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風頭公園さくら祭り  長崎市伊良林3丁目

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風頭公園さくら祭り  長崎市伊良林3丁目

4月7日、寺町墓地から登って行ったら、風頭公園へ着いた。花見がまだできた。
花見情報HPによると、「風頭公園の桜」は次のとおり。

風 頭 公 園

370本のソメイヨシノにボンボリが灯り、桜まつりが開催されます。初夏にはあじさいの花も楽しむことができ、広く市民に親しまれています。坂本龍馬銅像が見られ、眺望が素晴らしいです。
桜祭り 3月26日〜4月10日 風頭公園桜まつり カラオケ大会、チャリティーバザール、ハタあげ大会、もちつき大会など。
夜 桜 3月26日〜4月10日 18:30頃〜21:00頃 公園一帯に400個のぼんぼり。
時 間 24開放 露店なし 宴会可。
交 通 JR長崎駅からバス約25分 「風頭山」下車徒歩約10分。

崇 福 寺  長崎市鍛冶屋町

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崇 福 寺  長崎市鍛冶屋町

長崎市鍛冶屋町、崇福寺通りのメイン「崇福寺」。入り口の赤門は、その華麗な形から「竜宮門」と呼ばれる。楼門にある扁額「聖寿山」は黄檗宗(禅宗)の祖・隠元の書によるもの。崇福寺は国宝や重要文化財がズラリ揃っている。拝観料 大人300円。
長崎webマガジン「ナガジン」の、発見!長崎の歩き方「寺町界隈ぶらり散歩道」による寺の説明は次のとおり。
聖寿山 崇福寺(黄檗宗)

寛永6年渡来した唐僧超然が寛永9年(1632)、官許を得て創建した。檀家に福州出身の人が多いことから「福州寺」ともいう。
正保3年(1646)に上棟の「大雄宝殿」と元禄後期に改築の「第一峰門」は国宝に指定。 文化財は次のとおり。

崇福寺大雄宝殿(国宝)、崇福寺第一峰門(国宝)(海天門・唐門・二の門・中門・赤門)、崇福寺三門(国指定重要文化財)(楼門)、崇福寺鐘鼓楼(国指定重要文化財)、
崇福寺護法堂(国指定重要文化財)(天王殿・関帝堂・韋駄殿・観音堂)、崇福寺媽祖門(国指定重要文化財)
崇福寺本堂の聯額(れんがく)(県指定有形文化財)、崇福寺の梵鐘(県指定有形文化財) 、崇福寺本堂の仏像群(県指定有形文化財)(釈迦三尊と十八羅漢)、崇福寺の媽祖堂(県指定史跡)
崇福寺大釜(市指定有形文化財)、仏涅槃図(市指定有形文化財)、即非禅師書火化(ひけ)の偈(げ)(市指定有形文化財)、即非禅師書規条六則(きじょうろくそく)(市指定有形文化財)、即非禅師書落成(らくじょう)の偈(げ)(市指定有形文化財)、即非禅師書中天紅日麗(市指定有形文化財)、崇福寺蔵 仏舎利塔並びに舎利殿(市指定有形文化財)、崇福寺三塔(市指定史跡)、即老和尚闍維處(じゃいしょ)(市指定史跡)、仏師氾道生(はんどうせい)の墓(市指定史跡)、唐僧玉岡の墓(市指定史跡)

清 水 寺  長崎市鍛冶屋町

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清 水 寺  長崎市鍛冶屋町

長崎市鍛冶屋町、清水寺の中門となる石門を訪ねた。本堂は現在、改築工事中。寺裏の墓地までも何とか行けた。
清水寺のこの石門には、明和(江戸末期)の文字が刻まれているらしいが、確認できない。
長崎webマガジン「ナガジン」の、発見!長崎の歩き方「寺町界隈ぶらり散歩道」による寺の説明は次のとおり。
長崎山 清水寺(清水観音 清水寺)(真言宗霊雲寺派)

元和9年(1623)創建。山城国の僧(京都清水寺の真言僧)慶順が仏像を抱いて来崎し、薬師石(瑞光石)が光った場所に寺を開いたと言い伝えられている。
清水寺本堂(県指定有形文化財)、清水寺の梵鐘(市指定有形文化財)、絹本著色不動明王三童子像(国指定重要文化財)
長い坂段、本堂前の石畳、石造りの欄干、清水寺内に使われているほとんどが 風頭の石を使用。京都清水寺の僧だった開基の慶順は、この寺を京都の清水寺以上の名所にしたいと考え、清水の舞台に模した石の舞台を造ったと言われている。
瑞光石は本堂裏にあり、石の裏に千手観音の種子(頭文字)が梵字で刻まれている。

参道途中に江戸末期、製茶貿易で名をはせた長崎の女傑「大浦お慶」が信仰していた「歓喜天」が祀ってある聖天堂がある。お慶は油屋町の油問屋・大浦太平次の娘。利益で国事に奔走していた坂本龍馬、高杉晋作、大隈重信などを援助したことで知られる。
明治17年56歳で死去。お慶の墓石は清水寺本堂から100m程上った隣町の高平町にある。

晧 台 寺 (2)墓地の主な墓  長崎市寺町

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晧 台 寺 (2)墓地の主な墓  長崎市寺町

長崎市寺町通りの晧台寺。(1)は、仁王門、山門、大仏殿の建築物が県文化財に指定されたニュース。(2)は、墓地の主な墓など訪ねる。
長崎webマガジン「ナガジン」の、発見!長崎の歩き方「寺町界隈ぶらり散歩道」による寺の説明は次のとおり。
海雲山 晧台寺(曹洞宗)

慶長13年、肥前国松浦郡山口村(現在の佐世保市相浦町)洪徳寺の第7代住持・亀翁良鶴が創建。はじめは洪泰寺と称し岩原郷にあったが寛永3年(1626)に寺町に移り晧台寺と改称。
晧台寺の墓域は広範囲にまたがり、上は風頭公園内の敷地に日本の写真の開祖・上野彦馬の墓、へいふり坂沿いにはシーボルトと深く関わりのあった楠本お滝、イネの墓がある。市指定史跡として、唐通事林(りん)・官梅(かんばい)家墓地、高島家墓地、後藤家墓地もある。

晧 台 寺 (1)仁王門など県文化財に  長崎市寺町

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晧 台 寺 (1)仁王門など県文化財に  長崎市寺町

長崎市寺町通りの晧台寺。(1)は、仁王門、山門、大仏殿の建築物が県文化財に指定されたニュース。(2)は、墓地の主な墓など訪ねる。
長崎webマガジン「ナガジン」の、発見!長崎の歩き方「寺町界隈ぶらり散歩道」による寺の説明は次のとおり。
海雲山 晧台寺(曹洞宗)

慶長13年、肥前国松浦郡山口村(現在の佐世保市相浦町)洪徳寺の第7代住持・亀翁良鶴が創建。はじめは洪泰寺と称し岩原郷にあったが寛永3年(1626)に寺町に移り晧台寺と改称。
晧台寺の墓域は広範囲にまたがり、上は風頭公園内の敷地に日本の写真の開祖・上野彦馬の墓、へいふり坂沿いにはシーボルトと深く関わりのあった楠本お滝、イネの墓がある。市指定史跡として、唐通事林(りん)・官梅(かんばい)家墓地、高島家墓地、後藤家墓地もある。

=2009/04/04付 西日本新聞朝刊=の記事は次のとおり。

県文化財 轆轤成形技術を指定 長崎市の晧台寺仁王門も 波佐見町の陶芸職人 中村平三さん(75)
県教委は3日、県文化財保護条例に基づく新たな有形文化財として長崎市寺町の晧台(こうたい)寺の仁王門などを、無形文化財として波佐見町の陶芸職人中村平三さん(75)の轆轤(ろくろ)成形技術をそれぞれ指定した。一方、県外移転のため1件の指定が解除され、県指定文化財は計365件になった。
■建築時の姿とどめる 晧台寺の3点
晧台寺の建造物のうち、今回指定を受けたのは、仁王門、山門、大仏殿の3点。このうち仁王門は、1680年の建築と伝えられ、残存する県内の社寺の門としては最古という。寺院中枢部への入り口の「中門」に当たり、門の両脇には一対の仁王像が置かれている。
寺院の「表門」に当たる山門は1837年、大仏殿は1768年の建築とされ、いずれも建築時の姿をとどめている点や、造形の価値の高さなどが評価された。

晧台寺HPによる伽藍案内のうち、「山門(仁王門)」の紹介は次のとおり。

桜上正面には中国福建省の鼓山に住していた為霖道霈の書いた「晧臺禅寺」という大きな横額が掲げてあります。階下の門柱には、「法門無遮擱鳳毛麟角来入室、禅開有機用鳶飛魚躍悉契宗」という対聯が掛かります。
この門は、延宝8年(1680)長崎奉行牛込忠左衛門の寄進によって五世逆流禎順が創建したものです。 その後改修され、昭和60年(1985)には腐食の甚だしかった仁王像も新調しました。

延命寺・長照寺  長崎市寺町

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延命寺・長照寺  長崎市寺町

長崎市寺町通り。延命寺へアーチ型の中門を訪ねた。風格ある石門は「明治三十三年庚子三月建之」(1900)と刻む。山門も長崎奉行所の門が移築されていることが有名。現在の山門は修復されたもので、扉だけが当時のままだという(「長崎県の石門を訪ねて」から)。
同寺の前に料亭「一力」。長照寺との間の坂は、もう1つの「幣振坂」。背後の墓地に大クスが数本見える。長照寺も訪ねた。
長崎webマガジン「ナガジン」の、発見!長崎の歩き方「寺町界隈ぶらり散歩道」による両寺の説明は次のとおり。
医王山遍照院 延命寺(真言宗御室派)

元和2年(1616)長崎奉行 竹中采女正重次の援助で僧・阿門利(あじゃり)龍宣が開山。
境内には、手に数珠を持ち静かな祈りを捧げる弘法大師が88体並ぶ「八十八大師」がある。それぞれに表情や大きさは微妙に違い、味わい深い。
実話から今に伝わる「健康観音」は、昭和の初期、自分の病気回復を祈願して毎日寺に参拝する事を日課に決め、10年間続けた男性が10年毎に3つの観音像を寄進。健康になった話から名付けられた。
光栄山 長照寺(日蓮宗)

元は寛永8年(1631)本蓮寺開山、日恵が創建。弟子の日與を開基とした。西川如見(じょけん)の墓(市指定史跡)。境内にある水徳浄行菩薩は、この菩薩様の頭から水をかけて清め、体の治してほしい所と同じ所をタワシでこすると病気が治るといれているとか。

八坂神社  長崎市鍛冶屋町

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八坂神社  長崎市鍛冶屋町

「八坂神社」は、長崎市民には”ぎおんさん”で親しまれている。7月23日から28日まで祇園祭が開催され、ほうずき市などでにぎわう。
長崎くんちでは、10月8日、1回だけの踊り披露場となり、奉納がある。
御利益は厄入、厄祓、賀寿清祓の他に、初宮詣、安産祈願等人生の儀礼に関するものが多い。参詣につき添い、あまりこの神社の紹介がないので、珍しいものを写してきた。
長崎webマガジン「ナガジン」の、発見!長崎の歩き方「寺町界隈ぶらり散歩道」による八坂神社の創建は次のとおり。

●創 建
元和六年(1620)佐賀の高覚院盛宥が今籠町に天王社を創建。寛永十五年(1638)現在地に遷宮される。明和三年(1766)市内に大火が起こりほとんど失われてしまったが、明和八年(1771)町々や人々の寄付により再建。現在の境内地はほとんどその頃のもので、石垣や玉垣に町界町名変更で無くなった町の名が多く残されている。

長崎の西の空の夕日  09− 6

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長崎の西の空の夕日  09− 6

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔。以下、続く。

写真 1〜 2  平成21年 3月25日の15時47分頃 春日和の海原
写真 3〜 8  平成21年 4月 1日の17時33分頃
写真 9〜11  平成21年 4月 2日の18時29分頃

福田の散策 (6) 長崎サンセットマリーナほか  長崎市福田本町

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福田の散策 (6) 長崎サンセットマリーナほか  長崎市福田本町

福田の散策(6)は、長崎サンセットマリーナほか福田本町の風景。
長崎サンセットマリーナ、長崎市立福田小学校、長崎市立福田中学校、海岸道路のアコウ巨木、木鉢・神の島側海岸を望む、丸木の地蔵、西光寺下の公園。
岩永弘氏著「歴史散歩 長崎北西の史跡」2006年春刊49頁による説明は次のとおり。

写真  1〜 14 (8) 長崎サンセットマリーナ
平成7年7月長崎サンセットマリーナが開設され、福田海岸に於ける広大な施設や建物は素晴しく、人々の良き遊楽地になりました。ヨットに乗らずとも付近の散歩や芝生広場での一休みなど、ゆっくり楽しむ事が出来ます。

福田の散策 (5) 福田本町の史跡  長崎市福田本町

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福田の散策 (5) 福田本町の史跡  長崎市福田本町

長崎市福田本町の史跡。福田天満神社・草住の碑、大音寺跡、琴爪の墓、オロシア井戸、大番所跡、力士の紀念碑三体、祐徳稲荷神社(福田城址)。
岩永弘氏著「歴史散歩 長崎北西の史跡」2006年春刊50〜54頁による説明は次のとおり。
福田のショッピングセンター・サン三叉路の掲示板「福田史蹟案内図」の番号順とは異なる。

写真  2〜  (12) 福田天満神社・草住の碑
福田バス停から176段の坂段を登ると福田天満神社があります。宮林(3項)から天和元年(1681)此の地に遷宮されたもので建物は幾多の変遷があったと思われます。近年では昭和61年に改築が行われ、経年も浅いので綺麗です。
拝殿左側に三体の寄付人名碑、忠魂碑があり、其の背後に草住の碑があります。史料によると草住という所は、福田より小江に行く峠の堀切り付近です。天文16年(1547)に青年僧の谿山繁公記室禅師が草住に庵を建て修業していましたが、27才で病死したためにその両親が供養のため一字一石の宛の経文を記し一ケ所に埋め、そこに石碑を建立しました。此れを草住の碑といいます。その後、県道又は国道の拡張に伴い、昭和53年先代の宮本盤穂宮司が此処境内の片隅に移設しました。碑文「逆修一字一石谿山繁公記室禅師」

写真  4〜  (13) 大音寺跡
史料には「福田天満宮の下の畑地は古寺の跡で、大正五年頃の県道改修工事前には椿の老樹があり、ここに寺の門があったのを土地の人は「ジャーシューモンガシラ」「邪宗門頭」と呼んでいたという。即ち、邪宗門とはキリシタンのことであり、今は教会と呼ぶが、昔は「ヤソ寺」と呼んでいた。であれば此の「ヤソ寺」こそ大音寺でなかったか。
永禄11年(1568)には、福田に天主堂があり、キリシタン信徒約千名に達していたという。現在古寺の跡は見られないが、松添福市氏宅の裏の井戸は大音寺の清水と云われている」とあります。松添家は東京?へ移住、同家屋敷があった辺りは開発が進み新興住宅が建ち、古井戸の所在を知ることが出来ませんでした。

写真  7〜  (14) 琴爪の墓
西光寺(慶長5年(1600)開山・真宗大谷派)石垣右端の坂道を小川沿いに150mほど登るとセメント橋が架かり直ぐ説明板のある琴爪の墓があります。
「寛政4年(1792)島原の眉山の爆発による大津波で、島原の家老の娘が流されて来たのを漁師が拾い上げ、現在の前海技学校の一角に居た庄屋に告げ裏の畑の隅に埋葬した。ある月夜の晩に、不思議に琴の音が聞こえるので何処だろうと頼ねて探したところ、墓の所だった。墓を掘り調べたところ、その娘の指に琴の爪がはまっていた。これはよほど立派な家の娘であろうと更めて手厚く埋葬した。墓石の表に「南無阿弥陀仏」横に「安政三年辰五月十一日改」と記されている。眉山の爆発と墓の年号とには64年の差がある。又一説には、眉山の爆発による津波で流されても福田までくるには相当の日数がかかる。首をかしげる話になる。ただし島原の郷土誌には、家老の娘が福田に埋葬されていることが記されてあるそうである。人呼んで「琴爪の墓」「琴姫の墓」と呼ばれている」

墓を下った福田支所跡は福田公園となり、その上の前長崎海技専門学校跡広場には旧福田小学校の記念碑があります。

写真 11〜  (15) オロシア井戸
国道に下ると、ショッピングセンター・サン横の道脇に厚鉄板で蓋されたオロシア井戸の説明板があります。南蛮船渡来のおり永禄8年〜元亀2年(1565−1571)飲料水として使用された井戸で当時、水量多く、深さ7.7m水深5mありました。当時この辺りは入江であったことが推測されます。

写真 13〜  (16) 大番所跡
大番所跡は、長崎市福田支所の左隣り、国道から入り込んだ宮崎邸(16番地)で、古井戸が残っています。元亀2年(1571)ポルトガル船が福田より長崎港に移るとき小番所ができました。寛永13年(1636)徳川三代将軍家光の時、キリシタン耶蘇宗門改が始まり、異国船漂着の地であるために番所を設置しました。寛永18年(1641)福田が緊要の地であるために大番所を設置しました。

写真 16〜  (17) 力士の紀念碑三体
国道を小浦側へ行くと墓地があり、入口右に三体の力士の碑が据えられています。
①右−虎ヶ濱紀念碑  正面 明治三十年三月建立 虎ヶ濱紀念碑 本姓名 瀬崎寅五郎
②中−福田山紀念碑  正面 福田山紀念碑  台石下段 福田山ハ安政三年(1856)六月ニ生レ十六才ノ時鳴ヶ崎ヲ師トシ後高勇ヲ師トシ廿五才ニ至リテ名アリ四五才ニテ止ム 大正五年六十一才ノ賀ニ当リ此ノ紀念碑ヲ建設ス
③左−紀念碑 天保十年(1839)八月十五日式見村ニ生レル二才ノ時福田村?大大村市助ノ養子トナル一七才ヨリ留錨?次イデ宮角力取リテ…以下不明字多く略

写真 17〜  (18) 祐徳稲荷神社(福田城址)
力士記念碑の脇道を150mほど登って行くと左側登り口に赤鳥居があり此処より192段の坂段を登ると祐徳稲荷神社に着きます。標高74m余の山で、神社境内の広さはざっと見て百坪位、福田湾も一望できます。福田城の築城時期は記録も無く不明で、恐らく福田家21代大和守忠兼(天正年間・1573−1591)が築いたのではと云われています。