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北浦大山祇神社のヤマモモ  長崎市北浦町

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北浦大山祇神社のヤマモモ  長崎市北浦町

長崎市北浦町木場の大山祇神社にある。現地は若菜川の中流域となり、茂木の黒橋から入るか、三景台から早坂町の谷へ下る道を行く。神社にはヤマモモとともにクスノキの大木があった。
もぎ歴史懇談会「茂木の名所旧跡」などの資料によると、神社の創建は寛永3年(1626)。境内後方の山林尾根上に昭和49年、弥生中期の竪穴式直径10m円墳が発見され「元木場古墳」という。
Otoji.K氏HP「長崎県の名木」リストの中の説明は次のとおり。北浦町を「矢上」とされているが、地区は「茂木」となるので修正した。

長崎市茂木のヤマモモ

茂木・北浦町の大山祇神社にある。石段を登りきった左手にある。幹は洞になっている。幹の上部で折れていて、そこから多くの枝が伸びている。幹周りおよそ4.5m。

長崎街道のクスノキ(二世)  東彼杵郡東彼杵町菅牟田郷

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長崎街道のクスノキ(二世)  東彼杵郡東彼杵町菅牟田郷

東彼杵から国道34号線を嬉野の方へ向い約5分、高速道のガード下を通りしばらくすると大畑小学校へ下る右分岐がある。クスノキは学校前の車道のもう一段下側の車道に入口があるので、下って回りこむ。
この下側の道が長崎街道。東彼杵の町から続き車道としても整備されており、この道をたどってもこの場所に来られる。帰りの大村湾夕暮れ空にジェット機が上昇した。
Otoji.K氏HP「長崎県の名木」リストの中の説明は次のとおり。樹齢3500年以上の大楠だったとは?。シーボルトが描かせた画も転載した。今ある木はその二世である。

クスノキ二世

東彼杵町ニの瀬にあるクスノキ。以前は樹高23.6m、幹周り16.3mで、樹齢3500年以上の巨木であった。長崎街道にあり、1826年(文政9年)シーボルトがその姿を描かせている。明治27年頃、樟脳の原料として切り倒され、小学校建設の費用に当てられたらしい。現在のクスノキはその二世である。大楠小学校の近くにある。
最下部の画は、シーボルトが描かせた大楠。〜「シーボルト(日本)雄松堂より」〜。
幹が空洞になっており、畳八枚ほどの広さだったらしい。

彼杵小学校のエノキ  東彼杵郡東彼杵町蔵本郷

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彼杵小学校のエノキ  東彼杵郡東彼杵町蔵本郷

東彼杵町の町中に入るとすぐ国道に横断歩道橋があり、この左手に彼杵小学校がある。エノキは学校の体育館裏にあるので、学校正門前を車道は右へ行ってフェンス越しに木を見られる。
Otoji.K氏HP「長崎県の名木」リストの中の説明は次のとおり。

エノキの巨木

東彼杵町の彼杵小学校内にある。幹周り4.8m。目通りの高さにある枝は切断されていて、中は洞ができている。エノキの周辺はセメントで囲まれて保護されている。
小学校に隣接して彼杵(そのぎ)神社があり、彼杵宿本跡がある。近くを長崎街道が通っていて、このあたりが、長崎街道と平戸街道との分岐点になる。
近くの港には、二十六聖人乗船場跡がある。キリシタン禁止令によって捕えられた二十六聖人は、京都から護送されて、長崎街道を経てここに到着。ここから乗船して長崎に向い、西坂の丘で処刑された。二十六聖人も、このエノキを眺めたのだろう。

平戸街道川棚往還の大タブノキ  東彼杵郡川棚町百津郷

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平戸街道川棚往還の大タブノキ  東彼杵郡川棚町百津郷

国道205号線が川棚町に入ったすぐに、JR大村線の鉄道をはさんで左手にこのタブの木が見える。川棚警察署手前の踏切を渡るが、細い道の踏切なので車は川棚駅前近くまで行き、城山交差点から海岸の広い埋立道路へ迂回して行った方がよい。
タブノキのあるところは、平戸街道の道筋である。住家の横の木の根元に川棚町教育委員会が建てた「平戸街道はここから北上し、根元に泉が湧いて旅人は憩いの緑陰に供した」との石碑があった。幹が大きく分かれている状況は、根元に葉が茂って写せなかった。
Otoji.K氏HP「長崎県の名木」リストの中の説明は次のとおり。

川棚町のタブノキ

東彼杵町から川棚町に入った直後の国道205号線近くにある。国道から見ることもできる。
地上1mほどから幹が大きく二つに分れている。それぞれの幹周りは、およそ2.5mと3mほどはある。右の幹には洞ができている。地上4mほどから幹は切られていて幾つかの枝が伸びている。
幹には切られた跡がいっぱい残っていて、材木や薪として役だってきたことが想像され、「頑張ってきたんですね」と声をかけたくなる。
国道205号線は平戸街道と言われ、長崎街道の分岐点(東彼杵町)から平戸に至る街道である。昔、平戸に向う旅人は、このタブの下で休憩をとったと記されている。

川棚のモッコクとニワウルシ  東彼杵郡川棚町の街路樹

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川棚のモッコクとニワウルシ  東彼杵郡川棚町の街路樹

モッコクの街路樹は、川棚町役場先の川棚小学校前通り。ニワウルシは川棚駅前から国道がすぐ川棚橋を渡るので、この川沿いの護岸にある。
Otoji.K氏HP「長崎の樹木」リストの中(街路樹)の説明は次のとおり。

川棚町の街路樹(一部の抜粋)

川棚町で街路樹として目立つのは、国道沿いのユリノキである。その他、川棚駅から町役場に至るクスノキの街路樹がある。
川棚小学校沿いには「川棚町の木」である モッコクの街路樹がある。道路の中央分離帯のモッコクはあるが、街路樹として植えられているのは、長崎では川棚町だけではないだろうか? 他に、まだ見たことがない。
また、川棚川沿いの一部には ニワウルシの街路樹がある。護岸の内側から伸びていて目をひく。

モッコクの街路樹
川棚小学校前にある。撮影は10月。赤い実が鮮やか。

ニワウルシ(庭漆)
ニガキ科ニワウルシ属 落葉高木 雌雄異株。葉は大形で奇数羽状複葉で互生する。小葉は6〜12対で、8〜10cmの長卵形〜卵状披針形で先は鋭く尖る。小葉の下部に鈍い鋸歯が1〜2対ある。6月頃、枝先に円錐花序をだし緑白色の小さな花を多数咲かす。果実(翼果)は秋に熟し、褐色になって散る。
1875年(明治8年)に渡来し各地に植えられている。シンジュとも言う。ウルシ科ではないので「漆」は採れない。葉はちぎると臭気がある。ひどく臭い!
写真は川棚町の川沿いのニワウルシの街路樹。翼果は6月初旬。川棚町・商工企画課によると、昔はこのあたりがメインストリートで、魚屋などいろいろな商店が並んでいたとのこと。日差しを避けるため、明治初期頃に植えられたらしい。

常在寺のナギ・イチョウ・バクチノキ  東彼杵郡川棚町中組郷

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常在寺のナギ・イチョウ・バクチ  東彼杵郡川棚町中組郷

東彼杵郡川棚町中組郷の川棚町役場近く。大きな寺ですぐわかる。ナギ・イチョウ・バクチノキの大木は寺の左側墓地側にあるので車道を上がる。イチョウ・バクチノキの大木という木は上の幹が折れている。イチョウは参道上面にある木がかなり大きくなって、この方が目立った。虚空蔵山は寺からよく見えたので写した。
Otoji.K氏HP「長崎県の名木」リストの中の説明は次のとおり。

常在寺のナギ

役場近くに常在寺(日蓮宗)がある。本堂左手にナギの巨木があった。樹高24m、幹周り3.2m、樹齢800年という。雄株。町指定になっている。境内にはイチョウの巨木がある他、バクチノキの大木が数本ほど見られる。

岩屋権現のクスノキ  東彼杵郡川棚町岩屋郷

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岩屋権現のクスノキ  東彼杵郡川棚町岩屋郷

川棚から波佐見へ行く県道4号線からダム建設に揺れる石木に入る。砕石場を過ぎた川の合流点の石橋脇に「虚空蔵山登山口へ 左木場コース 右岩屋コース」との道案内標識がある。
右の岩屋口へ川沿いの車道をしばらく進むと、左手に岩屋権現の鳥居とまっすぐ上がった参道石段が見える。

石段は198段。登りきったところが昔の社殿跡の広場。この両側に大クスがある。背後は岩山で4つの広い岩穴があり、上部右の最奥穴に権現を祀っていて、ここには人が這って入れるよう丸穴を掘って空けていた。珍しい神社であった。
道筋の途中で見たアーチ石橋2つは、川原(こうばる)橋と勘蔵橋という。大正初期に造られた。
Otoji.K氏HP「長崎県の名木」リストの中の説明は次のとおり。

岩屋権現の大クス

川棚町川原から岩屋登山口に向う途中にある。岩屋神社の長い石段を登ると境内があり、その左右にクスの巨木が2本ある。右手のクスが大きい。途中から幹は二つの分かれていて、幹周り5.6mはある大クス。
境内に社殿はなく、岩山がそびえている。鎖を伝って登ると岩穴がある。僧・円順が造ったらしい。近くにはシダ植物の イワヒバやカタヒバが生えているが、盗掘された跡があり、悲しくなる。

八幡山峠はどこか。平山台上のタンク地点は、どのように考えるか

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八幡山峠はどこか。平山台上のタンク地点は、どのように考えるか

A 八幡山峠はどこか

深堀城山に八幡神社が祀られており、八幡山は城山のことである。ただ「峠」となるとどこをいうか。文献はなく今もって断定はできない。最初は一の鳥居をそのまま登り善長あたりを考えていた。しかし、これは登りすぎである。「女の坂」が街道となると、大籠町新田神社しか考えられない。
関寛斎日記には深堀から二十丁の距離とある。実測では菩提寺から新田神社は2091m。このあたりは村役場・学校分校が昔はあり、今も稲荷神社・六地蔵堂がある。新田神社脇は道路でだいぶん切り削られているが、尾根のちょっとしたピークで眺望がよい。そして字名も「丸尾」という。赤土からの道に続き城山へ登山道も上る。峠の形態が考えられるのである。
さらにここから蚊焼峠まで三十丁と日記は記している。実測でちょうど3026mあった。平山台上のタンク地点は帰路の「長崎道分れ」であって、「八幡山峠」となるとこの新田神社の地点しか考えられない。

B 竪に赤白青の旗號の黒船は、どこの国の船でどの地点で見たか

竪(たて)に赤白青の三色旗號とあり、フランスの黒船と思われる。横ならオランダである。安政6年(1859)、幕府は長崎・神奈川・函館を開港。アメリカ・ロシア・イギリス・フランス・オランダとの貿易を許可しており、長崎は鎖国の特権を失った。この当時、フランスの船はすでに来航していたのである。
黒船を見た地点は、深堀を午後発足して「二十丁許にして八幡山峠に上がり中程にて黒船を見る」とあり、そして峠道の暑さを説明し、後「三十丁計にして蚊焼峠の入口の茶屋に至」ったとある。中程とは、八幡山峠の手前か、その先の蚊焼茶屋までの間か。どちらとも取れるが、素直に解釈すると、八幡山峠(大籠新田神社)までの中間地点。前の地蔵を過ぎ二つほど尾根を回った所、赤土三叉路に建つ農道竣工記念碑の上の尾根あたりで、長崎港口にいたフランスの黒船を見たのではないだろうか。今は木立に覆われ展望はきかない。
蚊焼茶屋の中間地点とすると、晴海台団地の上あたり。ここは海の景色が良く夕日がきれいである。

C 平山台上のタンク地点は、どのように考えるか

ここは帰路でまた説明するが、関寛斎の帰路で言う深堀と長崎道の分岐点となる重要な地点である。平山方面へ下る道もあり善長へ上る道もあり、「みさき道」と四叉路をなす。深堀藩の立場で考えれば竿浦・平山・布巻・為石の領内に行くのに、一番近くて使いやすい地点の道でなかったろうか。
今の平山台バス終点の三叉路とはどうやら違うようである。三叉路に道塚があったと言われる。確かにここも近道の小径があり、考えられないことはない。しかし、街道としての分岐でなかったようである。蚊焼桑原兄氏の記憶では、道塚があったのは三叉路でなく、このタンク地点のようである。そしてここは、明治地図の里道(大籠村路)である。

「女の坂」が深堀から蚊焼へ行く街道だったか。「女の坂」の伝承とは

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「女の坂」が深堀から蚊焼へ行く街道だったか。「女の坂」の伝承とは

A 「女の坂」が深堀から蚊焼へ行く街道だったか

蚊焼への街道は今の有海を行く車道でない。これは赤土の三叉路に建つ農道竣工記念碑に昭和11年7月とあり、後でできた道である。古地図をよく見ると同じようなルートを取り、街道は実はこの車道の40〜50m位上を行っていた。
その道は「おんなの坂」また「おなごの坂」と呼ばれる。深堀藩の文箱を持った注進侍が前を遮った身重の女を切り捨てた伝承と女を弔う地蔵があるらしい。森氏の話とつじつまが合い、菩提寺右の尾根道を一の鳥居の方へ行き手前の教会墓地から右に山道に入ってみた。
農道ができたため長年歩かれてなく、地蔵先はひどい道だった。5回ほど通ってルートを探し道を整備した。この道は大籠町迎川橋の善長教会へ上る車道第1カーブ水場に出る。地蔵は近隣にない立派な作りで後背に石を抱え、お堂があったか瓦が残る。首なしとなっているのが惜しいが、これもこの地特有の歴史を感じさせる。教会墓地からすぐ奥の谷間にあるので、ぜひ一度見てほしい。

B 「女の坂」の伝承とは

長崎県史談会編「長崎県郷土誌」臨川書店 昭和48年刊の412頁は次のとおり。

深堀村 女の坂(地蔵堂)

深堀村と隣村蚊焼村とを繋ぐ一條のだんだら坂路がある。この山路を約八丁程登れば更に一つの坂にさしかゝる。これが即ち女の坂だ。路の左手の小藪の中に古い地蔵尊が見られる。何時頃から女の坂と呼び、何時頃からこの地蔵尊を安置したものか詳かでないが、然おほよその見當は想像される。

古老の言傳へでは、幕政時代に當領主の命を受けて注進(使者)が文箱を携えて此の坂路を往来し、急を要する時もし途中を妨げる者は切り棄て御免を許されてゐたのである。或夜急ぎの注進が此の坂にさしかゝつた時、隅々妊娠の身重を横たへて路側に休憩してゐる一婦女に逢ふた。注進と知るや、あやしい者ではございません…と言葉も終らぬに、エイじやまするなとばかり一刀の下に斬り棄てた。

其の後注進を始め人々が夜路にこの坂にさしかゝると、さもうらめしそうな姿態の女が現れ通行人に呼びかけるやうになった。女の亡霊!女の坂!口から口へと傳はる噂、いつのまにか在所にひろがった。領主の御聲がゝりで同志相寄り此所に地蔵尊を迎え女の霊をなぐさめたのは其後まもないことだった。彼女の姿は現はれぬようになった。この傳説を知る者は夜分の通行には今も尚気味はよくないと言傳へている。

(注) 「女の坂」(おんなのさか・おなごのさか)は、深堀菩提寺右の八幡社一の鳥居の尾根道を行き、途中の教会墓地から右の分岐へ入る。ここから320m(深堀陣屋から913m)行った植林の切れた谷奥に立派な首なし地蔵がある。廃仏毀釈と思ったが、この資料にその記述はない。
後背の石がある珍しい地蔵で、お堂は壊れたか、瓦や燈籠石が谷筋に散乱している。この道の先にも「三界万霊」地蔵があり、大籠町迎川橋の善長車道登り口の第一カーブの水場に出る。

文久元年「深堀郷図」(長崎歴史文化博物館蔵)に地蔵堂がこの場所に描かれており、それ以前の安置と断定してよい。古地図が史料となる。
私は深堀の歴史を良く知る深堀5丁目有海の森節男氏から、この道は深堀経由の「みさき道」であり、深堀と大籠の集落を結ぶ。通学路でもあったと教えてもらっていた。
村岡豊氏HP「長崎県の坂」も、「女の坂」を訪ね「みさき道」?と記していた。

深堀の町中を道はどう通ったか。「佐賀の臣深堀某の居なり」とは

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深堀の町中を道はどう通ったか。「佐賀の臣深堀某の居なり」とは

A 深堀の町中を道はどう通ったか

十八銀行深堀支店前の割烹「たなか」から道は石段を下りバイパスのガード下に行く。ここが深堀水軍の根拠港御船手である。戸泊にかけていかにも構築した港らしく見事な石組みがある。ナフコの道もここにある岩河の地蔵へ出たようである。戸泊に地蔵が多い。

深堀の町中を道はどう通ったか。町中の道もなるべく正確にしたい。長崎市深堀支所に明治18年深町要氏によって編さんされた地番入りの古地図が書庫に保管されている。これが森氏が言われた地図であった。街道と考えられる道が赤線で太く塗られ、それが今も町中を通る車道とおりであった。深堀の町中はあまり変わってない。

関寛斎は小港に出て「戸数百戸許」と記している。明治18年「西彼杵郡村誌」の深堀村の戸数は社寺を入れて680戸。少なすぎるのでこれは「戸、数百戸許」の意味だろう。長崎から深堀まで三里。一行は12時前に深堀に着いて、鯛をあつらえ例の烏賊も煮て昼食とした。

B 「佐賀の臣深堀某の居なり」とは

深堀鍋島氏は佐賀藩家臣で大配分格。諫早氏・神代鍋島氏の二領も深堀と同じ佐賀藩である。文久元年当時は、最後の深堀藩主10代(深堀家では29代)茂精(しげきよ)の時代。知行六千石といわれる(平幸治著「肥前国深堀の歴史」)
居宅の陣屋跡は、現深堀町5丁目深堀カトリック教会の上手にある。