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花瀬望比公園  指宿市開聞十町花瀬

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花瀬望比公園  指宿市開聞十町花瀬

指宿市観光協会「いぶすきネット」による説明は、次のとおり。

花瀬望比公園

この海岸は、イソギンチャクが殻の中から5色の花を咲かせている群落があったことから花瀬の名称が生まれたといわれています。 また 、開聞岳初期噴火のときに流れ出た玄武岩質の溶岩流によってできた縄状玄武岩でおおわれています。 花瀬望比公園は、開聞岳の西側の花瀬海岸に比島戦没者慰霊碑が建設され、死生の扉、想比之碑、安らぎの鐘、大鐘楼等が整備されたのを契機に、花瀬公園を花瀬望比公園と改称し、過ぐる第二次世界大戦の戦没者の霊の鎮まる霊地として末永く英霊の安穏と21世紀に向けて世界各国の平和の基地として発展することを祈念し、命名したものです。

「戦没将兵47万6千余柱」という厳粛な数字は、今も私たちの心に重く、胸を詰まらせます。比島作戦に果てた同胞の形骸はかの地に朽ちても、すべての精霊が永遠に比島にとどまっているとは思いたくありません。異域の密林や南冥の底から、同じく祖国防衛に殉じた戦友に抱き起こされ押し上げられて、不死鳥のように蘇り1900キロの天空を駆け、戦場に夢見つづけた祖国に声亡き凱旋の姿を願うのは遺族だけではありません。 そのような祈りを込めて造形されたのが「死生の扉」です。

死生の扉  碑文
遥か 南海の比島戦線に散りし四十七万六千余名の英霊
時空を超えて故国のこの地に鎮魂す 心底に万感を憶え痛惜の念を石碑に刻む
自らを捨て祖国の盾となりしその死は 決して徒ではなかった尊い犠牲
限りない加護がありて今日の平和 いやさかの繁栄が有る
私たちは それに応えているや 二度とこんなことを起こしてはならない
親から子へ 孫に 無惨 痛哭の太平洋戦争を 
そして壮絶 艱難辛苦の戦後もまた 語り継いでいかねばならない

比島戦没者慰霊碑  碑文
許されるものらば 還らざる旧軍四十七万六千余柱の 精霊なおもとどまる 雲咽万里比島の地に
痛恨の碑を建て その前に伏し 心からなる祈念を捧げたいものを
やむなく 日本列島最南端のここに碑を置き 想いを馳せてみたま鎮まれとひとしく願う

瀬平自然公園  南九州市頴娃町郡

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瀬平自然公園  南九州市頴娃町郡

南九州市HPの観光情報による説明は、次のとおり。

瀬平自然公園

国道226号線沿いの海岸線を主体とした公園です。奇岩,老松の葉かげに開聞岳(薩摩富士)を初めて眺めると,その姿はまた格別です。
洋々と広がる水平線には硫黄島・竹島・黒島,また遠く屋久島が浮かび,夜は,沖合の漁火が明滅して趣があります。佐多岬も遠くかすみ,白砂青松の頴娃の海岸は絵によし,詩によしでしょう。

キス釣りのシーズンには家族連れの憩いに,ドライバーには一服の場所として最適です。瀬平海岸は岩礁が発達し,昔は瀬平の瀬渡りといって,人々に恐れられた難所でした。道路の東側の海蝕洞には,瀬道開発の記念と,安全を祈願したと思われる観音像が安置されています。

◆瀬平の由緒
山川から頴娃麓に通ずる道には,開聞の苙口(おろんくち)から町頭に出る荷辛路(にからじ)峠越えと,この瀬平渡りの2つの道筋がありました。瀬平渡りは,海に突き出た岩と岩の間隙を波しぶきを浴びながら跳んで渡るので,老人や女子,子供は一人では通れない難所でした。この難所に瀬道ができたのは元文3年(1738年)頃のことです。

◆歌碑(与謝野鉄幹・晶子夫妻)について
建立年月日:昭和62年7月3日
設 立 者:頴娃町観光協会・頴娃町
揮   毫:馬場啓彰(元県立頴娃高等学校教諭)

正面
迫平(せびら)まで 我れを追い来りて 松かげに 瓜を裂くなり 頴娃の村をさ  与謝野鉄幹
片はしを 迫平に置きて 大海の 開聞が岳 立てるなりけり   与謝野晶子

裏面
与謝野鉄幹・晶子
歌人与謝野鉄幹(寛)晶子夫妻は,昭和4年7月から8月にかけて山本実彦氏(当時改造社長)の案内で47年ぶりに来鹿,県下各地を歴訪しましたが,8月1日,この瀬平海岸で休息し,当時の樋渡盛広村長の歓待を受けました。
この二首は,洋上に屹立する開聞岳の雄姿,樋渡村長の厚遇にこたえて詠んだもので,そのときの歌集「霧島の歌」の中に収録されているものの1つです。
その歌集の全書には「自動車を南薩に駆る。・・・・・池田湖に到り,次いで頴娃村に出て,迫平(瀬平)の海岸に小憩して近く開聞獄を仰ぎ,また南海を展望す。竹島,硫黄島,屋久島等,遠く水煙模糊の間に在り。頴娃の村長樋渡盛広氏追ひて到り,西瓜その他を饗せらる。雲ありて,しばしば開聞獄を遮る。」とあり,この地からの眺望のすばらしさを述べています。
またこの瀬平海岸は,昔は「瀬平渡り」といって,海岸に突き出た岩と岩との間を波しぶきを浴びながら跳んで渡るという難所で,ここから約50m西方国道沿いの崖の洞穴には,元禄4年(1691年)にこの難所の交通安全を祈って作られた瀬平観音像も安置されています。
観光協会は,この由緒ある景勝の地を永く後世に伝えるため,与謝野夫妻の歌碑を建立したのです。

火之神公園・立神岩  枕崎市火之神岬町

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火之神公園・立神岩  枕崎市火之神岬町

鹿児島県観光サイト「本物の旅 かごしま」による説明は、次のとおり。国道226号の薩摩酒造明治蔵角から火之神ロードにより進む。

火之神公園・キャンプ場写真

薩摩半島の南西端、坊・野間県立自然公園の表玄関にあたる火之神公園は、東シナ海に突き出た岬の先に広がる半島屈指の雄大な景観を誇ります。沖には古くから漁業繁栄の守り神として地元の漁民に崇拝されている高さ42メートルの奇岩「立神岩」がそそり立ち、はるか洋上には、黒島、硫黄島や種子島、屋久島、東には開聞岳と雄大な景色が広がります。 公園内には、流水、アスレチック、幼児用と3種類のプールがあり、海とプールを自由に行き来できるのが特徴です。また、海岸では潮だまりでの磯遊びや貝拾い、釣りなど海での遊びが十分に楽しめ、絶好の磯釣りポイントとともなっています。

権現洞穴  南九州市川辺町上山田君野

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権現洞穴  南九州市川辺町上山田君野

鹿児島県教育委員会HPの「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。
場所がわかりにくいが、「塘之池公園」前の市道を直進して行くと、君野集落内に山道入口案内板がある。植林地へ入って「君野洞穴へあと170m」標識先の分岐はまっすぐ進む。鳥居があり、この先が権現洞穴である。市道はさらに進むと、県道275号に出る。

権現洞穴
【所在地】南九州市川辺町上山田君野
【種 別】県指定天然記念物
【指定年月日】昭和 29 年5月 24 日

権現洞穴は,緩やかな丘陵地の権現谷と呼ばれる小規模な谷にあり,入口付近は溶結凝灰岩の岩塊によって支えられている。付近一帯の山地をつくる岩石は,四万十累層群と呼ばれる中生代白亜紀の砂岩・頁岩層である。鹿児島(錦江)湾入口にある阿多カルデラから,約 10 万年前に噴出した阿多火砕流堆積物が,山地の裾野を取り囲むように分布する。阿多火砕流堆積物は全体に赤紫色を帯びている。高熱のため軽石や火山灰がとけ,レンズ状に引きのばされた黒曜石の目立つ岩石になっている。
入口は広さ2 m,高さ 1.3m の長方形をしており,全長 41.5m の水平横穴である。洞奥は落盤で埋めつくされており,以前はより長かった可能性がある。洞穴を入るとすぐ大広間となり,その先は自由に歩ける程度の大きさとなっている。
雨水が溶結凝灰岩の割れ目を伝わって内部にしみ込み,それらが集まって,基盤をなす四万十累層群との境界を流れ,柔らかい溶結凝灰岩を底から浸食して小さな穴を形成し,最終的にはそれが拡大して洞窟となったものである。現在も地下水が内部を細々と流れている。洞穴内部の溶結凝灰岩の表面は,地下水の作用により円磨されたようになっている。
縄文時代には人間の生活の場となっており,洞穴入口付近は拡幅されたように左右に大きく広がっている。

塘之池(とものいけ)公園  南九州市川辺町下山田

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塘之池(とものいけ)公園  南九州市川辺町下山田

現地説明板は、次のとおり。

塘之池公園総合案内
【沿革】
江戸時代の元禄14年(1691年)、薩摩藩主島津綱貴の命により、川辺町下山田の灌漑水の貯水のために築かれたため池です。当時は池のほとりに竹屋神社(現在は川辺町中山田)があったため、「宮の池」とも呼ばれていました。
昭和24年(1949年)の台風によって堤が決壊し、下流の田畑に大きな被害を与えました。この時の復旧記念碑が池のほとりに建てられています。
現在、塘之池公園として整備され、地域の公園として親しまれています。

川辺の大クス  南九州市川辺町宮

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川辺の大クス  南九州市川辺町宮

鹿児島県教育委員会HPの「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。

川辺の大クス
【所在地】南九州市川辺町宮 4773
【種 別】県指定天然記念物
【指定年月日】昭和 31 年9月 27 日

川辺町宮の飯倉神社境内の入口右側に,樹齢 1,200 年といわれる大きなクスノキがある。この大クスは高さ約 25m,根回り 25m,目通り周囲は 13m で根元には六畳敷きほどの大きな空洞があり,根元の一部は枯死して上部が腐朽してなくなっているので,2本のクスのように見える。しかし枝葉は比較的よく繁茂し樹観もよく,「蒲生のクス」,「志布志の大クス」,「塚崎のクス」と並んで,鹿児島県を代表する老大樹である。また幹や枝には,ボウラン,キバナノセッコク,コバノガマズミ,ムクノキ,ネズミモチ,イタビカズラやシダ類など多くの植物が着生している。
このクスノキは,大正8(1919)年に国の天然記念物として指定されたが,落雷により幹が裂けたこともあって指定が解除され,その後,県指定の天然記念物となった。一時樹勢が衰えていたが,枝打ちなどの処理により現在では若芽が出るほど回復している。また神社の境内はスギを主とした樹林で,タブノキやイチョウなどの大木が見られ,周辺の地中からは古墳時代の土器片等も採集されている。

鹿児島県のアーチ式石橋 旧木場田橋  南九州市川辺町桑水流

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鹿児島県のアーチ式石橋 旧木場田橋  南九州市川辺町桑水流

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」によるデータは、次のとおり。

№1,304  旧木場田(きゅうこばんた)橋(桑水流橋)

川辺町桑水流
野崎川
橋長:16.3m  橋幅:4.0m  径間:13.5m  拱矢:5.9m
架設:大正10年

川辺支所前より、国道225号線を4.3Km東進、右手に見えます。

清魂水と清水の湧水  南九州市川辺町清水

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清魂水と清水の湧水  南九州市川辺町清水

現地説明板及び環境省選定「名水百選」(昭和60年選定)HPによる説明は、次のとおり。清水磨崖仏の岩屋公園駐車場入口前の市道を直進して行く。

清 魂 水
この清水の清魂水は昔は岩薬水と言われ、地域の人々の生活水や病の時の薬水として使われていました。

湧水 鹿児島県南九州市川辺町清水   清水の湧水(きよみずのゆうすい)
この水は、鹿児島特有のシラス台地の崖下から日6,000トンの湧水があり、昔から地域住民の生活用水、農業用水として利用されている。また、町の上水道の水源として日3,000トン、約3,800世帯に供給している。
位置情報
おすすめの時期  初夏から〜8月末
周辺の自然環境  シラス台地の急涯下に位置し湧水の左手横には水神を奉った水元神社がある。
利用状況  町の上水道源になっており、地域住民の飲料水、生活用水、灌漑用水としても利用されている。
水質・水量  水量 1日に6千トン
由来・歴史  清水地区から湧き出ているため
アクセス   鉄道・バスでお越しの場合
■ JR鹿児島本線「鹿児島中央駅」下車⇒鹿児島交通バス川辺経由枕崎行「野崎」下車(約1時間)⇒徒歩30分
その他  平成8年3月22日 国土庁(現:国土交通省)から水の郷百選の認定を受ける。

清水篠井手用水路隧道  南九州市川辺町清水

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清水篠井手用水路隧道  南九州市川辺町清水

清水磨崖仏の岩屋公園内となっている。現地説明板は、次のとおり。

清水篠井手用水路隧道

この隧道は、江戸時代の寛文3年(1663年)万之瀬川から下流の水田約15ヘクタールに水を引いた際の用水路の一部として掘られたものです。用水路延長約446m(約245間)の内、隧道部分は東西に約173m(約95間)であります。
三百数十年余も前の掘削機械のない時代に、人力のみで隧道を掘り進むのは大変な難工事であったことは容易に推測されます。この時代には測量機器も無かったため、ローソクの火を使って工事を進めたと言い伝えられており、当時の人々の苦難・苦労が偲ばれます。
又、他の用水路部分と違い、ここだけをなぜ隧道としたのか疑問でありますが、今ではもう知る由もありません。
悠久の時が流れた今でも、用水路は清らかな水を湛え途絶えることなく流れ続けております。

清水磨崖仏  南九州市川辺町清水薬師

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清水磨崖仏  南九州市川辺町清水薬師

鹿児島県教育委員会HPの「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。清水磨崖仏へは2連の石橋「偲橋」を渡って行くが、これは表面に石板を貼り付けたRC橋である。
先の崖下の遊歩道は崩落の危険あり、通行禁止となっていた。鎌倉時代の磨崖仏も下流の橋側から行く。

清水磨崖仏
【所在地】南九州市川辺町清水薬師
【種 別】県指定史跡
【指定年月日】昭和 34 年6月 10 日

川辺町清水の川沿いの景勝の地にある。高さ約20m,全長約 400m の岩壁に,点々と 200基の五輪塔,宝篋印塔,板碑等の線刻・浮彫り等がある。中でもほぼ中央にある高さ 10mに及ぶ大五輪塔には,その左右に 2,000 字に及ぶ墨書の梵字を残している。また,その右方やや離れて刻まれている月輪大梵字や,その前面下部の梵字板碑は,本磨崖仏群中でも古いものであろう。
『川辺名勝志』によると,月輪大梵字横に弘長4(1264)年彦山住侶の刻銘のあったことが記されている。また,左方に離れて刻まれている宝篋印塔には永仁4(1296)年平家幸,平重景が比丘尼清浄の供養の目的で刻んだ旨が記されている。
その後,室町期から近世,明治に至るまで,時に応じて追加刻銘され,現代に残るような大規模な磨崖仏群が成立した。その数量の多いこと,様式の多様なこと,時代の長期にわたること等の点から,本県屈
指の大規模な磨崖仏群であり,中世の生活や信仰を知る貴重な資料である。