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天満宮のタブノキ  東彼杵郡東彼杵町小串郷

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天満宮のタブノキ  東彼杵郡東彼杵町小串郷

国道205号線の川棚町「大崎公園」の次が「小串小学校入口」交差点である。右折して東小串郷公民館前を過ぎ、高台へ上がって行くと小串小学校がある。「天満宮」は小学校正門先の右手に鳥居があり、参道を登る。

タブノキは社殿の広場右にあり、幹囲4m、樹高10mほど。大きな神木と聞いたが、さほどではなかった。幹の上部は折れて、樹形はあまりよくない。
小学校へ着く手前の車道脇に、クロガネモチの大木があった。根元に祀られていたのは、屋敷神という。ここは宅地跡である。

波佐見の宿橋で見た長崎要塞地帯標  東彼杵郡東彼杵町宿郷

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波佐見の宿橋で見た長崎要塞地帯標  東彼杵郡東彼杵町宿郷

9月4日、波佐見町中尾山の窯元「山慶」前の煉瓦造アーチ石橋を見に行った。その帰り川棚へ戻るため、波佐見町の現在の中心通り県道1号線でなく、南側の街中の旧道を通った。
大イチョウを過ぎると、川棚川に架かる「宿橋」を渡る。
橋のたもとに古い標石が立っていた。何かと見ると今は架け替えられている「宿橋」の、昔の橋名銘や架橋年月日のある親柱類。この一角に大切に保存されていた。

このようなことは、他所の橋でもよく見られる。気をひいたのは、真ん中の大瓶の下の低い標石。2面上部に「陸」と「第」の刻字があり、黒ペンキ塗りされている。下部は埋められ刻字不明。
まぎれもない佐世保地域の「長崎要塞地帯標」である。裏面へ回ると「長」の字があった。
説明板がなく、この標石の詳しくはわからない。佐世保の高橋輝吉氏へ聞いてみなくてはならない。高橋氏は、この場所の標石の存在を知っているのだろうか。

原書房刊「海軍制度沿革史」巻十五 昭和47年発行(海軍省編 復刻原本=昭和17年発行)127〜130頁の「◎長崎二於ケル陸海軍防禦営造物ノ地帯区域」によると、波佐見地区は、「要塞地帯法」関係の次の告示改正別図に表われる。
「長崎要塞地(其二)」の図中、「上波佐見」「下波佐見」の地名のあるところが、概ね宿郷「宿橋」のある地点である。(其一)は長崎市、(其三)は五島灘江ノ島近辺の図。

昭和十一年八月一日(陸軍省 海軍省告示六)
明治三十二年八月陸軍省海軍省告示中左ノ通改正ス
「長崎要塞地」ヲ「長崎要塞地(其一)」二改メ左ノ図ヲ加フ
長崎要塞地(其二)
長崎要塞地(其三)

長崎要塞地帯標は、明治32年設置されてから、何回かの法改正と地帯変更があった。終戦後、戦争遺物の市町村資料はすぐ廃棄され、標石はほとんど撤去された。地元でも詳細を知る手がかりがない。
波佐見町「宿橋」の標石は、上記の頃の告示改正が設置年代の目安となるだろう。詳しくは高橋氏が調査し、地元へ伝えてもらえればと思う。

高橋氏のこれまでの調査によると、波佐見地区の標石を同氏は次のとおり確認している。
① 第 1号 川棚民俗資料博物館にあり ② 第11号 西有田民俗資料館にあり
③ 第22号 個人宅にあり ④ 第32号 有田近くの寺にあり

中尾山で見つかった煉瓦アーチ橋  東彼杵郡波佐見町中尾郷

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中尾山で見つかった煉瓦アーチ橋  東彼杵郡波佐見町中尾郷

本年6月初め、波佐見町中尾山で小さい煉瓦アーチ橋が新しく見つかっている。次の記事により波佐見町に残るアーチ石橋は、15橋と紹介していたが、これで16橋となった。
https://misakimichi.com/archives/684
見つけられたのは、” fwd−net 長崎・諫早 ”のHP「長崎県の石橋を訪ねて」zento1氏。なんの情報もなく中尾山へ奥さんと窯元めぐりに行き、気づかれた橋。

波佐見町の中心街を通る県道1号線の「中尾山入口」交差点から右折。中尾山へ向かう。入口右の通りにある陶山神社近くの「伊東橋」のほか、中尾山には石橋は2つ残る。
中尾山へ着いて「陶郷中尾山」のゲートをくぐると、すぐ右の川に煉瓦アーチ「永田橋」が見え、次に「中尾山陶源橋」を渡るが、下を覗くとこれは立派な石造アーチ橋である。

今回、見つかったのは、この川の右横に並行して流れている小川。家並みの中はほとんど暗渠となっている。「中尾陶源橋」の先に、右へ30mの窯元「山慶」に入る車道があり、この道路下に小さな煉瓦アーチ橋が残っていた。下側の駐車場奥から見るとよくわかる。
上へ路地へ回って上流へ行くと、桁石橋の小さなものも残っていた。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。

写真     第 199 番   山慶前のレンガ橋      波佐見町中尾山
架橋年は未確認       長 さ 1.5m  幅 員1.6m+拡張
上流側に石柱を渡して拡張している。
波佐見町の中尾山に入ってゲートを潜った右手が永田橋(中尾レンガ橋)、本通りを少し上がった所が中尾山桃源橋。その先に右手に駐車場が有って山慶さんに入るところに架かる橋。

下流の永田橋(中尾レンガ橋)と同じようにレンガをブロック状に切り出して石拱橋の工法で架けた橋。陶芸の里らしい橋だ。環厚は0.3m、拱矢0.5m、スパン1.5mの小さな橋とはいえ、何度も通った中尾山に見落としが有ったということは、もっと見つかる可能性が高まったと嬉しくなる。(06/08/2008)

彼杵の古墳(ひさご塚)  東彼杵郡東彼杵町宿郷

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彼杵の古墳(ひさご塚)  東彼杵郡東彼杵町宿郷

国道34号線の東彼杵交差点から右折し、東彼杵町の中心へ入るとすぐ左手にある。一帯は歴史公園「彼杵の荘」として整備され、ひさご塚や石室の奥に東彼杵町歴史民俗資料館があり、副葬品などを展示している。
公園には、そのほか切間石・旧家岳中邸・しだれ桜・体験工房などあった。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

彼杵の古墳  県指定史跡

指定年月日 昭和25年4月10日  所在地 東彼杵郡東彼杵町宿郷字古金屋道上
所有者 国
長崎県の代表的前方後円墳で、規模は県内最大級。彼杵川河口、大村湾に面した砂礫丘上、標高2m程に位置する。主軸はN62°Wを測り、後円部側にカサンガン(重棺)古墳が位置する。
全長58.8m、後円部直径37.7m、高さ6.3m、くびれ部幅11.0m、前方部長さ21.1m、幅18.5m、高さ2.6mを測り、前方部の低い古式の墳丘形態を呈する。前方部が著しくくびれており、通称「ひさご塚」の由縁である。
墳丘上に埴輪の樹立は確認できないが、裾には人頭大の葺石が良好に残存している。埋葬施設は後円部上に2基検出され、副葬品には銅鏡1面、ガラス製小玉(300点ほど)や鉄鏃、鉄剣、鉄斧、刀子などの鉄製品もみられる。
5世紀前半頃の築造で、墳丘が復元され、隣接する東彼杵町歴史民俗資料館では副葬品などが展示され、古墳の墳丘とともに自由に見学することができる。

熊野神社のスタジイ  諌早市真崎破籠井名

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熊野神社のスタジイ  諌早市真崎破籠井名

諌早市真崎破籠井名の熊野神社は、風観岳(標高236.2m)の南麓にある。国道34号線諫早バイパスの明峰中学校前交差点に「破籠井」の道路標識があり左へ入る。県営バス「下破籠井」バス停で道が交差するが、まっすぐ行って住宅地の高台を越すと近道。
下ると風観岳下の谷間となり、前方に最近、護岸をした川にガードレールの橋がある。この橋を渡り、田の道を登って行くと熊野神社に着く。下破籠井までは長崎街道の道。

「諫早近代史」諌早市平成2年刊の特記すべき植物個体147頁によると、スタジイとして諌早市第一の巨樹。幹囲4.42mとある。
参道石段左にイスノキ、社殿へ上がって左の林にも、同じくらいのスタジイの大木があった。
Otkji.K氏「長崎の樹木」の中の街路樹による熊野神社の説明は次のとおり。

熊野神社

諫早市・破籠井(ワリゴイ)にある神社。入口近くにはスタジイの大木がある。本堂前の境内にはサザンカが咲いていた。神社社叢には、イスノキ、アラガシ、ムクロジの他、ヤブツバキ、ハリギリ、カクレミノ、ミミズバイ、シイモチ、サザンカ、ミサオノキを見ることができる。シュロも自生していた。 ミサオノキの低木が多く自生しているのが特徴。

案内板によると、平家の落人が近くに住みつき、建仁2年(1202年)に平家の守護神・熊野大権現を建立したのが、熊野神社であるという。毎年2月1日に桃手祭りが行なわれる。昭和62年10月には、鎮座800年祭りが行なわれており、平家の落武者にまつわる由緒深い神社である。

大雄寺の五百羅漢 (1)  諌早市富川町

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大雄寺の五百羅漢 (1)  諌早市富川町

国道34号線の本野入口から富川渓谷への県道212号線へ入る。案内標識により進むと本明川上流の富川渓谷に着く。大雄寺奥から滝にかけての岩面に、水害による死者を弔う503体の羅漢像が刻まれ、磨崖仏としては県内随一のものである。
写真は2007年11月撮影。現地は、昭和32年(1957)7月25日の諫早大水害にも遭い、磨崖仏は修復されていた。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

大雄寺の五百羅漢  県指定史跡

指定年月日 昭和52年5月4日  所在地 諌早市富川町925の一部ほか
所有者 大雄寺
元禄12年(1699)、諫早藩は洪水により多大の被害をうけ死者487人を出した。諫早藩7代茂晴公は死者の供養と今後の災害防止祈願のため、本明川の上流富川渓谷の地を開いて大雄寺を建立し、その壁面と川中の巨巌に503体の羅漢像を刻し宝永6年(1709)完成している。
磨崖仏としては県内随一のものであり、諫早水害史を物語る資料としても貴重なものである。

川頭遺跡  諌早市湯野尾町

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川頭遺跡  諌早市湯野尾町

国道34号線の本野入口から富川渓谷への県道212号線へ入る。本野小学校が見え、この先にある県営バス「本野学校前」バス停から右折して、山手の高台を目指す。
「川頭(こうがしら)遺跡」は、五家原岳(標高1057.3m)の南側中腹、目代川と湯野尾川の間の尾根にある。

高台の広い農道に上がり、しばらく進むと川頭集落に出、やがて車道左斜面にロープにより囲んだ一角があり、ここが縄文時代の開地遺跡「川頭遺跡」である。
現地へ行っても、草に覆われ何も見られないが、湯野尾川谷間にある同じ縄文時代からの生活遺構「善納岩陰」との関連から訪ねてみた。同岩陰遺跡からも車道はある。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

川頭(こうがしら)遺跡  県指定史跡

指定年月日 昭和50年1月7日 所在地 諌早市湯野尾町793−19 所有者 諌早市
縄文時代早期および中期の遺跡で、多良山塊の中腹標高約360mの地にある。
縄文時代中期の土壙墓1基が検出され、径0.8m、深さ0.6mの円形土壙の底面に数個の礫をおき、阿高式土器の大形片が検出された。早期の遺構としては、径3.5m程の円周上に柱穴7〜8箇が配置された平地住居2棟分が検出され、押形文土器、石鏃、石匙、凹石等が発見された。
これらのことから、従前不明瞭であった西北九州の縄文時代早期および中期の様相の一端が展開され、同時に多良・雲仙岳等の山嶽中腹域の遺跡に対する視点が整理されることになった。

善納岩陰  諌早市湯野尾町

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善納岩陰  諌早市湯野尾町

国道34号線の本野入口から富川渓谷への県道212号線へ入る。二股で右へ分れ、湯野尾川に沿って上流まで遡る。県営バス「棚掛」終点から橋を渡り、民家が点在する道を100mほど行くと、左側山手に「善納岩陰」入口の石段が見える。

板状割り石で積み上げた石段を、100段近く登る。大師堂が広場にあり、旧石器時代からの生活遺構は、この堂の右背後となる岩陰で見つかったらしい。
建物を奥に寄せて建ててるためわかりにくいが、裏手へ回り上を見上げると確かに格好な岩のひさしとなっていた。
近くの岩場の割れ目から今も水が流れ、里の給水に使われている。水場の左にも切り立った岩面は50mほど続いたが、この方は崩落がある。
入口手前の車道脇にシイの大木があり、根元に古い小さな石塔が散乱していた。
現地説明板は次のとおり。 
市指定史跡  善納岩陰

人類が岩陰や洞穴で生活を営むようになったのは遠く旧石器時代に始まり、県内の遺跡では福井、泉福寺洞穴などが有名です。これらは今のところ県北地域に多いのですが、諫早北高地区で発見されたのは善納岩陰が初めてです。
この岩陰遺跡は湯の尾川右岸にあたりますが、標高は海抜260m位で南東に面して岩のひさしが出来ています。岩陰の奥行きは約2.8m、間口は約15mで、左側には生活に必要な豊富な湧水もあります。
出土遺物の代表的なものは押型文土器で、縄文時代早期に人間の生活が営なまれていたことを示しています。対岸の尾根には同じ縄文時代の開地遺跡(県指定川頭遺跡)があり、ここの岩陰遺跡と近接しています。
これらは先史時代のあり方を知るための貴重な資料で有ります。
昭和52年3月30日    諫早市教育委員会

御手水観音の磨崖仏群  諌早市御手水町

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御手水観音の磨崖仏群  諌早市御手水町

「御手水観音」は、五家原岳(標高1057.3m)の南側中腹。長田川の上流谷間にある。長田川沿いに御手水町集落へのバス道路を行くのが、最も道はわかりやすい。
JR肥前長田駅前の交差点で国道207号線から分れ、白木峰高原への登山道路へ入る。高架を渡るとすぐ左下に長田小学校と中学校が見え、学校の間の道へ行き、長田川沿いの道をまっすぐ進む。

御手水集落のバス終点を過ぎ、なお行くと広い農免道路と交叉する。「御手水観音」の入口案内看板がここにあり、観音まではまもなくである。
駐車スペースは道路脇に数台。御手水観音は車道左上の山手にあり、遊歩道を登る。途中の説明板のところの岩肌に磨崖仏群が刻まれていて、この先の御手水観音堂と滝へ着く。

御手水観音は、僧行基の開基という伝説もあるが、文献的には御館山神社所蔵の由来記に「開基は何れ之代と言ふ事を不知、堂前に瀑布有、岩面に至徳2乙丑歳(1385)と銘す、上に千手、不動、毘沙門3尊の種子在り、今現に見ゆ」とあり、中世以前からの霊場であることが判る。(湯〜マットdeRの「旅」HP)

現地説明板は次のとおり。磨崖仏をよく見ると、1体ごと脇に寄進の者か名を小さく刻んでいるのが多い。「至徳二乙丑歳」(1385年)と刻んであるとあるが、磨崖仏の岩面では見当たらない。由来記からするとこれは滝の方の岩面ととられる。確認する時間がなかった。
ここの磨崖仏は、富川渓谷の大雄寺にあるのと刻み方が似る。富川のは次を参照。
https://misakimichi.com/archives/1253
滝の近くに、イチョウの大木があった。

市指定史跡  御手水観音の磨崖仏群

この磨崖仏が刻まれているところは御手水の観音といわれ、大昔から山岳仏教の霊場として知られています。切り立った巨大な岩の中からは澄み切った清水の滝が落下し、鬱そうたる樹木と相まって自ら神域をかもし出しています。
開山は何時頃か定かではありませんが、岩面に至徳二乙丑歳(1385年)と刻んであるため、この年代より大分さかのぼって開山されたのではないかと推察されます。
庶民信仰が盛んであつた当時は多くの信者が観音様に参拝し、夏なお冷気を帯びる滝に身を清めて修行に励んでいましたが、その中の奇篤家が永い間に49体の磨崖仏を刻んで信仰したものです。
この磨崖仏は多くの人によってそれぞれ違った姿の像が彫られており、当時の厚い信仰心を物語る貴重な文化財です。
昭和52年3月30日  諌早市教育委員会

和銅寺の十一面観世音菩薩立像と仁王像  諌早市高来町法川

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和銅寺の十一面観世音菩薩立像と仁王像  諌早市高来町法川

高来町の「和銅寺」は、元明天皇の勅願により和銅元年(708)行基が創建したので、和銅寺と名付けられたと伝えられる。全国的にも珍しい年号寺名の寺である。
開創千三百年祭が、本年5月行われた。本尊は十一面観世音菩薩立像。50年に1回しか開帳されない秘仏。県指定有形文化財である
境内には戦国時代、西九州を席巻した龍造寺隆信が島原出陣前にこの寺に滞在し、島津軍に敗れて討死したと伝えられている石塔の墓もある。

国道207号線により高来町へ向かう。JR湯江駅手前のガード下をくぐり町の中心に入る。大きな寺があるが、この寺は光宗寺。同寺の前を通り旧道を諫早方面へ約500mほど戻ると、橋を渡った高台に「和銅寺」がある。
長崎県HP「長崎県の文化財」による十一面観世音菩薩立像の説明は以下のとおり。写真は開創千三百年祭パンフレットから。

もう1つ関心があったのは、仁王門でなく本堂入口の両脇廊下に置かれた仁王像2体。朽ちかけた姿を今のうち写真に収めておきたかった。
境内の広場に珍しいムクロジの大木。奥にスタジイもあったが空洞ができ、枯れかかっていた。

和銅寺の十一面観世音菩薩立像  県指定有形文化財・彫刻

指定年月日 昭和48年5月18日 所在地 北高来郡高来町法川名20 所有者 和銅寺
十一面観世音菩薩は、頭部に十一面の顔をあらわしている変化観音の一つである。この像は、クス材を使用した木造りであるが、後補箇所も少なく、保存状態もよい。
室町時代の彫像で、引締まった容貌や美しい素木仕上げは、県下の十一面観世音像の代表作の一つと数えてよい。