八郎岳の風景
平成19年8月23日撮影。長崎市内の山の最高峰。標高590m。
八郎岳の風景
平成19年8月23日撮影。長崎市内の山の最高峰。標高590m。
猿岳(秋葉山)の石造物 鈴虫岩・岩屋・石室・石祠
猿岳は小八郎岳の東南尾根にある。市街から僻遠な山で、バス便は茂木回りにより千々まで来ているが、便数が少なく、山歩きには敬遠されているが、なかなか良いところである。
再三の引用となるが、まず概略理解のため、故臼木寅雄氏稿「千々川遡行」(長崎岳人会「足跡」No.13 1969.12発行)の6頁から次のとおり。
小八郎岳の東南尾根、秋葉山(三〇〇米)の岩崖の上には秋葉権現、猿田彦大明神を祭るので猿岳さん詣りと称して近郷の信仰が厚い。千々から尾根通し上り一時間、下り四十分の処。一〇〇米ばかり下った稍平らな肩の西端の岩屋に気骨の強いお爺さんがいる。当年七二才。神に奉仕してもう三〇年もこゝに住いしている。この脇に捨身滝と云う立派な滝があり、こゝで水垢離修行が行われる。斯うした処からこの川を猿岳川と云い塩釜神社の西側で千々川本流に落合っている。
この稿は昭和42年10月の記録。もう40年経つ。今は千々峠(乙女峠)まで行く林道が干藤トンネル先から上り、約10分ほどの大カーブ地点で(8月現在、災害工事中でこの先通行止)カーブミラーのあるガードの脇に「猿岳さん詣り」の山道入口がある。すぐの尾根の先に鈴虫岩(最後の写真では中央下に写っている)はあり、片道5分ほどで往復できる。
道は山腹を横へはってさらに15分ほどで石室と草地地点に着く。当時ほどなく死んだ爺さんの住んだ岩屋と捨身滝(滝で別項)に下る箇所はその途中にある。広い草地は昔、ここでハタ揚げ合戦をしたらしい。
石祠のある猿岳(秋葉山)へはさらに15分、急登を要する。標高300m。何もさえぎるものなく、天草の海の展望が良い。道はまだ上へ続き、1時間ほどで小八郎岳(標高590m)へ達する。
藤田尾のしし垣
「しし垣」とは、「猪垣」と書かれるが、イノシシに限らずシカやサルなどの獣害から農作物を守るため、石や木、土、竹などで築かれた構造物。江戸時代に多く造られた。
長崎では、西彼杵半島にイノシシが多く、石造りの「猪垣」と言われるものが多く残るが、長崎半島では珍しく、藤田尾の山中に「しし垣」の型を成すものが残っていた。八郎岳山系は野生鹿が多く、ここのは「シカ垣」と呼ぶべきだろう。
場所は、藤田尾川と津々谷の滝の沢に挟まれた尾根の山中。県道34号線藤田尾橋が架かった先の崖擁壁上部である。最初、三和史談会中島先生に連れて行ってもらったときは、あまりに造りの見事さに、何か由緒ある昔の建物の遺跡かと思ったが、藤田尾荒木氏の話では、あくまで「しし垣」である。ここに川から水を引き、1軒の農家と田畑があった跡らしい。シカ除けのため、石垣の高さは背丈くらいある。広い土地である。
捨身滝(しゃしんだき) 猿岳川の右股沢
長崎市千々町にある。小八郎岳の裏側渓谷にあるため、この滝は一部の人にしか知られていない秘滝。普段は水量か少なく、わざわざ見に行くほどではないが、猿岳へ山歩きの機会があったら、水量の多いとき一度は立ち寄る価値がある。
為石から県道34号線を行き、干藤トンネルを出てすぐ左の千々峠(乙女峠)への林道に入る。産廃捨土場を過ぎ約10分ほど上ったカーブミラーのある大カーブ地点のガードレールの脇に「猿岳さん参り」の入口がある。山腹を横に行く山道で小沢を2つ跨ぎ、10分位歩いた右下の小さな植林地が切れるところから、切れ間に沿いながら10分ほど下ると滝へ出る。「捨身滝」という名のとおり、ここは禊(みそぎ)場だが、最近は参る人がほとんどなく、道がわかりにくくなっている。
写真は平成19年8月21日撮影。今は渇水期でどうしようもない。
同山系の「納手岩三段滑滝」の項で紹介したが、この「捨身滝」の記録も同じく故臼木寅雄氏稿「千々川遡行」(長崎山岳会「足跡」No.13 1969.12発行)中の9頁にある。関係文は次のとおり。
(猿岳川右股)
…膝を折った右脚は登れそうもないので投げ出した左脚になる岩を這い上ってF5(五米)を乗越せば漸く川筋も平坦になり、これで終りかと云う感も与えるが二〇〇米も遡ると断然凄い滝が行手に立塞さがる。これこそ猿岳のF6捨身滝(しゃしんだき)である。高さ三五米、複雑なフェースが一気に落水するのを妨げて躍動的な滝を造り上げてている。青々とした広い滝壺から溢れた流れは稍下った処で小さなフカリ(土地の方言で水溜りの深い処)ができている。
そこが婦人行者の禊場である。滝は右岸の壁をよじ登ることもできるが危険である。前に山仕事の人が墜死したと云う。上部に出る路は左岸にある。…
なお「猿岳(秋葉山)」の項は別に載せる。またこの千々川渓谷の支沢、渡瀬川に2筋の沢が合流する「牛クヤ滝」、同八郎川に胃袋の形をした淵「琉球廻し」の秘景があるが、折を見てまた紹介することとしたい。
茂木地区にある指差し石柱の施主がわかる
藤田尾の消防団分団前の車道分岐を左へ下ると浜に出る。
浜の右手前にゲートボール広場があり、これから歩いて藤田尾川河口の小さな鉄橋を渡ると、青屋根の32番所札所がある。道は上って集落へと続く。最初の写真のとおりの光景。浜手前からのこの道は、昔の街道みちである。
大正七年架けられた石橋の「架橋碑」とその残骸(別項)もここにある。橋を渡って道の右脇を注意して見て歩くと、3本のコンクリート石柱が続けてある。
まずは「長崎県」境界柱。えらく凝った昔の字で古めかしく珍しい。これと同じものは伊王島灯台入口バス停付近にもあった。次は上に「指差し」マークがあり、その下に「茂木町 施主 川浜奥四郎」と字の彫りがある。その次は道角に「指差し」のマークのみの石柱が立てかけられている。
「指指し」マークのコンクリート石柱は、これまで茂木地区で2本見ていた。河平バス停下の「戸町二至ル」標石の対面角と、重篭轟の滝の手前分岐にあった。(それぞれの別項に写真を掲載)
施主を刻んだのを、この藤田尾で初めて見た。この石柱は札所の案内であると聞いていたが、重篭轟の滝は現在の札所に入ってない。作成年代も、藤田尾は昭和22年茂木村から為石村に編入された。その前に設置したとも考えられる。
コンクリート製で新しい年代のものと考えられるが、いつの頃、だれが、どこに、何本設置したか、調べればおもしろい。茂木地区は「茂木町新四国八十八ヵ所霊場めぐり」が昭和4年頃できた。これと関連がやはりあるのかも知れない。施主がわかったのは、調べる手掛かりができた。
お薦めの新刊図書
1 《トピックスで読む》 長崎の歴史 江越 弘人 著
弦書房 2007年3月20日発行 定価 2200円+税
2 長崎街道雑記 長崎街道を腑分けする No.2 織田 武人 著
長崎街道雑記社 2007年7月 7日発行 定価 300円(税込)
申込先 諌早市白岩町18−7 黒岩竹二 0957−26−2467
3 ちくま新書 663 地図に訊け! 山岡 光治 著
(株)筑摩書房 2007年6月10日発行 定価 700円+税
4 子どもと歩く戦争遺跡Ⅲ 熊本県南編 熊本の戦争遺跡研究会 編
熊本の戦争遺跡研究会 2007年8月15日発行 頒価 1200円
申込先 熊本市八景水谷2−7−44 上村文男 096−344−8293
千々・藤田尾・為石間の古道 一部山道が残る
明治34年国土地理院旧版地図から千々・藤田尾・為石間を掲げてみる。長崎半島東回り「みさき道」の参考にしたく、当時の古道を調べている。この間も現在は県道34号線となり、整備や拡幅が特になされ、干藤トンネルもできて大きくルートが変わった。
新旧の対比図を掲げるべきだが、旧地図と現在残る山道(旧地図にその区間だけ黄線とした)の入口・出口などの写真だけ紹介したい。手持ちの現行地形図を広げ、どう変っているか、それぞれで考えてほしい。
この間はバスも通わず、戦後も長らく集落を結び、学校への通学路として利用された。最短の距離となり、まだ寺岳の山歩きや津々谷の滝行き帰りに利用できる山道が、ほどよく残っている。
藤田尾川の大正七年石橋架橋碑
長崎市藤田尾町の浜近く河口にある。ここは集落を結び、学校へ通う要路であった。三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊377頁、荒木新氏稿「第四節 藤田尾余聞」中の架橋碑の記述は以下のとおり。藤田尾には、思わぬ史跡が多いのに、地元から詳しく報告されていない。
昭和22年茂木村から為石村に編入された関係か。大ツバキが近年になってやっと紹介されており、この架橋碑も立派なものである。石橋の当時の写真はないのだろうか。刻面も正しく記録しておく必要を感じる。
…藤田尾は急な斜面に集落をなしているため、道路は板石を段々に積み重ね、幅は一メートル以上、延長も数百メートルにも及んでいる。このように大石を使用し、数も相当なものなので、初めて見る人には強く印象に残ったそうである。今は一箇所「たのぎわ坂」に残っている。祖先の苦労がよくうかがえる一端である。
又茂木村のころ、西の端に位置する藤田尾に、近郷にない立派な石橋を架けようと、部落在住の村会議員が激論を闘わせ、やっと石橋の架橋に成功した。この橋もその後の大水害で流され短命に終わった。今は橋のたもとに、大正七年に架橋した旨を記す架橋碑のみが残っている。
架橋碑の読み取れた刻面は、次のとおり。碑の寸法は、台座高さ0.9mの上に、全横1.2m、全高1.7m位。
架 橋 碑
藤田尾名隣在於茂木村之南道路険 悪往来甚困焉況郷中有渓流一旦有 降雨乎河川暴溢人通頓杜絶郷人愛 之矣大正七年竹下水造君提議村 會而請架石橋衆議容之同年六月起 二郷人子來補設越三月竣成郷人請 余記所其由来則述其梗概欲使□□ 此橋者傳郷人徳也
大正七年丁巳年秋八月 永石深茂撰並書
監督人 竹下水造 山中□□郎 竹下弥田太七
なお、この橋名は不明。せっかくの石橋は架橋後5年ほどあとの水害によりすぐ流出した。川に散乱した石は、家の庭などに持ち去られ、一部、残骸の塊りを見るのみであった。
長崎市南部の女男岩・夫婦岩(石)
ことの発端は「みさき道」の蚊焼茶屋跡の場所探しである。国道蚊焼入口から「みさき道」は急な坂道を上り、大きな桜の木のある草地に出る。ここは長崎の港外の島々の展望がよく、茶屋跡でないかとこれまで推定されていた。
関寛斎日記の記述はそうでない。「蚊焼峠」の前後の位置関係や、「喫水」の清水から疑問を感じ、字名を調べるとここは「女男岩」となり、字「古茶屋」は別にあり、まだここから100mほど先、草積祠のある場所の上の畑地が茶屋跡と考えられることとなった。
前の推定場所であった草地の土地所有者蚊焼高比良氏にも、このことは確認している。茶屋とは何も関係なかったのである。では、字名の元となった「女男岩」はどこにある岩のことか。重ねて高比良氏に尋ねた場所の岩は、写真のとおりであった。
しかし、そこは「庚申ノ元」の区域。別項に載せた「庚申塚?」のすぐ脇。写真の岩を男岩、「庚申塚?」の岩を女岩に見立てると考えられないこともないが、まだすっきりしないので調査したい。
「女男岩」ないし「夫婦岩」という岩・石は各地に多くある。陰陽石とはまた違う。相いふさわしいその実物があるからこそ名前がつけられ、地名が生まれたのであろう。これを探すのも一興がある。
長崎市の南部地域でこれまで記憶したのが、次のとおりあった。
(1)小ケ倉団地背後の岩稜に、セキ岩・オオ岩・ウマ岩とともに「夫婦岩」という岩がある。どの岩のことかは確認してない。
(2)先日、藤田尾の浜に下った途中に見かけた高さ3mほど大きな石。2つに割れ見事な石であった。すぐ先の小沢に橋がかかり、「夫婦石橋」の銘板があった。
(3)有名な野母崎以下宿海岸の「夫婦岩」。観光スポットである。
(4)前三和町「字図全図」で調べると、あと1箇所「夫婦石」の字名がある。徳道集落先の「熊ノ岳」入口分岐あたり。この西側山手。サイクリング道路と上はゴルフ場である。
(5)「長崎名勝図絵」204頁によると「覆鍋山(鍋冠山)に二つ石が相対して立っている。夫婦石と名づける。」との記述がある。展望公園となって見当らない。
なお、同図絵は、上小島ピントコ坂に「爺嬢石(じじばばいし)」があることを記していた。爺石のみは残っていた。(別項)
また、北部では、滑石大神宮一の鳥居左側に川から移された「滑石の夫婦石」がモニュメントとしてある。
蚊焼字庚申ノ元にある庚申塚
三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊、207頁原田博二氏稿「第二編 町の成り立ち」中の記述は次のとおり。
庚申ノ元は、”こうしんのもと”と読み、庚申会とか庚申塚と呼ばれた信仰が実際にこの地でおこなわれたことがうかがえる。昔は庚申塚(塔)なども建てられていたものであろう。庚申会(庚申待)は、平安時代に伝えられた中国の守庚申に由来するもので、中世から近世とさかんに信仰され、その範囲はほぼ全国に及んでいた。この庚申(かのえさる)の夜は、帝釈天や猿田彦神などを祀って、誰しもが床につくことなく、徹夜して夜のあけるのを待ったという。というのは、この日就寝すると、身体に巣くう三尸(さんし)という虫が体内からぬけでて、その罪科を天帝に告げるためとか、三尸が人の寿命を短くするためとか信じられたためであった。
上記は三和町の地名に「古代や中世のものと思われる字名が現在も多く残っている」とし、一例で「庚申ノ元」の字名も簡単な説明をおこなった文である。「女男岩」の字名の岩とともに、この「庚申塚」も探してみた。
それらしきもの?が写真のとおりあった。場所は蚊焼入口から前焼却場に行く車道が、地蔵寺からの車道と合流する少し手前の右脇木立内。字「庚申ノ元」区域内の東端となる。
三和町郷土誌の「蚊焼の石祠一覧」では、「晃神塚 石祠 天明元年丑(一七八一) 施主 喜宗汰 場所 宮ノ脇」としてある。この石祠は、浦里宇喜男さんの「三和町内地名のルーツ その14」では、次のように紹介されていた。
ただし、石祠の字は「早」の字の中央縦線が上に突き出ているその「神」だ。右の石塔は○の下に梵字のようなマークあり、経塔と思われる。
…また、宮の脇の庚申塚は、町道蚊焼川原線と同支線の交差する三叉路の小高い丘の雑木林の中にあり”申様(か?)”と刻まれた石碑が立っている。
当時の地域振興のシンボルとして、高比良義男氏宅の猿地蔵とともに、この「庚申ノ元」の字名の残る山林の中に当時の姿のままらしくに残っていることに感動した次第である。…