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伊方発電所  愛媛県西宇和郡伊方町

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伊方発電所  愛媛県西宇和郡伊方町

三崎港フェリーを降り、佐田岬半島の国道197号を東へ向かう。観光物産センター伊方きらら館の先に発電所の入口道路があった。近くまで下ると物々しい警戒であった。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

伊方発電所

伊方発電所(いかたはつでんしょ)は、愛媛県西宇和郡伊方町にある四国電力の原子力発電所。
概 要  四国最西部、佐田岬半島付け根付近の北側斜面に位置し、瀬戸内海(伊予灘)に面している。四国電力および四国地方唯一の原子力発電所である。国内原発で唯一内海に面する。
状 況  福島第一原子力発電所事故の影響によって既に定期検査を終えた発電機も運転再開の目途が立たないため、全発電機が定期検査に入った2012年(平成24年)1月13日から送電を停止している[1]。
なお、伊方原発は「四国全体の電力の約4割以上をまかなう」と原発PRでされることがあるが、この数値は発電量ベースにて4割のことがあったというだけであり、実際の四国電力の設備容量では、「伊方原発の割合は2割余り」である[2]。

リスク  伊方原発の間近に巨大な活断層である中央構造線があり、将来大地震を引き起こす危険があることが、伊方原発訴訟にて原告から訴えられていた。ただし裁判当時の国内の地震学界では地震の活断層説には否定的な意見が占めており、受け入れられなかった[4]。
なお、最新の地震研究[5]によると中央構造線の伊方原発近くの活動は以下のように評価されている。

石鎚山脈北縁西部の川上断層から伊予灘の佐田岬北西沖に至る区間が活動すると、マグニチュード8.0程度もしくはそれ以上の地震が発生すると推定され、その際に2−3m程度の右横ずれが生じる可能性がある。
(中略)
石鎚山脈北縁西部の川上断層から伊予灘の佐田岬北西沖に至る区間は、今後30年の間に地震が発生する可能性が、我が国の主な活断層の中ではやや高いグループに属することになる。
— 地震調査研究推進本部 地震調査委員会, 中央構造線断層帯(金剛山地東縁−伊予灘)の長期評価(一部改訂)について 平成23年2月18日

三崎のアコウ  愛媛県西宇和郡伊方町

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三崎のアコウ  愛媛県西宇和郡伊方町

佐田岬半島の伊方町三崎港フェリーターミナルのすぐ近くに生える。国の文化財等データベース及び愛媛県の文化財による解説は、次のとおり。

名称: 三崎のアコウ
ふりがな: みさきのあこう
種別1: 天然記念物
指定年月日: 1921.03.03(大正10.03.03)
指定基準: (十)著しい植物分布の限界地
所在都道府県: 愛媛県
所在地(市区町村): 西宇和郡伊方町
解説文:
天然紀念物調査報告(植物之部)第二輯 四〇頁 参照 天然紀念物解説 二七五頁 本自生地ニハ六株ノあこう Ticus Wightiana Wall. アリ内四株ハ海ニ臨ミ疊積セル岩石ノ間ニ根ヲ下シ氣根ハ垂レテ岩ヲ被フ、他ノ二株ハ前者ト稍〃離レテ畑地ヲナス 海岸ノ傾斜地ニ在リ、皆發育完全ニシテ周圍一丈ニ及ブ

(愛媛県解説)
アコウ樹は、熱帯または暖地性のクワ科植物であり、海岸近くに自生することが多い。幹の周囲から気根を出し、葉は楕円形で先端は鋭尖形、基部は円形である。春に一度落葉するが、すぐ再び新葉を出す。
植物生態学上、その限界地を保存することはきわめて重要なこととされ、自生地の北限として、また巨木として4株(指定時7株であったが枯死)が指定されている。
海岸の人家に接して3株の大木があり、この地をアコギ(アコウの地方名)と呼んでいることでも、アコウがこの地に古くからあったことがわかる。
4株のうち最大のものは根回り7.5m、目通り6m、樹高12mであるこのいずれも発育はきわめて盛んであり、この地がアコウの生育に適していることを示している。 

佐田岬半島  愛媛県西宇和郡伊方町

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佐田岬半島  愛媛県西宇和郡伊方町

2012年7月23日から8月2日まで四国の旅へ。全県のつもりが計画の半分、愛媛県と香川県のみ主に回り、台風接近の悪天候となり帰ってきた。知らない土地では、目的地を探すのに時間がかかった。後は次回に期す。

大分県佐賀関港から愛媛県三崎港へフェリーで渡る。4〜6枚目は、帰りの八幡浜ー別府航路からのの風景。ウィキペディア フリー百科事典による説明は、次のとおり。

佐田岬半島

佐田岬半島(さだみさきはんとう)は、四国の最も西に位置し、愛媛県伊方町にある半島。三崎半島とよばれることもある。八幡浜港付近から西南西へ、中央構造線(メディアンライン)に沿い長さ約40kmにわたって直線的に突き出しており、北の瀬戸内海(伊予灘)と南の宇和海を隔てている。先端には佐田岬があり、瀬戸内海国立公園に指定、半島腹部は佐田岬半島宇和海県立自然公園に指定されている。国道197号の佐田岬メロディーラインは、山桜の名所。日本一細長い半島としても知られる。

長崎の西空の夕日  12− 7

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長崎の西空の夕日  12− 7

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。夕日シリーズは以降も続く。

写真  1      2012年 7月14日の19時23分頃
写真  2〜 5  2012年 7月19日の19時25分頃
写真  6〜 9  2012年 7月21日の19時23分頃
写真 10      2012年 7月22日の19時39分頃

人面岩?  長崎市北浦町赤崎鼻

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人面岩?  長崎市北浦町赤崎鼻

茂木港の左に見えるのが、赤崎鼻。北浦町の海岸道路から海岸へ降りて歩く。旧長崎南商高下を通り、赤崎鼻まで25分はかかる。地蔵と不動明王が立つ岩礁は、海上保安庁水路部の測点となっている。
人面に見える岩は、赤崎鼻の絶壁をなす下部。大潮のときしか歩けないので、注意して行く。

このあたりが野母崎に次いで、福井県立恐竜博物館と長崎市科学館が本年3月、長崎市北浦町の海岸で、白亜紀後期(約8400万年前)の草食恐竜の化石を発見したと発表した場所であろうか。発掘した場所を探したが、わからなかった。赤崎鼻には戦時中の遺構も残る。
http://www.asahi.com/science/update/0312/OSK201203120062.html
岩を割ったような場所は、赤崎鼻のまだずいぶん手前で見た。

絵画ロード?  長崎市田中町卸センター

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絵画ロード?  長崎市田中町卸センター

長崎市田中町の長崎卸センター内を通った。殺風景な団地幹線道路の側壁が絵画ロードになっていた。いいねー、こんな企画。HPに次の記事があった。
現在展示の20点全部を紹介したいが、その一部である。

第3回長崎卸センター絵画ロード事業「お絵かきコンテスト」公開イベント
· NOCS長崎卸センターサービス株式会社さん作成.
2012年7月27日.18:00.. 〒851-0134 長崎県長崎市田中町1201
組合会館にて地域の小学生以下を対象に、クレヨン・絵の具でのテーマ自由の絵を描いていただき、優秀作品5点ほどを、3m弱角のアルミ板に焼き付け、団地幹線道路の側壁に展示する企画です。過去2回の実施で、すでに20枚近い絵画が展示されています。

区−H 田川内公民館裏  (確認 長崎要塞区域標 第三十四号)

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区−H 田川内公民館裏  (確認 長崎要塞区域標 第三十四号)

東長崎の田川内公民館裏の敷地で、「長崎要塞区域標」が新たに見つかった。知らせてくれたのは、長崎市田中町中尾地区の松尾氏(長崎市農業委員)である。
区−I 中尾尾根の「長崎要塞区域標 第三十二号」は、同松尾氏の記憶により、平成18年1月発見したいきさつがあった。本ブログでは掲載略。研究レポートには第2集155頁に載せている。

中尾ダム大橋を渡り、中尾中央公民館前をまっすぐ進む。城戸岩の次に県営バス「公民館前」バス停がある。田川内山神社の参道と駐車場右が「田川内公民館」。大正時代建てられた公民館を取り壊し、現在、建て替えるため更地となっている。
2段となった敷地の奥角に「長崎要塞区域標」があった。先日、山神社の例祭に行った松尾氏が、車から降りたとき発見し連絡してくれた。

きょうすぐ確認に行くと、「第三十四号」である。松尾氏の話では、公民館の前はここに精米所があった。標石は移設されたようでもあり、なぜここにあるのか詳細が不明。建物が解体されて、裏にあることがやっとわかった標石である。
長崎要塞地帯略図から田川内に目星をつけ、私は以前に一帯や山間部をだいぶん探したことがあった。見つけきれなかったはずである。略図上は田川内であるので、一応「区−H」の標石として整理しておく。 

「第三十四号」は、写真のとおりの標石。後側の石垣との間は、ブロックを立てている。上面に小さな四角の加工溝がある。建物の土台石に使用された形跡がある。唐古でもその例はあった。
手前に横倒しになって折れた石柱の一部も不思議。「月十日?」「省」の刻みがあるので、これも別番号の「長崎要塞地帯標」ではないだろうか。石材と大きさが違う。更地全体を探しても、この上部の石柱かけらは見当たらなかった。
新公民館を更地に建てると、奥の標石はまたわからなくなる。車道やバス停からすぐ見えるよう、山神社参道石段左の植え込みに移設するよう要望してきた。

長崎の古写真考 目録番号:6248 オランダ人(2)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6248 オランダ人(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6248 オランダ人(2)
〔画像解説〕  ボードインコレクション
なし  

目録番号:6285 出島スタジオでのA.F.ボードインとハラタマ
〔画像解説〕  ボードインコレクション
出島のスタジオで写されたボードイン博士とハラタマ博士です。ユトレヒト陸軍軍医学校でボードインの同僚であったハラタマは慶応2(1866)年の4月に長崎の分析窮理所教師として着任しました。ボードイン博士のもと精得館と名前を変えた養生所で調剤と病院監督に従事し、分析窮理所で化学・物理学・薬物学・鉱物学・植物学などの自然科学を講義しました。 -6285-

■ 確認結果

目録番号:6248「オランダ人(2)」は、目録番号:6285「出島スタジオでのA.F.ボードインとハラタマ」に写った、ボードイン博士の同僚「ハラタマ博士」ではないだろうか。
髭や洋服は違うが、顔つきから可能性として考えられる。

長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクションⅡ ボードインアルバム」長崎文献社
2011年発行による解説は、次のとおり。

17頁   21  オランダ人②
撮影者、人物ともに不詳。椅子の形やぼかしの技法から上野彦馬の撮影とする説もあるが、彦馬がこのような厚い洋書をスタジオに常備していたと考えにくい。
撮影者/A.F.ボードイン  撮影年/1865年頃
サイズ/217mm×166mm  目録番号/6248

12頁   12  出島スタジオでのA.F.ボードインとハラタマ
出島の私設スタジオで写されたボードイン博士(左)とハラタマ博士(右)である。ユトレヒト陸軍軍医学校でボードインの同僚であったハラタマは慶応2(1866)年3月2日に長崎の分析窮理所教師として着任した。ボードイン博士のもと、精得館と名前を変えた養生所で調剤と病院監督に従事し、分析窮理所で化学・物理学・薬物学・鉱物学・植物学などの自然科学を講義した。
撮影者/A.F.ボードイン  撮影年/1866年頃
サイズ/179mm×115mm  目録番号/6285

長崎の古写真考 目録番号:6292 出島スタジオのコロエス (再掲)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6292 出島スタジオのコロエス (再掲)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6292 出島スタジオのコロエス
〔画像解説〕  ボードインコレクション
カピタンハウスの門の前と思われる場所で撮影された二人のオランダ人です。左の人物はD.T.クロエス(タイトルは「コロエス」?)であることが分かっています。写真撮影のためでしょうか、チョッキに蝶ネクタイをつけた正装です。ここに写されているテーブルは出島スタジオの写真にたびたび登場します。 -6292-

■ 確認結果

目録番号:6292「出島スタジオのコロエス」は、長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクションⅡ ボードインアルバム 外国人が見た幕末長崎」2011年発行の16〜17頁に掲載されている。同解説は次のとおりで、人物名は「D.T.クルーズ(右)」と「E.ピストリウス(左)」が正しいとわかった。
https://misakimichi.com/archives/3251

18 クルーズとピストリウス
オランダ領事館の門の前と思われる場所で撮影されたオランダ人。D.T.クルーズ(右)とE.ピストリウス(左)である。このテーブルは出島スタジオ写真にたびたび登場する。
撮影者/A.F.ボードイン  撮影年/1865年頃
サイズ/135mm×120mm  目録番号/6292

今回、古写真考とするのは撮影場所。「カピタンハウス」や「オランダ領事館」の門の前と思われる場所で撮影されたと説明している。
もちろん出島内のことで、仮設の「出島スタジオ」ではない。ボードイン博士や弟、A.J.ボードイン領事は、出島のオランダ領事館(旧商館長の邸宅)に住んでいた。

データベースには見当たらないが、撮影場所の同じ写真が、朝日新聞社「写真集 甦る幕末」
1986年発行177頁に掲載されている。
解説は「兄のボードワン医師(中央)と弟の領事(右下)ら」。これ以外の説明がない。
詳細は不明だが、同じ撮影場所であろう。目録番号:6292が同じ時の写真か、また「上野彦馬撮影」との解説(甦る幕末)もあり、正しく調べてもらいたい。

長崎の古写真考 目録番号:6265 僧侶たち(8) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6265 僧侶たち(8) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6265 僧侶たち(8)

目録番号:6198 二人の水兵

目録番号:6194 侍たち(2)

目録番号:6202 A.J.ボードイン他4名

■ 確認結果

目録番号:6265「僧侶たち(8)」など4作品は、データベースのボードインコレクションにあるが、「画像解説」はいずれもない。
長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクションⅡ ボードインアルバム 外国人が見た幕末長崎」2011年6月発行に同じ写真が掲載されている。同解説は次のとおり。

42頁  46 悟真寺の僧侶たち
慶応元(1865)年頃、稲佐悟真寺のオランダ墓地をボードインが参拝したときに応接した僧侶達。悟真寺の第16代目住職、膽誉卯月(たんようげつ)和尚(中央)と4人の若い僧。袈裟を着けているので参拝後の撮影。
撮影者/A.F.ボードイン  撮影年/1865年頃
サイズ/154mm×200mm  目録番号/6265

84頁  71 二人のロシア士官
氏名不詳。上野彦馬のスタジオで撮影された若いロシア人の海軍士官たち。
撮影者/上野彦馬  撮影年/1866年頃
サイズ/153mm×109mm  目録番号/6198

84頁  72 侍たち
氏名不詳の武士たち。アルベルトの客であったどこかの藩士と思われる。上野彦馬のスタジオで撮影されている。
撮影者/上野彦馬  撮影年/1866年頃
サイズ/118mm×136mm  目録番号/6194

85頁  73 A.J.ボードインとオランダ通商会社の同僚
上野彦馬のスタジオで撮影されたA.J.ボードイン(前列右)および友人のクルース(前列左)とオランダ通商会社(NHM)の同僚たち。
撮影者/上野彦馬  撮影年/1867年頃
サイズ/255mm×304mm  目録番号/6202

長崎大学附属図書館がボードインアルバムの写真集を発行するのは良いが、写真集だけ内容を変更し、本来のデータベースをいつまでもそのままで公開しているのは、いかがなものだろうか。データ管理体制に問題がある。
前の記事に続き、一例としてこれらを載せる。きちんとした研究内容を公開してもらいたい。
同写真集の疑問点などは、次にも指摘している。
https://misakimichi.com/archives/2880