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長崎学さるく”四郎ヶ島台場と神の島・福田周辺の史跡をさるく” (1)  平成21年4月

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長崎学さるく”四郎ヶ島台場と神の島・福田周辺の史跡をさるく” (1)  平成21年4月

平成21年4月13日(月)くもりのち晴。長崎学さるく行事”四郎ヶ島台場と神の島・福田周辺の史跡をさるく”で本年度の幕末編をスタート。
講師は江越先生が所用あり、長崎楽会の中尾氏に依頼。見事な代役であった。参加・スタッフとも17人。

長崎市小榊支所前9時半発ー小瀬戸中番所跡ー神の島教会ー四郎ヶ島台場跡ー神の島公園(昼食)ー金水温泉跡ー大浜ー福田長兵衛兼明の墓ー小浦の福田大番所船囲場ー丸木問役所跡ー福田開港の碑ー千本松原・田子島台場跡ーオロシア井戸ー庄屋屋敷跡・琴爪の墓ー福田本町バス停17時着解散。

小瀬戸出発としたため、コースは約15kmあった。目いっぱい17時まで歩き、全員バテ気味。帰りが遅くなって迷惑をかけた。
小瀬戸中番所跡、四郎ヶ島台場跡、金水温泉跡、福田長兵衛兼明の墓など辺ぴな史跡を、この際訪ねた。山道・海岸道あり、登ったり下ったり。トンネルも金水と大浜の2つを歩いた。
史跡の詳しくは、「小榊の散策」「福田の散策」を参照。次回は4月18日(土)に”東山手居留地界隈と近くの山歩き” コースはさるくHPにあり。

写真を(1)(2)と分けた。(1)は神の島公園の昼食まで。
お宮さんのブログ記事も参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/14752474.html

小榊の散策 (2) 小瀬戸の史跡・風景  長崎市小瀬戸町

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小榊の散策 (2) 小瀬戸の史跡・風景  長崎市小瀬戸町

2007学さるくの江越弘人先生作成資料「女神大橋から四郎ケ島台場跡」などによる説明は次のとおり。

写真  1〜    1 鼠 島(皇后島)
昔の戸八の浦(深堀)の子(ね)、角(すみ)の方角に当たることから『ね すみ島』と呼んだとか、神功皇后が朝鮮からの帰りにこの島に立ち寄ったので『皇后島』と言うなど、色々と謂れのある島である。
寛永6年(1853)から安政元年(1854)にかけて日本は諸外国と和親条約を結んだ。その結果、長崎港にはイギリスやフランスの軍艦の入港が激増したため、幕府は、鼠島を外国人の遊歩場として開放した。
明治36年に、長崎市はこの島に海水浴場を開設した。以後、昭和47年に第2次長崎外港計画による埋立で70年に及ぶ市民の遊泳道場は閉鎖された。

写真  8〜    2 小瀬戸遠見番所跡
遠見番所は、寛永15年(1638)島原の乱を鎮定した老中松平伊豆守信綱が長崎に立ち寄った時に遠見番所と烽火所の設置を命じた時に始まり、和蘭船や異国船の来航を見張っていた。番所は、最初には野母の権現山だけに置かれ、異国船発見の時には飛船で長崎奉行所に知らせていた(白帆注進)。番人は、野母・高浜・川原の百姓が当たっていた。
万治2年(1659)に遠見番10人、触頭2名の番士を公儀で召抱えることになり、役宅を十善寺郷に置き、十人町と呼んだ。元禄元年(1688)には抜荷取締強化のために遠見番10人を増員し、小瀬戸・梅香崎・永昌寺(最初は勧善寺)に遠見番所を増設した。
異国船発見の時には、旗や号砲で知らせることとし、抜荷を取り締まるために蘭船、唐船が出帆する時には、帆影が消えるまでに見送る任務も加わった。
遠見番所は、小瀬戸後方中央の通称トンカミ山(住民は遠見と言った)にあった。現在は、みなと坂団地内の「船の公園」となっている。

写真 12〜    3 同上 中番所跡
中番所は、小瀬戸後方の山、現在は天神天満宮境内地となっている。通常日は2人、来航船入津及び出津時は4人の番人を配置し、遠見番所番人からの通報を受け、これを不寝番所に連絡した。天満宮石祠の中に、小瀬戸注進船の水主組が奉納したことが刻まれている。

写真 15〜    4 同上 注進船つなぎ石・船引場完成記念碑
長崎市小榊支所裏の、駐車場となっている一角に移設されてある。

写真 16〜    5 長崎要塞第一地帯標
1−C 小瀬戸の天神天満宮裏畑地(確認 長崎要塞第一地帯標 第七号) 長崎市小榊支所の左道へ入り、墓地を通り上がる。小瀬戸遠見番所の中番所跡で、現在は天神天満宮が祀られている。その背後の畑の真ん中に立つ。みなと坂団地から行く方が近い。

写真 17〜    6 大 悲 寺
写真 18〜    7 長崎市編入50周年記念碑(小榊支所横)
写真 20〜    8 長崎市立小榊小学校

小榊の散策 (1) 木鉢の史跡・風景  長崎市木鉢町

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小榊の散策 (1) 木鉢の史跡・風景  長崎市木鉢町

2007学さるくの江越弘人先生作成資料「女神大橋から四郎ケ島台場跡」などによる説明は次のとおり。

写真  1〜    1 女神大橋
長崎市民が永年待望していた全長1289mの女神大橋が完成したのは、平成17年12月11日である。平成22年度には、高速道路の長崎インターと繋がる予定である。橋の上から素晴しい眺望を楽しむ人々で賑わっている。

写真  3〜    2 神崎台場跡・神崎神社
幕府は、長崎港の一番狭くなった港口の防衛に最も心を使い、女神側には、女神の古台場・新台場、魚見岳の増台場3ヶ所と併せて5ヶ所33挺の石火矢で守った。それに対し神崎側は、古台場・新台場・増台場の3ヶ所8挺であった。
女神大橋を降りて後戻るように下って行くと、左に天門峰への登り口、右へ行くと神崎台場跡へと進む。整備された歩道の岩盤地帯を越えると神崎神社の奥の院である。ここから少し下ると広場に出る。石祠や石仏が建っている。ここが新規御台場跡で、フェートン号事件後の文化5年(1808)に設けられた。新規御台場から12mほど岬の先端に行った所が一の増台場で、文化7年(1810)に設けられた。
また、新規御台場へ戻って右の石段を下ると神崎神社へと行く。左の薮の中の細い急な道を下るとやがて右手に平地らしき所がある。ここが煙硝蔵跡で、建物は残っていないが『従是神﨑御焔硝蔵掛并常住小屋境内』と刻んだ石柱が1本は倒れ、1本は傾いて立っている。ここからさらに下ると三の増台場跡があり、さらに下って石油タンクがある所に出る。
このタンクの東側海岸が古台場跡で、当時の石垣が残っている。三の増台場と煙硝蔵跡の中間から東へ平行に戻るように進むとすぐ平地に出る。ここも台場跡と思えるが記録に出ていないので単に平地としておく。ここからさらに東、港口へ行くとニの増台場跡がある。ここを抜けると神社へ下る石段と合流する。

写真  7〜    3 天門峰
『長崎郷土史』に天門峯と書き、「シラト」とルビを振っている。また「一名を白崎と云い唐人は観音山と云えり。…往昔港内往復の船は必ず櫓を止めて遥拝し、唐船は入港の際金鼓を鳴らして礼をなし、通船するを例とせり。山角南に突出せるを神崎鼻と云い、今税関見張所あり。山下を男神と称し対岸女神と相応ず。…」と書いている。
166mの山頂に登ると、今渡ってきた女神大橋を眼下におさめ、長崎港内外の景色が素晴らしい。山頂の大石に文字が彫りこまれ「地理局測点 明治九年四月」とある。記録によると明治9年4月から6月にかけて長崎港をめぐる29箇所を測定し、24箇所に測点石を、12箇所に測標(これは木標の意味か)を設置したとある。岩に刻んだ天門峰の測点は、その1つかも知れない。
測点は、他に対岸の魚見岳頂上近くに標石が立っていることを橋本氏が発見している。いずれにしても、日本近代測量最初の頃の貴重な記念碑であることには間違いない。

写真 11〜    4 木鉢浦
奥深い入江になっており、嵐の時に避難泊まりになっていた。寛政10年(1798)にエリザ号が暴風で沈没し、防州櫛ヶ浜の村井喜右衛門が智恵を凝らして引き上げたのも、享和元年(1801)にアンボン(アンボイナ)の船(実はポルトガル船)が五島に漂着し、曳航されて停泊したのもこの木鉢浦であった。
なお、海岸には火薬庫(土生田煙硝蔵)や石銭番所が置かれていた。

写真 13〜    5 木鉢教会
明治43年(1910)に網場の脇に巡回教会が造られ、昭和13年に現在地に神ノ島教会の巡回教会として設立され、昭和37年に独立した。昭和56年に新築され、白い近代的な教会が丘の上に立っている。

写真 15〜    6 長崎要塞第一地帯標
1−D 西泊中学校裏のピーク (確認 長崎要塞第一地帯標 第十四号) 木鉢側から西泊中学校のグランドへ石段を上がり、校舎左脇の山道へ入り5分ほど登った小高いピークにある。
1−E 帆掛山の山頂直下 (確認 長崎要塞第一地帯標 第十五号) 尾根道を北に向けて急な登りが10分ほど続き、帆掛山(植林地となり地元で「ヒノキ山」とも言う)三角点172.2mに着くすぐ手前、竹林内平地の溜穴の傍らに建つ。

写真 19〜    7 長崎市西工場
昭和54年供用開始。焼却炉(処理能力2,000t/日)2基、水管ボイラ(蒸気発生量最大30t/h)2基、蒸気タービン発電機(連続最大出力2,000kW)1基を有し、長崎市で1年間に発生する可燃ごみの約4割、78,000t を処理している。
ごみ焼却の際に発生する熱を利用し、蒸気タービンによる発電、浴場、温水プールへの熱源供給(蒸気)などエネルギーの転換利用を行っている。

長崎の古写真考 目録番号:3939 高鉾島(35) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3939 高鉾島(35) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3939 高鉾島(35)
目録番号:4727 高鉾島(41)  関連作品:2865 高鉾島(12)、5623 高鉾島(33)

■ 確認結果

長崎港口の「高鉾島」関係。目録番号:3939 高鉾島(35)と坂段がある構図の目録番号:4727 高鉾島(41)、関連作品:2865 高鉾島(12)、5623 高鉾島(33)とも、これが現在の神の島教会から撮影された高鉾島の光景である。
高鉾島の奥が小ヶ倉で大久保山、その背後に熊ヶ峰から八郎岳への長い稜線が続く。2枚目の古写真には、高い坂段を上がり、石垣の角に座って景色を眺める人がいる。

神の島教会の石垣を見ると、この坂段の跡が写真のとおり、現在も残っている。神の島教会は明治14年(1881)に木造教会が建てられ、更に明治30年(1897)にレンガ造りとなり、 昭和36年(1961)増改築されて今日の姿となっている。
坂段を改修したのがいつかは不明だが、位置からすると現在の礼拝堂の入口あたりから、いずれも撮影された古写真と思われる。
神の島教会には、高鉾島を向いて「高鉾島殉教者顕彰碑」がある。

長崎の古写真考 目録番号:3809 高鉾島(16) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3809 高鉾島(16) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、目録番号の順は不同である。

目録番号:3809 高鉾島(16)
〔画像解説〕
神の島の海岸から見た高鉾島。高鉾島は、キリスト教の殉教の島として海外に知られ、パッペンベルグ(PAPPENBERG)島と呼ばれていた。現在の神の島教会付近から、高鉾島を撮影したもの。明治20年頃(1887)の写真。

目録番号:3874 高鉾島(21)
〔画像解説〕  同

■ 確認結果

長崎港口の「高鉾島」関係。目録番号:3809「高鉾島(16)」と目録番号:3874「高鉾島(21)」とも、撮影場所は「現在の神の島教会付近から」としているから、別に問題はない。
しかし、画一的な説明に感じる。撮影場所は、神の島教会側からではなく、教会とはまったく反対の海岸側の岩礁からである。
奥に見えるのは長崎港の港口で、現在は女神大橋が架かる。三角形の山は星取山であろう。

松の木が2本生えた岩は、地元では「ドンク岩」と言っていたようである。今は岩上に恵比須様のほか、白亜の聖母像が建つ。
昭和59年(1984)6月再建された合成樹脂製の高さ4.6mの聖母の白像。長崎港に出入りする船をやさしく見守っている。海岸の岩には、大きな甌穴があった。

長崎の古写真考 目録番号:3810 高鉾島(17) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3810 高鉾島(17) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3810 高鉾島(17)
目録番号:3811 高鉾島(18)   関連作品:655 高鉾島(3)、5622 高鉾島(32)

■ 確認結果

長崎港口の高鉾島を写した古写真は、条件を「高鉾島」に指定して探すと、43作品がある。撮影場所の疑問があるものを、これまでも載せた。
上記の4作品も、撮影場所は「神の島」からではない。神の島側からだと、高鉾島の背後に写るのは、八郎岳から熊ヶ峰にかけての稜線となる。

最初の目録番号:3810 高鉾島(17)の古写真は、左側の島が「皇后島(鼠島)」、右が「高鉾島」である。八郎岳は皇后島の背後にある。2島の間は深堀の城山。高鉾島の右側の平たい島は香焼島。
したがって、この古写真は「神の島」からではない。小瀬戸町の長崎市小榊支所横から上がった「大悲寺墓地」の中段から撮影されている。

次の目録番号:3811 高鉾島(18)と関連作品:655 高鉾島(3)、5622 高鉾島(32)とも、これも古写真は「神の島」からではない。前記の小瀬戸町「皇后島(鼠島)」へ渡って写されている。
撮影場所は皇后島の南端、「神功皇后之御舊」碑が立つ海岸あたりからと思われる。そのため、高鉾島が近くに写り、左脇背後の島は、香焼島の左半分である。
ほしなべさんと宮さんへ。この海岸で夕方、50cm級ヒラメがゲットされました。

三菱重工業株式会社長崎造船所「史料館」 (2)  長崎市飽の浦町

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三菱重工業株式会社長崎造船所「史料館」 (2)  長崎市飽の浦町

安政4年(1857)に遡る三菱重工業長崎造船所の発祥から、今日までの長い歴史を物語る
900点余りの品々や写真類の史料を展示。同造船所が日本の近代化に果たした役割と偉業を後世に伝える史料館である。
市民を対象に一般公開されている。開館は主に平日のみ(要電話予約)。入場無料。館内は次のコーナーと中央や屋外に実物展示がある。

・岩崎家コーナー ・史料館の代表的記念物 ・官営期コーナー ・三菱創業期コーナー ・明治後期コーナー ・大正期コーナー ・昭和戦前期コーナー ・戦艦武蔵コーナー ・会社生活コーナー ・貴賓御来訪コーナー ・発電プラントコーナー ・戦後の造船コーナー ・客船コーナー ・その他の展示物
(1)は各コーナーの展示品、(2)は実物展示の機械類を。
同史料館パンフレットによる説明は次のとおり。詳しくは、三菱重工の同史料館HPがある。
http://www.mhi.co.jp/nsmw/introduction/history/archive/index.html

史 料 館

この史料館は、長崎造船所が日本の近代化に果たした役割を永く後世に残そうと、昭和60年(1985年)10月に開設したものです。
史料館に利用されている赤煉瓦の建物は、明治31年(1898年)7月三菱合資会社三菱造船所に併設の「木型場」として建設されたもので、三菱重工業株式会社発祥の長崎造船所に現存する最も古い建物です。
昭和20年(1945年)8月の空襲に於ける至近弾や原子爆弾の爆風にも耐えて百年の風雪に磨かれた赤煉瓦は、わが国の近代工業の黎明期に於ける長崎造船所の華やかな門出を偲ばせるに十分です。
館内は11コーナーに分かれ、安政4年(1857年)に長崎造船所前身の長崎溶鉄所建設が着手されたときから現在まで900点を展示しています。
日本最古の工作機械や海底調査の泳気鐘、日本で最初の国産蒸気タービンの技術の進歩を物語る珍しい品々のほか写真等で長崎造船所の歴史的変遷を示しています。

(史料館の一般公開について)

公開日時:平日の午前9時から午後4時30分まで
(土、日、祝日及び長崎造船所の休業日は休館)
見学申込:事前に電話で御予約ください。
TEL:095−828−4134 FAX:095−828−4124

三菱重工業株式会社長崎造船所「史料館」 (1)  長崎市飽の浦町

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三菱重工業株式会社長崎造船所「史料館」 (1)  長崎市飽の浦町

安政4年(1857)に遡る三菱重工業長崎造船所の発祥から、今日までの長い歴史を物語る
900点余りの品々や写真類の史料を展示。同造船所が日本の近代化に果たした役割と偉業を後世に伝える史料館である。
市民を対象に一般公開されている。開館は主に平日のみ(要電話予約)。入場無料。館内は次のコーナーと中央や屋外に実物展示がある。

・岩崎家コーナー ・史料館の代表的記念物 ・官営期コーナー ・三菱創業期コーナー ・明治後期コーナー ・大正期コーナー ・昭和戦前期コーナー ・戦艦武蔵コーナー ・会社生活コーナー ・貴賓御来訪コーナー ・発電プラントコーナー ・戦後の造船コーナー ・客船コーナー ・その他の展示物
(1)は各コーナーの展示品、(2)は実物展示の機械類を。
同史料館パンフレットによる説明は次のとおり。詳しくは、三菱重工の同史料館HPがある。
http://www.mhi.co.jp/nsmw/introduction/history/archive/index.html

史 料 館

この史料館は、長崎造船所が日本の近代化に果たした役割を永く後世に残そうと、昭和60年(1985年)10月に開設したものです。
史料館に利用されている赤煉瓦の建物は、明治31年(1898年)7月三菱合資会社三菱造船所に併設の「木型場」として建設されたもので、三菱重工業株式会社発祥の長崎造船所に現存する最も古い建物です。
昭和20年(1945年)8月の空襲に於ける至近弾や原子爆弾の爆風にも耐えて百年の風雪に磨かれた赤煉瓦は、わが国の近代工業の黎明期に於ける長崎造船所の華やかな門出を偲ばせるに十分です。
館内は11コーナーに分かれ、安政4年(1857年)に長崎造船所前身の長崎溶鉄所建設が着手されたときから現在まで900点を展示しています。
日本最古の工作機械や海底調査の泳気鐘、日本で最初の国産蒸気タービンの技術の進歩を物語る珍しい品々のほか写真等で長崎造船所の歴史的変遷を示しています。

(史料館の一般公開について)

公開日時:平日の午前9時から午後4時30分まで
(土、日、祝日及び長崎造船所の休業日は休館)
見学申込:事前に電話で御予約ください。
TEL:095−828−4134 FAX:095−828−4124

矢太楼から高平町へ下る  長崎市風頭町・高平町

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矢太楼から高平町へ下る  長崎市風頭町・高平町

風頭公園の桜を見た後、ホテル矢太楼入口左に高平町へ下る標識があり、長崎玉成高校グランド脇を通りながら、急な坂段道を鍛冶屋町の清水寺まで下った。桜のグランド奥の新しい建物は、玉木学園が平成7年設置した「長崎医療技術専門学校」。
長崎は坂の町である。風頭山の三角点は、標高152.0m。これより少し高い矢太楼から、その建物の下をまっすぐ下るような道となる。

景色は写真のとおり。清水寺近くなると、油屋町出身の大浦お慶の墓があった。市街地や長崎港の景色が良い道である。しかし、急な坂段ばかりで登る気はしないコース。長崎人は昔から苦労している。
崇福寺写真の中央奥、山の白い建物がホテル矢太楼。

長崎大学経済学部  長崎市片淵4丁目

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長崎大学経済学部  長崎市片淵4丁目

長崎市片淵4丁目の「長崎大学経済学部」構内の風景。アーチ石橋の「拱(こまねき)橋」とグランドにある桁石橋2つを確認に行ったが、構内の景色も写してきた。
「拱橋」は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/578
「拱橋」は、平成19年(2007)12月、文化庁の登録有形文化財となった。現地説明板は次のとおり。
拱(こまねき)橋 (旧長崎高商拱橋)

石造単アーチ橋、橋長17m、幅員9.1m
長崎大学経済学部の前身である長崎高等商業高校は西山川左岸東側に造成されたため、西山川を横断して道路と接続すべく明治36年(1903)11月30日に拱橋が架設された。高商設立当時の構造物である。拱橋上流には明治39年(1906)に西山橋。大正13年(1924)に片淵橋、すぐ下流には矢場下橋(大正13年)が建設されたが、すべてコンクリート橋である。
トラス形式の鉄製橋梁では学校正門前の橋梁には相応しくないため、上部空間が開かれた上路式アーチ橋が選ばれたと考えられる。石材の表面は細かく加工され、日本の石造橋が持つ土着性から離れた、端正な近代的設計がなされた石橋である。

振り返ると立山公園の桜も見える。片渕中学校跡地に建設中の長崎済生会病院もだいぶんできている。長崎大学経済学部HPによると、学校の沿革は次のとおり。

●長崎大学経済学部の沿革

長崎大学経済学部は、その前身である長崎高等商業学校が、東京高商(一橋大)、神戸高商(神戸大)に次ぐ第三高商として明治38年3月に長崎県西彼杵郡上長崎村片淵郷(現長崎市片淵)の地に設立されて以来、一世紀の歴史を迎えました。
長崎高等商業学校は、わが国近代史と歩みを同じくして発展を遂げた後、第二次世界大戦中の昭和19年4月に長崎経済専門学校と改称されました。なお、その際、長崎工業経営専門学校が併設されましたが、同校は終戦後間もない昭和21年4月にその使命を終えて廃止されました。 
多くの人材を経済界・実業界に輩出した長崎経済専門学校は、昭和24年4月に国立学校設置法の公布により新制大学制度に組み込まれ、経済学科、商学科の2学科を有する新制長崎大学経済学部として新たに発足しましたが、平成17年には、本学部にとって高商設立以来100周年を記念しました。