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西彼町の主な史跡 (2)  西海市西彼町

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西彼町の主な史跡 (2)  西海市西彼町

西海市西彼町の主な史跡。西彼町教育委員会「西彼町郷土誌」平成15年発行の750〜766頁による説明は次のとおり。項目の数字は一部調整。

第二章 史 跡 (中世・近世の史跡)

写真  1〜  4    4 平原のキリシタン墓碑

平原郷山口原の小高い丘に、平原郷相川家の祖、相川勘解由左衛門尉義武の墓碑がある。勘解由左衛門は「相川氏伝記」によると、豊臣時代、朝鮮に出陣し、傷ついて大村喜前に助けられ、形上に住んだ。
二代目藤左衛門の時、平原に移住して田地を開拓し、20石の知行を得た。四代目の孫甚平が、形上村の旧住地に先祖の墓があることを知り、代々祀ってきたが明治30年(1897)ころ、現在の場所に移した。

墓碑は高さ55cm、幅47cm、厚さ22cmの温石の自然石である。墓碑面中央に花十字、その上に「INRI」と刻まれている。これは「Ⅰesus Nazarenus Rex Iudaeorum =ユダヤの王ナザレのキリスト」の略で、この文字を刻んだ墓碑は日本でははじめて発見され、キリシタン史研究上貴重なものである。
また、墓碑の背後に高さ約2m、幅1m、厚さ15cmの結晶片岩の墓碑が立てられているが、正面から見て前面は削られ、背面には慶長十八年(1613)七月一日と刻まれている。

この墓碑は、表面を削ったのは勘解由左衛門の名を隠すためで、昭和56年(1981)の町教育委員会『西彼町の史跡』にも、形上から平原に移すときに「甲駿之相川勘解由左衛門尉…」の刻字を削りとったといわれるとあり、昭和6年(1931)『郷土調査』では、この石は墓碑の敷石になっていて、名が刻んであるとしており、最近の研究では「石棺の蓋」(蓋石付石棺型キリシタン墓碑)と推論する説も有力で、そのサイズ、形状からも説得力がある。
二代目籐左衛門の墓は、平原墓地にあるが、小倉造りの墓祀の石扉内側に花十字紋様が刻まれている。きびしい弾圧の時代に発見を免れて残ることができたきわめて希な例である。昭和47年(1972)8月に長崎県の文化財に指定された。

写真  5〜  8    5 小干浦の殉教地

亀浦郷小干浦、西村公園(注 西村真珠内の庭園)の岬に殉教碑が建つ。この地生まれの四五郎トマスとその子与介ドミンゴの遺骨が台座に納められている。昭和40年(1965)、長崎市葉山町で、加藤十久雄、結城了悟両氏によって発掘された銅版に刻まれたスペイン文字の解読によって、日本キリシタン史上希有の発見がなされた。

銅版(A)「この箱の中に至福なる殉教者、故四五郎左衛門トマス七二歳と、その子与介ドミンゴ三七歳の二人の死体がある。(この方々は)一六二四年(寛永元年)七月十七日、大村領の村、小干の浦で棄教するのを拒んだので頭(首)を切られたのである。No12
この箱は日本に於ける聖ドミニコ会のものである」
これが日本で発見された唯一の殉教者の遺骨となる。銅版は現在長崎二十六聖人記念館に展示され、この地に殉教碑が建てられた。

写真  9〜 12    6 大串金山跡

大串金山は寛永4年(1627)から、藩直営、民間開発を含めて、約40年の間断続的に採掘された。大串金山というのは、現在の当町域で掘られた金鉱山の総称である。町内でほぼ3地域に分けられる。
喰場郷中ノ島地区、鳥加地区(金山谷、こうもり谷、平島、涌上り海辺)、網代地区が主な金坑跡である。この内、中ノ島川尻、鳥加地区にそれぞれ間歩が現存し、とくに涌上り海辺は大型の坑口が口を開けている。網代の八大龍王社叢には数ヵ所の間歩があったが、現在は塞がれてしまっている。その他にも、小間歩が散在したことが地名(例、白似田の字金山)などからも推測される。

大串金山の金銀産出量や大村藩の収入について、全体を知ることはできないが、寛永4年(1627)の掘り始めから同7年の中断までの4年間に、金8貫匁(30k)、銀70貫(260k)が江戸城西ノ丸の官庫に納められている。また、万治元年(1658)の最盛期には、年間で金4.5貫(約17k)の産出を記録している。その後寛文、宝永年間にも採掘されているが、採算がとれず、江戸幕府への上納もできないまま事業を停止した。

(注 現地写真は鳥加郷涌上りの金山跡。長崎オランダ村ファームから入る。中央右電柱奥の崖上に1箇所、右手道を海辺の人家まで行くと畑庭の崖に3箇所坑口跡が残っていた。)

写真 13〜 16    7 伊ノ浦台場跡

伊ノ浦台場(砲台)は、西海橋の西彼町側橋脚から約100m大村湾寄りの海岸に、高さ5m位の石垣が築かれている。これが幕末期に大村藩が築いた砲台、第一台場跡である。
台山公(大村藩12代藩主大村純凞)勤王録によれば「元治元年(1864)大村湾の迫口伊ノ浦の岸頭に三箇所の新塁を築き、それぞれ一八封度(口径13cm)並びに二四封度(同15cm)の大砲を備えつけてその土地の砲士をして主管せしめたり」とある。
○台場建設の背景(略)

写真  17        8 長島と真円真珠

古くから大村湾は天然真珠を産し、大村藩でも「貝玉奉行」を置いて管理した。明治18年(1885)、県令によって母貝を保護し、良質の真珠が生産されるようになり、養殖の研究が進んだ。
明治41年(1908)、西川藤吉、渡辺理一は共同で、長島に長島真珠養殖場を設立して研究開発を重ね、翌42年に「真円真珠第一号」を完成させ、大正3年には市場に出すことに成功した。現在も遺構の一部が残っている。

西彼町の主な史跡 (1)  西海市西彼町

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西彼町の主な史跡 (1)  西海市西彼町

西海市西彼町の主な史跡。西彼町教育委員会「西彼町郷土誌」平成15年発行の750〜766頁による説明は次のとおり。項目の数字は一部調整。

第二章 史 跡 (中世・近世の史跡)

写真  1〜  3    1 石鍋製作跡

西彼杵半島の山中では、古くから平家の落人が隠れ住み、石で作った鍋や釜を使っていたと言われてきた。今日では、各地で石鍋やその製作跡が発見されているが、中世史の研究によって、西彼杵半島は全国でも珍しい一大生産地であったことがわかり、石鍋の製造法や用途などが解明された。
石鍋研究の歴史は、八重津輝勝、内山芳郎による大瀬戸町春山山頂の石鍋製作跡の調査から始まった。西彼杵半島に分布する「西彼杵変成岩」の岩脈帯に点在する「温石(おんじゃく)層」は、硬度1〜2度の軟質で加工がしやすく、油性に富むため、さまざまな用途に利用された。中でも石鍋製作跡は各所に見られ、雪ノ浦川上流のホゲット石鍋製作所遺跡は国の史跡である。

昭和48年(1973)以降、製作地の詳細な調査が進み、生活遺跡からの出土品や、たき火跡の木炭の年代測定から、平安時代〜室町時代末期頃まで製作され、煮炊具として使われていたことがわかった。
鎌倉末期の『厨事類記』には、山芋粥を作るとき、アマズラを入れて「石鍋ニテニル」とあり、天文4年(1535)の『武家調味故実』には壺焼き料理の項に「石鍋に酒を入れて煎る」と記され、長期にわたって煮炊き道具として利用されたことが確かめられた。

製法は滑石層の岩盤面や岩塊表面に30〜40cmの升目を引いて、そこから円錐台、四角錘台の粗形を彫り取る。その中をくり込んで成形し研磨して仕上げた。形は器の周囲に鍔のあるものや、二対の直方体の耳つきの鍋などがある。製作跡に残るものは、表面に粗いのみ跡をとどめていて、工作過程がよくわかる。
西彼町にも多くの遺跡が確認されており、県の遺跡登録も10ヵ所にのぼる。また、大串郷・永田留義史談会長らの現地調査では、地図に示すように30ヵ所が確認された。

大型遺跡である平山郷字忠五郎「下茅場遺跡」は、現在建設中の広域農道ルートにかかるため、県文化課と町教育委員会共同で発掘調査の結果、きわめて良質な石鍋製作遺跡であることがわかった。
このため、耕地事務所も農道ルートを変更し一部高架の措置を講じ、7ヵ所の遺構のうち5ヵ所が現地に保存されることとなった。埋没を免れない2ヵ所の遺構は、町農村環境改善センターと体育館入口にそれぞれ移されて展示保存されている。
製造された石鍋は、畿内から鎌倉まで運ばれ、一説では、その運送を担ったのが「海夫」と呼ばれる海民であったとされる。八木原郷鍋ノ浦、喰場郷の温石原、ナベシ谷、平原郷鍋石谷など、石鍋にちなんだ地名も残っている。

写真  4〜  8    2 御腰懸石と御茶の水

白崎郷字膝行神母衣崎の海辺にある。大村氏の大祖、藤原直澄入郡の際の上陸地として、昭和46年(1971)9月、町史跡に指定された。現在は四本堂公園の一部となり、オートキャンプ場下の海岸、四阿屋の脇に御腰懸石がある。傍に標石があり、表面に「御腰懸石」、裏面に「寛政年中大村信濃守純鎮建之」と刻んでいる。

大村家譜によると、平安時代に朝廷に叛いて討たれた藤原純友の孫である直澄が伊予大洲の山中で成育した。純友の没後40数年を経て、朝廷は純友を許し、直澄を従五位下遠江権守に任じて、肥前の国の内、藤津郡、彼杵郡、高来郡の三郡を賜ったという。
正暦5年(994)、直澄が海路下向の途中、伊ノ浦の瀬戸を渡り、母衣崎に休憩のため上陸したとき、村民が出迎えて母衣をめぐらし、土地の豪族椎野大膳らも加わって着郡を祝ったという。

腰懸石から200mほどの磯辺に湧水がある。この水で直澄に茶を供したことからお茶の水の標石が立っている。直澄は大串の者の案内で、彼杵郡玖原の里寺島(大村市前舟津郷)に上陸し、以後「大村」を姓とした。
(注)大村氏の祖が藤原純友の孫直澄で、前記3郡を得て下向してきたという由来は、これまで定説であったが、近年の研究では否定説が強い。

写真  9         3 刎木(はねぎ)の古城跡

八木原郷天満宮の北にある小高い丘は城の辻と呼ばれ、刎木の古城跡である。この城も八木原氏が築いたものと推考されるが、八木原氏を授けて中浦方と戦った武将、志田三郎もここに拠ったと伝えられる。城跡から南に下った森に志田三郎の墓とされる石祠が建っている。
『大村家記』に「羽木古城在八木原村 大手南方石垣高サ五寸長サ二十間、本丸百十坪、腰郭石垣高サ六尺或ハ五尺、廻リ百間余リ、東ハ海、西ハ険阻、北ニ用水有リ」とある。  

西彼町の巨樹・名木  西海市西彼町

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西彼町の巨樹・名木  西海市西彼町

西海市西彼町の巨樹・名木。西彼町教育委員会「西彼町郷土誌」平成15年発行の774〜
776頁による説明は次のとおり。

第二節 天然記念物(自然木)

町内の各地に年輪を重ね、住民に親しまれてきた古木の保存ならびに天然記念物指定について、以前から各郷の役員有志から陳情書が出され、教育委員会の文化財保護審議会でも研究を重ねてきた。
平成11年(1999)度から、県教育委員会文化課の協力を得て、それぞれの樹種、樹齢、環境などについて現地調査がおこなわれ、次の5件が(旧)町の天然記念物の指定を受けた。

写真  1〜  3    1 八木原天満宮の大楠と社叢(八木原郷)

拝殿左手のクスの巨木2本。社叢は古代の原植生の姿を残している。この森林群落は「シイ・ミミズバイ群集」と呼ばれる照葉樹林の断片である。タブ、ハゼ、アラカシなどの巨木は特筆に値する。
クスノキ…①幹回り5.5m ②同6.0m  ③同(2本)10.5m
ハゼノキ…幹回り2.7m
(参 照) https://misakimichi.com/archives/663

写真  4〜  6    2 洲崎神社の社叢(大串郷網代)

ムクロジとスダジイの巨木が多い。スダジイ(椎)が天然記念物に値すると評価された。
シイノキ・・・幹が4本に分かれ、幹回り各2m、根幹部8.4m。このほか幹回り5.0mの古木もある。
(参 照) https://misakimichi.com/archives/662 

写真  7〜  9    3 鳥加郷のユーカリの木(鳥加郷大徳寺下)

大村市西経寺の幹回り3.7mに次ぐ、県内第2位の大きさを持つ。幹回りが2.9mある。樹齢約130年、高さ15m。
(参 照) https://misakimichi.com/archives/661

写真 10〜 12    4 平原郷のカゴノキ(平原郷清正公参道)

樹齢4、5百年。山地中腹の照葉樹林に生えるクスノキ科の木本植物。この木はかつて森林の中に生えていた樹木の名残と思われる。県下有数の巨木で、天然記念物の評価を受けた。
カゴノキ・・・幹回り3.2m
(参 照) https://misakimichi.com/archives/657

写真 13〜 14    5 亀浦郷小干の大楠(亀浦郷)

西小干にあり、樹齢4、5百年といわれる。上の川と呼ばれる湧き水のすぐ上に生えていて、形状の整ったクスノキの巨木である。
幹回り5.6m、高さ約20m
(参 照) https://misakimichi.com/archives/659

石原岳堡塁  西海市西海町面高郷

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石原岳堡塁  西海市西海町面高郷

国道202号線の西海市立西海北小学校前から、案内標識により800m北(半島の先の方)へ入る。石原岳森林公園となっている「石原岳堡塁」遺構がある。西海市が管理するキャンプ場となっている。当時の堡塁構造が完璧に現存し、価値ある遺構である。

佐世保要塞のひとつ。明治32年(1899)12月竣工し、佐世保湾口南側の敵軍上陸侵攻にそなえた。「堡塁」は海岸砲台の背面を守る陸戦砲台だが、上空に対しては脆弱なため、航空機発達とともに廃れ、「石原岳堡塁」は昭和4年(1929)6月廃止された。
現在、同地の高台から崎戸大橋方面しか望めなかった。現地説明板は次のとおり。

石原岳堡塁の歴史

この堡塁は、記録によると、佐世保軍港防衛のために、1897年(明治30年)10月21日に起工し、1899年(明治32)12月31日に竣工したもので、全面積は約2haあります。
標高73から77mに備えられた砲種はクルップル式10センチカノン砲6門、鋼製9センチ臼砲4門、砲座数は7基となっておりました。
この後、1929年(昭和4年)6月14日には、陸軍の台帳から全部が除籍されました。(佐世保要塞築城史から)             平成7年3月   長崎県  西海市

7月1日に石原岳堡塁を再訪。正門入口及び駐車場から外堀を一周する遊歩道にある「側防窖室」と排水口遺構の写真を後ろに追加した。

長崎外の古写真考 「名所一覧」277頁 1 天艸島

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長崎外の幕末・明治期古写真考 「名所一覧」277頁 1 天艸島

平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二刷発行から気付いた作品を取り上げる。

277頁 肥前之国
1 天艸島

■ 確認結果

泊天草洋
雲耶山耶呉耶越水天髣髴青一髪萬里泊舟天草洋煙横篷窓日漸没瞥見大魚波間躍太白當船明似月

あれに見えるは雲であろうか。山であろうか。それともシナ大陸の呉の地か越の地か。水と空とがあたかも青い髪の毛を張ったように一線を画して連なっている。はるばる京洛より来て、この天草洋に舟泊まりする。夕靄は静かに船の小窓をこめて太陽は次第に西の海に沈んでいく。おりしも大きな魚が突然波間に跳ねるのをみた。空には宵の明星(金星)が出て船を照らしておりまるで月のように明るい。

頼山陽は,江戸時代後期の漢学者、修史家。頼山陽が文政元年8月(1818)西遊の途次、長崎より茂木を経て、天草へ船で渡った。当時富岡の城下に開塾されていた儒者渋江龍淵をたずね来遊されたと伝えられている。その時、西海天草灘の展望を詠じたのが、この名吟である。
この詩碑は、苓洋高校近くの山陽公園に建っている。
http://www.geocities.jp/amakusa_tanken/hakuamakusanada.htm

「名所一覧」277頁の「1 天艸島」は、肥前之国に掲載されている。タイトル以外、画像解説が何もないが、上記名吟があり、熊本県天草郡苓北町富岡の陸繋島、曲崎の光景と思われる。航空写真のとおり、現在の苓北町役場左上の志岐海岸あたりから撮影できる。現在の写真は、茂木〜天草富岡フェリー船上から曲崎の先端部を以前、ほぼ同じ方向で写していた。

「富岡の砂嘴」は、志岐平野の北西部に位置する陸繋島の先にある。この陸繋島は富岡半島とも呼ばれ、その北東端部にある元袋集落から巴湾をぐるりと囲むように、「砂嘴」という鳥のくちばしに似た「かぎ型」に曲がった美しい地形をつくっている。地元では、この砂嘴の先端部を曲崎(まがりさき)と呼んでいる。

長崎外の古写真考 目録番号:1213 富士山の遠望(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1213 富士山の遠望(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1213 富士山の遠望(1)
〔画像解説〕
場所は特定できないが、富士山が正面に見える。中景は川が流れ、川岸に沿った道路に篭に乗った人物、それを先導するこうもり傘をさした男などがはっきりと見える。前景窪みの工作物は何であろうか、識別できない。

■ 確認結果

目録番号:1213 富士山の遠望(1)は、現在の静岡県富士市沼田新田あたりの光景である。中景の川と見えるのは、富士沼(浮島沼)、前景窪みの工作物は、工事中の排水路と思われる。
平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二刷発行の218頁 駿河之国に、同じような写真が「柏原富士沼」として掲載されている。同解説は次のとおり。

⑦ 柏原富士沼  (現、富士市沼田新田あたり) 原宿と吉原宿の間、柏原の排水路あたりから北を向き、浮島沼(富士沼、須津沼とも呼ばれた)とその先の富士山を撮影。

四本堂公園にある長崎要塞区域標  西海市西彼町白崎郷

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四本堂公園にある長崎要塞区域標  西海市西彼町白崎郷

国道206号線西彼町の旧オランダ村手前交差点から右折。総合体育館前を通り、北東の母衣崎へ約3.7km、「四本堂公園」の案内標識により進む。
「長崎要塞区域標」は、四本堂公園北端のオートキャンプ場下の海岸部にある。史跡「御腰掛岩」があるすぐ上の林間に、地元が設置した碑とともにある。碑文は次のとおり。
標石は「長崎要塞区域標」「第一五八号」「陸軍省」「明治三十二年七月十四日」である。

長崎要塞地帯 四本堂要塞
旧陸海軍は一八九八年(明治三十一年)要塞地帯法公布に基づき東京湾、広島湾、下関、対馬、長崎、佐世保などの重要な海岸等軍事施設の拠点として要塞地帯に指定し機密を守るための周辺への立ち入りを禁じた。
この四本堂要塞は敵国の侵略から軍都大村、長崎を守るため設置されたものである。
これまで、地元も存在を知っていなっかったが二〇〇八年(平成二〇年)五月標柱が発見された。長年の風化で刻字の判読が難しく、今後、永く戦争遺跡として継承していくため新たに標柱を設置する。                  平成二十年十月吉日 白崎郷

地元のせっかくの碑と新たな標柱だが、少し誤解がある。「要塞地帯法」の公布は、明治32年(1899)7月14日。ここに四本堂要塞が設置されたのではなく、標石は佐世保要塞の軍事機密を守るため、法に基づき外周約10kmの第三地帯に建てた警戒区域標である。里中にも多く立っていた。建立の「明治三十一年」も判読が違う。佐世保に残る標石はすべて「明治三十二年七月十四日」と刻まれている。

参考のため、当時の佐世保要塞地帯図を載せる。「佐世保要塞地帯は、佐世保市、佐世保湾、北松浦郡の西南部、西彼杵郡の西北部、大島、黒島、江ノ島、平戸島を加えた水陸一帯の区域で、佐世保市に佐世保要塞司令部と重砲兵聯隊が置かれた」と説明がある。
2008年標石発見の経過が不明だが、この標石は佐世保の高橋輝吉氏がすでに10年位前に見つけ、地元へ知らせていた。高橋氏地図の同地に「アリ 第158」とはっきり記している。
四本堂公園は、次のHPも参照。  http://hasamiooen.fc2web.com/2009-report-24.html

長崎外の古写真考 目録番号:6672 成田山下奥

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6672 成田山下奥

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6672 成田山下奥

■ 確認結果

目録番号:6672「成田山下奥」の、タイトルにある「下奥」と、時計の意味がわからない。石段上に立つ建物は、千葉県成田市の大本山、成田山新勝寺の「釈迦堂」である。埼玉県川越市の別院「恵比寿天 成田山」ではない。時計の文字盤は干支のようだ。
2枚目の目録番号:1483「寺(4)」( https://misakimichi.com/archives/2367 を参照。実は成田山新勝寺「仁王門」)の背後の建物。石段左右の大杉が同じ傾きで写っている。

「釈迦堂」は国の重要文化財。大本堂左手の広場に建つ入母屋造の仏堂で、1858年(安政5年)建立の旧本堂。
平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二刷発行の234頁 下総之国に、同じ写真が「不動石坂並びに時計」として掲載されている。同解説は次のとおり。

⑧ 不動石坂並びに時計  仁王門をくぐり抜けた地点から旧本堂(現在の釈迦堂、国指定の重要文化財)を望んだものと思われる。現在時計は設置されていないが、階段両脇の狛犬や石段脇の樹木は変わっていない。

巻頭の貴重写真拡大編93頁にも掲載され、詳しい解説は次のとおり。昭和39年(1964)、大本堂を建設するため、写真に写っている釈迦堂は、現在の大本堂の左手に移築されたのである。
現在の写真は、solmare.com 成田山新勝寺の写真素材から。

不動石坂並びに時計  

表参道を過ぎ、現在の第一信徒会館前から門を入ると成田山境内になる。参道の右側に土産物店が軒を並べる広場を堂庭といい、客殿の光輪閣を左に見ながら、石段を登り仁王門(国指定重要文化財)をくぐる。その先の仁王池の橋を渡ると、急な石段が目の前に迫ってくる。写真は石段越しに、当時の本堂(現、釈迦堂。国指定重要文化財)を望んだものである。

石段の手前には、時計様のものが見えているが、現況では見あたらない。石段両脇の斜面は、当時よりも樹木が繁茂し、石造物も増えているが、景観上、当時と最も異なっているのは、大本堂が石段越しに見えている点である。昭和39年(1964)、大本堂を建設するため、写真に写っている本堂は、現在の大本堂の左手に移築され、その跡地に現在の大本堂が建設されたためである。前本堂は、安政5年(1858)の建立で、板壁の五百羅漢など、見事な浮き彫り彫刻が見られる。

長崎外の古写真考 目録番号:6149 鎌倉鶴岡八幡宮(?)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6149 鎌倉鶴岡八幡宮(?)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6149 鎌倉鶴岡八幡宮(?)

■ 確認結果

目録番号:6149「鎌倉鶴岡八幡宮(?)」は、タイトルに(?)があるが、「鎌倉鶴岡八幡宮」に間違いない。手前の橋は「太鼓橋」である。今は通行禁止にして、左横に朱橋ができている。
同じような光景で写した古写真が、2枚目のとおり「日本名勝百景 Archive – 明治をゆく(古写真)」に「相州鶴岡八幡(鶴岡八幡宮)」として掲載されている。
現在の写真は、「建物・オブジェ写真素材026 鶴岡八幡宮の石橋(鎌倉)」と「神奈川県HP かながわの橋100選 太鼓橋(鎌倉市)」から。

長崎外の古写真考 目録番号:4631 渓谷(4) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4631 渓谷(4) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4631 渓谷(4)        関連作品 目録番号:4604 渓谷(1)

目録番号: 618 保津川(4)

■ 確認結果

渓谷の流れの中に立つかなり大きな岩である。目録番号:4631「渓谷(4)」は、撮影地域:未詳だが、同じ写真の目録番号: 618 では、「保津川(4)」となっている。
「保津川」とあったので、以前に画像を探したが、保津川でこのような岩は見当たらなかった。
前の記事は、 https://misakimichi.com/archives/2298

平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二刷発行の221頁 甲斐之国に、同じような写真が「岩殿山横身延山」として掲載されている。同解説は次のとおり。

⑦ 撮影場所不明  原題は意味不明。

手がかりとなるが、解説のとおり原題は意味不明で、撮影場所不明。身延山ではないようだ。
ポケットブックス | アンティーク絵葉書専門店 群馬県商品一覧に「118449群馬 川原湯温泉 弁天橋」ほかがあり、中央の岩がやや似ている。地元で検証をお願いしたい。