投稿者「misakimichi」のアーカイブ

深堀の散策 (7)  長崎市深堀町1〜6丁目・大籠町

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深堀の散策 (7)  長崎市深堀町1〜6丁目・大籠町

長崎市の南部。市内でも唯一の城下町(城はなかったが、佐賀藩深堀領として深堀陣屋や武家屋敷があった)だった深堀。遥か縄文時代からの多彩な歴史・文化の歩みを示す貴重な遺跡や史跡が数多く残っている。
中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の第五部深堀史跡篇195〜212頁による説明は次のとおり。

写真  1〜  3    城山全景(平山台と大籠町バス停から)と登る途中、平山台団地・為石方面を望む。

写真  4〜  6   (43)城塁及五条の空溝
城山(350m)の頂上に東西約200m、南北約100m、厚さ約4mをもって同山頂上を鉢巻状に石片と土をもって構築せられた城塁である。其の年代、目的等はさだかでなく中世期になるものと判定があるのみで学術的解明が期待せられる。
建長7年(1255年)3月彼杵戸八ヶ浦荘を将軍宗尊親王より賜った時、10万石の諫早をとるか天下の名城城山に赴くか二者択一の際、天下の名城を拝せん旨を申し上げたとの言い伝えがある処より、それ以前すでに構築せられていた事は間違いない。尚此の際附記して将来の参考に資したい。此の城塁の諸所に立射散兵壕が作られているが、これは第二次世界大戦時の末期に米軍の上陸に備えて築かれたものである。
五条の空溝は西南方に赤土部落方向に作られているもので、規模は長さ約100〜200m、巾約3mの空溝で、溝の両側には石をもって界を作っているものが五条あるもので、之が構築された時代及目的は城塁と共に今尚謎とされている。学術的解明を望むや切なるものがある。

写真  7〜  9   (44)八 幡 神 社
標高350mの城山(俵石山とも云う)の山頂にある社で、此の神社は建長7年3月28日上総より下向の際鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の分神を奉持して此の地に祀ったもので、此の記録は境内祠に向って左側に石碑があるが今は風化甚だしく剥離し去って読み得べくもないが、その拓本(重建俵石八幡石詞誌銘参照)によれば菩提寺十一世鶴天大キ大和尚の撰銘にして、其の冒頭に「肥の前の州彼杵郡深堀邑俵石山八幡宮は原(もと)総州鶴ヶ岡八幡宮の若社也而して此の地に遷崇して凡そ茲に五百年なり。そもそも彼の八幡は往時三浦義明(系図参照)相州を領し執柄の日專ら住崇したる所の鎮守也」とある処から、三浦氏の崇信の神を奉遷したのもむべなる事である。古来八幡社は武神として崇められ、八幡大菩薩の旗をおし立て南支、ルソン方面を荒し廻った往時を追懐する時、祖先が如何に此の神社を尊崇したかがわかる様な気がする。
日露戦争の際有海の青年が此の境内にひる寝をした処、沢山の鎧武者が西北方へ向って出陣する様を夢現に見たそうである。其の人は誰であるか探していると前村長の志波原三郎氏から聞いた筆者の青年時代を思い出す。これは取るに足らないかも知れないが附記しておく。

写真 10〜 11   (45)神 籠 石
八幡社の境内にある直径約2m位の楕円形の石である。遠い昔石器時代に神を祭る際に用いたものではあるまいか。

写真 12〜 13    城山の山頂三角点(標高350m)と陸軍省「長崎要塞第二地帯標 第八号」

写真 14〜 19   (46)愛 宕 神 社
例年7月23日の夜此の愛宕山(標高250m)で立木を伐って火を焚く神事で、その起源については考証すべき何物もないが、只だ想像されるのは、その昔八幡船として活躍した和寇共が唯一の頼りとして此の山の火を望見した事もあったかも知れない事で、瀬戸内を夜航海すると或る夏の夜島の山上に火が燃えているのを見る事があるとは、松永隆氏の話しで同地には所謂村上水軍がはびこっていた事を想へば、平戸の松浦党、深堀の三浦党も又同じ様な事をしたと想定する事は唐突なことであろうか。又記録によると寛永15年(1638年)幕命により峰火台を始めて長崎に置くとあるをもって、当時唐、紅毛船の来通多く長崎港出入の見張りをなすに恰好な地でもある野母、香焼、伊王島、各遠見所からの峰火を、深堀で集約し長崎の烽火台へ、そして江戸へ3日を要して達したとも言われる。
此の火祭を主宰する処は3丁目の青年達である。元来3丁目は鍛冶町と呼び火を最も使う鍛冶屋の多い土地柄である此処が、火の神たる火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を祭る愛宕神社祭事を主宰するのも当然の事で、今尚続けられている。翌7月24日は獅子舞で早朝から夕方まで、町中の処所を舞い廻る行事が例年行われている。(終)

写真 21(追加写真) 女の坂の首なし地蔵
深堀史跡案内図にはないが、深堀から大籠へ出るみさき道途中「女の坂」にある伝承で有名な地蔵。文久元年「深堀郷図」に地蔵堂がこの場所に描かれているので、それ以前の安置と断定してよい。
伝承の詳しくは、長崎県史談会編「長崎県郷土誌」臨川書店昭和48年刊412頁にある。

深堀の散策 (6)  長崎市深堀町1〜6丁目・大籠町

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深堀の散策 (6)  長崎市深堀町1〜6丁目・大籠町

長崎市の南部。市内でも唯一の城下町(城はなかったが、佐賀藩深堀領として深堀陣屋や武家屋敷があった)だった深堀。遥か縄文時代からの多彩な歴史・文化の歩みを示す貴重な遺跡や史跡が数多く残っている。
中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の第五部深堀史跡篇195〜212頁による説明は次のとおり。

写真  1〜  5   (38)座 禅 石
菩提寺六代賢外普門和尚が座禅を行い悟りを開いた処で、此の故に禅定谷と呼ばれる様になり訛って善長谷となったとも言われる。此処には五言絶句の石があるが、現在は風化してその文意さだかならずして且つ2つに割れている。座禅をしたであろうと想像される境石をもって仕切っている。
此処の空をおほふ老木は其の当時のもので今に到るも繁茂しこれを切れば祟りがあると信じられて誰も伐る者がない。
(老木は「タブノキ」。次を参照。 https://misakimichi.com/archives/534

写真  6〜      (39)藩 主 の 水
座禅石より東約100mの谷に清水が垂れ落ちている。現在は善長部落の用水に取水されているが、盛夏時には渇水する程の水量である。善長にお水方がいて所要に応じて運んでいた。

写真  7〜 14   (40)カトリック部落善長
此の地の歴史は比較的新しく、文化年間(1804年)甚介の子佐八が六家族を旅芸人の風を装い三重樫山から脇岬の木場、ゆりさき(鯨浜附近)を経て此処に住みついた。住みつく条件として八幡神社の毎月の祭礼及お水方として藩主用の水汲みの役を果す事であった。八幡社の祭礼を行う事は勿論隠れキリシタンで表向きは菩提寺の檀徒であった。それは佐八の碑銘には実三悟道信士天保九戌三月十三日とあるを見ても明らかである。(略)

明治維新信教の自由が認められ、此処に於いても今迄で隠れキリシタンで迫害を避けていたので、公然とキリスト教徒として立つ事の会議を開いたが、一部は今迄自分達が祀って来た神があるのではないか、何も明治になって信教の自由が認められたからと言って改宗の必要はない。との両論に分れその結果としてカトリック教徒は善長に残り、今迄通りの一派は蚊焼の岳路に袂を分つ事となり、今もカトリック教会に属せぬ「離れ切支丹」として密教的信仰を持ち続けている。八幡社の祭礼は今尚此の岳路善長の人達に依って祀り継がれている。濃緑のきれいな砂も同地から運び来ったもので、神社の200m手前の鳥居の根方に履物を脱いで参拝するを礼とし、水も途中休む事なく、肩から肩へ担いつがれて運ばれると言われている。

尚此処で深堀藩とカトリックの関係に就いて江湖の誤解を解くため参考迄に記しておくが、非切支丹深堀藩の支配下にあった所に、案外カトリック教徒の部落が多い事は特異的であろう。例へば三重の樫山、戸町の奥の大山、長崎港口に位置する神之島、蔭の尾、伊王島、そして善長等皆そうである。按ずるにこれは当藩においては同教を奨励はしないまでも黙認していたのではないかと思われる。海外との密接な関係(例えば貿易)などにより、耶蘇教への本質的理解が充分にあったのだということも考えられる。
(「善長谷開拓碑」は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/129

写真 15〜 16    善長谷教会上にある「ゆうこう」の大木    

写真 17〜 18   (41)俵   石
直径約30cm長さ1m〜1.5mの柱状の石が地中に規則正しく配列され或は地上不規則に散乱し其の数量は無数である。これを俵石と呼んでいる。
一説は古代人の手になるとするもので宮摺方面から為石に運び同所の川をさかのぼり平山方面から城山に運び石垣を築いたとする説。又一方「柱状節理」と言う言ふ現象により俵石が出来たとする自然説があって、考古学的はたまた地質学的に興味深いと思われる。

写真 19〜      (42)亀   石
俗称簡笥石と言われ1m×2m×1m位の石に亀の甲状に線が入った石で、俵石群から東北約100mの中腹にある珍しい石で、俵石と同様人工、自然の両説あり。

深堀の散策 (5)  長崎市深堀町1〜6丁目・大籠町

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深堀の散策 (5)  長崎市深堀町1〜6丁目・大籠町

長崎市の南部。市内でも唯一の城下町(城はなかったが、佐賀藩深堀領として深堀陣屋や武家屋敷があった)だった深堀。遥か縄文時代からの多彩な歴史・文化の歩みを示す貴重な遺跡や史跡が数多く残っている。
中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の第五部深堀史跡篇195〜212頁による説明は次のとおり。

写真  なし     (33)有 王 塚   略

写真  1〜  2  (34)遠見番所跡
現在はその跡はないが、今香焼への送電線鉄塔が建っている附近にあったと伝えられている。此処で香焼島の遠見台(円通寺の上の高い処)と連絡を取り異国船の出入を監視した。

写真  3〜  4  (35)煙 硝 庫 跡
旧藩時代の火薬庫で、其の位置は現在秋葉社附近の八幡神社の一の鳥居附近であったと伝えられている。

写真  5〜  9  (36)箱 式 石 棺(大籠町778の2)
大籠町に切石をもって築かれている。その築方から見て可なり古く、将来研究される価値あるものと思われる。
(大籠町バス停下の公民館から石段を下ると、小さな三浦神社(旭琴姫大明神)がある。新田神社より古く、端島の人が主に信仰した。旧社は現在の鳥居前の竹薮。ここに石棺があり30年ほど前、ある大学が一帯の発掘調査をした。石棺は並んで4基確認され、櫛・貝など出土した。現在は下に小屋ができ切土されているが、石棺の片側半分は残っている。近くの家の庭にある石が、蓋となっていた浜石の一部である。 大籠町西清氏の案内説明談)

写真 10〜 11   三浦神社近くにあるアコウとエノキの大木 

写真 12〜 17  (37)新 田 神 社(大籠町)
新田義興を祀る神社で、其の奉起の原因及時期はさだかでないが義興が矢口渡に誘殺されたので正平13年(1358年)で、それより100年位前に此の地に新田正久が居住していたと言われている。

写真 18〜 19   新田神社手前の地蔵堂。かつての分校跡地

深堀の散策 (4)  長崎市深堀町1〜6丁目

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深堀の散策 (4)  長崎市深堀町1〜6丁目

長崎市の南部。市内でも唯一の城下町(城はなかったが、佐賀藩深堀領として深堀陣屋や武家屋敷があった)だった深堀。遥か縄文時代からの多彩な歴史・文化の歩みを示す貴重な遺跡や史跡が数多く残っている。
中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の第五部深堀史跡篇195〜212頁による説明は次のとおり。

写真  1〜  2  (28)俵石山城石碑(菩提寺石門の中右側)
第二十一代主鍋島志摩守茂春の命に依り、六世賢外普門大和尚の撰文に依り、建長7年3月此の地をもらって来る時の扈従の人名等を記している。

写真  3〜  9  (29)菩 提 寺(5丁目417)
金谷山菩提寺は三浦大介義明八代の後胤三浦五郎左衛門尉平能仲公の創設で、寛喜元年(1229年)であると伝えられている。始め真言宗であったが天台宗に改宗再び真言宗に復し、天正年中に禅宗となる。其の頃兵乱蜂起し寺も無住荒廃し、遂に兵火に遇い伽藍悉く焼失、寛永年間(1624−1643年)寺の宝蔵焼け、三浦先祖以来の系図、及家中の記録悉く焼却すとの記録が残っている。従って前300年の本寺の状況は不明に近い。
開山の朝山芳暾禅師は享禄4年(1531年)当寺を開山し、現在住職は第33世で、寺格は高く皓台寺に次ぎ、九州でも有名な寺である。本尊は茲覚大師作と伝えられる薬師如来像で、木額に隠元木庵禅師即非の書等がある。寺内に十人義士、藩主、峰如松、樋口千万太、深浦安一郎等の墓がある。

写真 10〜 12  (30)十人義士の墓(5丁目417)
此の墓は21基あり之を十人義士と言う。昭和17年10月松藤隆乗大和尚時代に創設開眼された。
事の発端は元禄13年12月19日(1700年)、喜多佐左衛門の結婚式の買物に出掛けた深堀三右衛門、柴原武右衛門の両名と、当時唐、紅毛と会通し莫大な利益を得、長崎奉行にとり入り遂に幕府に追従して長崎奉行の町年寄の筆頭にまでのし上った高木彦右衛門との争いである。
近因は天満坂で、諏訪明神に誕生日の神詣に行った彦右衛門主従一行と前記2名の武士のはね土が彦右衛門仲間惣内の合羽にかかった事が発端であるが、遠因は外国貿易により巨大な利を蔵し幕府の御用も承わり長崎の町年寄の凡長と言ふ権勢と、深堀が貿易船の通行税的取立等による対立があったものと思料せられる。
斯うした遠因、近因により事は意外に発展、深堀勢2名は高木、鉄橋上で切腹、10名は翌14年3月21日幕命に依り五島町深堀屋敷に於いて切腹、9名は五島への遠島の処分を受けた。一方高木方は高木彦右衛門は打果され、剣客井上猶之進、関弥五兵衛、加藤半三郎、西太兵衛、仲間多数も打ち果された。伜彦八は逃亡打果し洩らしたが、高木彦右衛門闕所、彦八大小召上げ長崎七里四方追放、江戸大阪立入禁止、同人召使8人生害を仰せつけられて其の決着を見た事件である。
此の事件は赤穂義士の事件の丁度1年前で、大石良雄は家来を遣わし討入の様子を探らせ、大石の討入りの手本になったと伝えられている。尚五島へ遠島になった9人の中7人は五島公から現地妻を娶され、子をもうけ、宝永6年(1708年)許されるまで実に9年の歳月であった。
詳しくは次の「長崎喧嘩騒動」を参照。 https://misakimichi.com/archives/391

写真 13〜 16  (31)藩 主 の 墓
柳川の陣の七左衛門茂賢、長崎騒動の官左衛門茂久の墓等歴代藩主の墓が移り行く時の流れに尚昔の光りを留めている。
尚、此の附近には鎌倉時代以降の古い五輪の塔が随所に見られる。

写真 17〜 18  (32)三 官 の 墓(5丁目465)
林五官の兄林権三郎の墓で戒名は慧林芳賀。天和五年己未孟冬となっている。林五官が建てた。三官、五官は支那の官職名ではなく日本で言う三郎、五郎の類と思われる。
(菩提寺墓地の左方、赤屋根の今田宅裏手まで路地を行くと、左草むらの中にある小さな墓)

長崎の西の空の夕日  09−18

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長崎の西の空の夕日  09−18

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。以下、続く。

写真  1〜 3  平成21年 9月 1日の18時33分頃から
写真  4〜 7  平成21年 9月 4日の18時25分頃から
写真  8〜 9  平成21年 9月 5日の 5時40分頃から  朝空けの満月
写真 10〜12  平成21年 9月 5日の18時35分頃から  大籠町赤土三叉路から

深堀の散策 (3)  長崎市深堀町1〜6丁目

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深堀の散策 (3)  長崎市深堀町1〜6丁目

長崎市の南部。市内でも唯一の城下町(城はなかったが、佐賀藩深堀領として深堀陣屋や武家屋敷があった)だった深堀。遥か縄文時代からの多彩な歴史・文化の歩みを示す貴重な遺跡や史跡が数多く残っている。
中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の第五部深堀史跡篇195〜212頁による説明は次のとおり。

写真  1〜  4   深堀武家屋敷跡

写真  5〜  8  (24)御 屋 敷(5丁目272,292)
正式には深堀陣屋、通称は御屋敷。深堀藩主の居城である。今幼稚園の処が囲馬場の有った処。現在書院の一部が残っているが大部が修築されているが其の俤を偲ぶに足るものがある。書院より一段高い所に御座(おざ)があった。これは明治40年頃迄建っていたが自然損耗して当時の礎石のみが残っている。御座は二階建てで庭には川原の黒石が敷きつめられていた。

写真  9〜 11   長崎市指定天然記念物 深堀陣屋跡のアコウ

写真 12〜 13  (25)御 蔵 内
旧藩時代の船つき場で、此処では主として上納米の収支其の他御蔵に関係ある船が、此の築港に入ったもので、浜船は御船手につながれていた。

写真 14〜 16  (26)馬場崎、経塚(5丁目139)
昔は此の附近を馬場崎と呼び、言い伝えによれば此の附近に船を繫いでいたとの事で、小学校の校庭を掘るときれいな砂が出て来る処から、此の言い伝えも強ち根拠のないものではない。
お屋敷からお東附近までは洲であったらしく、現在の様になったのは、お西が明治の中期、中屋敷は昭和25,6年頃改修された。
此の経塚は当地方に5ヶ所に建てられている。経塚とは径2,3糎位の平たい赤色の石に、一石に一字を漆で写経したものを葬ってある処である。亀王塚にも経塚があるが、大正の中期時に埋立工事の際、前記の石が相当出たので、各戸はこの石をもち帰って神棚に祀ったところが、当時コレラが流行し数人が犠牲となる事件があったので、これは石の祟りであるとの風評が立ち、又元へ納めた様な事もあった。

写真 17〜 19  (27)五 官 の 墓(5丁目401)
呉公五官は南支の節川県の出身で商人である。今から約350年位前(1600年)、当時三代一翁芳純大和尚は高徳の師で、崎陽渡来の商人の帰依するものが多く、林呉公五官も其の一人であった。当時此の附近は唐人町と言っていた処を見ても、相当数の唐人が帰依していたものと想像される。五官は熹宗皇帝自ら織ったと言ふ十六羅漢縫出した九条の袈裟を寄進し、菩提寺の寺宝となっている。
「菩提寺の危急の際は吾が墓を発け」との言い伝えがある。近く県の文化財の指定に申請する様な意向もある。尚五官の兄三官の墓も現存している。

深堀の散策 (2)  長崎市深堀町1〜6丁目

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深堀の散策 (2)  長崎市深堀町1〜6丁目

長崎市の南部。市内でも唯一の城下町(城はなかったが、佐賀藩深堀領として深堀陣屋や武家屋敷があった)だった深堀。遥か縄文時代からの多彩な歴史・文化の歩みを示す貴重な遺跡や史跡が数多く残っている。
中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の第五部深堀史跡篇195〜212頁による説明は次のとおり。

写真  1〜  6 (11)深堀神社、大庄屋、学校跡
深堀神社は現在の様な規模にまとまったのは明治8年以降である。元は現在の深堀小学校の校庭にあったのを小学校の建設に伴い現在地に移転したものである。
祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)、天鈿女命(あめのうづめのみこと)の二神を奉祀し、三浦神社は当地開祖三浦五郎左衛門尉平能仲公を、舘林大明神、日正大明神と共に奉祀し、天満宮及稲荷大明神、招魂廟も同一境内に祀ってある。
深堀神社は能仲公が当地に赴任して来た時はニ社の神をすでに奉祀してあり、其の肇めを知らない旨此の鳥居に記載しある処より、相当古くから祀られていたと思料せられる。
此の鳥居は二代目で、初代は寛文3年(1663年)二十一代志摩守茂春が始めて石神門を創ったと記録に見え、文政11年(1828年)秋台風のため倒れ、天保8年(1837年)大いに稔って2、3の家臣と計り、二代目を建てたのが現在の鳥居である。
此の鳥居に刻んである主旨は深堀の創設の由来を敍べているが、斯様に其の由来等を刻んである鳥居は他に見ることが出来ない珍しいもので、殊に左側石柱の四言絶句は文意壮大で、祖先の気宇をうかがうに足るものと思う。(深堀神社(幸天社)石鳥居銘記参照)。
大庄屋は今の裁判所と警察署を兼ねた役所だったそうで、平屋建ての凸凹の多い陰気な建物であったのを、学校に襲用したもので、明治7年(1874年)から明治19年(1886年)頃まで、今の小学校に移るまで小学校として使用していた所である。

写真 なし     (12)江藤新平の父の出生地(5丁目182)  略
写真 なし     (13)旧藩時代の役所跡(5丁目194)  略

写真  7〜  8 (14)東 屋 敷 跡(5丁目191,192)
通称お東と呼び第三家老樋口氏の屋敷跡で、門及塀は殆ど其の当時の面影を残しており、現在もその子孫が居住している。(現在、邸宅は改築されている)

写真 なし     (15)荒木権内、同文八郎の屋敷跡(5丁目196)  略
写真 なし     (16)喜多佐左衛門屋敷跡(5丁目204)  略
写真 なし     (17)中 屋 敷 跡(5丁目198−209)  略

写真  9〜 13 (18)本 町 古 墳 群(5丁目西浜附近)
此の附近一帯を本町と呼ぶが、此の附近には縄文曙期より弥生式、祝部式に至る各期の人骨、土器、石器が包蔵されている貴重な遺跡で、学術的な調査も逐次行なわれるであろう。深堀小、中学校に出土品が蔵してある。
(現在、主な出土品は長崎市深堀支所隣りの「深堀貝塚遺跡資料館」に展示されている)

写真 なし     (19)西 屋 敷 跡(5丁目210)  略
写真 なし     (20)峰 邸 屋 敷(5丁目248)  略
写真 なし     (21)旧藩時代の厩舎跡(5丁目253渡辺水産)  略
写真 なし     (22)矢火矢施設跡(5丁目253渡辺水産)  略

写真 16〜 17 (23)旧藩時代の石の金庫(5丁目241)
此処は城島薫氏の邸で同氏の母堂は三十代藩主の娘である。尚元禄13年の長崎騒動の際9人遠島になった城島治部右衛門の子孫である。
此処に当時使用した石の金庫が現存しており、蓋も同氏の幼少の頃は有ったそうであるが、散逸して今は分らない。此の石の金庫には当時の責任者の名前等が刻まれている。

築地反射炉跡・本庄神社石造肥前鳥居・同石燈籠ほか  佐賀市長瀬町・本庄町

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築地反射炉跡・本庄神社石造肥前鳥居・同石燈籠ほか  佐賀市長瀬町・本庄町

佐賀市の風景・史跡。佐賀市HP「佐賀市の文化財」による説明は次のとおり。

写真  1〜  6   佐賀市史跡  築地反射炉跡
所在地/佐賀市長瀬町  指定年月日/昭和42年2月11日
長崎を守る特別任務があった佐賀藩は、江戸時代末期、諸外国の事情が判明するにつれ、これまでの兵備では守りきれないと思っていました。幕府にもしばしば防備増強を訴えたのですが、聞き入れてくれません。そこで、佐賀藩は独自に藩の費用で大砲を作ることにしました。そして嘉永3年(1850年)10月、西洋式反射炉等を築地につくり「大砲鋳造所」と呼びました。現在この反射炉跡は小学校の敷地や民家となっていて、その一画に反射炉の模型などが設置されています。

写真  7〜  9   道祖神社(道祖元町)

写真 10〜 13   道祖元町の伝統的保存建築物ほか

写真 14〜 15   佐賀県重要文化財  石造肥前鳥居
所在地/佐賀市本庄町大字本庄(本庄神社)  指定年月日/昭和39年5月23日
高さ3.8メートル、笠木の長さ5.15メートル。笠木、島木、柱および貫はいずれも3本継で、島木は形式化して笠木と一体となり、木鼻はゆるやかに反り、柱は下部になるにつれしだいに太くなる肥前鳥居の形式をなしています。県内には、このような石造肥前鳥居が多く見られます。この本庄神社の鳥居は慶長8年(1603年)発卯9月28日の造立銘が陰刻されています。

写真 16〜 17   佐賀市指定文化財  石 燈 籠
所在地/佐賀市本庄町大字本庄(本庄神社)  指定年月日/昭和50年2月11日
本庄神社の拝殿前の左右に1対の石造燈籠が建っています。これらには元和4年(1618年)の銘があり、鹿島支藩の初代藩主、鍋島忠茂と佐賀藩祖、鍋島直茂との名が刻まれています。直茂や佐賀藩初代藩主勝茂が鳥居などを神社に寄進している例は他にも多く知られており、藩政初期の大名の、神社に対する政策や神信仰の深さをものがたっています。

佐賀市(旧市内)の桁石橋 (4)  六長橋・西念寺裏橋ほか

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佐賀市(旧市内)の桁石橋 (4)  六長橋・西念寺裏橋ほか

佐賀市(旧市内)の主な桁石橋。8月30日、道祖元(さやのもと)町「道祖神社」を中心に上流天祐寺川と下流の大井手幹線用水路一帯で見かけた橋。一部の橋は掲載略。
HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」佐賀県の石橋によるデータは次のとおり。

写真   1      №2,915   六 長 橋       2007.08.25
佐賀市六座町‐長瀬町  橋長:6.3m  橋幅:4.3m  3径間桁橋  架設:明治34年
高欄が石橋であることをアピールしています。六座町と長瀬町の境であることから名付けられたのでしょう。

写真   2      №2,916   西念寺裏橋(仮称) 2007.08.26
佐賀市長瀬町‐六座町  橋長:5.5m  橋幅:3.9m  2径間桁橋
六長橋のすぐ下流に架かっています。

写真   3      №2,924   日新公民館前橋   2007.08.25
佐賀市長瀬町  橋長:4.7m  橋長:4.7m  橋幅:3.1m  2径間桁橋
日新公民館前に架かっています。

写真   4      №2,473   長 瀬 橋       2007.02.11
佐賀市道祖元町  橋長:4.1m  橋幅:4.1m  2径間桁橋  架設:明治40年
道祖神社北側の長瀬交差点のすぐ南側です。親柱は「ながせはし」でしょうか。
手前は道祖神社、奥は専修寺。

写真   5      №2,465   道 祖 橋       2007.02.11
佐賀市道祖元町(さやのもとまち)  橋長:m  橋幅:m  2径間桁橋
神社のすぐ南側に桁橋。親柱は「道祖橋」なのでしょうか? 「さやンはし」とでも?

写真   6      №4,042   本 庄 橋       2009.02.21
佐賀市末広1丁目  橋長:2.74m  橋幅:4.7m  単径間桁橋  架設:大正3年(1914)
突き当りを右折すると国道207号線です。

写真   7      №4,038   本 堂 橋       2009.02.21
佐賀市道祖元町−末広1丁目  橋長:2.7m  橋幅:4.12m  単径間桁橋
道祖元町と末広1丁目の境に架かる本堂橋です。左手にはブロック塀が続き、中は見えません。

写真   8      №4,044   かん音橋        2009.02.21
佐賀市末広1丁目  橋長:1.98m  橋幅:1.58m  単径間桁橋  架設:明治32年(1899)
本庄橋の下流側、左手は本庄元町公民館です。親柱に「かん音橋」、上流側には寄附者の名前が刻んであります。

写真   9      大井手幹線用水路   

佐賀市(旧市内)の桁石橋 (3)  本庄神社参道橋・藤ノ木天満宮参道橋

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佐賀市(旧市内)の桁石橋 (3)  本庄神社参道橋・藤ノ木天満宮参道橋

佐賀市(旧市内)の主な桁石橋。8月30日訪ねた本庄神社参道橋・藤ノ木天満宮参道橋と神社風景。
HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」佐賀県の石橋によるデータは次のとおり。

写真   1〜      №1,738   本庄神社参道橋      2006.03.12
佐賀市本庄町大字本庄  橋長:8.2m  橋幅:2.7m  5径間円弧桁橋

写真   8〜      №2,927   藤ノ木天満宮参道橋    2007.08.25
佐賀市兵庫町大字藤木  橋長:2.7m  橋幅:1.6m  2径間桁橋