788)八幡山から迂座、再建とあった。大きなエノキと宝暦十二年刻の片付けられた石柱があった。

と も づ な 石

船のともづなを繋いだ石である。この石は中通り道端にあった。ここは文政年間(十九世紀前半)頃までは海岸の波止場にあり港に入った船を繋いだ石である。そのうち誰いうことなしにこの石を不思議な力を持った石であると言って崇敬され祀られていた。
昭和六十年(一九八五)の中央地区区画整理事業でここに移されたものである。
時津町教育委員会

時津街道の標石  西彼杵郡時津町浦郷

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時津街道の標石  西彼杵郡時津町浦郷

西彼杵郡時津町浦郷にある。時津町役場から旧時津街道の道を、当時、諸大名や幕府役人の休憩・宿泊所となった茶屋(本陣)跡の方へ行く。茶屋のすぐ手前のところで、長崎と長与への道が分かれ、道脇は小川が流れる堀となっている。
この角に道標の標石がある。HP「伊能忠敬測量による長崎県内の主な街道 時津街道」の街道図によると、この地点に「追分道標」と記しているが、写真はなかった。

今、残っている標石は「明治三十三年九月建」と刻まれている。この当時に建立した同じ造りの標石は、滑石の平宗橋と滑石公民館近くにも現存している(長崎の珍しい標石に項あり)。
この標石のことは、次のとおり時津町近辺の石碑を紹介したHP「郷土の石碑」にあったので、写真の場所を訪ねた。寸法は18cm角、高さ70cmだった。

7 道路標識(浦郷)

(右)→ 長崎
(左)← 長與
(左後)明治三十三年九月建
(右後)時津村 字市
※ 時津は古くから大村湾によって長崎に至る玄関口として栄えてきました。道標もまあ石碑の仲間と言えるでしょう。

三根墓地のクロガネモチ(雄株)  東彼杵郡東彼杵町三根郷

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三根墓地のクロガネモチ(雄株)  東彼杵郡東彼杵町三根郷

東彼杵町三根郷にある。国道34号線を高速道IC交差点から嬉野の方へ向い、彼杵川の大きな橋を渡ると、川棚方面からの道と合いカーブする。この右手の共同墓地の真ん中に樹形のよい巨木が1本立っている。これがクロガネモチ(雄株)である。
Otoji.K氏HP「長崎県の名木」リストの中の説明は次のとおり。

クロガネモチの巨木(雄株)

東彼杵町三根郷にあるクロガネモチ。34号線に接する共同墓地の中央にそびえている。幹の中ほどから複雑に幹が分れていて、お墓のほぼ全てが枝で被われている。昔から、お墓を守ってきたという雰囲気が漂い、その樹形は圧巻。
幹周りは、両手で抱いて2回半ほどあり、およそ4m弱。幹周りから推定すれば、樹齢は250年前後だろうか…。長崎のクロガネモチの巨木では上位に位置する。

樺島のミニ神社「伊津岐島神社」  長崎市野母崎樺島町

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樺島のミニ神社「伊津岐島神社」  長崎市野母崎樺島町

長崎市野母崎樺島町のバス終点のすぐ先、「かばしま ふれあい広場」の中にあるミニ神社。資料を調べてもう少し詳しく紹介したいが、何も持ち合わせがない。ご覧のとおり鳥居が小さく、高さ1.6m、柱の間は1.3mしかなかった。
鳥居には「伊津岐島神社」「大正八年八月建立」「樺島村弁天町中」と刻まれている。宮島の「厳島神社」の流れをくむ神社だろうか。

安産祈願などで、女性が這って鳥居をくぐる神社があるが、樺島の「伊津岐島神社」のは中途半端だった。何なのか、広場にいた地元のおばさんに聞いてみた。
昔はここはまだ樺島の湾内で海だった。岩礁がありその上に祀っていた神社だったので、鳥居は小さかった。岩があった同じ場所にそのとおり復元しているということだった。

「ラビリンス」郊外編として、またまとめて紹介したい。

熊根の石燈籠とはどんなものか

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熊根の石燈籠とはどんなものか

長崎市脇岬町。南側海岸五島灘から吹きつける荒波を受けとめるよう、西南2kmにわたり熊根という砂丘がある。ここは有名な海水浴場でもある。その裏手、墓地内の中央の高所に、高さ約5mの大石灯籠がある。
この海域は昔から航海の難所で遭難する船が多かった。村人たちが浄財を集めて天明2年(1782年)大石灯籠を建立し、航行する船の目印にしたと言う。「観音寺保存古文書」より。
伝承では「抜け荷灯籠」とも言われ、遠見番所から役人が5日に1回来るので、点灯しているかどうかで合図したらしいが、真偽はまったく不明である。

平成17年脇岬公民館講座資料、達利昭氏作成「ふるさと再発見 岬の神々を訪ねて」の中の説明は次のとおり。

15 熊根石灯篭 常夜燈 (諸町墓所中央部丘)
天明2年(1782)で今から217年前に建立されたもので、発起人は誰であったかさだかでありませんが、おそらく村の人達の間で人命救助のため浄財を出し合って、船の航行に支障がないようにとの願いをこめて観世音菩薩に献燈し碑文を当時の住職に依頼したものであると思われます。

常夜燈碑文
建此燈者古今四方溺死干海中者及爲人所殺鳥獣魚虫属風有血気者皆以祈冥福又以祈是燈願主五福並臻百事如意且四方海舶至於此有闇夜迷惑徃徃不得入港今掲此爲標亦庶其旡爲礁石浅紗所膠也。
天明2年(1782) 観音寺住職第八世 泰 田 宗 耕
此の燈を建てるは古今四方海中に溺死する者及び人の殺す所の鳥獣魚虫属およそ血の気のあるもののために皆以て冥福を祈り、又以てこの燈の願主五福並臻し百事意の如くならんことを祈り且つ四方の海舶ここに至って闇夜迷惑し往々にして入港し得ず今これを掲げ標となし又、礁石浅砂のために膠する所ならんことをこひ願うものなり。

(註)五福 五つの望ましい幸せで、長寿、富裕、無病息災、道徳を楽しむ、天命を全うする。
並臻 臻は集まって来ると云う意味で、五福がいっしょになって集まって来る。
海舶 船舶のこと。
迷惑 まよいまどうと云う意味
礁石 岩礁のこと。
浅砂 砂
膠  固定して動かないこと。

脇岬観音寺はどういった寺か。脇津の客舎(宿)はどこにあったか

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脇岬観音寺はどういった寺か。脇津の客舎(宿)はどこにあったか

A 脇岬観音寺はどういった寺か

圓通寺観音寺。曹洞宗。正月と毎月18日のみ開帳している。十一面千手観音像・天井絵・梵鐘など国・県・町の文化財あり。行基菩薩が和銅2年(709)創建とされる。寺の寄進物を見ると長崎の商人・町人名と唐人もある。
江戸時代観音信仰が盛んとなり、物見遊山を兼ねた観音詣でで賑わった。その風習は戦後まで残った。この参詣の道が「みさき道」である。天明4年(1784)今魚町の「道塚五拾本」の石柱がある。関寛斎日記に記された清人の書「海天活佛」の額は住職の話では不明である。

B 観音寺に関わる疑問について、どのようなことがあるか

いろいろ本にさまざまな記述がある。例えば「長崎名勝図絵巻之二」圓通山観音寺では「のち切支丹の横行は、この地にも災が及んで、衰滅に瀕した。天文六年(1536)御崎備後守 廣重が再建、僧良圓が財を募って修めた。今寺の前、数百畝の田は、古寺の遺址である。祀るところの千手観音は、行基菩薩が、長良橋の梁木から七体の像を刻んだ。そのうちの一本で、材は榧の木」などである。
観音寺の慶長の頃の切支丹破壊があったか。古寺は前の園(その)の地にあったか。観音像は平安時代の作とされるがどうか。石門も誰の作か。他の近郊観音寺との比較もある。
地元で言う「ひゅうどんやま」は、明治18年「西彼杵郡村誌」脇岬村の陵墓にあった。「古堂 村の字神ノ上ニアリ一ノ小丘タリ古墓七基アリ伝テ平重盛ノ遺族ト云其裔孫今尚ホ存ス館氏ヲ昌ス」。
子孫が館氏とあり、杉家墓碑群らしい。しかし、近くに観音寺歴代住職の墓地がある。

C 関寛斎一行は、何時頃観音寺に着いたか

寛斎一行は深堀を午後出発し、高浜、堂山峠を越え観音寺に着いた。さらに宿の脇津まで三四丁あり、買い求めた鏡鯛は宿で食べたか、「蝉鳴を聞く、七時より時々雨ならんとす」とある。
県立図書館に展示している街道里程図(享和2年肥州長崎図 1802年)に「深堀迄三里」「深堀ヨリ野母迄四里」とある。これを勘案するとやはり観音寺に到着したのは、日没直前の午後6時頃と思われる。

D 脇津の客舎(宿)はどこにあったか

旧樺島通船の桟橋近くが脇津の中心地であった。このあたりに「蒟蒻屋」の屋号が今も残る(原設備工業 原新八方)。
観音寺から参道を行き国道を横切り、浜の墓地脇の道を通り西教寺からこの脇津に至るのが街道のようである。脇津は樺島と同じく風待ちの湊で舟宿が多く、寺と違い新鮮な魚介類が食され、観音詣での客も受け入れたのではないか。

古里から堂山峠越えはどんな道だったか。堂山という山があるのか

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古里から堂山峠越えはどんな道だったか。堂山という山があるのか

A 古里から堂山峠越えはどんな道だったか

今は次の南古里バス停から町営住宅裏を通り、堂山峠のすぐ近くまで農道が上っており、車で行けるのでこの道は誰も歩かない。農道で寸断されたところは、長年荒れるに任されていた。上部の農道の脇にいかにも街道らしい道が残っていたので、この際切り開いて復元することにした。脇岬に行くのには、この峠道が戦後まで大いに利用され、有名な峠であり地元で懐かしむ人が多い。関寛斎が言う「此峠此道路中第一の嶮なり(略)困苦言ふべからず」は本当か。試してみることにした。

ルートは予想と少し違ったが、切り開きにそんな手間はかからなかった。大古里の登り口から堂山峠まで通して歩いてみたが、直線的にゆっくり上っており、そんなにきつく感じない。寛斎一行は長崎から一日の長旅の最後の登りとなり、疲れていたのではないか。堂山峠は標高約160m。この間の距離は車道を歩き1.5kmであるから、山道は1.3km位と思われる。
原田氏稿によれば、堂山峠にも道塚があったらしい。どんな道塚であっただろうか。ここは帰路の際なら重要な分岐となる。高浜に下るのと遠見山へ上るのと両方とも指していただろうか。

B 堂山という山があるのか

地元の話では、「堂山峠」を堂山という。明治18年「西彼杵郡村誌」脇岬村の項で「山」として堂山は記述がある。他の資料に「銅山」ともある。遠見山も「鷹鳥山」や「高遠見山」とかあり、どれがどの山か不明である。
佐賀藩が作成した脇津村地図には、「堂山」の字を峠をはさみ記している。

高浜の「しのぶ」の丘越えと、古里まで海岸を行ったか

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高浜の「しのぶ」の丘越えと、古里まで海岸を行ったか

関寛斎日記は、高浜から古里まで「水際の奇岩上を通る凡そ二十丁」と記して、高浜から堂山峠の登り口である大古里まで海岸を行ったように感じるが、そうではない。岩を巻きながらきちんとした山道の街道がある。
高浜海水浴場から正面の墓地の脇を越し、埋立て前の海岸線を行き内野自動車手前から家の間の道に入る。先で畑道となり上に続くが、そこには行かず右へ竹薮をかき分け横に入ると、高浜温泉の小屋跡上で料亭「松実」の裏に出る。この赤道は長崎大水害のとき土砂崩れした。
後はきちんとした道で、古里部落の中を通って龍田神社前を行き古里公民館前に出る。この先の小店の前などは距離が短く波がひどい日も、大古里まで海岸を行かれたようである。

現在の料亭「松美」のあたりが、地名「しのぶ」という。駐車場奥に「忍の地蔵」がある。ここは海岸に突出した岩場で老松が茂り丘越えとなった。先の高浜公民館講座資料「たかはまの字名の考察考」28〜29頁は、次のとおり説明している。
字名 無し  通称語 しのぶ
しのぶ…は、本村名の西江下の海に突出した丘の呼称で、此の丘を降って海辺を南への通りみち、又海辺から上って本村への道とゆう場処の丘に数多くの老松の茂った高所利用した魚見やぐらを構えて日々辛抱づよく絶え忍んで見張りを続けたとゆう意味で「忍ぶの丘」と呼ばれたとのこと。それがいつの日か「しのぶ」の愛称となる。

「忍ぶの地蔵」については、すでに前の項で次のとおり写真とも紹介している。このあたりは、潮の満干によって山手の道と砂浜の道があったことが偲ばれる場所の地蔵である。

高浜の「忍の地蔵」とは、どこにある地蔵か

野母崎町「のもざき漫歩」高浜海岸の今と昔の中に『野母方面へ行くのに、浜添から「忍(しのぶ)の地ぞう」の下を通り、その浜へ出ると、なだらかな砂の道となっていました。そこは満潮時になると、潮がガンブリ満ちて通れませんでした』とある。
この地蔵は高浜海水浴場前を過ぎ、今、少しカーブとなっている料亭「松美」国道左の建物の駐車場奥にある地蔵である。名前がゆかしく、いわれと場所を訪ねたが、地蔵は新しくなってガラス張りのサッシの中に安置されていた。
この手前には鉱泉が湧いて海にそそいでいた。料亭「松美」が手を加え、自家用とするとともに、「高浜温泉」として看板を掲げ10数年前までは、鉱泉を蛇口で売っていた。

高浜海水浴場前の八幡神社  長崎市高浜町

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高浜海水浴場前の八幡神社  長崎市高浜町

「みさき道」は高浜の町中から高浜海水浴場のある八幡神社前に達する。八幡橋は渡らず河口沿いに墓地の先端を行き、やがて海に突出した老松茂る「しのぶ」の丘を越え古里へ入る。「しのぶ」の丘とは、今「忍の地蔵」のある料亭松美のところである。
海水浴場手前の八幡神社は、横の広場に公衆トイレがあり、「みさき道」歩きのよい休憩地点となる。現在の神社は昭和58年9月に改築された。少し神社に残る珍しいものを紹介しておく

まだ昔の時代、前の川に架かった「八幡橋」の欄干を一部残している。現総代の本村藤夫さんの話では、橋はアーチ石橋でなく、間に支柱のある桁橋だった。
「手洗石」は塚崎病院寄贈の新しいものとなっている。昔のその石や鳥居・燈籠が離れた松林に片付けられていた。これを見にきたのは、長野観音堂跡にある珍しい手洗石と同じようなものが、八幡神社にもあると「野母崎町郷土誌」が記していたためであるが、大きさや造りも全然違うようだ。手洗石はこれを生かしてほしかった。

新殿の右側奥に、旧鳥居の額や祠が残されている。祠の扉裏には「文化十一申戌年七月一日」と左に「世話人」5人の刻みがあった。祠の神体は移しているため、何を祀っているかわからないが、小さな狛犬が可愛い。この一角も「ラビリンス」もの。郊外編でまとめたい。