投稿者「misakimichi」のアーカイブ

宮地嶽八幡神社陶器製鳥居  長崎市八幡町

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宮地嶽八幡神社陶器製鳥居  長崎市八幡町

宮地嶽八幡神社は、長崎市八幡町8番6号にある。普段、通らない通り。神社と鳥居の存在があまり知られていない。中島川に架かる伊勢宮神社前「高麗橋」の1つ上流の橋「阿弥陀橋」から右方の八幡町通りへ入ると、すぐである。この辺りは一方通行が複雑なので歩いて行く。

神社の現地説明板によると、全国で他に陶製鳥居があるのは、有田の「陶山神社」、佐賀の「松原神社」、愛知県の「瀬戸神社」。
有田の「陶山神社」(有田町大樽2−5−1、有田陶磁美術館前の車道反対側) の鳥居は製作者が3人とも同一で、陶製狛犬もある。写真は次を参照。 http://saraimac.sagafan.jp/t58205
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。
最後の写真は、出島和蘭商館跡にある陶製の門柱。

宮地嶽八幡神社陶器製鳥居  登録有形文化財(国指定)

登録年月日 平成9年7月15日  所在地 長崎市八幡町8−6  年代 明治21年
登録基準 三 再現することが容易でないもの
有田磁窯による大型細工でつくられた鳥居。親柱部分に残る銘によって製造人が岩尾久吉、角者細工人が金ヶ江長作、丸物細工人が峰熊一であることが判明する。
有田に製作者が同一のものが一つあるが、他に類例がない稀少的な存在である。

南山手居留地界隈  長崎市南山手町ほか

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南山手居留地界隈  長崎市南山手町ほか

長崎・南山手居留地界隈の風景。
煉瓦造の廃ビル、四海楼の前庭像、妙行寺と大浦天主堂、南山手レストハウス、建設中の大浦小学校、グラバースカイロードから市街遠望、居留地の井戸、大楠の通り、ドンドン坂、荒木家住宅、馬渡外科医院、居留地の小川、南山手地区町並み保存センター、同前の通りなど。

東山手居留地・出島和蘭商館跡・唐人屋敷跡・大浦天主堂・長崎グラバー園・居留地標石(境石・地番標)は別項。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

長崎市東山手・長崎市南山手  重要伝統的建造物群保存地区(国指定)

指定年月日 昭和3年4月30日  所在地 長崎市東山手町ほか  管理団体 長崎市
長崎市東山手・南山手地区は、安政5年(1858)の5カ国修好通商条約により設けられた長崎の開港場の旧居留地内にあり、東山手地区は、大浦の商館と港を見下ろす高台に位置し、領事館や礼拝堂、住宅などが立ち、現在は、これらの跡地にミッション系の学校が建てられている。南山手の居留地は、主として住宅用地として使われていたもので、明治時代初期から中期にかけての洋館住宅、教会などが良好に残っている。
東山手・南山手の町並みは、旧居留地の地割りを示す歴史的風致と洋館群や石畳・側溝など土木遺構を今日に伝えている。
東山手 約7.5ヘクタール  南山手 約17ヘクタール

大浦天主堂  長崎市南山手町

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大浦天主堂  長崎市南山手町

長崎市南山手町にある国宝(国指定)・建造物の「大浦天主堂」
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

大浦天主堂  国宝(国指定)・建造物  

指定年月日 昭和28年3月31日  所在地 長崎市南山手町乙1
所有者 カトリック長崎大司教区
安政の開国後、長崎に渡来する多くの西洋人のために必要という理由で、幕府もその建立を認めざるを得なかったカトリック教会堂で、フランス人フューレ神父と、その志を継いだプチジャン神父の努力によって完成した。横浜に次ぐ天主堂であるが、横浜天主堂が関東大震災で焼失したため、現存日本最古の天主堂となった。
元治元年(1864)末竣工。献堂式は翌2年の正月24日(1865.2.19)。26人の殉教者に捧げられたもので、「日本26聖人殉教者天主堂」という。大小三つの塔を持つ不思議な外観であったが、手まぜとなったので、明治11〜12年、前後左右に増築し、外壁木造漆喰塗は煉瓦造へ、3廊式は5廊となって、外観も現在のように大きく変わった。この時、創建時の内部造作はそのまま保存取入れられたものと思われる。数少ない洋風の国宝建造物である。

東山手居留地界隈  長崎市東山手町ほか

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東山手居留地界隈  長崎市東山手町ほか

長崎・東山手居留地界隈の風景。
十善会病院(籠町)とオランダ坂入口のモニュメント、東山手十三番館と活水学院前のオランダ坂、東山手十二番館(私学歴史資料館)、昭和会病院、池上家住宅、孔子廟、東山手洋館群と紅葉、南山手からの遠望など。

南山手居留地・出島和蘭商館跡・唐人屋敷跡・大浦天主堂・長崎グラバー園・居留地標石(境石・地番標)は別項。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

長崎市東山手・長崎市南山手  重要伝統的建造物群保存地区(国指定)

指定年月日 昭和3年4月30日  所在地 長崎市東山手町ほか  管理団体 長崎市
長崎市東山手・南山手地区は、安政5年(1858)の5カ国修好通商条約により設けられた長崎の開港場の旧居留地内にあり、東山手地区は、大浦の商館と港を見下ろす高台に位置し、領事館や礼拝堂、住宅などが立ち、現在は、これらの跡地にミッション系の学校が建てられている。南山手の居留地は、主として住宅用地として使われていたもので、明治時代初期から中期にかけての洋館住宅、教会などが良好に残っている。
東山手・南山手の町並みは、旧居留地の地割りを示す歴史的風致と洋館群や石畳・側溝など土木遺構を今日に伝えている。
東山手 約7.5ヘクタール  南山手 約17ヘクタール

長崎の西の空の夕日  その15

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長崎の西の空の夕日  その15

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔。以下続く。

写真 1〜 3  平成20年11月17日の17時10分頃
写真 4〜 6  平成20年11月18日の17時03分頃
写真 7〜 9  平成20年12月 2日の17時08分頃

金 鍔 谷  長崎市戸町4丁目

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金 鍔 谷  長崎市戸町4丁目

約370年前、西坂の地で殉教し、先週の11月24日に行われた列福式で、福者に列せられたトマス金鍔次兵衛。禁教の時代にあって、キリシタン迫害の中、人々の救いのために命を捧げた。
次兵衛神父が潜伏した外海・神浦扇山町の「次兵衛岩」洞窟は、長崎さるくガイド山崎政行氏が、25年前に奥深い山中で発見した、列福式にあわせた探訪会と現地記念ミサの様子が、全国にテレビで流れ、山崎氏は朝日新聞「ひと」欄に紹介された。
12月6日には、長崎学さるくでも「次兵衛岩」洞窟を訪ねる行事がある(空き人員少々)。

ところで長崎市戸町にある「金鍔谷」。知っている人は多いが、洞窟内部はあまり写真により紹介されていない。自宅へ帰る途中の国道499号線脇なので、寄ってみた。
女神大橋の手前に「金鍔」バス停があり、信号機のあるところから左の坂段を登るとすぐである。
長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」平成14年刊、108頁による説明は次のとおり。
後ろの写真は、夫婦川町・片渕2丁目の城ノ古址。「不動堂」と龍頭岩左の窪地、「金鍔谷」と呼ばれるのはこの一帯か?。
西坂町の日本二十六聖人記念館の庭には、武士姿の金鍔次兵衛像がある。

227 金 鍔 谷  (所在地:長崎市戸町4丁目30番)

金鍔谷は、金鍔次兵衛が潜伏した所と伝えられる。次兵衛は大村の生まれで、最初、有馬のセミナリョで教育を受け、さらにマニラのコレジョに進み、アウグスチノ会の修道士となり、トマス・デ・サン・アウグスチノと称し、後に神父に叙階された。
寛永8年(1631)頃、密かに帰国、以後、キリシタンの指導にあたった。次兵衛は長崎奉行所の馬丁などいろいろな者に変装したが、特に武士に変装、金鍔の脇差を帯びていたので、金鍔次兵衛と呼ばれた。次兵衛の探索は日増しに厳しくなり、同11年(1634)には佐賀、平戸、島原、大村の4藩に命じて、西彼杵半島全域で山関と呼ばれる大掛かりな山狩りが行われたが、次兵衛の行方はわからなかった。
しかし、同13年(1636)ついに捕らえられ、苛酷な拷問の後、西坂で穴吊りの刑で殉教した。現在、次兵衛が潜伏とした所は、金鍔谷とか次兵衛岩とか呼ばれ、この金鍔谷の他、琴海町の次兵衛岩や城ノ古址の金鍔谷なども著名であるが、特に城ノ古址の金鍔谷は、次兵衛が志賀親朋によって逮捕された所という。

唐人屋敷跡の石橋と石門  長崎市館内町

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唐人屋敷跡の石橋と石門  長崎市館内町

長崎市館内町にある鎖国時代の唐人屋敷跡。一帯で見る石橋と石門。
「土神堂」と「観音堂」に石橋と石門がある。石橋は近年、再建?された桁石橋である。
後の方は、地元の富豪森伊三次氏が寄贈した天后堂裏の堀にある「榮橋」(階段橋)、「森伊橋」(桁石橋)と、少し下流のアーチ式石橋「森橋」。
次も参照。  https://misakimichi.com/archives/614
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による「森橋」の説明は次のとおり。

第 85 番    森        橋   長崎市館内町18〜十人町11
明治25年   長 さ 約2.5m  幅 員 約2.0m  森伊三次氏が寄贈した橋
地元出身の森伊三次氏が寄贈した橋は、同じ川の上流に、もう2橋ある。アーチ橋ではないのだが、これも石橋。榮(さかえ)橋と森伊橋。

森伊三次氏とは、とんな人?
明治3年、火災で焼失した唐人屋敷の払い下げを受けて道路・橋を整備した地元の富豪。
浦上駅の市内中心地側、現在の茂里町地区は、当時「浦上村里郷」と呼ばれていた。ここは浦上川からの土砂の堆積が進み、湾の奥から浦上川河口にかけて干潟が現れていた。森伊三次氏は、浦上川の埋立てに私財を投じ土地の新田開発に尽力し、この地の大半に及ぶ広大な土地を拓き所有していた。
開発当初は「森町」と呼ばれていたが、大正2年、長崎市域すべての郷名を町名に変える事業が始められたとき、自らの名前から里が茂(森)る(栄える)ようにという意味を込め茂里町が生まれた。
明治30年、現在の浦上駅(旧長崎駅)〜長与駅まで九州鉄道が開通し、森伊三次氏は駅舎用地など約15,000坪を寄付している。

唐人屋敷跡  長崎市館内町

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唐人屋敷跡  長崎市館内町

長崎市館内町にある鎖国時代の唐人屋敷跡。土神堂、福建会館、観音堂、旧石積み、天后堂、空堀、階段橋、アーチ式石橋の森橋など。現地説明板は次のとおり。

唐人屋敷跡

唐人屋敷は、元禄元年(1688)に密貿易を取り締まるため長崎村十善寺郷のこの地に造成され、同2年(1689)4月に完成した。敷地は8,015坪(のちに9,373坪に拡張)で、煉塀と矢竹来で二重に囲まれ、2階建の瓦葺き長屋が20棟あり、2,000人から3,000人の中国人を収容することができたという。
地主神を祀る土神堂のほか、東西の隅に天后堂が、東北の隅に観音堂(関帝堂)が祀られている。

外国人居留地跡標石の所在マップと写真  東山手地区町並み保存センターに展示

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外国人居留地跡標石の所在マップと写真  東山手地区町並み保存センターに展示

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。
参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。
これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認したのが、前項までの報告である。

しかし、これには「東山手地区町並み保存会」が、平成18年9月5日現在で調査した標石の所在マップと写真があった。
「長崎市東山手地区町並み保存センター」(東山手町6番25号 入館無料)2階に展示されている。表題は『重要伝統的建築物保存地区 旧居留地内の居留地境・地番境』。
東山手の調査にかかり同センターを訪れた際、展示物をはじめて目にした。一部に未調査や相違する部分があるが、この資料(所在マップはクリック拡大)を写真により紹介する。
今後は同保存会と協力し、居留地内の標石調査を進めたい。

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (77)〜(84)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (77)〜(84)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。 参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(77)〜(84)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。

標石 (77)  国指定史跡「出島和蘭商館跡」 見当たらず要調査。
標石 (78)  同史跡 中央広場に屋外展示中。
標石 (79)  同史跡 旧長崎内外クラブ無料休憩所棟の軒下に埋め込みを確認。
標石 (80)  同史跡 見当たらず要調査。
標石 (81)  同史跡 見当たらず要調査。
標石 (82)  同史跡 ミニ出島側通り外塀下に屋外展示中。
標石 (83)  同史跡 見当たらず要調査。
標石? Q   同史跡 「第十一番 No11」の地番標。 無料休憩所棟と内外クラブ間の階段下に保管中
標石? R   同史跡 刻面不明。無料休憩所等と内外クラブ間の階段下に保管中。
標石? S   同史跡 刻面不明。無料休憩所等と内外クラブ間の階段下に保管中。
標石? T   同史跡 表門手前の右溝の角にある。標石らしい形状。

標石 (84)  東山手洋館群B棟は「東山手地区町並み保存センター」である。見当たらず要調査。
標石   U   参考 横断歩道下に現存するアーチ式石橋「大浦橋」の親柱。