深堀の散策 (6) 長崎市深堀町1〜6丁目・大籠町
長崎市の南部。市内でも唯一の城下町(城はなかったが、佐賀藩深堀領として深堀陣屋や武家屋敷があった)だった深堀。遥か縄文時代からの多彩な歴史・文化の歩みを示す貴重な遺跡や史跡が数多く残っている。
中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の第五部深堀史跡篇195〜212頁による説明は次のとおり。
写真 1〜 5 (38)座 禅 石
菩提寺六代賢外普門和尚が座禅を行い悟りを開いた処で、此の故に禅定谷と呼ばれる様になり訛って善長谷となったとも言われる。此処には五言絶句の石があるが、現在は風化してその文意さだかならずして且つ2つに割れている。座禅をしたであろうと想像される境石をもって仕切っている。
此処の空をおほふ老木は其の当時のもので今に到るも繁茂しこれを切れば祟りがあると信じられて誰も伐る者がない。
(老木は「タブノキ」。次を参照。 https://misakimichi.com/archives/534)
写真 6〜 (39)藩 主 の 水
座禅石より東約100mの谷に清水が垂れ落ちている。現在は善長部落の用水に取水されているが、盛夏時には渇水する程の水量である。善長にお水方がいて所要に応じて運んでいた。
写真 7〜 14 (40)カトリック部落善長
此の地の歴史は比較的新しく、文化年間(1804年)甚介の子佐八が六家族を旅芸人の風を装い三重樫山から脇岬の木場、ゆりさき(鯨浜附近)を経て此処に住みついた。住みつく条件として八幡神社の毎月の祭礼及お水方として藩主用の水汲みの役を果す事であった。八幡社の祭礼を行う事は勿論隠れキリシタンで表向きは菩提寺の檀徒であった。それは佐八の碑銘には実三悟道信士天保九戌三月十三日とあるを見ても明らかである。(略)
明治維新信教の自由が認められ、此処に於いても今迄で隠れキリシタンで迫害を避けていたので、公然とキリスト教徒として立つ事の会議を開いたが、一部は今迄自分達が祀って来た神があるのではないか、何も明治になって信教の自由が認められたからと言って改宗の必要はない。との両論に分れその結果としてカトリック教徒は善長に残り、今迄通りの一派は蚊焼の岳路に袂を分つ事となり、今もカトリック教会に属せぬ「離れ切支丹」として密教的信仰を持ち続けている。八幡社の祭礼は今尚此の岳路善長の人達に依って祀り継がれている。濃緑のきれいな砂も同地から運び来ったもので、神社の200m手前の鳥居の根方に履物を脱いで参拝するを礼とし、水も途中休む事なく、肩から肩へ担いつがれて運ばれると言われている。
尚此処で深堀藩とカトリックの関係に就いて江湖の誤解を解くため参考迄に記しておくが、非切支丹深堀藩の支配下にあった所に、案外カトリック教徒の部落が多い事は特異的であろう。例へば三重の樫山、戸町の奥の大山、長崎港口に位置する神之島、蔭の尾、伊王島、そして善長等皆そうである。按ずるにこれは当藩においては同教を奨励はしないまでも黙認していたのではないかと思われる。海外との密接な関係(例えば貿易)などにより、耶蘇教への本質的理解が充分にあったのだということも考えられる。
(「善長谷開拓碑」は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/129)
写真 15〜 16 善長谷教会上にある「ゆうこう」の大木
写真 17〜 18 (41)俵 石
直径約30cm長さ1m〜1.5mの柱状の石が地中に規則正しく配列され或は地上不規則に散乱し其の数量は無数である。これを俵石と呼んでいる。
一説は古代人の手になるとするもので宮摺方面から為石に運び同所の川をさかのぼり平山方面から城山に運び石垣を築いたとする説。又一方「柱状節理」と言う言ふ現象により俵石が出来たとする自然説があって、考古学的はたまた地質学的に興味深いと思われる。
写真 19〜 (42)亀 石
俗称簡笥石と言われ1m×2m×1m位の石に亀の甲状に線が入った石で、俵石群から東北約100mの中腹にある珍しい石で、俵石と同様人工、自然の両説あり。