幸本井戸  武富町武富 ( 沖縄県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

幸本井戸  武富町武富

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。武富東港から島の中心、仲筋集落へ向かう。武富小中学校前の乗合バス発着場広場のところは直進して坂道を上がる。幸本御嶽前を過ぎ、次の右車道角からレンタサイクル武富の方へ入る。柵のある畑内の草場右奥に「幸本井戸」はある。
案内標識や説明板はないから、井戸の場所はわかりにくい。所在図参照。

幸本井戸 コントゥ・カー
(八重山)竹富町(竹富島) 石積井(石灰岩、方形) 不明 町教委 非現役 階段部以外を石灰岩で覆った石積み井戸/上記の「仲筋井戸」に類似 2 B

HP「竹富島のカー(井戸)」による説明は、次のとおり。

16.コントゥカー
仲筋集落の北西部に位置する、割と大きな井戸です。豊かに水を湛えた井戸で(特に雨後は水位が上がり池の様になります)、井戸に降りる石階段(約4m)もよく遺されています。
家並みから少し離れた所に位置しています。訪れた時は、写真中央のマーニ(クロツグ)の花の甘い香りが辺り一面に漂っていました。 付近には、平成8(1996)年、国立歴史民俗博物館により調査された「フージャヌクミ遺跡」があります。同遺跡はコントゥカーを中心に発祥した幸本村に関係する遺跡と考えられ、八重山先史・古代編年の第三期に当ります。
シチニガイ(節祭)では関係者による水恩感謝の祭祀と清掃が行なわれています。

仲筋井戸  武富町武富 ( 沖縄県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

仲筋井戸  武富町武富

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。武富東港から島の中心、仲筋集落まで行く。武富小中学校前の乗合バス発着場広場のところに「仲筋井戸」はある。所在図参照。

仲筋井戸 ナージ・カー
(八重山)竹富町(竹富島) 石積井(石灰岩、すり鉢状) 長径5m,深7.5m 不明 町教委 観光的整備 ひしゃげた円形をした、急勾配の石積み井戸/竹富島で最大の井戸/底に水が残る 2 B

HP「竹富島のカー(井戸)」による説明は、次のとおり。

10.ナージカー(仲筋カー)
島のほぼ中心部にある井戸で、1976年に石垣島からの海底送水が行われるまでは、島内の飲料水の供給源として利用されていた貴重な井戸です。 大昔は、この井戸の水を使い稲作が行われていたそうです。
この井戸には犬が発見したという伝説があります。それは、昔、犬を連れて井戸を探していた人が、犬のしっぽの先が濡れていることに気がつき、付近を探してこの井戸を見つけたそうです。 そのため、この井戸の石垣は犬が座った形に作られています。この井戸の水は、今では出産祝いの水や元旦の若水などに使われているそうです。

現地説明板は、HP「竹富島の石碑・説明看板 (東集落・北&東)」によると、次のとおり。

仲筋井戸(ナージカー)
その昔、仲筋村の村建ての神である新志花重成(アラシバナカサナリ)が飼っていた犬が、干ばつにもかかわらず尻尾を濡らしていたことで、発見された井戸と伝えられています。島人は、正月の若水や産湯としてこの井戸水を利用してきました。
一九七六(昭和五一)年に石垣島からの海底送水が引かれるまでは、飲料水の供給源として利用されていた貴重な井戸でした。

Naji Ka(Nakasuji well)
Legend tells that Naji Ka was discovered long ago when Arashibana Kasanari’s dog, (kasanari is the deity who built Nakasuji Village), was found with its tail wet, although the island was suffering from a drought. Water from this well has long been used by islandsers to give newborn babies their first bath, and as wakamizu (the first water drawn on New Year’s Day).
It was also important for islanders as drinking water until 1976 when an underwater pipe was laid to provide fresh water from Ishigaki Island.

※ 現在は周囲が塀で囲われていますが、当初はウリカー(降り井戸)でした。

ミーナ井戸  武富町武富 ( 沖縄県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

ミーナ井戸  武富町武富

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。武富東港から集落内に行き、武富郵便局角から東へアイヤル浜の方へ向かう。外周道路を横断したすぐ先右側に「ミーナ井戸」はある。所在図参照。

ミーナ井戸 ミーナ・カー
(八重山)竹富町(竹富島) 洞井(湧水) 不明 町史跡 WEB/町教委 未整備 自然洞窟/細い竪穴式の井戸階段が付いているが、暗くて滑りやすくハブが出るため危険 3 C

HP「竹富島のカー(井戸)」による説明は、次のとおり。

9.ミーナカー
ミーナカーは周回道路からアイヤル浜へ続くアイヤルミチに入ってすぐの南(右手)側、国仲原(フイナーバル)にある降り井戸で、手前右側の石碑には「ここを下った谷間に泉がある。往昔島人はこの泉を飲料水として用いたと伝えられている。」と記されています。 ミーナカーとは、神が見つけた井戸の意味です。その昔、女神・マリツと男神・ソコツが協力して掘り当てた井戸とされます。その後、人々が利用するようになり、井戸に降りる際は小石を2個投げて「マリツ・ソコツのミーナカー」と唱え水を汲みました。ひと昔までは、住民が冷たい清水を氷のうにするため、夜道を通ったそうです。1972(昭和47)年に竹富町の文化財(史跡)に指定されました。。

現地の標柱、由来の碑などは、HP「竹富島の石碑・説明看板 (東集落・北&東)」によると、次のとおり。

9.ミーナ井戸
記念物  ミーナ井戸
ここを下った谷間に泉があった 往昔島人は この泉を飲料水として 用いたと伝えられている
標 柱  記念物ミーナ井戸
(右面)竹富町教育委員会 (裏面)建設昭和四八年二月二八日 (左面)指定昭和四十七年八月三十日
由来の碑  この碑の前には、青い陶製の香炉が置かれています。
(正面)天降りめをと井戸ミーナカ マリツ女神ソコツ男神  此の岩屋に住み岩の底を掘りて ●所の清水を湧かしめて使用された これが竹富に初めての泉である
これ以来この井戸に降りる時は 二神への合図として小石を二個 投下して井戸水を使用する 習慣になっている(伝説記)
(裏面)一九六四年八月十二日建立  株式会社竹富牧場

花城井戸  武富町武富 ( 沖縄県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

花城井戸  武富町武富

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。武富東港からすぐの公園先道路(「新里村遺跡」へ行く標識がある)により西に向かう。新里村遺跡内左奥に「花城井戸」はある。所在図参照。

花城井戸 ハナックン・ガー
(八重山)竹富町(竹富島) 洞井(湧水) 不明 町史跡 町教委 非現役(水なし) 自然洞穴の奥にある 2 C

HP「竹富島のカー(井戸)」による説明は、次のとおり。

1.ハナックンガー
大舛原(ホーシ)にある東新里村遺跡の西端、イシャーグチの道沿い(東側)にあるハナックンガー(花城井戸)は、島で最も古い井戸です。井戸の傍には「はなすく井戸」と記された石碑が建てられています。そしてその前には丸いサンゴ石をくり抜いた香炉が置かれています。
島建てに関わる重要なウリカー(降り井戸)で、この井戸を中心に新里村は栄えたと言われています。 伝承では、昔、花城村の創始者・タガニドゥンの氏子の娘が新里村に嫁ぎましたが、村に井戸がないため里に戻ってきました。事情を知ったタガニドゥンは新里村で井戸を掘り、嫁いだ娘の記念として与えました。
神里村の井戸ですが、花城村の人が掘ったためハナックンガーと呼ばれるようになりました。

現地説明板「新里村遺跡」は、HP「竹富島の石碑・説明看板 (東集落・北&東)」によると、次のとおり。

竹富町指定史跡 新里村(シンザトムラ)遺跡  平成3年9月11日指定
本遺跡は「花城井戸(ハナックンガー)」という井戸を中心にして、その東側と西側に広がる集落遺跡で竹富島の集落の発祥の地といわれています。
昭和61年度・62年度に沖縄県教育委員会により発掘調査が実施され、遺跡からは大量の土器をはじめ、中国製陶磁器(白磁碗、青磁碗、褐釉陶器)、須恵器、鉄鍋、鉄製のヘラ、刀子(小刀)が出土しています。
これらの出土遺物から井戸の東側は12世紀末〜13世紀、西側は14世紀に形成された集落であることが明らかになりました。
井戸の西側、14世紀の集落には石積みが残っており、その石垣で囲まれた各屋敷と屋敷は通用門(出入口)で結ばれていて現在の集落とは異なった形態をなしています。
[地図]     竹富町教育委員会

根志原(ニシャール)と大舛原(ホーシ)にまたがる新里村遺跡は、タカニドゥンが掘ったと伝えられている花城井戸(ハナックンガー)を中心にした集落です。現在の集落形態と異なり、竹富島の集落の変遷を知る上で貴重な学術的価値のある遺跡です。平成3(1991)年、竹富町の史跡に指定されました。

あまたりや潮荒1.2  石垣市桃里伊野田 ( 沖縄県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

あまたりや潮荒1.2  石垣市桃里伊野田

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。国道390号により石垣空港入口を過ぎ、石垣島中部、桃里の伊野田2班バス停まで行く。少し先から農道へ左折、しばらく進んだ農道がカーブする左側のサトウキビ畑の中に、国天然記念物に指定された「あまたりや潮荒1」の津波石はある。石の根元まで草木が茂り、サンゴ化石は確認できなかった(写真1〜4)。

あと1つ、「あまたりや潮荒1」より大きな津波石という「あまたりや潮荒2」は、この北側約100m離れた所にある。国道へいったん戻り、食堂ヤスとカマ駐車場奥からサトウキビ畑の脇を川沿いに行く。大きな木立が生えた津波石がここにもあった(写真5〜11)。
この津波石は、特に私有地サトウキビ畑内にあり、立ち入りの際は了解を受けること。

あまたりや潮荒1 すうあれ
石垣市 (石垣島) 津波石 1771年 国天然 WEB/市教委 サトウキビ畑内/草で覆われて石肌が見えにくい 『奇妙変異記』に、「桃里村之内いなふ田与申所ニ三間角之海石弐ツ有ル/但、此石弐ツ共俗ニあまたりや潮荒与唱、元来仲与銘之内、あまたりや与申浜ゟ三町程沖之方ニ有来候処、大波ニ根ゟ引越し、浜ゟ弐町余陸ニ寄揚置申候」と記されている 2 C

あまたりや潮荒2 すうあれ
石垣市 (石垣島) 国道390号沿い 津波石 1771年 WEB/市教委 草で覆われて石肌が見えにくい 同上(指定は受けていないが、価値は変わらない) 2 C

HP「石垣島・東海岸の津波石群」による説明は、次のとおり。

あまたりや潮荒(あまたりやすうあれ)
石垣島中部の伊野田(沖縄県石垣市字桃里伊野田)の海岸から約200m離れた畑地内にあるサンゴ石灰岩です。推定重量は約300トン。古文書「奇妙変異記」には、元々、あまたりやという浜の沖合約3町(約327m)にあった2つの石が、津波によって浜から約2町(約218m)の内陸に移動した(打ち上げられた)と記されています。今回は、2つの石の内の1つが指定されましたが、近接してもう1つの石(実はこちらの方が大きい)も見ることができます。地元の人は当初てっきりこちらの大きい石の方が指定を受けたものと思っていたそうですが、実は逆だったということで驚いておられました。

指定となった「あまたりや潮荒」は、サトウキビ畑の中にありますが、サトウキビが大きく生長した時は見づらいです。畑に入って近づく際には農作物に被害を与えないように注意して下さい。
「あまたりや潮荒」はサトウキビ畑の中にあります。 道路からは10m程度の位置にあります。近づくとサンゴ石であることが分かります。 サンゴの化石も見られます。

こちらは北側にある、「あまたりや潮荒」より大きな津波石です。「あまたりや潮荒」から約100m離れた所にあります。

真謝井戸  石垣市白保 ( 沖縄県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

真謝井戸  石垣市白保

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。国道390号石垣市白保バス停手前から、南側の市道に入る。嘉手苅御嶽(かでかるおん)前の車道対面に「真謝井戸」はある。柵とロープが張られ立入禁止となっていたから、外観だけしか撮影できなかった。

真謝井戸 まじゃんがー
石垣市 (石垣島) 白保集落 石積井(湧水) 深9.7m 18世紀初期以前 市史跡 WEB 周囲をCブロックと柵で囲み立ち入り制限 『八重山島諸記帳』(18世紀初期)に「真謝井 村内に有」と記載→1771年の明和大津波で埋没→再建/18段の石段で降りていく掘り抜き井戸 3 C

現地説明板は、HP「石垣島の石碑・説明看板(郊外−1)」によると、次のとおり。

真謝井戸 真謝井戸の碑
寛延3年(1750)の頃、真謝村は白保から分封した。真謝井戸は当時村民の飲料水川として掘られたが、明和8年(1771)大津波によって埋められてしまった。白保真謝両村も津波のために壊滅したので、八重山の行政庁蔵元では波照間島から強制移住せしめて白保村を再建し、真謝村は廃村となった。
真謝井戸は琉球王命により、視察のため派遣された馬術の名人馬真謝という人が、村人と共に再掘して永く村民の生活に役立てた由緒ある井戸である。
1966年4月23日 老人会建立   2006年6月 吉日改築
撰文 喜舎場永珣 ・牧野清   寄贈 ヤマト工業(資)

※ 真謝井戸(マジャンガー)は、白保村に残存する唯一の古井戸(降り井戸)で、民謡「シンダスリ節」にも詠まれ、また村人の信仰の対象にもなっています。1950年代に、白保の各戸に水道が導入されるまでは飲料水の源として重要な役割を果たしていました。

白保小学校のアコウ  石垣市白保 ( 沖縄県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

白保小学校のアコウ  石垣市白保

HP「八重山の巨樹・名木・群落」による説明は、次のとおり。石垣市白保の国道390号沿い左に白保小学校はある。校庭の三本木と言われる「沖縄の名木百選」アコウとは別。白保小学校の北側角と校門脇に立つアコウである。

11.白保小学校のアコウの木
白保小学校のアコウの木。白保小学校の北側角にあります。
南側道路からの眺めです。 白保小学校の、道路沿いの北側の角(向かいは白保郵便局)には大きなアコウ(オオバアコウ)の巨木があります。推定樹齢150〜200年といわれ、石垣市の「緑の戸籍簿」にも登載されています。
また、白保小学校の校門にも大きなアコウの木があります。 白保小学校校門のアコウ。校門右側にある大木です。校舎前にあります。

白保小学校の三本木(オオバコウ・ガジュマル・デイゴ)  石垣市白保 ( 沖縄県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

白保小学校の三本木(オオバコウ・ガジュマル・デイゴ)  石垣市白保

沖縄県環境部環境再生課HP「おきなわ緑と花のひろば」沖縄の名木百選による説明は、次のとおり。石垣市白保の国道390号沿い左に白保小学校はある。校庭に三本木が並立している。

白保小学校のオオバコウ
白保小学校は、明治23年に簡易小学校として設置された、創立121周年の歴史と伝統を持つ学校である。
同校内には、「アコウ」「ガジュマル」「デイゴ」の三本の巨樹が並立して生育しており、地域では通称「三本木」と呼び親しんでいる。
当該樹木は、去った大戦前から生育する三本木のひとつとして、子供達の成長とともに生育し、幹周りは3.56m(直径1.1m)と太く、枝は傘状に拡がり、その樹形は均整がとれている。
当該アコウは、長く校内に生育し、これまでに巣立った数多くの子供達を見送り、今も遊び場や憩いを提供し続け、子供達に健やかな成長を見守り続けている。
白保小学校は、年中花と緑のある学校として、平成12年に全日本学校関係緑化コンクール準特選に選ばれており、このような緑化環境の中、当該オオバアコウは、適切に管理がなされ、小学校のシンボルとして、大切にされ続けている。

認定番号  109
認定年度  平成23年度
樹  種   オオバコウ
樹  高   8.05m
幹  周   3.56m
推定樹齢  100年以上
所在地    石垣市字白保73-1
経度・緯度 24.3543608_124.2389893
所有者    石垣市

白保小学校のガジュマル
白保小学校は、明治23年に簡易小学校として設置された、創立121周年の歴史と伝統を持つ学校である。
同校内には、「アコウ」「ガジュマル」「デイゴ」の三本の巨樹が並立して生育しており、地域では通称「三本木」と呼び親しんでいる。
当該樹木は、去った大戦前から生育する三本木のひとつとして、子供達の成長とともに生育し、幹周りは3.55m(直径1.1m)と太く、枝は四方に拡がり、その樹形は均整がとれている。
当該ガジュマルは、長く校内に生育し、これまでに巣立った数多くの子供達を見送り、今も遊び場や憩いを提供し続け、子供達に健やかな成長を見守り続けている。
白保小学校は、年中花と緑のある学校として、平成12年に全日本学校関係緑化コンクール準特選に選ばれており、このような緑化環境の中、当該ガジュマルは、適切に管理がなされ、小学校のシンボルとして、大切にされ続けている。

認定番号  110
認定年度  平成23年度
樹  種   ガジュマル
樹  高   9.25m
幹  周   3.55m
推定樹齢  100年以上
所在地    石垣市字白保73-1
経度・緯度 24.3537158_124.239760
所有者    石垣市

白保小学校のデイゴ
白保小学校は、明治23年に簡易小学校として設置された、創立121周年の歴史と伝統を持つ学校である。
同校内には、「アコウ」「ガジュマル」「デイゴ」の三本の巨樹が並立して生育しており、地域では通称「三本木」と呼び親しんでいる。
当該樹木は、去った大戦前から生育する三本木のひとつとして、子供達の成長とともに生育し、幹周りは3.64m(直径1.1m)と太く、枝は四方に拡がり、その樹形は均整がとれている。
当該デイゴは、長く校内に生育し、これまでに巣立った数多くの子供達を見送り、今も遊び場や憩いを提供し続け、子供達に健やかな成長を見守り続けている。
白保小学校は、年中花と緑のある学校として、平成12年に全日本学校関係緑化コンクール準特選に選ばれており、このような緑化環境の中、当該デイゴは、適切に管理がなされ、小学校のシンボルとして、大切にされ続けている。

認定番号  111
認定年度  平成23年度
樹  種   デイゴ
樹  高   9.25m
幹  周   3.64m
推定樹齢  100年以上
所在地    石垣市字白保73-1
経度・緯度 24.3537158_124.239760
所有者    石垣市

アダドゥーナー(安多手井)  石垣市宮良 ( 沖縄県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

アダドゥーナー(安多手井)  石垣市宮良

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。国道390号宮良西バス停の少し先から、南側の市道に入り下って行くと、「アダドゥーナー」の史跡説明板がある。
洞穴湧水を再建時に丸い井戸状にしたのではないか。井戸の中までは確認忘れ。

アダドゥーナー(安多手井)
石垣市 (石垣島) 下又屋敷遺跡 洞井(湧水) 深12m(斜道21m) 18世紀後半以前 市史跡 現地解説板/WEB 現在は放置状態(ゴミも) 1771年の明和大津波で埋没(それ以前から存在)→再建/40段の石段で洞内に降りていく洞窟湧水(ウリカー) 3 B

現地説明板は、HP「石垣島の石碑・説明看板(郊外−1)」によると、次のとおり。

アダドゥーナー  石垣市史跡  昭和55年10月31日指定
この井戸は人と水とのかかわりを知るうえで大切な遺跡である。宮良むらの由緒あるウリカー(降り井戸)として、昔から人びとの信仰を集めている。ウリカーとは、直接水面まで降りて水を汲む井戸のことで、傾斜する降り道には40段の石段が設けられている。
「八重山旧記」に「安多手井」と記されているこのアダドゥーナーは、宮良むらの歴史とかかわりの深い「下又屋敷遺跡」(しいむぬかくいせき)の内にあって、下の村創設のころ、神に願立てして水脈を掘りあてたという伝承がある。以来、神の水として崇信され、共同井戸としても広く利用されてきた。
近年は各自の井戸や貯水タンクが普及したことや、上水道が敷設されたことにより、共同井戸としての利用はなくなったが、アダドゥー願いは今でも続けられている。
また、周辺には外本御嶽があり、磁器や陶器、鉄滓などの遺物も出土している。井戸の深さは12m、斜道21mである。
なお、この地域で無断に現状を変更することは市条例によって禁止されています。
昭和62年10月  石垣市教育委員会

明和大津波遭難者慰霊之塔  石垣市宮良 ( 沖縄県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

明和大津波遭難者慰霊之塔  石垣市宮良

現地碑文は、HP「石垣島の石碑・説明看板(郊外−1)」によると、次のとおり。国道390号宮良橋を渡り左折して、老人ホームなごみの里の先まで行くと、右手高台に上がる「明和大津波遭難者慰霊之塔」の案内標識がある。慰霊之塔は、1枚目写真の岩の後ろ側に建立されているから、岩の左から回り込んで下る。

16.明和大津波遭難者慰霊之塔
碑 文
八重山の古記録大波之時各村之形行書によれば 乾隆三十六年(日本年号明和八年)三月十日(一七七一年四月二四日)午前八時ごろ大地震があり それが止むと石垣島の東方に雷鳴のような音がとどろき 間もなく外の瀬まで潮が干き 東北東南海上に大波が黒雲のようにひるがえり立ち たちまち島島村村を襲った 波は三度もくりかえした 史上有名な八重山の明和大津波である
津波は石垣島の東岸と南岸で激甚をきわめ 全半潰あわせて一三村 ほかに黒島 新城二村が半壊し 遭難死亡者は九三一三人に達した
こうして群島の政治 経済 文化の中心地石垣島は壊滅的打撃をうけ 加えてその後の凶作 飢饉 伝染病などによる餓死者 病死者も続出して 人口は年年減少の一途をたどり 人頭税制下の八重山社会の歩みを一層困難なものとし その影響はまことに計り難いものがあった この天災から二一二年 狂瀾怒涛のなかで落命した人人のことを思うとき いまなお断腸の念を禁ずることができない このたび有志相謀り 群島全遭難死亡者のみたまを合祀してその冥福を祈り あわせてこの未曾有の災害の歴史が永く後世に語りつがれていくことを念願し 島内外各面の浄財と 石垣市 竹富町 与那国町並びに諸機関 団体の御協力を仰いで ここにこの塔を建立した
一九八三年(昭和五八)四月二四日
明和大津波遭難者慰霊碑建立期成会

※ 「古記録大波之時各村之形行書」は、「おおなみのときのかくむらのなりゆきしょ」と読みます。