投稿者「misakimichi」のアーカイブ

永平橋記念碑  日置市伊集院町下谷口

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

永平橋記念碑  日置市伊集院町下谷口

日置市HPの「指定文化財一覧」伊集院地域 市指定による説明は、次のとおり。
伊集院町の市街地にある。この記念碑の文字は西郷隆盛が郡方書役の時に書いたといわれている。橋は石造りの眼鏡橋で岩永三五郎によって架橋されたものであった。

25 歴史資料
永平橋記念碑(エイヘイバシキネンヒ)
下谷口1926-1前  嘉永3年(1850)11月29日に着工、翌年1月20日竣工した石造眼鏡橋に伴って作られた碑である。碑に刻まれた文字は西郷隆盛のものと伝えられている。

大渡橋記念碑  日置市伊集院町寺脇

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

大渡橋記念碑  日置市伊集院町寺脇

日置市HPの「指定文化財一覧」伊集院地域 市指定による説明は、次のとおり。
太田発電所近くにある。この記念碑の文字は西郷隆盛が郡方書役の時に書いたといわれている。橋は石造りの眼鏡橋で岩永三五郎によって架橋されたものであった。

24 歴史資料
大渡橋記念碑(オオワタリバシキネンヒ)
寺脇54-3近く  嘉永3年(1850)11月20日に着工、翌年2月8日竣工した石造眼鏡橋に伴って作られた碑である。刻まれた文字は西郷隆盛のものと伝えられている。

ヤッコソウ発生地  日置市東市来町湯田

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

ヤッコソウ発生地  日置市東市来町湯田

鹿児島県教育委員会HP「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。開花写真は現地説明板から。
場所がわかりにくいが、国道3号湯田市街手前からJR鹿児島本線北側沿いの道へ入ると、向湯田に入口案内板がある。奥の星原宅裏山が指定地である。

ヤッコソウ発生地
【所 在 地】日置市東市来町湯田 4008 − 4
【種  別】国指定天然記念物
【指定年月日】大正 11 年3月8日

ヤッコソウは世界最大の花を咲かせるラフレシアと同じラフレシア科の植物で,シイ属の植物の根に寄生する1年生の種子植物である。10 月から 11 月に高さ約7 cm の鱗片葉のついた花茎を出し,頂端に白色の花を1個つける雌雄同体の植物で,花には蜜があり小鳥などが吸いに来ることもある。
ヤッコソウの名は,その形が江戸時代の「奴」の姿に似ていることから,明治 41(1908)年に牧野富太郎によって命名発表された。嘉永年間(1848 〜 53 年)には,奄美大島に配流された名越左源太が『南島雑話』の中で,珍しい植物があるとこの植物を図入りで説明している。
ヤッコソウの分布は四国,九州南部,種子島・屋久島,奄美,沖縄であるが,各自生地での発生個体は少なく,産地も減少している。東市来町湯田の指定地は,稲荷神社境内の右横約 100m2 であるが,指定地以外では,神社の裏山一帯,付近の民有林,遠くは,皆田,市来町大里の宇都,串木野市冠岳,吹上町などにも見られる。

萬 福 池  いちき串木野市羽島

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

萬 福 池  いちき串木野市羽島

現地説明板は、次のとおり。水神の石碑裏は「弘化五年」と記されている。案内板等と一緒に,西郷隆盛の足跡と言われている「石」がある。サイズ?は、かなり大きい。
後ろの写真は、県道43号その先、串木野サンセットパークからの夕日。

萬 福 池
萬福池は、弘化4年(1847)11月14日薩摩藩直営の工事として始められました。
当時24歳の西郷隆盛は、薩摩藩の河川土木方の書役助として萬福池の工事に加わっています。工事は順調に進み、弘化5年(1848)3月2日に竣工し、その後、今日まで地域農業の発展に大きく寄与しています。(昭和37年には老朽化のため堤等を改修し、現在に至っています。)当時、西郷は、特に農民に理解を示し、嘉永4年(1851)には農政建向を出し、農政改善の方策ついて説いています。
西郷隆盛の農政への熱烈な魂が、この静かな池面を通して伝わってくるようです。
平成15年3月  いちき串木野市教育委員会

HP「さつまの国の言い伝え」によると、次のとおり。

2013年09月22日 萬福の池 いちき串木野市
いちき串木野市は羽島から山のほうに行くと、萬福という集落がでてきます。そこに周囲2キロほどの池があります。今回は、萬福の池にまつわる話です。
むかし、この村で何年にもわたって飢饉が起こりました。村人たちは、毎日天を仰いでは雨が降ることを祈っていました。飢饉が続くたびに、村を出て行く者が出てきました。

そこで村の人たちは、皆で氏神様に心を込めて願掛けを行いました。それから、七日目に不思議なことが起こりました。社の方から、神様の声が聞こえてきました。村人たちは、その声を聞き逃すまいと耳をすませました。
「みなの者、よく聞くがよい。明日の朝早く、この村から二キロほど北に行くがよい。そこに池を作った」
神の声を聞いた村人たちは、大喜びして朝が来るのを今か今かと待っていました。

次の日の朝早く、村人たちは神様のお告げのあった所に行ってみました。そこには、広々とした池が出来ていました。池から一筋の水があふれ出て、村の田んぼに注がれていました。そうして半日もたたぬうちに、すべての田んぼは甦りました。村人たちの喜びようといったら、ありませんでした。

不思議な事に、池の水はどんな時も水が減るということがありませんでした。それからというもの、幸福に恵まれた村の人たちは、池を「萬福の池」と呼ぶようになりました。やがて、池の近くに人が住むようになりました。そこが今の萬福なのだそうです。

天狗鼻海軍望楼台跡  薩摩川内市寄田町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

天狗鼻海軍望楼台跡  薩摩川内市寄田町

現地説明板は、次のとおり。県道43号寄田新田に入口案内板が2か所ある。狭く藪で荒れたコンクリート車道を約1.5kmか2km入り(離合・Uターンは難しい。駐車場なし)、あと山道を500m歩く。
望楼台に着く手前の雑木林内平地が営舎跡と思われる。

薩摩川内市指定文化財
天狗鼻海軍望楼台   昭和60年3月27日指定

ここ天狗鼻は、北は天草、南は野間岬、西は甑島が望める見晴らしの良い場所で、江戸時代にも見張り台が置かれていたと言われています。
明治28年(1895)の日清戦争終了後に日本海軍は国内の要所に沿岸防備のために望楼台を設けました。ここ天狗鼻に設置されたのもそのひとつで 日露戦争時には海軍兵が常駐し、ロシアのバルチック艦隊の北上を監視していました。
鹿児島県内にはここ天狗鼻(常設)、下甑島の釣掛崎(仮設)、佐多岬(常設)の3か所設置され、現存するのはこの天狗鼻のみです。また、国内で現存するのは、北海道宗谷岬の大岬旧海軍望楼台とここ天狗鼻海軍望楼台の2か所のみです。

天狗鼻海軍望楼台の概要
竣  工 明治33年(1900)3月30日
運用開始 明治33年(1900)8月20日
業務廃止 明治38年10月19日 日露戦争終結による
種  別 常設海軍望楼台(佐世保鎮守府所属)
設  備 無線通信(艦船との交信設備)
任  務 海上監視、通信、気象観測
配置人員 望楼手ほか計4人(戦時中、適宜増員)

天狗鼻海軍望楼台図 (写真図のとおり)

平成22年2月  薩摩川内市教育委員会

オニバス自生地  薩摩川内市寄田町(小比良池)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

オニバス自生地  薩摩川内市寄田町(小比良池)

鹿児島県教育委員会HP「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。開花写真は、現地近くの観光案内板から。

オニバス自生地

【所在地】薩摩川内市寄田町 885− 39,886 − 3,886 − 6(小比良池)
【種 別】県指定天然記念物
【指定年月日】昭和 30 年1月 14 日

オニバスは本州,四国,九州のやや富栄養化した湖沼やため池,河川等に生育するスイレン科の一年生の水草で,ハスに似ているが,根茎は短くて厚く,多くのひげ根をもち,葉や茎に針のようなするどい刺があることから「オニバス」とよばれる。葉は直径1 m以上にもなり,7月末から8月にかけて水面に姿を現し,9月頃に薄紫色の可憐な花を咲かせる。11 月頃には葉は次第に枯れ,水面から姿を消すが,熟した種子は,仮種皮と種皮の間に空気を含むので水中を移動し,仮種皮が破れた後,水底に沈んで冬を越し,翌年夏に発芽する。なおこの種子は,休眠状態で数十年は生存可能と推定されている。
指定地は薩摩川内市寄田町のため池(小比良池)であるが,薩摩川内市水引町の裸島ため池や種子島の宇宙センター内のため池にも自生が確認されている。池の水位の変動や水質変化が生育に影響を与えるので,保護には注意が必要である。

川内原子力発電所  薩摩川内市久見崎町・寄田町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

川内原子力発電所  薩摩川内市久見崎町・寄田町

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

川内原子力発電所

種 類  原子力発電所
電気事業者  九州電力
所在地  鹿児島県薩摩川内市久見崎町字片平山1765番地3号
1号機
出 力  89.0万 kW
燃 料  低濃縮二酸化ウラン 約 72 t / 年
営業運転開始日  1984年(昭和59年)7月4日
2号機
出 力  89.0万 kW
燃 料  低濃縮二酸化ウラン 約 72 t / 年
営業運転開始日  1985年(昭和60年)11月28日

川内原子力発電所(せんだいげんしりょくはつでんしょ)は、鹿児島県薩摩川内市久見崎町にある九州電力の原子力発電所。なお、 川内川を挟んだ向かい側には火力発電所である川内発電所がある。
九州電力としては玄海原子力発電所に次ぐ2か所目の原子力発電所である。九州電力は現在、3号機の増設に向けた手続きを行っている。
所在地
1、2号機:鹿児島県薩摩川内市久見崎町字片平山1765番地3
3号機計画地:鹿児島県薩摩川内市久見崎町及び寄田町

発電設備
番 号 原子炉形式 定格電気出力 燃料・装荷量 運転開始日 現 況
1号機 加圧水型軽水炉(PWR) 89万kW 低濃縮二酸化ウラン・約72トン 1984年(昭和59年)7月4日 定期点検中
2号機 加圧水型軽水炉(PWR) 89万kW 低濃縮二酸化ウラン・約72トン 1985年(昭和60年)11月28日 定期点検中
3号機 改良型加圧水型軽水炉(APWR) 159万kW 低濃縮二酸化ウラン 2019年度(平成31年度)予定 計画中

久見崎軍港跡  薩摩川内市久見崎町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

久見崎軍港跡  薩摩川内市久見崎町

現地説明板は、次のとおり。川内河口大橋近く。

久見崎軍港跡
薩摩川内市教育委員会  管理者 薩摩川内市

ここは、藩政時代における薩摩藩の軍港で、船手やドックを備えた造船所があった。
船手は藩の直轄で、藩船の造修・管理・交通運搬の取締り、唐船に関する業務のほか、海路による参勤交代の御座船の出入りなどを任務としていた。
戊辰の役に活躍した春日丸はこの久見崎で造られたものである。慶長2年(1597)、秀吉の第二次朝鮮出兵(慶長の役)にあたり、島津義弘1万人、豊久800人の大船団がこの久見崎を出港し、秀吉の死によって翌3年大方の島津勢は再び久見崎港に帰着した模様である。
なお、造船所の大工頭をつとめた樗木(おてき)氏宅に保存されていた大量の造船関係文書などは、藩政時代の造船資料として極めて重要なもので、現在川内歴史資料館が所蔵している。
平成12年3月

長崎堤防  薩摩川内市高江町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

長崎堤防  薩摩川内市高江町

土木学会HP「選奨土木遺産」による説明は、次のとおり。現地説明板は写真のとおり。

名 称 長崎堤防 ながさきていぼう
所在地 鹿児島県/薩摩川内市
竣工年 貞享4年(1687年)
選奨年 2011年 平成23年度
選奨理由
暴れ川であった川内川左岸に位置する高江町に300haの水田を誕生させた土木工事の輝かしい成果を誇る堤防で、その形状は鋸の歯型というユニークさが際立っている江戸時代の土木遺産であります。

薩摩街道渡唐口  薩摩川内市向田町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

薩摩街道渡唐口  薩摩川内市向田町

HP「ふるさと薩摩川内」による説明は、次のとおり。現地説明板は写真のとおり。

薩摩街道を歩く会  (2010.8・1)

8月1日、日曜日、午前7時。薩摩川内市向田の川内川渡唐口には、約120人の人々が集まっていました。
太平橋近くの向田渡唐口を中心とする上・下流約1.1kmの堤防では、このほど従来の堤防を補強して大きな洪水にも耐えるための工事が行われました。渡唐口は、古くから川内川の渡し船や海からの船の船着場であったため、その頃をイメージするものに復元されたのです。

この日は、この堤防の完成を記念して、薩摩街道保存会の主催による川内川以北の「薩摩街道出水筋を歩く会」が開催されました。

渡唐口は薩摩街道出水筋の重要な拠点のひとつで、ここから対岸の渡瀬口に船で渡り、大小路町、上川内町を経て現在の高城町、陽成町、湯田町、西方町から阿久根市へと北上していました。

ここ渡唐口河畔の向田町(むこうだまち)には、江戸時代薩摩藩の地頭仮屋(御仮屋)が置かれ、参勤交代時の藩主の宿泊所のほか通常は隈之城郷(当時は隈之城郷であった。)の郷士の行政執務役場となっていました。残念ながら地頭仮屋があったとされる場所は、現在のこの河川敷の場所で、当時は川が今よりもかなり狭く、川沿いに直接堤防というか高い石垣の波止場があったようです。明治以降の度々の堤防工事で堤防が次第に陸側に拡張されたようです。

御仮屋の前には、御仮屋馬場が通り、その周辺には上納米を保管するための倉庫が置かれ、商業の中心地であったため、旅館や問屋、小間物屋などもおかれ、現在の薩摩川内市地域最大の商店街(野町)として繁栄していたといいます。

▲完成した太平橋上流の堤防。渡唐口の部分だけは昔のイメージの石を使っています。

▲7時30分頃新しい堤防から太平橋を渡り大小路へ いざ出発 ここから西方町へおよそ16km
川内川のこの付近に橋が出来たのは、明治8年のことで、これが初代の太平橋です。ですからそれまでは、向田と大小路との往来は船で行っていました。この近くには相当の船だまりが出来ていたことでしょう。