投稿者「misakimichi」のアーカイブ

七島鼻(ポイント211)  喜界町大字花良治 ( 鹿児島県 )

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七島鼻(ポイント211)  喜界町大字花良治

喜界町HPの観光情報による説明は、次のとおり。喜界港から県道628号により南部の山手、自衛隊喜界島通信所正門前を通って上がって行くと、その先の分岐道に「七島鼻(ポイント211)」展望所の案内板があるから、さらに高台へ登って行く。

七島鼻(ポイント211)
七島鼻(ポイント211)は、喜界島の最高地点(211.96m)にあり、眼下には太平洋の大海原が広がり、西側には奄美大島と東シナ海を望むことができます。
また、ここには、戦時中は敵機襲来をいち早く発見する重要な役割を果たした旧日本軍の通信施設が残っております。現在では、パラグライダーの離陸場としても利用されています。
喜界島は年約2mm隆起しているので、200万年後は4000m超えの可能性があり日本で最も高い場所になるのでは?

テーバルバンタ  喜界町大字花良 ( 鹿児島県 )

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テーバルバンタ  喜界町大字花良治

喜界島総合情報サイト「喜界島ナビ.com」による説明は、次のとおり。喜界港から県道628号により南部の山手、自衛隊喜界島通信所正門前を通って上がって行くと、その先の分岐道に「テーバルバンタ」展望所の案内板がある。

テーバルバンタ
喜界島を構成する石灰岩は、古くは約10万年前から造礁性サンゴが絶え間なく生き続けることにより形成されました。年間約2ミリといわれる極めて早い隆起速度により世界でも類い稀なるサンゴ礁段丘の景観を今に残しています。喜界島の南西部を見渡す中西公園周辺からは地面ごと隆起した様子を知ることが出来ます。

ウフヤグチ鍾乳洞  喜界町大字島中 ( 鹿児島県 )

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ウフヤグチ鍾乳洞  喜界町大字島中

喜界島総合情報サイト「喜界島ナビ.com」による説明は、次のとおり。喜界港から県道619号により北部の中熊まで行く。県道から右折する案内板があり、山手の島中へ上がって行くと、「ウフヤグチ鍾乳洞」に着く。
洞内には照明設備がなく、懐中電灯が必要。平成17年にフジテレビ系で放映されたドラマ「遅すぎた帰還・実録小野田少尉」のロケ地として使わた鍾乳洞。

ウフヤグチ鍾乳洞
かつては鍾乳石や石筍(せきじゅん)が発達してましたが、大平洋戦争時に守備隊の防空陣地となり、鍾乳石は打ち壊され、石筍は一部取り払われています。入り口付近では鎌倉時代のものとされる「長石の辻遺跡」が発見されました。

坂嶺のウリガー  喜界町大字坂嶺 ( 鹿児島県 )

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坂嶺のウリガー  喜界町大字坂嶺

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。喜界港から県道619号により北部の坂嶺へ向かう。集落入口の「先内バス停」に「町指定天然記念物(史跡)ウリガー」の案内板がある。右折するとすぐ先の左側山林内に、この史跡が残る。
観光マップにほとんど載っていない場所で、伊佐の手前となる「先内バス停」の案内板を見落とさないようにする。

坂嶺のウリガー さかみね
(大島)喜界町(喜界島) 横穴式の斜面泉 江戸期? WEB 保存状態良好/現役 らせん状のウリガー/井戸堀りの技術があまり進んでいなかった頃,水源まで横から掘り下げていった 1 C

雁股の泉  喜界町大字小野津 ( 鹿児島県 )

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雁股の泉  喜界町大字小野津

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。喜界港から県道619号により北部の小野津へ向かう。小野津港入口の次のバス停「小野津」近くに、「雁股の泉」はある。

雁股の泉 かりまた
(大島)喜界町(喜界島) 湧水 永万元(1165) WEB 保存状態良好/現役 保元の乱に敗れて伊豆大島に流された源為朝が、島を抜け出して沖縄に向かう途中、遥かに見える島に向かって雁股の矢を放った→矢を抜き取ると清水が湧き出てきれいな泉となったという伝承 1 B

喜界町HPの観光情報による説明は、次のとおり。

雁股の泉
島の北部にあたる小野津地区にあって、源為朝の南島下りについては、いろいろな伝説や遺跡が豊富に残っていますが、これもその一つで為朝が、琉球に渡ろうとした途中にしけに遭い、喜界島の沖合を漂っているときに島に住民がいるかどうかを確かめるため、雁股の矢を放ちその矢を抜き取ったあとから清水が湧き出たと伝えられてるところから、この名で呼ばれている。

清 浦 橋  入来町浦之名 ( 鹿児島県 )

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清 浦 橋  入来町浦之名

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」鹿児島県の石橋によるデータは、次のとおり。入来町の中心街から県道328号より南東に入来峠へ向かう。途中に清浦ダムがあり、左側上流の公園駐車場に入る入口の支流清浦川に架かる。対面の鋭鋒は、標高200mの猿子岳。

№595  清浦橋

入来町浦之名
清浦川
橋長:6.5m  橋幅:5.6m  径間:4.0m  拱矢:1.9m
架橋:昭和5年
猿子橋から県道395号線を西へ戻り、国道328号線へ、1.8Km南下。左下、清浦ダム入り口の公園入口に架かっています。

津奈木重磐岩眼鏡橋  津奈木町岩城 ( 熊本県 )

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津奈木重磐岩眼鏡橋  津奈木町岩城

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。国道3号が津奈木町中心街に入って、つなき文化センター反対側の川向かいに町営温泉「四季彩」があり、このすぐ上流に架かる。

№63  津奈木重磐岩眼鏡橋

津奈木町岩城
県指定重要文化財
津奈木川
橋長:16.85m 橋幅:4.26m 径間:16.53m 拱矢:5.45m 環厚:68cm
輪石:44列
石工:蓑田大作
町営温泉「四季彩」を目標

津奈木重磐岩眼鏡橋
「津奈木川にかかるこの石橋は、北側にそびえる岩山「重磐岩(ちょうはんがん)」にちなんでこの名で呼ばれている。
嘉永2年(1849)に津奈木総庄屋近藤三郎左衛門為経の尽力で架けられた橋で、種山(現東陽村)石工岩永三五郎の弟三平が鹿児島で受けた傷の療養で世話になったこの村の人々へ、お礼として、棟梁としての腕をふるったと言われている。
石材は凝灰岩が使用されている。全長18m、幅4.5m、アーチの頂上18m、拱矢(基礎からアーチの頂上までの高さ)5.7mある。アーチの上に乗る石積みが少なく、アーチそのものの機能的な美しさ、堅牢さと、軽快さを感じさせる美しい石橋である。」
熊本県教育委員会

佐世保市愛宕山(別名 飯盛山とも)は要塞地 ( 長崎県 )

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佐世保市愛宕山(別名 飯盛山とも)は要塞地

佐世保市高橋輝吉氏から送られてきた資料。内容がわかりにくいが、そのまま載せる。佐世保市愛宕山(259m)については、本ブログ次も参照。
佐世保市愛宕山に残る戦前の炭鉱標石     https://misakimichi.com/archives/4395
陸軍用地境界標石の受難 佐世保市愛宕山  https://misakimichi.com/archives/4256

高橋輝吉氏稿 佐世保市愛宕山(別名 飯盛山とも)は、要塞地

戦前(内務省「官山」とも)=地元の山=中里東漸寺の山とも…。地元は登るだけ。軍の目、警察の耳、山番の口が。これは後で解かる。山に登ると、海が見える。艦も見える事でしょう。小佐々岳の木場よりは、下の方に丸見えです。

昭和19年頃になると、頂上にレーダーが据え付けられ、カモフラされていたという話。下からも見えました。頂上の一角に。山には登られませんでした。昭和14、15年頃には、くじ付き「シャモジ」を売ってました。町の方は、植木市などで賑わってました。山の方はお寺さんで、賽銭上げたら終り。帰るのみ。今より登り道も悪かったです。今は手摺りあり、良くなっています。
戦後は、若い人、子供、老人と多くの人が参り、登ります。

カメラ持参で、前はフィルム用が多く、現在は全部デジカメです。四方八方を撮ってますよ。私は四方を廻り見た。陸第四号、二号が目に入った。後ろの方にも、七、八、九、一〇号と、多くを撮った。石の写真のやみつきの初めかなー。
私はこれは変だ。戦前の事が頭をよぎった。何か有ると思い、大蔵管財へ。事情を話し、それは○○○で、1通の書を下さいました。「要塞標石地帯」の地図でした。ア—ア、これで解かりました。これから大変な事になってしまった。

天気の良い日は山、山へ行き、フイルムの時代、フラッシュが早くだめになる。5台位、変わったかなー。15年前に撮影した写真が、今、役に立っています。
現在は、第四八号が柵の中。第五二号は現物の石なし、3回行く。地滑りで埋まっている石。4本かなー。陸第三七号は上だけなし。4m下に有りました。現在は針金にてOK。
まだまだ変化。地滑りが多くなるのかなー。何で四五号の岩場に陸の石が。第四四号と第四二号が、次号待つ。7合目西側に陸軍省と刻んだ石(小型)2基有り。第拾九号、第弐拾号、これは変だと。

大黒町の庚申塔道標  長野県大町市大黒町 ( 長野県 )

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大黒町の庚申塔道標  長野県大町市大黒町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長野県リストによるデータは、次のとおり。JR大糸線北大町駅から南西に旧大町街道を行く。県道31号大黒町交差点近くの市道と交叉する角地にこの道標が立つ。
画像・資料は、私の先輩、大町市在住の土橋氏の提供。

大黒町の庚申塔道標 だいこく
大町市 <千国街道> 石道標(自然石) 高120㎝(うち、台石30㎝),幅50㎝,厚35㎝ 延享元(1744) WEB/土橋道良 原位置? (右面)「右 善光寺道」、(左面)「左 越後道」/正面に「庚申」と陰刻 1 C

田中欣一氏編「塩の道 千石街道」銀河書房1982年発行の47頁による説明は、次のとおり。道標所在地図は、HP”千国街道 二日目の街道歩き旅 [池田〜信濃大崎駅編]”から。

⑮ 追分道標(大町市大黒町)
延享元年(1744)建立の庚申塔の左右に「左越後道」「右善光寺道」と刻銘して道標を兼ねたもの。大町宿の発展過程を知る上に貴重。

田中井堰の隧道  伊佐市菱刈田中 ( 鹿児島県 )

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田中井堰の隧道  伊佐市菱刈田中

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。国道268号により伊佐市菱刈の重富交差点次の先の市道角まで行き左折する。大口酒造(株)第2蒸留所を目指して進むと、田中橋バス停があり脇を流れるのが、田中井堰の用水路である。
水路をたどると、民家入口付近が随所に隧道となっている。隧道最長区間はこのあたりと地区で聞いた。水路奥の民家脇の小道を進むと、重留川から取水する田中井堰へ出る。近くに記念碑や改修碑があった。

田中井堰の隧道 たなか
伊佐市 重留川 素掘トンネル(水路) 長37m 宝永元(1704) 市有形 WEB C改修 田中・重留の水田に給水/断面:水路トンネルとしては最小規模 3 –

伊佐市HP「伊佐の文化資源」による説明は、次のとおり。

田中井堰及び隧道(たなかいぜきおよびずいどう)
校区 : 田中校区
田中井堰は通称「濱川井堰」とも呼ばれ、川内川の支流・重留川から取水し、田中・重留の水田約150㌶に給水している。宝永元年(1704)に石堰が築かれたのがはじまりで、以来、数度にわたって改修を重ね、現在は自動式の転倒堰になっている。
市指定文化財(平成15年9月18日指定)