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長崎の西空の夕日  10−08

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長崎の西空の夕日  10−08

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。以下、続く。

写真  1      平成22年 5月30日の19時23分頃
写真  2〜 3  平成22年 6月 1日の19時06分頃
写真  4〜 5  平成22年 6月 2日の10時04分頃 午前の潮目流れ
写真  6〜 7  平成22年 6月 4日の19時32分頃
写真  8〜 9  平成22年 6月 5日の18時51分頃
写真 10      平成22年 6月 6日の19時02分頃
写真 11〜14  平成22年 6月 7日の18時51分頃

長崎の古写真考 「甦る幕末」 151・152:長崎・立神の丘より長崎港口を望む

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長崎の幕末・明治期古写真考 「甦る幕末」 151・152:長崎・立神の丘より長崎港口を望む

「甦る幕末」のもう1冊の新版「写真集 甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより」朝日新聞社 1987年発行から、気付いた作品の2、3点目。

136頁  作品 151:長崎・立神の丘より長崎港口を望む
〔画像解説〕
右手奥の岬は長崎の港口・女神、中央に浮かぶ島は高鉾島である。高鉾島はキリシタン時代の殉教地の1つで、長崎に来航したオランダ人はパーペンべルグ島(神父の島)とよんだ。左手の入り江は戸町の港である。

136頁  作品 152:長崎・立神の丘より長崎港口を望む
〔画像解説〕
中央・高鉾島の後方の大きな島は伊王島、すぐ左手は香焼島、そしてその前の小さな島はねずみ島。慶長15年(1610)、有馬晴信に攻撃されたマドレ・デ・デウス号は、高鉾島と伊王島の間で撃沈されている。

■ 確認結果

「甦る幕末」の2作品とも、長崎港口の「高鉾島」を撮影した古写真。長崎大学データベースにより”高鉾島”と検索すると、48点と多くある。上野彦馬撮影の目録番号:5321「高鉾島(26)」及び目録番号:5320「高鉾島(25)」と同じ作品である。

「甦る幕末」の作品 151 は、タイトルを「長崎・立神の丘より長崎港口を望む」としている。画像解説の「左手の入り江は戸町の港である」はそのとおり。「立神」は、長崎港を挟んだ「戸町」の対岸。撮影場所がタイトルのように「立神の丘より」となることはない。

「右手奥の岬は長崎の港口・女神」も「左手からの奥の岬」か。写真に写っているのは、女神の1つ前の中小造船所がある岬である。右手前の墓地上となる尾根は、マンション建設のため削られ、稜線が変わっている。
長崎大学データベースの目録番号:5321「高鉾島(26)」の解説どおり、撮影場所は「戸町の背後の山から」が正しい。具体的には「戸町の山手墓地(勝廊寺墓地)から」撮影されている。

作品 152 も、タイトルを一緒に「長崎・立神の丘より長崎港口を望む」としている。長崎大学データベースの目録番号:5320「高鉾島(25)」の作品。
同解説は「戸町の背後の山から長崎湾口を撮影したもの。写真中央の島が高鉾島。右の半島の先が神埼鼻、その向こうに神の島があり、その左の島が高鉾島」と説明している。

この作品の撮影場所は、検証が必要である。前の作品 151 と同じ「戸町の山手墓地から」撮影されたように思われるが、そうではない。
「神の島」や小さな「ねずみ島」が、高鉾島の右側に見える。左側からの「香焼島」や「伊王島」は、高鉾島ピーク上の高い水平線上に写っている。同じ「高鉾島」を撮影していても、高度感と光景がまったく違う写真だろう。

私の調査では、「星取山」(標高270.0m)山頂が、この写真の撮影場所と考えられる。戸町墓地背後のさらに高い山。上野彦馬はアメリカ隊金星観測の写真撮影に関わったことがある。
ベアトなどが星取山から長崎市街や港の方を撮影した写真もある。
( 参照  https://misakimichi.com/archives/1877 )
山頂一帯は現在、NTT長崎統制無線中継所や長崎市水道の巨大配水タンク場となって立入禁止である。周りは植林・雑木・竹が茂り、長崎港口方面の視界がきかない。
古写真と同じ「高鉾島」の光景を確認できないので、南東側の山腹「大正寺星取墓地公園」(星取2丁目)と、北西側「錦職寺墓地」(長崎霊園の上 出雲3丁目)からの写真を載せた。

釣れた? 釣具店の釣人 (12)  長崎市平山町

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釣れた? 釣具店の釣人 (12)  長崎市平山町

長崎半島平山町の国道499号線沿い。釣具・えさ店。連日早朝4時オープン。背後は八郎岳。
Fishing shop OGAWA

イカねらいのエギングロッド。梅雨入りでもがんばろう!。

長崎の古写真考 「甦る幕末」 123:長崎市街風景

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長崎の幕末・明治期古写真考 「甦る幕末」 123:長崎市街風景

「甦る幕末」のもう1冊の新版「写真集 甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより」朝日新聞社 1987年発行から、気付いた作品を次記事とも3点取り上げる。

110頁  作品 123:長崎市街風景
〔画像解説〕
手前中央に石橋があり、遠景の右に片渕町、左に諏訪神社の森、遠くに三ツ山が見える。しかし、この石橋はどこの橋か。珍しい写真である。

■ 確認結果

石橋が群を成した中島川のみで考えるから、手前中央の石橋は「どこの橋か」わからなくなったのだろう。中島川は左上の家並みの中を流れている。写真の石橋は、変流埋め立て前の銅座川に架かっていた「新地蔵所」南門の石橋なのである。
撮影場所は、現在の梅香崎郵便局から遠見番長屋跡や活水大学へ上がる石段の途中にある「天満宮」の高台あたりから撮影されたと思われる。左上隅は金比羅山の山頂である。
現在の写真は、山並みが確認できないため、天満宮より少し上部の場所から撮影した。

新地蔵所(しんちくらしょ)は、江戸時代に長崎の新地町に造られた貨物倉庫である。元禄11年(1698)後興善町から出火した火災により、当時長崎に入港していた唐船20隻分の荷物を収納していた樺島町(椛島町)の土蔵が全焼した。
そのため、浜町の海岸沿いを埋め立てて人工島を築造し、そこに唐船専用の貨物を納める倉庫を建造する事になった。翌12年(1699)着工、同15年(1702)に倉庫が完成した。
島の構内は土塀で囲まれていて、出入り口は東側の正門と南東側の南門の2ヶ所。正門は新地橋で西浜町と、南門は石橋で広馬場や唐人屋敷とそれぞれ結ばれていた。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

長崎大学のデータベースでは所蔵がないのか、この古写真は見当たらない。目録番号: 6054「大徳寺跡から県庁方面を望む」には、新地蔵所の正門、新地橋の石橋が写っている。
広場場や唐人屋敷と結ぶ南門も、奥の船溜りに入るため橋高なアーチ式石橋が手前に架かっていた。長崎名勝図絵に描かれ石橋の記録があるものの、初めて石橋の姿がわかった貴重な古写真と思われる。
目録番号:3855「大徳寺遠望」(略)は、南門石橋上から大徳寺を撮影したようだ。

古写真左側に写っている長屋の建物が、「新地蔵所」の蔵の一角である。南門の橋は、布袋厚氏著「復元! 江戸時代の長崎」長崎文献社 2009年発行 180頁の、【250】唐人屋舗付近の復元図では「板橋」となっている。
正門の新地橋と同時に架設したと思われる石橋が、広馬場側にも実際あったのである。
同復元図によると、南門石橋の位置は、現在の広馬場商店街通り入口、左角の前三菱信用組合広馬場支店の建物(現在は、オガワ・デンタル・クリニック)後ろあたりと考えられる。路地が川筋の形状をしている。駐車場に橋材だったと思われる石がまだ残っていた。

幕末の「肥前長崎図」は、九州大学デジタルアーカイブから、川原慶賀筆「長崎図」の一部は、筑摩書房「江戸時代図誌25 長崎・横浜」から参考のため。長崎古今集覧名勝図絵(稿本)には、南門の石橋が「新地南門より唐人屋敷荷物運図」、「祭舟流図」などに描かれている。
「図ー5 港湾改修工事と橋の架設」は、長崎古写真集(居留地篇)130頁から。同関係年表では、「明治2年(1869) 10月、新地背面の築き増し工事完成により、新地が島でなくなる」とある。したがって撮影年代はそれ以前となる。最後は南門古写真の拡大。石橋に間違いないだろう。

この石橋のことは、記事を2010年12月12日に追加したので、次も参照。
https://misakimichi.com/archives/2462

長崎の古写真考 「写された幕末」石黒敬七コレクションなどから

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長崎の幕末・明治期古写真考 「写された幕末」石黒敬七コレクション」などから

発行が古いが、古写真集「写された幕末」石黒敬七コレクションなどから、長崎以外も気付いた作品。写真上から。

(1)長崎出島・同薬園
石黒敬七編「写された幕末 1」アソカ書房 昭和32年4月15日発行 34頁
⑥上の長崎出島の解説はともかく、⑥下は「その薬園」とはならない。出島ではなく大浦居留地の製茶工場跡などの空き草地だろう。現在のNTT長崎病院と孔子廟あたり。
次を参照。  http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/target.php?id=3880

(2)長崎崇福寺山門
石黒敬七編「写された幕末 2」アソカ書房 昭和32年12月15日発行 66頁
「崇福寺」ではなく、「興福寺」の開山堂(観音堂 戦災で焼失)を麹屋町通りから撮影している。この古写真は「写された幕末ー石黒敬七コレクション」明石書店 1997年9月30日発行第4版 154頁にも掲載され、解説は「崇福寺」のままとなっている。
次の参照。  https://misakimichi.com/archives/2269

(3)大名上屋敷
石黒敬七編「写された幕末 3」アソカ書房 昭和34年11月10日発行 68頁
「島津屋敷」ではなく、最近の研究により、場所は現在、東京都港区三田2丁目の「綱坂」。右の長屋は「肥前(備前は誤り)島原藩松平家中屋敷」と判明している。
次を参照。  http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/target.php?id=1443

(4)京都の大鐘
塚原清一編「続巻 写された幕末 1 英字新聞 ファー・イースト写真集」アソカ書房 昭和37年6月30日発行 93頁
京都市東山区「方広寺」の大鐘だろう。鐘を置いたままの事情がある。
次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2293

轟の滝林道のカツラ  諫早市高来町

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轟の滝林道のカツラ  諫早市高来町

諫早市高来町の「いこいの村長崎」から轟の滝へ行く林道がある。烽火山(標高554.3m)の山腹を通るが、轟渓谷近くとなり、林道正面に三角な高い鳥屋岳(標高710m)の岩峰が見える辺りから、ガードレールの右下斜面を見て行く。

タブやシイの大木が続くが、カツラの大木もある。大カーブすると、すぐ先には「烽火山遊歩道」入口と駐車場があった。最後の写真が、同遊歩道入口駐車場から見た鳥屋岳。
林道地図は「高来烽火山の烽火台跡」を。 https://misakimichi.com/archives/2344
HP「長崎の樹木」街路樹高来町による説明は次のとおり。

カツラ(桂)

「いこいの村長崎」近くの山道にはカツラの巨木がある。渓谷の轟峡の秋の景観はいい! …
カツラ科カツラ属 落緑高木 雌雄異株
しばしば株から数本の幹をだす。樹皮は縦に割れ目ができる。葉は対生し3〜8cmの広卵形で波状の鋸歯がある。
4月頃、葉が出る前に花をつける。花弁や萼片はなく、基部は2〜4個の苞に包まれる。雄花は多数の雄しべがあり、葯は紅色で線形。雌花は3〜5個の雌しべがあり、柱頭は糸状で淡紅色。
果実は1〜1.5cm袋果で円柱形。

高来烽火山のスタジイ  諫早市高来町

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高来烽火山のスタジイ  諫早市高来町

諫早市高来町いこいの村長崎後方の「烽火山」(標高554.3m)。「高来烽火山の烽火台跡」は、前日の記事としているから参照。 https://misakimichi.com/archives/2344

この地図の林道轟の滝側に歩いて登る「烽火山遊歩道」がある。HP「長崎の樹木」2010年4月13日更新に、遊歩道途中のスタジイの記事があり、復元されている烽火台とも見に行った。
同HPによる説明は次のとおり。後ろの写真は、遊歩道の少し上、右側大岩の奥で見かけた別の大木。
大スタジイ

諫早市高来町の「いこいの村長崎」から轟滝に向かって烽火山沿いに林道を進むと、途中に烽火山に登る表示板がある。表示板から5分ほど山道を登るとスタジイの巨木がある。幹周りはおよそ6m。大きくはないが板根も見られる。烽火山にはシイやタブの巨木は多い。

高来烽火山の烽火台跡  諫早市高来町小峰

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高来烽火山の烽火台跡  諫早市高来町小峰

諫早市高来町の「いこいの村長崎」後ろに「烽火山」(標高554.3m)という山がある。。他の場所の烽火山と区別するため「高来烽火山」と呼ばれている。平成17年に復元されている烽火台があるので見学に行った。
実際の烽火台は、山頂にあったのではない。烽火台跡は山腹の「小峰」という所にあった。現在の烽火台は見学できるよう、「いこいの村長崎公園」の多良岳へ向かう林道分岐角に復元されている。現地説明板は次のとおり。
小峰烽火山について

この烽火台は、烽火山中にあるものを復元したものです。「烽台」(ともしびだい)は、現在烽火山という地名として残っている。天智天皇が「和銅元年(七一三)諸国の「造」(みやっこ)に命じて庶民の生活状況を求めた」と肥前風土記にあるが、この烽火台はその年代の史跡である。
天智天皇は唐・新羅軍の来襲に備え六三三年西国に防人を置き城を築かれた。同時に烽火台を設け、昼は煙で、夜は火炎で敵の来襲を伝達する方法をもとられたのである。
伝達経路は、西彼野母崎の権現山や諫早有喜の普賢岳、本町の小峰峰火山、太良の風配というように次々に伝達され、大宰府に届くしくみであった。
江戸時代になり、黒船の来襲を告げるため、寛永十五年(一六三八)新たに長崎に狼煙台が設けられたが、ここからこの烽(ともしび)も同じ経路で幕府に伝達する役割を持っていた。小峰烽火山はかかる役目を果たした史跡である。
平成十七年三月     諫早市教育委員会  高来文化協会

公園角に復元されている烽火台は、直径2.5m、高さ1.5mほどの丸い石積み。小型な烽火台である。下部4箇所に通気穴がある。
烽火台が実際あった場所は、林道を上へ行き、林道から100m位入ったヒノキ林尾根の上。位置を示す史跡表示板と同じような説明板があった。今は植林に囲まれ、視界が利かない。有喜・太良方面は、近くから写した。
林道をさらに上がると、烽火山山頂まで車道がある。諫早湾干拓の堤防道路が良く眺められる。烽火山の反対側は轟渓谷へ林道が通じ、途中に歩いて登る「烽火山遊歩道」入口案内板があるが、遊歩道は荒れている。

戸町電波塔山から大久保山・魚見岳台場へ  平成22年5月

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戸町電波塔山から大久保山・魚見岳台場へ  平成22年5月

平成22年5月30日(日)快晴。戸町電波塔山から大久保山・魚見岳台場へ。参加17人。長崎港口東側の展望の良い岩めぐりし大久保山(標高233.7m)へ登る。小ヶ倉上揚から魚見岳台場までは古街道歩き。
戸町バス停9時30分発ー電波塔山ー女神大橋トンネル上ー大久保山ー砕石場跡草原ー小ヶ倉上揚ー白崎藩境石ー魚見岳台場14時40分着(徒歩距離 約12km)

戸町2丁目の一方通行バス通り途中から、右手竹林を直登する道があり、電波塔のある岩山へ着く。長崎市立戸町小学校の運動会が上から見えた。ここが「つく尾城跡」と思っていたが、地元の人に聞くと違う。南東尾根を伝っていったん畑小屋へ出、稜線へまた上がる。
尾根を登って行くと先にまた展望の良い岩がある。女神大橋が真正面に見え、大久保山が左にどっしり立つ。女神大橋トンネル上を通る。歩きなれた登山路となり、竹林内を急登すると、展望なし三等三角点の大久保山である。山頂11時50分着。少し下って藩境塚のあるいつもの林間で昼食。

12時40分発。砕石場跡草原へ。伐採され、見晴らしが良くなっていた。工事中の長崎南環状線唐八景トンネルが星取山下に見える。草原を下り、右の山道へ入る。荒れた道で草刈りしながら小ヶ倉上揚の墓地へ出る。
白崎バス停上の民家まで行くと、石垣に組込まれた「従是南佐嘉領」の藩境石と水場がある。この道は古街道で、魚見岳二ノ増台場まで今も続いて残るが、山道をもう歩く人はいない。4年前探して整備した道である。女神大橋近く、魚見岳台場下段の三ノ増台場は14時40分着解散。
最後の写真は、戸町墓地より見た電波塔山から大久保山への稜線。奥は八郎岳。
宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/24924431.html

国指定名勝 旧円融寺庭園  大村市玖島

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国指定名勝 旧円融寺庭園  大村市玖島

国道34号線の西本町交差点からJR大村駅の方へ向かう。途中の裁判所前バス停から右折し、内田川の橋を渡ると、その先に護国神社がある。ここが国指定名勝 旧円融寺庭園である。
護国神社の左上に春日神社があり駐車でき、庭園を上から眺めることができる。
「国指定文化財等データベース」長崎県による詳細解説は次のとおり。

名称: 旧円融寺庭園
ふりがな: きゅうえんゆうじていえん
種別1: 名勝
指定・登録・選定年月日: 1976.12.27(昭和51.12.27)
指定・登録・選定基準: 一.公園、庭園
所在都道府県: 長崎県
所在地(市区町村): 大村市玖島

詳細解説
S52-1-006[[旧円融寺庭園]きゆうえんゆうじていえん].txt: 承応元年(1652)藩主大村純長が創建し、明治初年廃絶した天台宗円融寺の旧地にある。寺域南限の山畔中央の高所に巨石を据えて三尊石を組み、これを中心として斜面全般に400余個の石を立てまたは臥せ、地形の起状に従って作り出した枯滝・枯流等によってこれらの石組の配置を抑揚豊かなものに構成している。また左手に7段から成る枯滝を作りその水落石には白色の石炭岩を用いるなど、全体としてその意匠は華麗でかつ創意にあふれ江戸時代初期作庭の特色をみることができる。  長く荒廃しツツジ等の徒長した樹叢に埋もれていたが、昭和44年現況に復旧されたものである。