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梵鐘(多久頭魂神社)  対馬市厳原町豆酘

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梵鐘(多久頭魂神社)  対馬市厳原町豆酘

厳原港から南下、県道192号線または県道24号線により豆酘へ行く。対馬市役所豆酘出張所前の県道を進むと、「多久頭魂神社」の参道へ入る案内標識がある。
神社にはこのほか、国指定重要文化財「金鼓」、県指定有形文化財「大蔵経」がある。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

梵鐘(多久頭魂神社)  重要文化財(国指定)・工芸品

指定年月日 昭和50年6月12日  所在地 下県郡厳原町大字豆酘
所有者 多久頭魂神社
多久頭魂神社遥拝所入口の鐘楼にあり、豆酘観音堂鐘とも呼ばれてきた梵鐘である。鐘の姿はやや丈長の端正な形で、双頭式の竜頭は竜の口が笠形上の柱を噛み、竜の上に三面宝珠が火炎につつまれて配されている。袈裟襷(けさだすき)も通常のもので、鐘身上帯は無文、下帯は唐草文を鋳出している。乳区には4段4列の笠形乳をならべ、撞座は筋蓮弁を用いた八葉蓮華をかたどって竜頭の長軸方向に2個を配し、下辺の駒爪は2段につき出している。
銘文により初鋳は平安時代の寛弘5年(1008)、改鋳が平安時代の仁平3年(1153)と南北朝時代の康永3年(1344)の二代にわたるものであることが知られる。また銘文中に上松浦山下庄の大工覚円、小工李興の名が見られ、竜頭に肥前鐘の特色が指摘されている。
総高98.5m。

豆酘多久頭魂神社社叢  対馬市厳原町豆酘

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豆酘多久頭魂神社社叢  対馬市厳原町豆酘

厳原港から南下、県道192号線または県道24号線により豆酘へ行く。対馬市役所豆酘出張所前の県道を進むと、「多久頭魂神社」参道へ入る案内標識がある。
対馬の中では最大級というクスノキは、拝殿の裏側にある。
対馬観光物産協会発行「対馬の巨木と自然」(2003年改訂)リストによる説明、及び厳原町「厳原町誌」平成9年刊、第9節対馬の自然林45〜46頁による説明は次のとおり。

121 豆酘多久頭魂神社社叢  (対馬市厳原町豆酘)

参道左手と拝殿奥の林に、クスノキ、ホルトノキ、ムクノキなどの巨樹や巨木が目につきます。特に、拝殿の奥のクスノキは幹回り7.09mと対馬でも最大級で、なかなかに樹形の良い巨樹です。
121 多久頭魂神社社叢   クスノキ   幹回り 7.09m  樹高 30m
121 多久頭魂神社社叢   ムクノキ   幹回り 5.52m  樹高 38m
121 多久頭魂神社社叢   ムクノキ   幹回り 5.09m  樹高 32m
121 多久頭魂神社社叢   スタジイ   幹回り 7.70m  樹高 23m
121 多久頭魂神社社叢   ホルトノキ  幹回り 3.40m  樹高 36m

豆酘多久頭魂神社の社叢

この神社の参道を左を見ながら上っていくと巨木が目につく。クスノキ、スタジイ、ムクノキ、カゴノキ、オガタマノキ、イスノキ、ホルトノキ、ヤブツバキ、カヤなどである。拝殿の裏側には対馬の中では最大で、幹囲9m、高さ25mに及ぶクスノキが、その地上8m位の高さから4本の大枝を出し、すばらしい樹形を保っている。
林床には全域にわたってカナワラビ類が密生しているが、このほかムサシアブミ、ヤブラン、コクサギなどが見られる。

主藤家住宅  対馬市厳原町豆酘

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主藤家住宅  対馬市厳原町豆酘

19世紀中頃の対馬の家格の高い農家の三間取建築様式。対馬市厳原町豆酘の「主藤家住宅」。住家であるため、外観のみの見学となる。
厳原港から南下、県道192号線または県道24号線により豆酘へ行く。対馬市役所豆酘出張所前の県道を進むと、路地へ入る案内標識がある。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明、及び現地説明板は次のとおり。平面図は「厳原町誌」1117頁から。
主藤家住宅  重要文化財(国指定)・建造物

指定年月日 昭和44年3月12日  所在地 下県郡厳原町大字豆酘2752
所有者 主藤長太郎
建築年代について、これを証する資料はないが、19世紀中頃の建築と推定されている。平面は「台所」「本座」「納戸」からなる、いわゆる三間取りで、これに一間通りの入側が表側に付き、本座の前を「座敷」、台所に接する部分を「戸口」と呼んでいる。土間は狭く、かまど、流し、風呂などがある。
全体に木割りが大きく、特に長方形断面の柱を見付けが大きくなるように立てるのは、この地方の特徴である。小屋は和小屋で、大梁を格子状に組み化粧屋根裏天井。屋根はこの地方に珍しく、本屋根・ひさし共に本瓦葺きである。対馬地方の代表的な農家の例として、貴重な遺構である。
主藤家住宅

国指定重要文化財 建造物  昭和44年3月12日指定
この建物の特色は、土間の他に、「だいどころ(居間)」「ほんざ(座敷)」「なんど(寝室)」からなるいわゆる三間取りで、玄関側に幅一間の入側を付加し、さらに縁が二方についている。土間は比較的狭く、「だいどころ」が広い。骨組みは、周囲に太い扁平な柱を立て、弓状に反った大梁を格子状に組み、独特の意匠効果を上げている。
このような間取りは、全国的にも珍しい。建築年代は、部材の形状や家屋の構造から19世紀中期頃と推測され、建築の質、意匠が優れ、保存状態も良く、構造も典型的で、対馬の農家を代表する住宅として貴重である。                   厳原町教育委員会

八丁郭の社叢  対馬市厳原町浅藻

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八丁郭の社叢  対馬市厳原町浅藻

浅藻の湾入した谷奥は、霊山竜良山の麓まで入り、天道法師の墓と伝える「八丁郭」(はっちょうかく)がある。この一帯は天道茂とよばれる聖地。昔から人の住まぬ地とされていたらしい。
厳原港から県道24号線により豆酘方面に南下する。浅藻隧道を越すと浅藻漁港の集落へ下って行くが、集落に入る手前の小橋のところに「八丁郭」の案内標識がある。

この道へ入り浅藻川の上流へ向かって、田んぼの中の車道を行き止まりまで進む。舗装が切れたら先は歩く。鳥居と堂があり、堂の裏の山道をまだたどると、ピラミッド型に石を高く積んだ「天道法師塔」があり、祠を祀っている。
もう竜良山裏側の谷奥。辺りはスタジイなどの大木が多い薄暗い林となっている。
対馬観光物産協会発行「対馬の巨木と自然」(2003年改訂)リストによると次のとおり。

115 八丁郭の社叢     スタジイ   幹回り 7.33m  樹高 20m
115 八丁郭の社叢     スタジイ   幹回り 5.46m  樹高 −
115 八丁郭の社叢     スタジイ   幹回り 5.05m  樹高 −
115 八丁郭の社叢     スタジイ   幹回り 7.20m以上樹高 −

内院塞の神のスタジイ  対馬市厳原町豆酘内院

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内院塞の神のスタジイ  対馬市厳原町豆酘内院

厳原港から県道24号線により豆酘方面に南下する。久和隧道を越して下ると与良内院、谷間の橋を渡って豆酘内院となる。
この谷間の橋を渡って県道は登りにかかるが、登るすぐ途中に海岸部の豆酘内院集落へ行く旧道が左へ下る。「内院塞の神のスタジイ」は、旧道へ入ってすぐ右方の道脇上の斜面に立つので、集落まで行く必要はない。旧道の左には1軒の小さな畑小屋があるところである。
対馬観光物産協会発行「対馬の巨木と自然」(2003年改訂)リストによる説明は次のとおり。

116 内院塞の神のスタジイ  (厳原町豆酘内院)

内院の入り口の塞の神の背にあるスタジイの巨樹で幹周り6.40m。道路整備の時に一部の枝が落とされていますが、堂々とした枝ぶりと根が美しい姿の良い巨樹です。
116 内院塞の神のスタジイ  スタジイ  幹回り 6.40m  樹高 18m

対馬藩お船江跡  対馬市厳原町久田

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対馬藩お船江跡  対馬市厳原町久田

厳原港から県道24号線により豆酘方面に南下する。厳原港のすぐ次の入り江が久田浦で、久田川の河口に「対馬藩お船江跡」がある。
県道から海岸に新しく架かった「お船江大橋」が見えるので、下って行って橋の中間の階段を利用し久田川の川岸へ降りると、そこに史跡説明板が設置されているそうである。
まだ町中に史跡案内板が整備されてなく、船着場がほとんどわからなかった。
最後の写真は、久田浦の南はずれで見た海岸の井戸。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

対馬藩お船江跡  県指定史跡

指定年月日 昭和44年4月21日  所在地 下県郡厳原町大字久田字白子4−1
所有者 長 美嘉
厳原港の南、久田浦に注ぐ久田川河口に構築された人工の入江に4基の突堤と、5つの船渠がある。対馬藩お船江の跡である。寛文3年(1663)の築造で、築堤の石積みは当時の原形を保ち、往時の壮大な規模を窺うことができる。
江戸時代、水辺の各藩はいずれも藩船を格納する施設を設けていたが、これほど原状をよく遺存している所は、他に例がない。日本近世史上、貴重な遺構である。

対馬藩主宗家墓所  対馬市厳原町西里

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対馬藩主宗家墓所  対馬市厳原町西里

厳原港から国道382号線により厳原の町の中央通りに進み、今屋敷の交差点から左折して対馬市役所の方へ行くと、この道先が「万松院」への参道となる。
寺の右手山腹に対馬藩主宗家墓所があり、百雁木(ひゃくがんぎ)とよばれる132段の自然石の大石段を登って行く。樹齢数百年の大スギが脇に立つ。
最後の写真は、金石城跡の復元された庭園から見た万松院。巨樹、石橋の項も参照。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

対馬藩主宗家墓所  史跡(国指定)

指定年月日 昭和60年2月18日 所在地 下県郡厳原町大字厳原西里字金石ほか
所有者 万松院 
清水山南麓の宗家の菩提寺である天台宗万松院を中心に、山腹の宗家歴代の墓地を含む広大な地域である。万松院は藩主義智(宗家第19代)を弔って、元和元年(1615)にその法号をとって創建された。
墓地は、桃山様式を残す山門のわきから、百雁木(ひゃくがんぎ)とよばれる132段の自然石の大石段を登った所にある。樹齢数百年の大スギが茂り、上段には義智以来の14人の藩主とその正室ら、中段には積極的な朝鮮外交で有名な室町期の貞国ほか、下段には側室などが眠る。
対馬藩は十万石の格式であったが、壮大な墓地は数十万石の大藩なみといわれている。

万松院のスギ  対馬市厳原町厳原西里

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万松院のスギ  対馬市厳原町厳原西里

厳原港から国道382号線により厳原の町の中央通りに進み、今屋敷の交差点から左折して対馬市役所の方へ行くと、この道先が「万松院」への参道となる。
寺の右手山腹に対馬藩主宗家墓所があり、百雁木(ひゃくがんぎ)とよばれる132段の自然石の大石段を登った所にある。樹齢数百年の大スギは、この石段脇に3本立つ。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

万松院のスギ  県指定天然記念物

指定年月日 昭和41年5月26日  所在地 下県郡厳原町大字厳原西里192
所有者 万松院 
万松院は対馬藩宗家の菩提寺で、国指定の史跡である。以前は、この墓地内や長い参道の石段の左右に20本ばかりのスギがあったが台風などで倒れ、現在は3本を残すのみとなった。
この3本は、それぞれ目通り幹まわりが5.2m・6.2m・7mで,樹高はいずれも35m内外である。

今屋敷の防火壁  対馬市厳原町今屋敷

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今屋敷の防火壁  対馬市厳原町今屋敷

厳原港から国道382号線により厳原の中央通りを行き、今屋敷の交差点から所在図の場所へ歩いて行くと、「今屋敷の防火壁」が見られる。
Aが県指定防火壁の場所で、案内標識と現地説明板がある。
Bの場所にも防火壁が残り、「嘉永二 酉三月日 町中 火切」(1849年)と刻んだ石があり、説明板がある。
長崎県HP「長崎県の文化財」によるAの説明、及びAに設置されている現地説明板は次のとおり。
今屋敷の防火壁  県指定有形文化財・建造物

指定年月日 昭和61年1月10日  所在地 下県郡厳原町大字今屋敷705−1
所有者 海地浮久恵
この防火壁は、江戸時代につくられたものである。江戸時代、対馬藩の首都府中(現厳原町)は、しばしば大火に見舞われた。藩当局は種々その対策を講じたが、その一つとして天保12年(1841)以後防火壁をつくり、その延焼を防ごうとした。これら石垣によるものは全国的に類例が乏しく、貴重である。
しかし、今日これらは自然崩壊、ないし屋敷地の改造等に伴い破壊に瀕している。よってそのうちの一つで、最も当時の姿を伝え、かつ天保15年(1844)正月という築造年月の陰刻の見られる本防火壁を指定した。

今屋敷の防火壁

県指定文化財・建造物 昭和61年1月10日指定
石垣は対馬の名物であるが、火災の類焼を防ぐため、火切として高く築かれた石垣の防火壁が、昔の町割の線に沿って設けられた。現在残っているのは数箇所に過ぎないが、最も状況が良いのが本例である。
刻銘には、「天保十五年申辰正月 消防為 火切築え 高さ一丈三尺 根幅五尺」とある。石垣の全面に火に焙られた痕跡があり、府中(厳原)町屋の軒並を護った貴重な遺跡である。昔は江戸市中にも火切があったが、現在は跡形もなく消滅し、日本中で遺っているのは対馬の厳原だけという。                           厳原町教育委員会

旧日新館門・対馬藩家老屋敷跡など  対馬市厳原町中村ほか

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旧日新館門・対馬藩家老屋敷跡など  対馬市厳原町中村ほか

厳原港から厳原の町の中心に入る。中央通りの国道382号線沿いやそれから少し町中の道を歩くと見られる。旧日新館門・武家屋敷通り・対馬藩家老屋敷跡・桟原館の高麗門(旧桟原城門)・金石城跡(櫓門)。
長崎県HP「長崎県の文化財」による「旧日新館門」の説明は次のとおり。

旧日新館門  県指定有形文化財・建造物

指定年月日 昭和45年10月6日  所在地 下県郡厳原町大字中村642
所有者 厳原町
もと対馬藩主宗氏の中屋敷門であったが、幕末には藩校日新館に用いられた。大門に石塀・石塁(門庭)・脇造屋が付属する。江戸末期における大名家の格式を備えた武家屋敷門の遺構としては、本県では貴重なものである。
日新館は、幕末に対馬藩勤王党の拠点であったが、内紛によりその多くが斬られ、志をのばすことができなかったといわれる。